知の欺瞞
比喩はあいまいさや不正確さを伴う。
たとえばウィルスや細胞器官を擬人化してアニミズムに堕することは絶対に避けたかった。
アニミズムは知と想像力の最大の敵だ。
と書いている村上龍。
ある物理的な法則を例にとってみる。エントロピーの増大の法則。
それは熱力学の法則であって、物は壊れるものだ。部屋は散らばるものだ。なんていうふうに社会や人にあてはめることはおかしい。エントロピーの法則というのは、断熱変化の不可逆性の法則であって、それ以上でも以下でもない。そういう姿勢が科学的な考え方であり、まっとうなものの見方だ。
ただし、後に統計力学的にエントロピーというのは(系の微視的な「乱雑さ」を表す物理量)として意味付けがなされた。断熱変化の不可逆性の法則でしかなかったものが、別の学問により違う意味付けがなされたわけだけど、はたして統計力学のそれは正しいのか?という疑問は残る。科学である以上、実証による裏付けが必要であるというのがその理由で、それは乱雑さを示すように変換したその数式を実際に量子的な計算にあてはめて、量子力学的に検証するという過程を経て、正しいらしいという結論を得ることになる。そのようにして、複数の検証方法によって検証されることが必要となるわけで、そういう過程を経ることなしに使用される比喩に意味などない。むしろ比喩というのは危険物であると。知の欺瞞で、物理学者であるアラン・ソーカルにより、フランス現代思想家たちは衒学者として次々と斬り捨てられたわけだ。
一方で、誰でも知っているソクラテスの洞窟の話がある。ああいう比喩は哲学上よく使われている。哲学というものは学問ではなく文学であるというのは今どき大勢が納得する話なのだが、文学には文学的な真実があるというのも人は経験的に知っている。
小林秀雄は「考えるヒント」にこんなことを書いていた。
比喩だとか物語といわれるものには、大昔から数知れぬ人間が経験に基づき思索を重ねてきたものがある。ソクラテスは、「パイドン」の中で述懐しているのだが、ひたすら比喩から逃れようとする学問には青春時代に熱中してみたが、遂に満足することはできなかった。物的世界の因果性を極めようとするならば、それもよいが、この世界に人間が入ってくれば、知性というものを一っぺんも疑ったことのないような弱い知性では役に立たぬ。そこで彼は方向を転回し、凡そ物を考える出発点も終点も「汝自身を知る」事にあると悟ったと。
文学というのは人間が入ってくる世界を描く以上、そういう地点に立たざるをえない。少なくとも作家は、その作家の視点でものを描く。できあがったものに対する客観性は持てない筈で、結局彼の作品の出発点も終点も「汝自身を知る」ことであって、そこから離れることなどできはしない。作品に対する判断は、個々の読者がすればよいわけで、読者もまた自分の読書の出発点も終点も「汝自身を知る」ことである。畢竟、そういう結論に落ち着く筈だ。
さて、そこで自問してみる。果たしてアニミズムとは知と想像力の最大の敵か?と。
おおよそ人の心が扱う物に敵というものはなくて、それすらも含めて人である。そんなふうに思う。
一方で懐疑を持ちつつ、一方で断言する。そして断言したことに対して、また懐疑を抱く。それの繰り返しの運動自体が知であり、想像力である。それらは固定された概念ではなく、人のその運動そのものを言うのだと自分は思う。一方でアニミズムは、考え方やものの見方を感情によって固定する。それは文学にとってだけではなく、科学にとっても毒だ。即ち、村上龍が否定したのはアニミズムのもつ「物の見方を固定させようとする性質」だったのだということに気がつく。彼は、あいまいさや不正確さをもったまま思考停止させるものを嫌う。おいらも嫌い。
そういえば、会社で使われる正論にはそういうものが如何に多いことか。なんか最近そんなのばかりが目につくのだな。TV番組だとかさ。
