空間であそぶ
パイプオルガンの空気が高い所で鳴っている感じというか。
教会ってインスタレーションだったんだといまさらながら気付いた。
そしてその天井の高い空間を音で埋めて、教会の中にさらに擬似空間を構成するための装置がパイプオルガンだったということに気づく。
ピアノよりチェンバロが教会に合うっていうのもそういうわけで、どういうわけだ?
あの音色って残響の感じなんだなと。洞窟で音が響く。その感じを脳内にいまだにもっているということは、原始時代の名残なんだろうか。あれで空間として認識してしまうのだもの。
空高く風が吹いている。遠くで汽笛が聞こえる。足元で虫が鳴いている。
考えてみればそれを耳だけで知覚するわけで、空間を構成するのはヘッドホン一つあれば足りるような気もするのだけど、ライブ空間として天井の高いホールを視覚的に要求するのが人の身体らしく。あるいは広さとか。
完全な空間を求めるっていうことでテクノとかエレクトロニカとかいう音楽ジャンルは、やはり従来の音楽とは少し違う。もちろん、クラッシックでオーケストラというのもあるけど、もっと擬似空間を立ち上げることに特化しているんだなあと。
絵画というジャンルから、彫刻というジャンルへ、そこからインスタレーションへいきなり変化する現代美術のあの感じと似ているのかも知れない。細密化、高度化、技巧を凝らすというベクトルからいきなり目先が変化する感じ。美術というものが、まったく別の方向へ、別のジャンルへいきなりシフトする感覚。価値観が土台ごと変わる。音楽をそんなふうに変えてしまったのかもしれない。YMOってそうだったんだと今気付いた。冨田勲なんてもう伝説の人なんだなと。
本来、技術革新っていうのはそういうものなのかもとそんなことも思った。
ラジオとかテレビとかコンピューターとかインターネットとかみたいに、製品の既成概念をかえる方向にシフトさせないといけない。そして案外それは同じ場所から見えている筈で。耳で聞いてたものを空間化して感じるように、もっと遊びの感覚で楽しまないととダメなんだろうなあと。アメリカっていうのは遊びの達人の国で、そういうところが発明とかイノベーションの元になっているっていうのに、まじめに働く生真面目な日本人がそれに追いつかないっていうのはなんだかズルいというかなんとかなんねえのかなと。。
発明とか技術革新っていうのは、遊びからしか起こらないのかも。それも今までの遊びではなく、もっと別の何かを感じる方向で。そういう楽しみを発見する。やはり、楽しんで仕事してるヤツが勝たなきゃ面白くないなあとも思ったりもする。
なんてことを昨日のライブを見ながら考えていた。
教会ってインスタレーションだったんだといまさらながら気付いた。
そしてその天井の高い空間を音で埋めて、教会の中にさらに擬似空間を構成するための装置がパイプオルガンだったということに気づく。
ピアノよりチェンバロが教会に合うっていうのもそういうわけで、どういうわけだ?
あの音色って残響の感じなんだなと。洞窟で音が響く。その感じを脳内にいまだにもっているということは、原始時代の名残なんだろうか。あれで空間として認識してしまうのだもの。
空高く風が吹いている。遠くで汽笛が聞こえる。足元で虫が鳴いている。
考えてみればそれを耳だけで知覚するわけで、空間を構成するのはヘッドホン一つあれば足りるような気もするのだけど、ライブ空間として天井の高いホールを視覚的に要求するのが人の身体らしく。あるいは広さとか。
完全な空間を求めるっていうことでテクノとかエレクトロニカとかいう音楽ジャンルは、やはり従来の音楽とは少し違う。もちろん、クラッシックでオーケストラというのもあるけど、もっと擬似空間を立ち上げることに特化しているんだなあと。
絵画というジャンルから、彫刻というジャンルへ、そこからインスタレーションへいきなり変化する現代美術のあの感じと似ているのかも知れない。細密化、高度化、技巧を凝らすというベクトルからいきなり目先が変化する感じ。美術というものが、まったく別の方向へ、別のジャンルへいきなりシフトする感覚。価値観が土台ごと変わる。音楽をそんなふうに変えてしまったのかもしれない。YMOってそうだったんだと今気付いた。冨田勲なんてもう伝説の人なんだなと。
本来、技術革新っていうのはそういうものなのかもとそんなことも思った。
