能の型について
自由という言葉について考えたのはもう遠い昔のことで、今ではそのとき何を考えてどういう結論に至ったのか覚えていない。今ではもうそれについて考えることもなくなった。すでに自由だからだろう。
時代を象徴する言葉というのがあって、自分が子供の頃1960年代から1970年代にかけては『幸福』っていう言葉が流行っていたようだ。そういう名の駅の切符を求めてっていうブームがあって、そういう時代だった。今で言うなら『希望』なのだろうか。
幸福論と試しに検索をかけてみたら、アリストテレスに始まり、ヒルティ、アラン、ラッセル、椎名林檎、福山雅治まででてきた。須藤元気なんていうのもある。いつの時代でも、それについて考えられている、そういう言葉はあるらしい。

「人間は自由によって何一つしていない」というのはロダンの言葉だそうだ。
しつこく白洲正子さんの『名人は危うきに遊ぶ』を読んでいる。
名人は危うきに遊ぶ (新潮文庫)/新潮社

¥420
Amazon.co.jp
能というのは形式主義の最たるものであって。この本の中の「能の型について」で、福原麟太郎さんの『能の秘密』という随筆からこういう引用がある。
「近藤乾三氏の<熊野(ゆや)>が、南をはるかに眺むれば、と上げ扇だか何だかをした時は、あつと感心した。このおぢいさん、何も考えてはゐない。たゞ形をしてゐるだけに過ぎないのである。然るに実に美しい。あゝいうのはどうにもならない。たゞ美しいとよりほかに言ひようがない。熊野の境涯とか、この能の思想とかいふ事は、なんの関係もなく、たゞ一人の美女が扇を上げてゐる美しさなのである。」
能のかたち、もしくは形式美について、これ程よく語った文章を私は知らないと正子さんは書かれている。
美とか思想とかいうものはその時代と常に結びついていて、その一部だけを拾って来てどうのこうのいうのは野暮というもので、例えば他の国の出来事をその一部だけを拾ってどうのこうのというのと似ている。時代や場所の価値体系を知らずに、その事象の一部だけを持ってきて考えることに意味なんてない。
けれど敢えて言ってみる。たとえば手をかざして遠くを見たりすることって今どきしない。ほっかむりした泥棒なんていうのがいないのと同じ。果たしてそれが過去にほんとにあったのか?形式美というのは一種の思い込みだったり、デフォルメだったり。ただそれに対する思い入れで成り立っているだけじゃないのか?
なんていうのを考え始めると言葉だってそうだし、仕草だってそうだ。生まれたときから、そういう形に慣れ親しんでいるから、言葉もしゃべれるし、コミュニケーションもできる。ただ、どこかにそれぞれウソはあって。それを含めて飲み込んだり吐き出したりしながら、人は成長していくわけで。要は型というのは、自分が生まれる前からあって、それを習うことによってしか人は何も為し得ない。たぶんロダンの言葉はそういう意味なのだろう。
時代が変われば、形もかわるし、考え方も変わる。言葉すら変わる。国がかわれば、時代が同じだろうが、価値観も道徳観も違う。そういう中で変わらないのは人の存在そのものだけで。
じゃあ、変わらないものって何だろう?