そういえば、平和という正論は、それに伴う感情によって思考停止を誘うわけで。それではどこへも行かないし、どこにも続かない。それぞれの人の日々の生活の中にその営みがあるべきものに象徴的な名前なんて本当はいらない。「平和を唱える人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣となる。皆でよってたかって彼らの平和というものを飼いならそうとするが、その獣はすぐに巨きくなり過ぎて、その望むところをことごとく知ることは不可能になる。そしておのおのの平和を守るために正義というものがものさしとして取り沙汰されるようになる。正義という尺度はそうは言っても、この獣の中にあることに間違いがないわけだから、善悪も正不正もこの巨獣に奉仕し、屈従する程度によって定まるほかはない。平和とやらはそのときどこへ行くのだろう?」と。まあプラトンの思想を小林秀雄が語ったものを応用すればそんなふうになるわけだ。平和というものは集まるとそういうものに成り下がる。まあそんなわけで、もうちょっと考えたほうがいいと思うぞ。老婆心ながら。
たとえばウィルスや細胞器官を擬人化してアニミズムに堕することは絶対に避けたかった。
アニミズムは知と想像力の最大の敵だ。
と書いている村上龍。
ある物理的な法則を例にとってみる。エントロピーの増大の法則。
それは熱力学の法則であって、物は壊れるものだ。部屋は散らばるものだ。なんていうふうに社会や人にあてはめることはおかしい。エントロピーの法則というのは、断熱変化の不可逆性の法則であって、それ以上でも以下でもない。そういう姿勢が科学的な考え方であり、まっとうなものの見方だ。
ただし、後に統計力学的にエントロピーというのは(系の微視的な「乱雑さ」を表す物理量)として意味付けがなされた。断熱変化の不可逆性の法則でしかなかったものが、別の学問により違う意味付けがなされたわけだけど、はたして統計力学のそれは正しいのか?という疑問は残る。科学である以上、実証による裏付けが必要であるというのがその理由で、それは乱雑さを示すように変換したその数式を実際に量子的な計算にあてはめて、量子力学的に検証するという過程を経て、正しいらしいという結論を得ることになる。そのようにして、複数の検証方法によって検証されることが必要となるわけで、そういう過程を経ることなしに使用される比喩に意味などない。むしろ比喩というのは危険物であると。知の欺瞞で、物理学者であるアラン・ソーカルにより、フランス現代思想家たちは衒学者として次々と斬り捨てられたわけだ。
一方で、誰でも知っているソクラテスの洞窟の話がある。ああいう比喩は哲学上よく使われている。哲学というものは学問ではなく文学であるというのは今どき大勢が納得する話なのだが、文学には文学的な真実があるというのも人は経験的に知っている。
小林秀雄は「考えるヒント」にこんなことを書いていた。
比喩だとか物語といわれるものには、大昔から数知れぬ人間が経験に基づき思索を重ねてきたものがある。ソクラテスは、「パイドン」の中で述懐しているのだが、ひたすら比喩から逃れようとする学問には青春時代に熱中してみたが、遂に満足することはできなかった。物的世界の因果性を極めようとするならば、それもよいが、この世界に人間が入ってくれば、知性というものを一っぺんも疑ったことのないような弱い知性では役に立たぬ。そこで彼は方向を転回し、凡そ物を考える出発点も終点も「汝自身を知る」事にあると悟ったと。
文学というのは人間が入ってくる世界を描く以上、そういう地点に立たざるをえない。少なくとも作家は、その作家の視点でものを描く。できあがったものに対する客観性は持てない筈で、結局彼の作品の出発点も終点も「汝自身を知る」ことであって、そこから離れることなどできはしない。作品に対する判断は、個々の読者がすればよいわけで、読者もまた自分の読書の出発点も終点も「汝自身を知る」ことである。畢竟、そういう結論に落ち着く筈だ。
さて、そこで自問してみる。果たしてアニミズムとは知と想像力の最大の敵か?と。
おおよそ人の心が扱う物に敵というものはなくて、それすらも含めて人である。そんなふうに思う。