ラジオとかテレビとかコンピューターとかインターネットとかみたいに、製品の既成概念をかえる方向にシフトさせないといけない。そして案外それは同じ場所から見えている筈で。耳で聞いてたものを空間化して感じるように、もっと遊びの感覚で楽しまないととダメなんだろうなあと。アメリカっていうのは遊びの達人の国で、そういうところが発明とかイノベーションの元になっているっていうのに、まじめに働く生真面目な日本人がそれに追いつかないっていうのはなんだかズルいというかなんとかなんねえのかなと。。
発明とか技術革新っていうのは、遊びからしか起こらないのかも。それも今までの遊びではなく、もっと別の何かを感じる方向で。そういう楽しみを発見する。やはり、楽しんで仕事してるヤツが勝たなきゃ面白くないなあとも思ったりもする。
なんてことを昨日のライブを見ながら考えていた。
エレクトロな午後
今日は、新栄DayTrive & Trim。

午後からずっとだったわさ。
tokyo pinsalocksが2時45分なのはわかっていたのだけど、√thummが7時45分からのラストて。おかげでカレー2杯食べたわ。途中で栄まで本買いに行ったし、フリードリンクだったのでビールは何杯のんだか不明。
tokyo pinsalocksは、久々に聞いたのだけど、ライブだとYOUTUBEで見てるのと印象が大分違う。生だとやはり迫ってくる感があって、意外とロックだったりする。
とはいえ、やはりリズムとか音の作り方は、女のコっぽい多幸感があって、エレクトロでもやはり男子、女子の世界観が音で違うのが今日はっきりわかった。
それはそうと、ひさよちゃんが最後にベース持ってステージアウトして驚いた。
ええっ∑(゚Д゚)
まるでGHEEEの近藤さんじゃーん。だが近藤氏と違い、テレ屋さんなので、ステージアウトしても客のほうに顔は向けられないのであった。ちゃんちゃん笑
気になったのはYOU MUST SEE Iという京都のバンドで女の子主体のバンドなのだけど、音って目に見えるものだったのだなあと。なんか音が空間を構成しているのが目に見えるわけで。なんじゃこりゃと。インスタレーションとエレクトロやテクノが相性がいいのはわかっていたのだけど、音だけで手の込んだ積み木みたいに空間を埋めていく感じが作れるもなんだなあと。ちょっとそれはビックリした。
シンセサイザーとかって電子ピアノとか電子オルガンみたいなものだとずっと思ってたんだけど、全然違うものらしく。ギターのエフェクターに近いというか、ギターの空間系エフェクトを複雑にしたものというか。それもあそこまで行くと、それ自体で空間を立ち上げることが出来る装置なんだねえ。エレクトロってそういうジャンルなのね。
で、あいかわらず√thummは、lioちゃんがかわいかったわ。年内で活動をしばらく中止して、来年の5月(4月?)からまた新たに始めるらしく、それはどんな形になるかまだわからないとのこと。
今日のバンドは、大阪、京都あたりで活動しているバンドが多くて、名古屋ではあまり知られていないけれど、もうちょっと名古屋でも見られるくらい、名古屋も不夜城になるといいのだけど、昔っから名古屋は夜は早いんだよなあ。やれやれ。
物販でmimoro を買い損ねた。いまさらながら、自分が√thummが好きだということに気がついた。やっぱり、2回ライブに行かないとそれがわからない。気付くのがいつも遅いんだよ。せつないことよの。

午後からずっとだったわさ。
tokyo pinsalocksが2時45分なのはわかっていたのだけど、√thummが7時45分からのラストて。おかげでカレー2杯食べたわ。途中で栄まで本買いに行ったし、フリードリンクだったのでビールは何杯のんだか不明。
tokyo pinsalocksは、久々に聞いたのだけど、ライブだとYOUTUBEで見てるのと印象が大分違う。生だとやはり迫ってくる感があって、意外とロックだったりする。
とはいえ、やはりリズムとか音の作り方は、女のコっぽい多幸感があって、エレクトロでもやはり男子、女子の世界観が音で違うのが今日はっきりわかった。
それはそうと、ひさよちゃんが最後にベース持ってステージアウトして驚いた。
ええっ∑(゚Д゚)
まるでGHEEEの近藤さんじゃーん。だが近藤氏と違い、テレ屋さんなので、ステージアウトしても客のほうに顔は向けられないのであった。ちゃんちゃん笑