人が現実と接点を持つのは、その人それぞれの今そのときでしかなく。
それはいつの時代も変わらない。
そして、自分が今そのとき、現実との接点をもっていることを象徴的に感じるのは、なにかを悟った瞬間だったりする。その衝撃の瞬間を形にしたものが、例えば、ロダンの彫刻であったり、能であったりするのか。どうも美術や芸術というものの本質はそういうものらしい。ただそれもそれぞれの文脈がわからないと、どれだけそれを眺めていても、悟る衝撃の瞬間は自分の上にはいっこうに訪れないのだけど。
自由とは何か、型とは何か。
たぶん答えは考えることの中にはない。言葉の中にはないんだと思う。あるいは語りきれない文脈の中にあって。
自由とはなにかとか、幸福とはなにかとか、希望とはなにかとか。そういうふうに構えてしまうと答えはあさっての方へ行ってしまう。
たぶん、そんな風な言葉のそれぞれのすべての答えは考えることでなく感じることの中にある。ていうかそっちのほうが断然早い。ってことで、結局こうなるわけだ。
ドントシンク!フィィィーール!苦笑
しかし、このシーンは映画界の至宝だと思う。
自分は体罰反対なのだけどね苦笑 それはともかく。
時代が変わっても、場所が変わっても通じる何かっていうのはこんなふうな感じで確かにどこかにある。それが信じられない人は結局モノ作りには向いてないのだろう。
答えがない場所で考えたところで無駄っていう命題って奴は、いつの時代にもどんな場所でも形を変えて出てくるらしく、そういう問題については、こんなシーンみたく、そこで切り変えていちはやく悟れるかどうかっていうのって、さっさと生きていく上で結構大事なことなんだろうと思う。自分には、なかなか難しいのだが苦笑
時代を象徴する言葉というのがあって、自分が子供の頃1960年代から1970年代にかけては『幸福』っていう言葉が流行っていたようだ。そういう名の駅の切符を求めてっていうブームがあって、そういう時代だった。今で言うなら『希望』なのだろうか。
幸福論と試しに検索をかけてみたら、アリストテレスに始まり、ヒルティ、アラン、ラッセル、椎名林檎、福山雅治まででてきた。須藤元気なんていうのもある。いつの時代でも、それについて考えられている、そういう言葉はあるらしい。

「人間は自由によって何一つしていない」というのはロダンの言葉だそうだ。
しつこく白洲正子さんの『名人は危うきに遊ぶ』を読んでいる。
名人は危うきに遊ぶ (新潮文庫)/新潮社

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能というのは形式主義の最たるものであって。この本の中の「能の型について」で、福原麟太郎さんの『能の秘密』という随筆からこういう引用がある。
「近藤乾三氏の<熊野(ゆや)>が、南をはるかに眺むれば、と上げ扇だか何だかをした時は、あつと感心した。このおぢいさん、何も考えてはゐない。たゞ形をしてゐるだけに過ぎないのである。然るに実に美しい。あゝいうのはどうにもならない。たゞ美しいとよりほかに言ひようがない。熊野の境涯とか、この能の思想とかいふ事は、なんの関係もなく、たゞ一人の美女が扇を上げてゐる美しさなのである。」
能のかたち、もしくは形式美について、これ程よく語った文章を私は知らないと正子さんは書かれている。
美とか思想とかいうものはその時代と常に結びついていて、その一部だけを拾って来てどうのこうのいうのは野暮というもので、例えば他の国の出来事をその一部だけを拾ってどうのこうのというのと似ている。時代や場所の価値体系を知らずに、その事象の一部だけを持ってきて考えることに意味なんてない。
けれど敢えて言ってみる。たとえば手をかざして遠くを見たりすることって今どきしない。ほっかむりした泥棒なんていうのがいないのと同じ。果たしてそれが過去にほんとにあったのか?形式美というのは一種の思い込みだったり、デフォルメだったり。ただそれに対する思い入れで成り立っているだけじゃないのか?
なんていうのを考え始めると言葉だってそうだし、仕草だってそうだ。生まれたときから、そういう形に慣れ親しんでいるから、言葉もしゃべれるし、コミュニケーションもできる。ただ、どこかにそれぞれウソはあって。それを含めて飲み込んだり吐き出したりしながら、人は成長していくわけで。要は型というのは、自分が生まれる前からあって、それを習うことによってしか人は何も為し得ない。たぶんロダンの言葉はそういう意味なのだろう。
時代が変われば、形もかわるし、考え方も変わる。言葉すら変わる。国がかわれば、時代が同じだろうが、価値観も道徳観も違う。そういう中で変わらないのは人の存在そのものだけで。
じゃあ、変わらないものって何だろう?