一方で懐疑を持ちつつ、一方で断言する。そして断言したことに対して、また懐疑を抱く。それの繰り返しの運動自体が知であり、想像力である。それらは固定された概念ではなく、人のその運動そのものを言うのだと自分は思う。一方でアニミズムは、考え方やものの見方を感情によって固定する。それは文学にとってだけではなく、科学にとっても毒だ。即ち、村上龍が否定したのはアニミズムのもつ「物の見方を固定させようとする性質」だったのだということに気がつく。彼は、あいまいさや不正確さをもったまま思考停止させるものを嫌う。おいらも嫌い。
そういえば、会社で使われる正論にはそういうものが如何に多いことか。なんか最近そんなのばかりが目につくのだな。TV番組だとかさ。
そういえば、平和という正論は、それに伴う感情によって思考停止を誘うわけで。それではどこへも行かないし、どこにも続かない。それぞれの人の日々の生活の中にその営みがあるべきものに象徴的な名前なんて本当はいらない。「平和を唱える人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣となる。皆でよってたかって彼らの平和というものを飼いならそうとするが、その獣はすぐに巨きくなり過ぎて、その望むところをことごとく知ることは不可能になる。そしておのおのの平和を守るために正義というものがものさしとして取り沙汰されるようになる。正義という尺度はそうは言っても、この獣の中にあることに間違いがないわけだから、善悪も正不正もこの巨獣に奉仕し、屈従する程度によって定まるほかはない。平和とやらはそのときどこへ行くのだろう?」と。まあプラトンの思想を小林秀雄が語ったものを応用すればそんなふうになるわけだ。平和というものは集まるとそういうものに成り下がる。まあそんなわけで、もうちょっと考えたほうがいいと思うぞ。老婆心ながら。
『ヒュウガ・ウィルス』 村上龍
村上龍の『ヒュウガ・ウィルス』をナナメ再読。
あとがき
この小説は、映画『KYOKO』の撮影体験から自由になることを意識して20日間で書いた。撮影は強烈な体験だった。
「あのくらいのことはいつでも、一人でやれる」
映画と小説が依存し合わないように、自分でそう思う必要があった。
この小説のモチーフになっているウィルス、免疫、遺伝子は作家にとっても刺激的な生物学領域だが、たとえばウィルスや細胞器官を擬人化してアニミズムに堕することは絶対に避けたかった。
アニミズムは知と想像力の最大の敵だ。
なんて書いている。
だけど、これはあきらかに『ミクロの決死圏』だ。
日本列島を人間の身体に見立て、患部である宮崎県の日向市のビック・バンという施設に乗り込む。ビック・バンでは致死率100%の謎の感染症が発生していた。パンデミックを防ぐこと。感染症の原因を突き止め対策の糸口を得ること。決死隊はUGの細菌戦の特殊部隊の兵士で、彼らに帯同しその活動を追う記者キャサリン・コウリーの目から見た景色として描かれたファンタジー小説である。
ファンタジーであるが故にリアルな題材として人体をもとめた。
抗原抗体反応だとか免疫反応だとかの専門用語を、当時の知見に基づいて、やたらめったら小説の中にちりばめているのだけど、逆にそういう記述が詳細になればなるほど、素人にとってはぐにゃぐにゃとした印象が文章にあらわれることになる。インターロイキンだのマクロファージだの、サイトカインだの。自分の中で可視化できないカタカナ用語ってけっこうやばい。思考停止を誘うわけで。
ある意味、これって外科手術を見ているようなもので、どれがどの内臓なのか素人にはわからない。外科医は、患者の血圧低下やら、不意の出血やら、思ってもいなかった場所に潜んでいた新たな危機やらに対処しながら、的確に目的の患部に辿り着いて病巣を取り除く。
それらを行うには、正確な判断と明確な知識、卓越した技術が必要となる。
そして何よりも必要とされるのは強烈な意志だ。
「アニミズム(英語: animism)は、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂もしくは霊が宿っているという考え方」(from wikipedia)。日本古来の八百万の神の信仰はそうなのだけど、村上龍は逆にそういう考えにとらわれやすい人なんだと思う。そこからどう這い上がるかというのが彼自身のテーマの一つで、それが彼の小説のテーマの一つにもなっている。
