勝手にしやがれ
HATEを生で見たのはラストライブのしかも名古屋だけだったのだ。
そういえば、LAZYgunsBRISKYも名古屋のラストで。
LAZYは東京の下北沢ガーデンファイナルまで見に行ったけど。
なんかそういうのは覚えている。
ビジュアル系というのにまったく興味がなかったので、それに隠れてたグランジっていうのが見えなかったわけ。まあ、ゴスっていうのも隠れてたり。常に世の中、幅広く使われる言葉はいろんなものをマスキングする。ギャルバンっていうのもそうだな。コアなものは、口コミだったり、現場でしか見つからない。
とはいえ、なんだかわからないものに本人も踊らされているってのもあり。
ビジュアル系はこうでないと的な。
これとか今見るとええっ!Σ(・ω・;|||
て感じなのだな。なんで海岸でノック?的な。
当時を知らないだけに余計にそう感じる。
というか今を知っているからか
運動なんてしねえじゃん笑
でもこれ見た頃からハチ氏にはなぜか目が行ってたな。
とにかくあのダレた人は何?っていう。
バドの瓶ビールと白いサングラスとスキー帽。
さいきんこういうえたいの知れない若者って見ない。
ケイオティックというかカオティックなあり様って、なんだか惹かれる。
形なんてないにこしたことはないのかもしれない。
ゴチャゴチャしてて、なんだかわからない。
もっとも、そういうのは若いときしかないから、結局ないものねだりになるのだけど。
そういえば、LAZYgunsBRISKYも名古屋のラストで。
LAZYは東京の下北沢ガーデンファイナルまで見に行ったけど。
なんかそういうのは覚えている。
ビジュアル系というのにまったく興味がなかったので、それに隠れてたグランジっていうのが見えなかったわけ。まあ、ゴスっていうのも隠れてたり。常に世の中、幅広く使われる言葉はいろんなものをマスキングする。ギャルバンっていうのもそうだな。コアなものは、口コミだったり、現場でしか見つからない。
とはいえ、なんだかわからないものに本人も踊らされているってのもあり。
ビジュアル系はこうでないと的な。
これとか今見るとええっ!Σ(・ω・;|||
て感じなのだな。なんで海岸でノック?的な。
当時を知らないだけに余計にそう感じる。
というか今を知っているからか
運動なんてしねえじゃん笑
でもこれ見た頃からハチ氏にはなぜか目が行ってたな。
とにかくあのダレた人は何?っていう。
バドの瓶ビールと白いサングラスとスキー帽。
さいきんこういうえたいの知れない若者って見ない。
ケイオティックというかカオティックなあり様って、なんだか惹かれる。
形なんてないにこしたことはないのかもしれない。
ゴチャゴチャしてて、なんだかわからない。
もっとも、そういうのは若いときしかないから、結局ないものねだりになるのだけど。
「1」の建設
全体性が損ねられている。
そんな感じがする。
近代人の神経は病的であり鋭敏であると人は言う。成る程近代人の神経は健康ではないかも知れない。然しけっして鋭敏ではないのである。古代人の耳目は吾々に較べればおそらく比較にならない位鋭敏なものであった。吾々はただ、古代人の思いも及ばぬ複雑な刺激を受けて神経の分裂と錯雑を持っているに過ぎない(from『人生の鍛練』小林秀雄)
小林秀雄が20代の頃なので、1930年の時点で既に世相はそうだった。
それでは当時既に今と同じだったということではないか?