人が現実と接点を持つのは、その人それぞれの今そのときでしかなく。
それはいつの時代も変わらない。
そして、自分が今そのとき、現実との接点をもっていることを象徴的に感じるのは、なにかを悟った瞬間だったりする。その衝撃の瞬間を形にしたものが、例えば、ロダンの彫刻であったり、能であったりするのか。どうも美術や芸術というものの本質はそういうものらしい。ただそれもそれぞれの文脈がわからないと、どれだけそれを眺めていても、悟る衝撃の瞬間は自分の上にはいっこうに訪れないのだけど。
自由とは何か、型とは何か。
たぶん答えは考えることの中にはない。言葉の中にはないんだと思う。あるいは語りきれない文脈の中にあって。
自由とはなにかとか、幸福とはなにかとか、希望とはなにかとか。そういうふうに構えてしまうと答えはあさっての方へ行ってしまう。
たぶん、そんな風な言葉のそれぞれのすべての答えは考えることでなく感じることの中にある。ていうかそっちのほうが断然早い。ってことで、結局こうなるわけだ。
ドントシンク!フィィィーール!苦笑
しかし、このシーンは映画界の至宝だと思う。
自分は体罰反対なのだけどね苦笑 それはともかく。
時代が変わっても、場所が変わっても通じる何かっていうのはこんなふうな感じで確かにどこかにある。それが信じられない人は結局モノ作りには向いてないのだろう。
答えがない場所で考えたところで無駄っていう命題って奴は、いつの時代にもどんな場所でも形を変えて出てくるらしく、そういう問題については、こんなシーンみたく、そこで切り変えていちはやく悟れるかどうかっていうのって、さっさと生きていく上で結構大事なことなんだろうと思う。自分には、なかなか難しいのだが苦笑
どちらが得かよく考えてみよう!
「伝統芸能の難しさと面白さ」という題のエッセイが『名人は危うきに遊ぶ』という本の中にある。白洲正子さんの本なのだけど。彼女が能を教わったのは二代目梅宮六郎さんで、その長男の六郎さんにもならっていたと。
おとうさんの六郎さんと長男の六郎さんのそれぞれに習ったときのことがその中に書かれているのだが、父親と息子というのはだいたい違っているわけで。
父親の六郎さんは、相手が素人の子供であっても容赦なく、なぐるまでには至らなかったが、「まだダメ、まだダメ」といつまでたっても赦さない。五時間、六時間も稽古して、「はじめからできないとあきらめてるからダメなんだ。できると思え」何度そういってムリなことを強いられたかわからない。おかげで私は気の強い女の子になってしまったようである。
息子の六郎さんのほうは、彼が15才の頃から習っていたのだが、ちょっと背伸びをすれば、辛うじてできる範囲のことを教える。だから、弟子は誰でも上達するのが早かった。でも、早かったかわり、身についたことの印象は薄く、性格までは変わることはなかったように思う。
そう いう話だった。ふとこの話が気になったので備忘録として。そういえば、金を払って殴ってもらうっていうのがダーティーハリーの一作目にあったなあ。金貰って殴れるなんて良い商売だと思ったけど、俺はやりたくはないと同時に思ったわ。
おとうさんの六郎さんと長男の六郎さんのそれぞれに習ったときのことがその中に書かれているのだが、父親と息子というのはだいたい違っているわけで。
父親の六郎さんは、相手が素人の子供であっても容赦なく、なぐるまでには至らなかったが、「まだダメ、まだダメ」といつまでたっても赦さない。五時間、六時間も稽古して、「はじめからできないとあきらめてるからダメなんだ。できると思え」何度そういってムリなことを強いられたかわからない。おかげで私は気の強い女の子になってしまったようである。
息子の六郎さんのほうは、彼が15才の頃から習っていたのだが、ちょっと背伸びをすれば、辛うじてできる範囲のことを教える。だから、弟子は誰でも上達するのが早かった。でも、早かったかわり、身についたことの印象は薄く、性格までは変わることはなかったように思う。
そう いう話だった。ふとこの話が気になったので備忘録として。そういえば、金を払って殴ってもらうっていうのがダーティーハリーの一作目にあったなあ。金貰って殴れるなんて良い商売だと思ったけど、俺はやりたくはないと同時に思ったわ。
へいぶん
っていうのを見始めた。
プリズンにしろ24にしろ、こういう番組を日本は作れないのかなあと思ったが、
考えてみればアジアにはいろいろ売れている日本発のコンテンツがあるわけで。
そういう情報っていうのが入って来ないのはなんでなんだろう?