彼があいまいさを嫌うのもそういうところから来ている。実は本質は非常に日本人的な人だと自分は思っている。そして自分の中のそれが許せない。
人は強烈な体験をすると幼児退行することによって人格を守ろうとする。
ヒトの2~4歳の幼児期には、まわりのものがすべて自分と同じように感じ、意識をもち、意思をもっていると考える時期があり、児童心理学ではこのことをアニミズムと呼んでいて。このとき、彼らの意識の中では自己と客観との区別がなされていない。そのため、ものごとを相互に比較判断したり、現実と非現実との区別や生物と無生物との区別がつかなかったりする。
そこから這い出るためには、圧倒的な意志の力が必要なのだ。というのがこの本のテーマで、だから、主人公は、キャサリンコーリーでもありながら、途中で死んでしまうUGの戦士でもあり、ヒューガウィルスから生還したただ一人の少年ジャン・モノーでもある。いずれも村上龍の分身である。
村上龍は『KYOKO』の撮影で、撮影のストレスにより極度のノイローゼになりカウンセリングなんかも受けたんだけど、あんなのは余計鬱になっただけで、薬ももらったけど体に合わなくて捨ててしまったとどこかに書いてた。そういう状態からやっと脱したときにその締めくくりとして書いたものだということなので、人が精神的に危機的な状況に陥ったときの回復過程の参考書としても読める。というかそう自分は読んだ。ある意味、村上龍解体新書だと。
だけど、一方ではこんなことも思った。これってアニミズムとどう違うんだっけ?比喩じゃねえか?と。やたら、体内の免疫反応と作戦行動自体を重ね合わせているわけで、それって生物と無生物の区別がついてないこととイコールだ。それってアニミズムと同じところにあるものなんじゃないのと。退行だよねと。
でも、人って壊れてしまうと結局そこまで退行しないと逆に現実世界に戻って来れないんじゃないかとも思う。たぶん、人が生きるためのエネルギーの根源っていうのはそういう場所にあって、というかそういう場所にしかなくて、それを取り戻すにはそこまで戻るしかないというか。
演歌とか、矢沢や長淵を聞いて自己陶酔する人って、唾棄すべきもので大嫌いだと自分は思っているのだけど、結局そういう自分は村上龍と同じなのだ。はまりやすいから嫌う自分の体質を知っている。そして、どこかで結局自分でもやってしまっているわけで。
アニミズムにしろ、自己陶酔にしろ前頭葉の統合能力の力が薄れて、客観的に外部の状況やそれと自分との関係を把握する力が弱まっているわけだけど、それは同時に自己の能力に対する評価を上げる。「自分は平均より優れている」という錯覚が強くなっている状態でもある。逆に抑うつ症状のときにはこの錯覚が弱くなる。
脳の深部(大脳基底核)にある線条体という部位で、神経伝達物質のドーパミンが多いと、線条体と、認知をつかさどる前頭葉の「前部帯状回」と呼ばれる部位の連携が低下。両部位の連携が弱いほど、この「錯覚」の程度が強いことが分かっている。人には元来、自分は優れているという意識があるが、前頭葉で制御し過ぎると抑うつにつながるのかもしれない。そういう研究結果が出ている。(「自分は優秀」錯覚の仕組み解明=抑うつ症状の診断に期待-放医研など)
つまり、鬱の状態から正常な状態に戻そうとする正当な生理反応として、退行だとか自己陶酔があると考えたほうがいい。あまりに外部の判断能力が高いと自己優位の錯覚が消えてしまって、抑うつになってしまう。多分、撮影で自己能力のなさを突きつけられて、それに対してまともに対峙し過ぎてしまったのだろう。「映画と小説が依存し合わないように、」。まあ、ものは言いようだ。そうしときましょう。モノが見え過ぎるのはあまり精神の健康にはよくない。