気になったのはYOU MUST SEE Iという京都のバンドで女の子主体のバンドなのだけど、音って目に見えるものだったのだなあと。なんか音が空間を構成しているのが目に見えるわけで。なんじゃこりゃと。インスタレーションとエレクトロやテクノが相性がいいのはわかっていたのだけど、音だけで手の込んだ積み木みたいに空間を埋めていく感じが作れるもなんだなあと。ちょっとそれはビックリした。
シンセサイザーとかって電子ピアノとか電子オルガンみたいなものだとずっと思ってたんだけど、全然違うものらしく。ギターのエフェクターに近いというか、ギターの空間系エフェクトを複雑にしたものというか。それもあそこまで行くと、それ自体で空間を立ち上げることが出来る装置なんだねえ。エレクトロってそういうジャンルなのね。
で、あいかわらず√thummは、lioちゃんがかわいかったわ。年内で活動をしばらく中止して、来年の5月(4月?)からまた新たに始めるらしく、それはどんな形になるかまだわからないとのこと。
今日のバンドは、大阪、京都あたりで活動しているバンドが多くて、名古屋ではあまり知られていないけれど、もうちょっと名古屋でも見られるくらい、名古屋も不夜城になるといいのだけど、昔っから名古屋は夜は早いんだよなあ。やれやれ。
物販でmimoro を買い損ねた。いまさらながら、自分が√thummが好きだということに気がついた。やっぱり、2回ライブに行かないとそれがわからない。気付くのがいつも遅いんだよ。せつないことよの。
ちりとてちん
若狭塗箸のようなドラマが作りたい。
というシンプルな欲求。だったんじゃないだろうかと勝手に想像する。
まるでこれって何かのようだと閃く。
そういう瞬間があって、思い出したらアレもコレもと。
そういうふうに自分の想い出を引き寄せていく引力のあるものにぶつかった。
それが若狭塗箸だったと。そういうことなんじゃないかと。
あらかじめ考えてたものと、ひょいっと頭のどこからか出てきたものがうまいこと組み合わさって物語が紡がれていく。その有り様が神懸かり的で、いったいどこまでが初めから練っていたものなんだろう?と。その境目がわからない。
「私は、その大理石の中に天使を見いだす、彼を自由にするまで彫り続けた。」というのはミケランジェロの言葉だそうだ。子供のときは、この言葉を文字通りに受け取っていて、天才っていうのはすごいと。もう神に近いものだと。でも、心のどこかで絶対そんなことあれへんよなあとは思ってたのだけど。
自分が得意なものを見つけた人はこの言葉がわかる。本人的にはそう言うしかなかったんかもしれへんなあと。あらかじめそこに天使がいるとわかっているわけではない。彫ってるうちにそれが出てくる。なんだかそれが自分でもよくわからない。彫り終わった後にあるいは彫ってる途中で自分が彫っていたものに気づく。最後までそれがわからない場合は気が抜けない。
自分にあった仕事というのは本来そういうもので、本人的には、どちらかというとあらかじめ考えていたことよりも、作っている最中に、ひょいと頭の中から出てきたものに引っ張られるように。実はそういうのははじめっから無意識のうちに仕込まれていて、スルスルと要所要所でそういうモノが出てくる。終わって全体を見回してみると、「ああ、これってそういうことだったのか」と出来た後になって始めて自分が描こうとしていたものに気付く。描いた後で初めて自分に出会う。
芸術家の作品っていうのは本来そういうふうなモノで、本質的に職人さんなんだと思う。神様ではなく、ほんとに人間である人なのかもしれない。
若狭塗箸というのは、箸の生地に貝殻やら卵の殻やら松葉やらで模様をつけて、その上に漆を塗り重ねていく。それを石で丁寧に研いでいく。そうするとそれが綺麗な模様になって出てくる。
『人間も箸とおんなじや。磨いて出てくるのは、塗り重ねたもんだけや。一生懸命生きてさえおったら、悩んだことも、落ち込んだことも、きれいな模様になって出てくる。』
心理的なコンプレックスというのは引力があってそのまわりにいろんなものがくっ付いてくる。ガラクタのようなもので、そのときは煩わしくて苦しい。若い時は特にそういうことが多い。でも時がたって、そういうのを後になって眺めて見ると自分の人生を形作っているものになっていたりする。あるいはそういうときに身につけたものが生きてきたりする。そういうふうに逆転するときが年を取ってくると必ずある。それに気づくときがある。
これって何かに似ているなあ。そうや、若狭塗箸や!