逆に言えば、これほど日本でいろんな番組が見られているのをその国の人は意外と知らないのかも知れない。
アメリカにしろ韓国にしろ。
基本的に情報というのは、高いところから低いところへ流れる。
それを掬いあげて精査し、利用し、さらに還流させられるプロトコルを持つこと。
プリズンにしろ24にしろ、こういう番組を日本は作れないのかなあと思ったが、
考えてみればアジアにはいろいろ売れている日本発のコンテンツがあるわけで。
そういう情報っていうのが入って来ないのはなんでなんだろう?
逆に言えば、これほど日本でいろんな番組が見られているのをその国の人は意外と知らないのかも知れない。
アメリカにしろ韓国にしろ。
基本的に情報というのは、高いところから低いところへ流れる。
それを掬いあげて精査し、利用し、さらに還流させられるプロトコルを持つこと。
a fact of life 後日談
で、昨日もジムでそのコと話したのだけど、
最近はブラジル音楽がマイブームで今はボサノバ聞いてるだと。回転はやっ!
ていうか、いろいろ音楽聞いてるともうわからなくなってやっぱ根源的な方へ行っちゃうんですかね?とか言ってて。なんか若さっていうのはいいなあと。ならば、Cafe Dufiに行ってみなと言っておいたのだが。
いろんな音楽を聞いていると、それぞれの音楽に対する別のチャンネルが開いて、またあたらしい真実が見えてくる。たぶんそういうことなんだろうと。
そういえば、
YOU SHALL KNOW THE TRUTH, AND THE TRUTH SHALL MAKE YOU FREE
っていうのは聖書の言葉だそうだ。こういうのを聞くと真実という言葉の胡散臭さをモロ感じてしまう。彼らは、真実というものを定義することで逆にそれに縛られている。そんなふうに思ってしまう。そしてそれがキリスト教という宗教体系の本質なんだろうと。典型的なB型牡羊座な自分はそういうのが大嫌いで。とにかく縛られるのは嫌。だからキリスト教的な世界観は嫌いなのだ。バカなハリウッド映画見てる分には好きなのだが。
だから自分的には、
YOU SHALL KNOW THE WISDOM, AND THE WISDOM SHALL MAKE
YOU FREE
で在って欲しいと。
今までわからなかったものがわかるようになることで、自由になる。
そういうのを体現している、そういう意味で若さっていうのはいいなあと思ったわけだ。
智慧というものに形はないけど、どこかにそれがあることは自分の経験でわかる。気がする。
たしかに真実というものはあって、智慧によってあきらかに手触りのあるそれを掴む瞬間がある。それを人は経験的に知っている。けれど、その真実は、それを掴んだ瞬間から、しばらく経つと頭の中で観念になってしまう。いわゆる意味記憶として定着する。そうなってしまった時点でそれはもう真実ではない。それはもう人間というか、記憶というものがもつシステムの宿命なわけで。
智慧というのは、真実を掴む能力そのもののことだと思っていて、それについては無条件に信じているかもしれない。というかその人の持つ智慧自体が成長し変化していく。そのあり様を信じているというか。
ただ人が持つ智慧にはそれぞれの人の宿命というものがついて廻るらしい。
いまどき「人の宿命」って言葉を聞かなくなって久しく、正直自分でもその言葉の意味を測りかねていたのだが、なんとなくそういうことを考えていて、前はこの文章の前半だけしかわからなかったのだけど、やっと文章全体の意味がわかりはじめた。
人は種々な真実を発見することは出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない。或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循(めぐ)る真実は唯一つあるのみだという事である。
雲が雨を作り、雨が雲を作る様に、環境は人を作り人は環境を作る。斯く言わば弁証法的に統一された真実に、世のいわゆる宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。(小林秀雄『様々なる意匠』1-一三八)
縛られるのが嫌いで、そこからどうにか抜け出したいと、だから智慧を信じている自分も宿命からは逃れられないと知る。キリスト教徒にはキリスト教徒の智慧があり、自分には自分の智慧がある。キリスト教徒にはキリスト教徒の真実があり、自分には自分の真実がある。智慧というのは、それぞれの人がそれぞれの人にとっての真実を掴むためのシステムのことであって。
人の宿命というのは、なにも神様が与えたもうた運命とかそういう胡散臭いものではなくて、それぞれの人、自分というシステムがもつ宿命のことだと。
a fact of life - 人には人の乳酸菌
そして縁なき衆生は度し難し。自分と縁がない人は、自分の思い通りにはならない。
それは、お互いがそうであるというだけでそれ以上の意味なんてない。
最近はブラジル音楽がマイブームで今はボサノバ聞いてるだと。回転はやっ!