あるいは、自分にとって一番重要なものは、自分が一番嫌いなモノの隣にある。あまりにその距離が近すぎるためにそれがかえって見えない。経験的にはそういうことも言える。そして虎穴に入らずんば虎子を得ず。ミイラ取りがミイラになるか、そうでないかは紙一重、死にかけないとわからないこともある。あるいは自分では実はよくわかっていないこともあるってことか。わかってないから助かるというか。そこで逆転する。
この本の主題はそこから生還するためには強烈な意志が必要なのだということ。その一点に尽きる。意志を可視化すること。顕現化すること。それを目的として文章が書かれている。わっしに言わせれば、その前に逆転が起こってるから意志だなんてことが言えると思ってるわけだけど。
本当は意志なんかよりドーパミンのほうが有効なのかもしれないけれど、外部から与えられたそれでは目的は達成されない。問題は目の前に残ったままだと。そういうことなんだろうと思う。
小説を書くことは自分と対決することで、対決することによって癒されるのだと言う話をよく聞く。とはいえ、傍から見ればなんだか見当違いのところを誰もが掘っているんじゃないかという気が最近している。あるいは一番大事なところをすっ飛ばしている。本人にはそれが何かは決して見えない。
村上春樹だって同じで、ねじまきで壁抜けについて書いてるけど、抜ける際までは書けるのだけど、その瞬間に何が起こっているのかは本人は意識できない。そして気付いたときには突き抜けている。そのとき対峙していたと自覚していたものは、そのものの影で。決して本体は見えない。それこそ「錯覚」みたいなもので、幽霊の正体みたり枯れ尾花。まあ、他人からみりゃそんなもんで、畢竟誰もがほんとうの自分の人生の課題とは別のところをそれだと思って掘ったりしながら、枯れ尾花めがけて突進するドンキホーテのように一生を過ごすのかも知れない。ばかみたいだ。やれやれ。
人生の本題は影との対決にあるわけではなく。自分が楽しいと思うところに生きる値打ちがあるんだろうとつらつら人生振り返ってそんなふうに思う。自分の影の部分にとり入られ過ぎると、影に人生を乗っ取られるだけだ。錯覚に関わってたってしょうがない。課題なんて正直どうだっていいのだ。
あとがき
この小説は、映画『KYOKO』の撮影体験から自由になることを意識して20日間で書いた。撮影は強烈な体験だった。
「あのくらいのことはいつでも、一人でやれる」
映画と小説が依存し合わないように、自分でそう思う必要があった。
この小説のモチーフになっているウィルス、免疫、遺伝子は作家にとっても刺激的な生物学領域だが、たとえばウィルスや細胞器官を擬人化してアニミズムに堕することは絶対に避けたかった。
アニミズムは知と想像力の最大の敵だ。
なんて書いている。
だけど、これはあきらかに『ミクロの決死圏』だ。
日本列島を人間の身体に見立て、患部である宮崎県の日向市のビック・バンという施設に乗り込む。ビック・バンでは致死率100%の謎の感染症が発生していた。パンデミックを防ぐこと。感染症の原因を突き止め対策の糸口を得ること。決死隊はUGの細菌戦の特殊部隊の兵士で、彼らに帯同しその活動を追う記者キャサリン・コウリーの目から見た景色として描かれたファンタジー小説である。
ファンタジーであるが故にリアルな題材として人体をもとめた。
抗原抗体反応だとか免疫反応だとかの専門用語を、当時の知見に基づいて、やたらめったら小説の中にちりばめているのだけど、逆にそういう記述が詳細になればなるほど、素人にとってはぐにゃぐにゃとした印象が文章にあらわれることになる。インターロイキンだのマクロファージだの、サイトカインだの。自分の中で可視化できないカタカナ用語ってけっこうやばい。思考停止を誘うわけで。
ある意味、これって外科手術を見ているようなもので、どれがどの内臓なのか素人にはわからない。外科医は、患者の血圧低下やら、不意の出血やら、思ってもいなかった場所に潜んでいた新たな危機やらに対処しながら、的確に目的の患部に辿り着いて病巣を取り除く。
それらを行うには、正確な判断と明確な知識、卓越した技術が必要となる。
そして何よりも必要とされるのは強烈な意志だ。