ヤノマミを読んでいて、未開の土地に生きる人たちの有り様が取材したNHKクルーの目で書かれているわけなのだが、そういう原始の状態を保つ彼らですら錯綜は持っているように思える。なるほど彼らの神経は森では鋭敏であっても、私たちが昔そうであったような様々な迷信に捕らえられている。錯雑であることはかわりがないように思えた。
最近、プールで会うじいさまとジャグジーで世間話をする。年取った人の話は長いので昔は敬遠しがちだったのだけれど、何日も長く話をしていると「あーなるほどねー」って思うことがある。そういうときには長い時を持つ人に対する敬虔さを持たなければなあと思う。でもすぐに忘れてしまうのだが苦笑。
小林秀雄と岡潔の対談で、岡潔が「1」という概念について説明するくだりがある。数学者は1というものを仮定して1というものが何かという問題は取り扱わない。
幼児が1というものを体得する。そういう時期がある。数学者は1というものを取り扱うとき、でも実はその頃に体得した1というものを生理的に使っているのではないかと想像する。そう数学者である岡潔が語っている。
じいさまとヤノマミが自分とは違うのは、この「1」をいうものをよく知っている。
そういうことなんじゃないのかと思う。
人は本来一時には1つのことしかできないんじゃないか?というか、1つのことしかできない不器用な人は、特に今のような時代だと生きにくい。自分の全体性が損ねられているとどこかで感じている。一体この感覚はなんなんだろう?なにかに追われていて自分が何をしたいのかを振り返る余裕もないというか。時間が細切れになっていて、自分もフラグメント化している。
小林秀雄はこんなことも言っている。
人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有することは出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだ。(from『人生の鍛練』小林秀雄)
山田太一が言ったことを思い出す。
今の日本人は生々しい現実とかかわらなくても生きていける。たとえば、戦争から引きあげてくるときなどは、現実把握がちゃんとしていなければ生き残れないようなところがありますが、今は現実の把握がかなりいい加減でも生きていける。そのために現実感がいろんな水準で飛びかっているけれども、実はどの現実観も、口にする人が実は自信が持てないし、自分を安っぽいと感じている。だから、本当にすごい人や事柄が出てくると、自分の安っぽさがこたえてしまう。われわれはなにか現実的に生きていない、安っぽく生きている思いがしている。
彼はそれをなんとか表現できないかと考えて小説を書いているわけだけれど、それは彼自身がそうであるからそう思うわけで、それを取り戻すための彼自身の闘いなんだと思う。
結局は、それを自分で体感しなけばいけない。もう一度、「1」を感じなければいけない。それが、結局自分にとっての課題なのだ。なにか形があるものを作ったほうがいいなあ。何にするかなあ。プラモデルでも買ってこようかしら。
そんな感じがする。
近代人の神経は病的であり鋭敏であると人は言う。成る程近代人の神経は健康ではないかも知れない。然しけっして鋭敏ではないのである。古代人の耳目は吾々に較べればおそらく比較にならない位鋭敏なものであった。吾々はただ、古代人の思いも及ばぬ複雑な刺激を受けて神経の分裂と錯雑を持っているに過ぎない(from『人生の鍛練』小林秀雄)
小林秀雄が20代の頃なので、1930年の時点で既に世相はそうだった。
それでは当時既に今と同じだったということではないか?
ヤノマミを読んでいて、未開の土地に生きる人たちの有り様が取材したNHKクルーの目で書かれているわけなのだが、そういう原始の状態を保つ彼らですら錯綜は持っているように思える。なるほど彼らの神経は森では鋭敏であっても、私たちが昔そうであったような様々な迷信に捕らえられている。錯雑であることはかわりがないように思えた。
最近、プールで会うじいさまとジャグジーで世間話をする。年取った人の話は長いので昔は敬遠しがちだったのだけれど、何日も長く話をしていると「あーなるほどねー」って思うことがある。そういうときには長い時を持つ人に対する敬虔さを持たなければなあと思う。でもすぐに忘れてしまうのだが苦笑。
小林秀雄と岡潔の対談で、岡潔が「1」という概念について説明するくだりがある。数学者は1というものを仮定して1というものが何かという問題は取り扱わない。
幼児が1というものを体得する。そういう時期がある。数学者は1というものを取り扱うとき、でも実はその頃に体得した1というものを生理的に使っているのではないかと想像する。そう数学者である岡潔が語っている。
じいさまとヤノマミが自分とは違うのは、この「1」をいうものをよく知っている。
そういうことなんじゃないのかと思う。