ていうか、いろいろ音楽聞いてるともうわからなくなってやっぱ根源的な方へ行っちゃうんですかね?とか言ってて。なんか若さっていうのはいいなあと。ならば、Cafe Dufiに行ってみなと言っておいたのだが。
いろんな音楽を聞いていると、それぞれの音楽に対する別のチャンネルが開いて、またあたらしい真実が見えてくる。たぶんそういうことなんだろうと。
そういえば、
YOU SHALL KNOW THE TRUTH, AND THE TRUTH SHALL MAKE YOU FREE
っていうのは聖書の言葉だそうだ。こういうのを聞くと真実という言葉の胡散臭さをモロ感じてしまう。彼らは、真実というものを定義することで逆にそれに縛られている。そんなふうに思ってしまう。そしてそれがキリスト教という宗教体系の本質なんだろうと。典型的なB型牡羊座な自分はそういうのが大嫌いで。とにかく縛られるのは嫌。だからキリスト教的な世界観は嫌いなのだ。バカなハリウッド映画見てる分には好きなのだが。
だから自分的には、
YOU SHALL KNOW THE WISDOM, AND THE WISDOM SHALL MAKE
YOU FREE
で在って欲しいと。
今までわからなかったものがわかるようになることで、自由になる。
そういうのを体現している、そういう意味で若さっていうのはいいなあと思ったわけだ。
智慧というものに形はないけど、どこかにそれがあることは自分の経験でわかる。気がする。
たしかに真実というものはあって、智慧によってあきらかに手触りのあるそれを掴む瞬間がある。それを人は経験的に知っている。けれど、その真実は、それを掴んだ瞬間から、しばらく経つと頭の中で観念になってしまう。いわゆる意味記憶として定着する。そうなってしまった時点でそれはもう真実ではない。それはもう人間というか、記憶というものがもつシステムの宿命なわけで。
智慧というのは、真実を掴む能力そのもののことだと思っていて、それについては無条件に信じているかもしれない。というかその人の持つ智慧自体が成長し変化していく。そのあり様を信じているというか。
ただ人が持つ智慧にはそれぞれの人の宿命というものがついて廻るらしい。
いまどき「人の宿命」って言葉を聞かなくなって久しく、正直自分でもその言葉の意味を測りかねていたのだが、なんとなくそういうことを考えていて、前はこの文章の前半だけしかわからなかったのだけど、やっと文章全体の意味がわかりはじめた。
人は種々な真実を発見することは出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない。或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循(めぐ)る真実は唯一つあるのみだという事である。
雲が雨を作り、雨が雲を作る様に、環境は人を作り人は環境を作る。斯く言わば弁証法的に統一された真実に、世のいわゆる宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。(小林秀雄『様々なる意匠』1-一三八)
縛られるのが嫌いで、そこからどうにか抜け出したいと、だから智慧を信じている自分も宿命からは逃れられないと知る。キリスト教徒にはキリスト教徒の智慧があり、自分には自分の智慧がある。キリスト教徒にはキリスト教徒の真実があり、自分には自分の真実がある。智慧というのは、それぞれの人がそれぞれの人にとっての真実を掴むためのシステムのことであって。
人の宿命というのは、なにも神様が与えたもうた運命とかそういう胡散臭いものではなくて、それぞれの人、自分というシステムがもつ宿命のことだと。
a fact of life - 人には人の乳酸菌
そして縁なき衆生は度し難し。自分と縁がない人は、自分の思い通りにはならない。
それは、お互いがそうであるというだけでそれ以上の意味なんてない。