「アニミズム(英語: animism)は、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂もしくは霊が宿っているという考え方」(from wikipedia)。日本古来の八百万の神の信仰はそうなのだけど、村上龍は逆にそういう考えにとらわれやすい人なんだと思う。そこからどう這い上がるかというのが彼自身のテーマの一つで、それが彼の小説のテーマの一つにもなっている。
彼があいまいさを嫌うのもそういうところから来ている。実は本質は非常に日本人的な人だと自分は思っている。そして自分の中のそれが許せない。
人は強烈な体験をすると幼児退行することによって人格を守ろうとする。
ヒトの2~4歳の幼児期には、まわりのものがすべて自分と同じように感じ、意識をもち、意思をもっていると考える時期があり、児童心理学ではこのことをアニミズムと呼んでいて。このとき、彼らの意識の中では自己と客観との区別がなされていない。そのため、ものごとを相互に比較判断したり、現実と非現実との区別や生物と無生物との区別がつかなかったりする。
そこから這い出るためには、圧倒的な意志の力が必要なのだ。というのがこの本のテーマで、だから、主人公は、キャサリンコーリーでもありながら、途中で死んでしまうUGの戦士でもあり、ヒューガウィルスから生還したただ一人の少年ジャン・モノーでもある。いずれも村上龍の分身である。
村上龍は『KYOKO』の撮影で、撮影のストレスにより極度のノイローゼになりカウンセリングなんかも受けたんだけど、あんなのは余計鬱になっただけで、薬ももらったけど体に合わなくて捨ててしまったとどこかに書いてた。そういう状態からやっと脱したときにその締めくくりとして書いたものだということなので、人が精神的に危機的な状況に陥ったときの回復過程の参考書としても読める。というかそう自分は読んだ。ある意味、村上龍解体新書だと。
だけど、一方ではこんなことも思った。これってアニミズムとどう違うんだっけ?比喩じゃねえか?と。やたら、体内の免疫反応と作戦行動自体を重ね合わせているわけで、それって生物と無生物の区別がついてないこととイコールだ。それってアニミズムと同じところにあるものなんじゃないのと。退行だよねと。
でも、人って壊れてしまうと結局そこまで退行しないと逆に現実世界に戻って来れないんじゃないかとも思う。たぶん、人が生きるためのエネルギーの根源っていうのはそういう場所にあって、というかそういう場所にしかなくて、それを取り戻すにはそこまで戻るしかないというか。
演歌とか、矢沢や長淵を聞いて自己陶酔する人って、唾棄すべきもので大嫌いだと自分は思っているのだけど、結局そういう自分は村上龍と同じなのだ。はまりやすいから嫌う自分の体質を知っている。そして、どこかで結局自分でもやってしまっているわけで。
アニミズムにしろ、自己陶酔にしろ前頭葉の統合能力の力が薄れて、客観的に外部の状況やそれと自分との関係を把握する力が弱まっているわけだけど、それは同時に自己の能力に対する評価を上げる。「自分は平均より優れている」という錯覚が強くなっている状態でもある。逆に抑うつ症状のときにはこの錯覚が弱くなる。
脳の深部(大脳基底核)にある線条体という部位で、神経伝達物質のドーパミンが多いと、線条体と、認知をつかさどる前頭葉の「前部帯状回」と呼ばれる部位の連携が低下。両部位の連携が弱いほど、この「錯覚」の程度が強いことが分かっている。人には元来、自分は優れているという意識があるが、前頭葉で制御し過ぎると抑うつにつながるのかもしれない。そういう研究結果が出ている。(「自分は優秀」錯覚の仕組み解明=抑うつ症状の診断に期待-放医研など)
つまり、鬱の状態から正常な状態に戻そうとする正当な生理反応として、退行だとか自己陶酔があると考えたほうがいい。あまりに外部の判断能力が高いと自己優位の錯覚が消えてしまって、抑うつになってしまう。多分、撮影で自己能力のなさを突きつけられて、それに対してまともに対峙し過ぎてしまったのだろう。「映画と小説が依存し合わないように、」。まあ、ものは言いようだ。そうしときましょう。モノが見え過ぎるのはあまり精神の健康にはよくない。
