象の夢を見たことはない -125ページ目

禅マインド ビギナーズ・マインド

昨日というかおとといだが、パルコの上のライブ会場で人がダイブするのを見てて。
「あれは何故、おもわず下から支えてしまうのだろう?」と。

人は力を入れて押さえられると反撥しようとする力が無意識に働く。それを逆に利用して相手を転がす。それが合気の仕組みであると聞いたことがある。上級者になると相手にわざと身体をあずけて、それを相手が支えようとする力を利用して相手を転がす。転がされたほうは、なぜ自分が転んでしまったのかわからない。自分の力で転がってしまうのだから、それがよくわからない。いつのまにか転んでいる。そしてなぜかそれを気持ち良く感じてしまうこともあるらしい。

無意識に人を支えようとする身体の動き。無意識であるということは、意識しなくてもそう動いてしまうということで。それっていうのは人と人の間に起こる奇跡みたいなものかもしれないなとふと思った。

人は自分自身の中に自分自身を自然な状態に戻そうという力がある。
っていうのは禅の教えなのかどうかわからないけれど、初心というものの中にそのすべてが詰まっているというのを聞いたことがある。すなわち、もともと人にはそういう力が備わっていると。

で、ダイブのあれはそうなのか?と。その自然に戻そうという力って、人と人の間にも作用するってことで。人としての大きな力というか、無意識に相手を支えようとする。そうやって人を助けようとする。というか助けようとすら思わずにむしろ無意識にそういうふうなことをしてしまう。

本来、人というのはそうやって成り立っている。人という字は、二本の棒が支え合っていると人が言うのを聞いたことがある。いつもだいたいそのニュアンスは、お互いに助け合いましょうというか情は人のためならずというか、そういう上から目線の道徳的指導っていう感じがしていて少しムカついていたのだが、実はそうではなく人は無意識レベルの心で人を支えてしまう。

本来、だから、それは人と人が生身で対面したときに発生して機能するものだし、往々にして人はそういう機能を自分で削ってしまう。すり減らしてしまう。初心ではなくなってしまう。禅の修行の目的はその初めの心そのままを保つことだということも聞いたことがある。

積み木を2つぶつけても支え合うことはないわけで。そうなると当然身体的なものを超えて、人と人の心がぶつかるとそういう反応をするわけだ。つまりそれは身体の物理的な反応ではなく、人の心と心の反応である。ということだ。

なんてこったい、そういうことだったのかと。
意固地になっていた自分をふと元あったところへ戻してくれた。
それが自分にとっての今日のUPSETでの松山晃太くんのMCだった。

やっぱ生身じゃないとそういうことを忘れてしまう。
ライブというのはただ音源を聞いているのとは全く違うのだね。
ありがとうバイザラウンド。
 

しんどかったわ。

うーむ、初見のときの感動はなかった。
あのときのアレはいったいなんだったのだろう?

$ニャンちゅうなブログ-スタークラブ

やはり大きなホールだとパンクはつまらん。
すべてが大味になる。
DJブースがあるくらいなのが一番だわ。

豊橋のボムに行っておけば…遠征っていうほどでもないのにさ。
次は遠足かねて岐阜にいってみるか。

NHKの連ドラ

なぜか最近のNHKの朝の連続ドラマの高視聴率。
まあ今のアレはさておき、大河は低調なのに何故?

ずいぶん前から希望というキーワードが自分の中で引っかかっていて。
希望っていうのはなんなんだろうと。
あきらかにそれが意味しているモノは時代とともに変わっている。
そんな気がする。

村上龍が「無知と貧困」というものを対比として出していたのだけど、そこから脱出するための希望というのは高度成長期を経てバブルの崩壊により文字通り崩れ去ってしまった。かといって、彼の書いた『歌うクジラ』のように高度に発達し貧困層と富裕層が分かれた社会で、貧困から脱出するという意味での希望というのもどこか軸がずれていて、だからあれは最初はそこなのだけど、ゴールが違うわけで。

たとえば、車を買う。マンションを買う。今よりいい車を買う。一軒家のマイホームを手に入れる。そういう生活のステップアップによって、便利さや快適さと引き換えに結局得られたのは熟年離婚だったり、その末の孤独死だったりとそういうゴールも見えてしまった。

ゴールという言葉自体が希望という言葉と等価ではなくなっている。双六のあがりという概念とか、たとえば姫を救出して終わるスーパーマリオであるとか、あれは昭和の時代の希望の象徴だ。

このところの連続ドラマ、全然見ていなくてその有り様だけニュースで追っていたのだけど、なんなんだろうなと。ずっと考えていたのだが、通奏低音として存在している共通するテーマっていうのは、生きていること自体と希望ということがまるっと一つに一体になっているような気がする。でも刹那的な快楽と言う意味でもなく、かといって、長生きすることが希望というわけでもない。

生きることを愉しむこと。愉しむというのは楽しいことだけじゃなくて苦しいことや辛いこと悲しいことも含めてそれを大きな心で愉しむ。それこそが今の時代の希望なんじゃないのかと。
たぶんそういうことなんだろうと思う。『歌うクジラ』も言ってることはそうなんだよね。

高級官僚になって、毎日2時3時まで働いて3時間寝て朝起きて…予算編成のときは何日も家に帰れず襟や袖口は垢で黒ずんだまま。机につっぷして寝る。あれで退職金がでなかったらなんのためにやっているのかとも村上龍は言っていたけど、それ自体おかしいと。あれはゴールが設定されている時代のというか、ゴールが約束されていた右肩上がりの時代の有り様でしかない。そういう設定自体おかしい。もっともそれが通用する職種というのもどこかにあってもいいと思うけど、すべての人のゴールがそこであった時代ではもうないだろうと。

いずれにしても、大切なのは生身の人間として生きるっていうことで。
つまり仮想現実とか拡張現実という時代ではもうないのだよ。
だからそういうヤツは一生ダフトパンク聞いてろ!笑
とはいえ、あれも生身で参加したらアリなのだが。。

はて?

なんかhateのライブMVがようつべにアガッテルのだが。

しかも結構あるし。

これって何?しかもファイナルって。。

出す筈だったアレなの?



大人買い。

ひさびさ、というより始めてかもしれない。
シングルとアルバム音源全部大人買いしている女の人を見た。
いやー、あれは気持ちいいだろうなあと。

というかあの思いきりの良さというのは女の人にしかないかも。
その後ろで、3枚買ったのだけどあっさり負け。およびもつかない。

ニャンちゅうなブログ-高木フトシ

涙をぬぐう人たち多数。
まあ、ひさびさの名古屋だったからねえ。

$ニャンちゅうなブログ-UPSET

というかあらためて思うのだが、アレはいったいなんなのか?
VEZはVEZで、鴉空は鴉空で、それぞれあるのだけど、
一人の人間の個としての有り様。
ほんとそれだけで勝負っていうのがあって、それがアコースティックの魅力でもありコワイところでもあるのかもしれない。まあエレアコだけど。

ソロというのは誤魔化せない。
というか昔月一でUPSET来てたときにも感じてたアレを久々に感じたわけで。
まあそれはそうと昨日からのマイブーム。



松田聖子は「夏の扉」のときがもう気絶レベル。
やっぱ一人で背負って立ってるっていうのが超絶。
そしてそれをなにごとでもなくこなしてしまう。
いまの時代にはない。
そこに秘密がある。
そんな気がした。