もともとはそこから始まったんだと思う。物語の要所要所でこのワードが出てくる。そうやってドラマを〆ていく。そういや、最近そういうドラマってみないなあ。昔のドラマはそんな感じだったような気がするんやけど。向田邦子さんのドラマとか。このドラマ自体が若狭塗箸のようでもあり。まだ途中まで見てるだけやけど、終盤まで来た。ネガティブで自分のことしか考えてない主人公に腹立ちまくりなのだが、最後にいっつもうまいことまとめよる。そうやって転がしてく。なんかそういうのもベタな感じだけど好きだ。平清盛と同じ脚本の人なんだけど、ずいぶん違う。もしかしたら才能のもうひとつ先になにか必要なのかもしれない。
というシンプルな欲求。だったんじゃないだろうかと勝手に想像する。
まるでこれって何かのようだと閃く。
そういう瞬間があって、思い出したらアレもコレもと。
そういうふうに自分の想い出を引き寄せていく引力のあるものにぶつかった。
それが若狭塗箸だったと。そういうことなんじゃないかと。
あらかじめ考えてたものと、ひょいっと頭のどこからか出てきたものがうまいこと組み合わさって物語が紡がれていく。その有り様が神懸かり的で、いったいどこまでが初めから練っていたものなんだろう?と。その境目がわからない。
「私は、その大理石の中に天使を見いだす、彼を自由にするまで彫り続けた。」というのはミケランジェロの言葉だそうだ。子供のときは、この言葉を文字通りに受け取っていて、天才っていうのはすごいと。もう神に近いものだと。でも、心のどこかで絶対そんなことあれへんよなあとは思ってたのだけど。
自分が得意なものを見つけた人はこの言葉がわかる。本人的にはそう言うしかなかったんかもしれへんなあと。あらかじめそこに天使がいるとわかっているわけではない。彫ってるうちにそれが出てくる。なんだかそれが自分でもよくわからない。彫り終わった後にあるいは彫ってる途中で自分が彫っていたものに気づく。最後までそれがわからない場合は気が抜けない。
自分にあった仕事というのは本来そういうもので、本人的には、どちらかというとあらかじめ考えていたことよりも、作っている最中に、ひょいと頭の中から出てきたものに引っ張られるように。実はそういうのははじめっから無意識のうちに仕込まれていて、スルスルと要所要所でそういうモノが出てくる。終わって全体を見回してみると、「ああ、これってそういうことだったのか」と出来た後になって始めて自分が描こうとしていたものに気付く。描いた後で初めて自分に出会う。
芸術家の作品っていうのは本来そういうふうなモノで、本質的に職人さんなんだと思う。神様ではなく、ほんとに人間である人なのかもしれない。
若狭塗箸というのは、箸の生地に貝殻やら卵の殻やら松葉やらで模様をつけて、その上に漆を塗り重ねていく。それを石で丁寧に研いでいく。そうするとそれが綺麗な模様になって出てくる。
『人間も箸とおんなじや。磨いて出てくるのは、塗り重ねたもんだけや。一生懸命生きてさえおったら、悩んだことも、落ち込んだことも、きれいな模様になって出てくる。』
心理的なコンプレックスというのは引力があってそのまわりにいろんなものがくっ付いてくる。ガラクタのようなもので、そのときは煩わしくて苦しい。若い時は特にそういうことが多い。でも時がたって、そういうのを後になって眺めて見ると自分の人生を形作っているものになっていたりする。あるいはそういうときに身につけたものが生きてきたりする。そういうふうに逆転するときが年を取ってくると必ずある。それに気づくときがある。
これって何かに似ているなあ。そうや、若狭塗箸や!