a fact of life
そういえば、最近ジムのアルバイトの若い衆と話していて。
プールのトレーナーをやってるやさしい顔をした19才の青年なのだが、バンドをやっていると。パートは今のところ空いてるところをなんでもっていう。でも主にベース。
聞いたらけっこうハードロックは聞くと。
最近は2ピースバンドがマイブームとか言う。例えばlightning boltだとか。
なにそれ?っていうわけで。
いろいろ話しているうちに、とんでもなくハード寄りだとわかったわけで。
いわゆるノイズロック系。
で、このlightning boltのベース奏者なのだが、
「ブライアン・ギブソンのベースは5弦のミュージックマンをチェロのチューニングにして、高音側2本にバンジョー弦張ってます。」ってことでこの2本は指でピッキングして弾いているだとか。しかも、アンプなんて500Wのアンプを3台直結させててなんてことを話してくれたのだが、どうも3600Wなんていうのを使ってるらしい。そりゃ歪むわけだ。しかし、アメリカのアンダーグラウンドっていうのはとんでもない。無茶苦茶だ。カオスだ。
そういえば数学者の岡潔が、ある数学命題の解法について、「アメリカとかソヴィエトは、度はずれた無茶を思いきってやる」と語ってた。数学命題についてすらそういうことをする国では、音楽のアンダーグラウンドシーンなんて日本では想いもしない拡がり方をしているわけで。まあ、考えてみればモンスターマシンやらなんやらもケタ違いだし。あのだだっ広い国というのは、モンゴロイド系とはまったく個の成り立ちからしても違うらしく。
4年ほどまえに名古屋ロックンにも来てたらしい。
ノイズ系は青山真治の映画『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』でも出てきてて。
それで気になって一度聞こうとしたが諦めた。無理。というか理解不能。
そのときは「これはロックの脱構築だ」と思ったのだけど。脱構築から世界は生まれない。脱構築は解体するベクトルしかもたない。哲学として袋小路に入ってしまったオワコンだと自分は思っていて。青山真治も、どうせ蓮實→浅田彰ラインの延長で出会ったんだろうと高を括ってしまったのだが。どうも、ノイズ音楽というのは、その発生した土地では、スノッブというわけでなく、もっと根源的なエネルギーに繋がっているものなのかもと。それを好んで聞いている人が少なからずいるというアメリカの現実を突きつけられて混乱してしまった。まあ日本にもいるわけだけど。
ん
、青山真治氏はそういうことを見抜いたからこその「ノイズ音楽による世界の救済」だったのかと今これを書いていて気付いた。それは根源的なエネルギーなのだと。脱構築の本質はカオティックなエネルギーの奔流というか、迸りなのだと。今わかったわ。そういうことか。だがしかし、オイラのようなジイさまではあの映画は共感しきれず。映画の中に閉じ込められた音楽は、正直画面から抜けてこない。ノイズロックというのは、成り立ちからしてライブじゃないとダメでしょ?と。でもけっこう若いコで音楽に敏感なコはあの映画好きなのかもしれない。
音楽っていうのは、個人によってまったく違う。
それはもはや定義のレベルで違っていて。いまさらながらそれに気づく。
いったい音楽ってなんなんだろうと。人っていうのはわからない。
とりあえず、その彼もFACTは聞くと。zepp名古屋でダイブしたと。それで少し安心したのだが。人は見かけによらないなあ。とくに最近の若い衆は、昨今の人口事情で、就職にしろ何にしろ風あたりが厳しい。いわゆるマイノリティになってしまっているので、年配の人たちに対しても、世間に対しても、うわべは合わせる技術に長けているけど、でも、中身は結構ハードだったりする。FACTもけっこうジジイには辛いわ。踊れん。速いリズムの部分でついていけなくなる。てか、あれでぶっ通されるとさすがに疲れる。年喰った。