人は本来一時には1つのことしかできないんじゃないか?というか、1つのことしかできない不器用な人は、特に今のような時代だと生きにくい。自分の全体性が損ねられているとどこかで感じている。一体この感覚はなんなんだろう?なにかに追われていて自分が何をしたいのかを振り返る余裕もないというか。時間が細切れになっていて、自分もフラグメント化している。
小林秀雄はこんなことも言っている。
人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有することは出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだ。(from『人生の鍛練』小林秀雄)
山田太一が言ったことを思い出す。
今の日本人は生々しい現実とかかわらなくても生きていける。たとえば、戦争から引きあげてくるときなどは、現実把握がちゃんとしていなければ生き残れないようなところがありますが、今は現実の把握がかなりいい加減でも生きていける。そのために現実感がいろんな水準で飛びかっているけれども、実はどの現実観も、口にする人が実は自信が持てないし、自分を安っぽいと感じている。だから、本当にすごい人や事柄が出てくると、自分の安っぽさがこたえてしまう。われわれはなにか現実的に生きていない、安っぽく生きている思いがしている。
彼はそれをなんとか表現できないかと考えて小説を書いているわけだけれど、それは彼自身がそうであるからそう思うわけで、それを取り戻すための彼自身の闘いなんだと思う。
結局は、それを自分で体感しなけばいけない。もう一度、「1」を感じなければいけない。それが、結局自分にとっての課題なのだ。なにか形があるものを作ったほうがいいなあ。何にするかなあ。プラモデルでも買ってこようかしら。
ハルキ事変
これだけ多くの国のインタビュワーが村上春樹という人にコミットしているというのはすごいことで、しかも世界の人々に精神の内面まですみずみとペンライトで照らすように見られているわけだ。

ノーベル賞っていうのは、アカデミックで権威があって高邁で、なんか近寄りがたいものっていう印象があったのだけど。
たぶん、それは事件でしかない。世界に認められた事件である。そういう意味で、今年の3大ニュースだとか、流行語大賞だとかと大したかわりはない。ただ単にそういうものにしか過ぎない。それが事件であるならば、事の大小で決められるわけで、そういう意味であれば村上春樹が文学賞を獲得していたとしてもおかしくはなかった。そして、それは今でもおかしくはない。
だけど、それってすごいことだと逆にこれを読み始めてすぐ思った。
でも、自分が興味があるのは、多くの人がなぜ村上春樹を読むのか?ということではない。
自分的には、彼の小説の形式性と、それに反する彼の霊性というものが、なぜこうも彼の生涯を通じて首尾一貫として発展していくのか、そこになんらかの作為というものがあるならば、どうやって何十年にもわたってそういったことをやっているのかと。
どうも彼には作為はない。みたいだ。すくなくとも霊性という点では。一体、人というのは。まあいいわ。
語られなかったことに興味がある。
そういう傾向がここのところ強くなっている。
なんだかヤな感じだが、年喰うと誰でも多かれ少なかれそうなるのか。
あるいはなぜそこだけが語られたのか。TVについてはそうだ。
だが、インタビューの場合、そういうわけにはいかないわけで。
まあ、自分にとってはこれまでの村上春樹作品の総まとめみたいなもので、もうそれこそ自分にとっての「事件」だ。今年買った本の中で一番の事件かもしれない。

ノーベル賞っていうのは、アカデミックで権威があって高邁で、なんか近寄りがたいものっていう印象があったのだけど。
たぶん、それは事件でしかない。世界に認められた事件である。そういう意味で、今年の3大ニュースだとか、流行語大賞だとかと大したかわりはない。ただ単にそういうものにしか過ぎない。それが事件であるならば、事の大小で決められるわけで、そういう意味であれば村上春樹が文学賞を獲得していたとしてもおかしくはなかった。そして、それは今でもおかしくはない。
だけど、それってすごいことだと逆にこれを読み始めてすぐ思った。
でも、自分が興味があるのは、多くの人がなぜ村上春樹を読むのか?ということではない。
自分的には、彼の小説の形式性と、それに反する彼の霊性というものが、なぜこうも彼の生涯を通じて首尾一貫として発展していくのか、そこになんらかの作為というものがあるならば、どうやって何十年にもわたってそういったことをやっているのかと。
どうも彼には作為はない。みたいだ。すくなくとも霊性という点では。一体、人というのは。まあいいわ。
語られなかったことに興味がある。
そういう傾向がここのところ強くなっている。
なんだかヤな感じだが、年喰うと誰でも多かれ少なかれそうなるのか。
あるいはなぜそこだけが語られたのか。TVについてはそうだ。
だが、インタビューの場合、そういうわけにはいかないわけで。
まあ、自分にとってはこれまでの村上春樹作品の総まとめみたいなもので、もうそれこそ自分にとっての「事件」だ。今年買った本の中で一番の事件かもしれない。