もともとはそこから始まったんだと思う。物語の要所要所でこのワードが出てくる。そうやってドラマを〆ていく。そういや、最近そういうドラマってみないなあ。昔のドラマはそんな感じだったような気がするんやけど。向田邦子さんのドラマとか。このドラマ自体が若狭塗箸のようでもあり。まだ途中まで見てるだけやけど、終盤まで来た。ネガティブで自分のことしか考えてない主人公に腹立ちまくりなのだが、最後にいっつもうまいことまとめよる。そうやって転がしてく。なんかそういうのもベタな感じだけど好きだ。平清盛と同じ脚本の人なんだけど、ずいぶん違う。もしかしたら才能のもうひとつ先になにか必要なのかもしれない。
平たい顔族
最近『ドライヴ』を勧めている男性ミュージシャンをよく見かける。今レンタルでは新作で並んでいる。
最近洋画を全然見てなかったのだけど、このトレーラー見て改めて日本の映画との絵の違いに愕然とした。やっぱ、日本人はテルマエロマエだ。平たい顔族だ。
平たい顔族。
顔が平たいから表情を読み取る目の深度も浅い。
仏像の顔も平たい。
平たい顔族の描く絵、好む絵は平たい。
撮る写真も映画も、好む映像も平たい。
立体の読解力が弱いのでそれを光で構成する力がない。
東南アジアを旅する。その国々で闇の感じが違う。
ヨーロッパの闇の感じはもっと違う。構成する色も深さも根本的に違う。
たとえばロンドンでもピカデリサーカスのTDK、SANYOのネオンがある部分。すごく平たい。夜のあの部分は、東京と変わらない。そしてあの一角だけ品がない。
テムズ河沿いはネオンが禁止されている。
だから夜のテムズ河クルージングは綺麗だ。
トラファルガースクエアにしろコベントガーデンにしろああいうネオンはない。
間接照明が綺麗だ。闇と光に深度がある。濃い顔族の目の深度。
彼らの顔は白い。光が顔に照り返す。
そういう光の色の中で相手の表情を読む。彫りも深い。
社会性の基本となっている部分でそう。
アジアの闇は日本の闇と似ている。光の感じからして似ている。平たい顔族。モンゴロイド系の目の文化だ。インドの闇もこっち側だ。アジアだ。だとすると顔の彫りの濃さとは違って肌の色に左右されるのか。
人種や風土によって、根本的にそういうのが違う。基本スペックが違えば、価値観も違う。だけど、その振れ幅が少ないところでは同じような価値観となって、そこは共通してたりする。それだけの話。それだけの話なのに紛争は絶えない。人間だって基本は動物だからそれも当たり前の話だ。欲望を満たさなければならない。満たされなければならないと願う。
蛍光灯で隅々まで平たく見えないとわかりにくいとボヤく。暗いと醜いと思う。清潔さが至上である。それも一つの価値観で、それを突き詰めると市場が生まれる。
清潔さ、簡潔さの良さというもの。多彩な二次元的な表現。
それを理解する人が他国にいる。
普遍的価値というものの不思議さ。
テルマエロマエってそういえば、イタリアだったっけで試写をしたとかいう話を聞く。浮世絵文化の映像で、しかも日本人がローマ人役を演じるその突飛さ。逆にそれはそれでアリなのか。一体なんなんだろうねえ。世界は不思議だ。
最近洋画を全然見てなかったのだけど、このトレーラー見て改めて日本の映画との絵の違いに愕然とした。やっぱ、日本人はテルマエロマエだ。平たい顔族だ。
平たい顔族。
顔が平たいから表情を読み取る目の深度も浅い。
仏像の顔も平たい。
平たい顔族の描く絵、好む絵は平たい。
撮る写真も映画も、好む映像も平たい。
立体の読解力が弱いのでそれを光で構成する力がない。
東南アジアを旅する。その国々で闇の感じが違う。
ヨーロッパの闇の感じはもっと違う。構成する色も深さも根本的に違う。
たとえばロンドンでもピカデリサーカスのTDK、SANYOのネオンがある部分。すごく平たい。夜のあの部分は、東京と変わらない。そしてあの一角だけ品がない。
テムズ河沿いはネオンが禁止されている。
だから夜のテムズ河クルージングは綺麗だ。
トラファルガースクエアにしろコベントガーデンにしろああいうネオンはない。
間接照明が綺麗だ。闇と光に深度がある。濃い顔族の目の深度。
彼らの顔は白い。光が顔に照り返す。
そういう光の色の中で相手の表情を読む。彫りも深い。
社会性の基本となっている部分でそう。
アジアの闇は日本の闇と似ている。光の感じからして似ている。平たい顔族。モンゴロイド系の目の文化だ。インドの闇もこっち側だ。アジアだ。だとすると顔の彫りの濃さとは違って肌の色に左右されるのか。
人種や風土によって、根本的にそういうのが違う。基本スペックが違えば、価値観も違う。だけど、その振れ幅が少ないところでは同じような価値観となって、そこは共通してたりする。それだけの話。それだけの話なのに紛争は絶えない。人間だって基本は動物だからそれも当たり前の話だ。欲望を満たさなければならない。満たされなければならないと願う。