プールのトレーナーをやってるやさしい顔をした19才の青年なのだが、バンドをやっていると。パートは今のところ空いてるところをなんでもっていう。でも主にベース。
聞いたらけっこうハードロックは聞くと。
最近は2ピースバンドがマイブームとか言う。例えばlightning boltだとか。
なにそれ?っていうわけで。
いろいろ話しているうちに、とんでもなくハード寄りだとわかったわけで。
いわゆるノイズロック系。
で、このlightning boltのベース奏者なのだが、
「ブライアン・ギブソンのベースは5弦のミュージックマンをチェロのチューニングにして、高音側2本にバンジョー弦張ってます。」ってことでこの2本は指でピッキングして弾いているだとか。しかも、アンプなんて500Wのアンプを3台直結させててなんてことを話してくれたのだが、どうも3600Wなんていうのを使ってるらしい。そりゃ歪むわけだ。しかし、アメリカのアンダーグラウンドっていうのはとんでもない。無茶苦茶だ。カオスだ。
そういえば数学者の岡潔が、ある数学命題の解法について、「アメリカとかソヴィエトは、度はずれた無茶を思いきってやる」と語ってた。数学命題についてすらそういうことをする国では、音楽のアンダーグラウンドシーンなんて日本では想いもしない拡がり方をしているわけで。まあ、考えてみればモンスターマシンやらなんやらもケタ違いだし。あのだだっ広い国というのは、モンゴロイド系とはまったく個の成り立ちからしても違うらしく。
4年ほどまえに名古屋ロックンにも来てたらしい。
ノイズ系は青山真治の映画『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』でも出てきてて。
それで気になって一度聞こうとしたが諦めた。無理。というか理解不能。
そのときは「これはロックの脱構築だ」と思ったのだけど。脱構築から世界は生まれない。脱構築は解体するベクトルしかもたない。哲学として袋小路に入ってしまったオワコンだと自分は思っていて。青山真治も、どうせ蓮實→浅田彰ラインの延長で出会ったんだろうと高を括ってしまったのだが。どうも、ノイズ音楽というのは、その発生した土地では、スノッブというわけでなく、もっと根源的なエネルギーに繋がっているものなのかもと。それを好んで聞いている人が少なからずいるというアメリカの現実を突きつけられて混乱してしまった。まあ日本にもいるわけだけど。
ん
、青山真治氏はそういうことを見抜いたからこその「ノイズ音楽による世界の救済」だったのかと今これを書いていて気付いた。それは根源的なエネルギーなのだと。脱構築の本質はカオティックなエネルギーの奔流というか、迸りなのだと。今わかったわ。そういうことか。だがしかし、オイラのようなジイさまではあの映画は共感しきれず。映画の中に閉じ込められた音楽は、正直画面から抜けてこない。ノイズロックというのは、成り立ちからしてライブじゃないとダメでしょ?と。でもけっこう若いコで音楽に敏感なコはあの映画好きなのかもしれない。音楽っていうのは、個人によってまったく違う。
それはもはや定義のレベルで違っていて。いまさらながらそれに気づく。
いったい音楽ってなんなんだろうと。人っていうのはわからない。
とりあえず、その彼もFACTは聞くと。zepp名古屋でダイブしたと。それで少し安心したのだが。人は見かけによらないなあ。とくに最近の若い衆は、昨今の人口事情で、就職にしろ何にしろ風あたりが厳しい。いわゆるマイノリティになってしまっているので、年配の人たちに対しても、世間に対しても、うわべは合わせる技術に長けているけど、でも、中身は結構ハードだったりする。FACTもけっこうジジイには辛いわ。踊れん。速いリズムの部分でついていけなくなる。てか、あれでぶっ通されるとさすがに疲れる。年喰った。