蛍光灯で隅々まで平たく見えないとわかりにくいとボヤく。暗いと醜いと思う。清潔さが至上である。それも一つの価値観で、それを突き詰めると市場が生まれる。
清潔さ、簡潔さの良さというもの。多彩な二次元的な表現。
それを理解する人が他国にいる。
普遍的価値というものの不思議さ。
テルマエロマエってそういえば、イタリアだったっけで試写をしたとかいう話を聞く。浮世絵文化の映像で、しかも日本人がローマ人役を演じるその突飛さ。逆にそれはそれでアリなのか。一体なんなんだろうねえ。世界は不思議だ。
アディクト
『夜想』の「世紀末」だったかに、19世紀末のデカダンスとかパリ万博だとかが特集されていて、その中に「めまい」というのがクローズアップされている記事があった。これは、たとえば遊園地などの遊具で回転するメリーゴランドだとか、そういうものと時代状況が求めていたものが被っていたとかいう内容の記事だったと思うんだけど、そういうものの中毒性ってなんなんだろうと。
子供っていうのは目が回る遊びが好きで、フラフラになったりする感覚だとか。非日常性というのが、遊びの要素であって、じゃあその非日常性っていうのを体験するのにどういうものがあるだろうと。遊園地なんてそういうものに溢れているのだけど、それっていくつかのパターンに分けられるだろうと。
回転。スピード。落下。案外人間って物理的には単純なモノかもしれない。
どっちかというと、おばけ屋敷的なもののほうがいろいろ工夫し甲斐があるような余地が残っているように思う。そういうもののほうが少ない予算で勝負できるというか。
空間的な感覚を歪ませるものと時間的な感覚を歪ませるもの。そういうのを大がかりな装置に頼ることなく体験させるっていうのが結構おもしろい。現代美術はけっこうそういう部分でいろいろ試しているものがあって、そういうヒントを得られる場所なのでたまに行くことがある。ヒントったってそれでなにかをするわけでもなく、自分の中にただ溜まっていくだけなんだけど。
まあ、そういう点で完成している作品というのはないわけで、なんだか現代美術は、よく見に行ってガッカリしている人は多いんだけど、そりゃあなたアプローチの仕方からして間違っているのだわさ。まあそれは置いておいて。
ジェットコースターは、完全に受身になって楽しもうとしてしまうと面白くない。少しばかりふんばろうとか自分自身があったほうがコワくて、ドキドキする。そういうのは中毒性がある。そういえば、子供のときに平均台渡りっていうのをやった。平均台の端から同時に渡り始めて、出会ったところでジャンケンをする。負けたほうが平均台から落ちて、次の人へ。最後まで渡りきったほうが勝ち。平均台の上を走る。ケガするかしないかのスレスレで遊ぶ。
いつからそんな遊びをしなくなったのか忘れたけど、なんだかそれもつまらないことだなあとたまに思う苦笑
子供っていうのは目が回る遊びが好きで、フラフラになったりする感覚だとか。非日常性というのが、遊びの要素であって、じゃあその非日常性っていうのを体験するのにどういうものがあるだろうと。遊園地なんてそういうものに溢れているのだけど、それっていくつかのパターンに分けられるだろうと。
回転。スピード。落下。案外人間って物理的には単純なモノかもしれない。
どっちかというと、おばけ屋敷的なもののほうがいろいろ工夫し甲斐があるような余地が残っているように思う。そういうもののほうが少ない予算で勝負できるというか。
空間的な感覚を歪ませるものと時間的な感覚を歪ませるもの。そういうのを大がかりな装置に頼ることなく体験させるっていうのが結構おもしろい。現代美術はけっこうそういう部分でいろいろ試しているものがあって、そういうヒントを得られる場所なのでたまに行くことがある。ヒントったってそれでなにかをするわけでもなく、自分の中にただ溜まっていくだけなんだけど。
まあ、そういう点で完成している作品というのはないわけで、なんだか現代美術は、よく見に行ってガッカリしている人は多いんだけど、そりゃあなたアプローチの仕方からして間違っているのだわさ。まあそれは置いておいて。
ジェットコースターは、完全に受身になって楽しもうとしてしまうと面白くない。少しばかりふんばろうとか自分自身があったほうがコワくて、ドキドキする。そういうのは中毒性がある。そういえば、子供のときに平均台渡りっていうのをやった。平均台の端から同時に渡り始めて、出会ったところでジャンケンをする。負けたほうが平均台から落ちて、次の人へ。最後まで渡りきったほうが勝ち。平均台の上を走る。ケガするかしないかのスレスレで遊ぶ。
いつからそんな遊びをしなくなったのか忘れたけど、なんだかそれもつまらないことだなあとたまに思う苦笑