あるいは、自分にとって一番重要なものは、自分が一番嫌いなモノの隣にある。あまりにその距離が近すぎるためにそれがかえって見えない。経験的にはそういうことも言える。そして虎穴に入らずんば虎子を得ず。ミイラ取りがミイラになるか、そうでないかは紙一重、死にかけないとわからないこともある。あるいは自分では実はよくわかっていないこともあるってことか。わかってないから助かるというか。そこで逆転する。
この本の主題はそこから生還するためには強烈な意志が必要なのだということ。その一点に尽きる。意志を可視化すること。顕現化すること。それを目的として文章が書かれている。わっしに言わせれば、その前に逆転が起こってるから意志だなんてことが言えると思ってるわけだけど。
本当は意志なんかよりドーパミンのほうが有効なのかもしれないけれど、外部から与えられたそれでは目的は達成されない。問題は目の前に残ったままだと。そういうことなんだろうと思う。
小説を書くことは自分と対決することで、対決することによって癒されるのだと言う話をよく聞く。とはいえ、傍から見ればなんだか見当違いのところを誰もが掘っているんじゃないかという気が最近している。あるいは一番大事なところをすっ飛ばしている。本人にはそれが何かは決して見えない。
村上春樹だって同じで、ねじまきで壁抜けについて書いてるけど、抜ける際までは書けるのだけど、その瞬間に何が起こっているのかは本人は意識できない。そして気付いたときには突き抜けている。そのとき対峙していたと自覚していたものは、そのものの影で。決して本体は見えない。それこそ「錯覚」みたいなもので、幽霊の正体みたり枯れ尾花。まあ、他人からみりゃそんなもんで、畢竟誰もがほんとうの自分の人生の課題とは別のところをそれだと思って掘ったりしながら、枯れ尾花めがけて突進するドンキホーテのように一生を過ごすのかも知れない。ばかみたいだ。やれやれ。
人生の本題は影との対決にあるわけではなく。自分が楽しいと思うところに生きる値打ちがあるんだろうとつらつら人生振り返ってそんなふうに思う。自分の影の部分にとり入られ過ぎると、影に人生を乗っ取られるだけだ。錯覚に関わってたってしょうがない。課題なんて正直どうだっていいのだ。
『日蝕』 平野啓一郎 追記
≪文体≫
文章がひじょうに読みにくかった。
文体は一人称で、わざと読みにくくして古い言葉遣いっぽくしている。これは現代との乖離を表すためだと思ったのだけど、あるいは15世紀キリスト教の修道士であることを際だたせるためというか。でも古い言葉の使い方に違和感がある。
擬古文というのか。習った覚えがないけど最近は授業でやってるのか。
だがしかし、なんだか文章のリズムもおかしい。要は最初に文を作ってから、自分の勝手なルールで擬古文化しているので自然な言葉の使い方になってないし、リズムも壊れるわけで。文章として据わりが悪いのだ。
ネットでみたら、かなり文章を推敲する人らしい。
だがどうもその推敲の方法というか考え方が理屈っぽい。あるいは法学者が法律を解釈するような厳密さなのか。自分には合わないなあ。
そういえば、音感や流れよりも見た目重視で文の良し悪しを判断する人がいるとか。そうかそういう人がいるのか。いろんな人がいるなあ。
≪内容≫
キリスト教の修道士が自らのアイデンティティを確認するため、異端と闘う。というより、それをキリスト教の中に取り込むことによって解決しようとする。キリスト教はそういう異端と相対してもそれを取り込める、それほどの正義を持ち、揺るぎないものだと確信している。だが、その行為の根本にあるのは、みずからの中の異端性に対する無意識のうちの疑義。自らがキリスト教徒であることに厳密であろうとするほど、その部分は大きくなる。その自己矛盾を抱えたまま、表面上は異端である他者を説伏する手段を得るため旅にでる。まず向かった先は、錬金術師のもと。もののけ姫のアシタカ的に言えば「くもりなき眼で(異端者の有り様を)確かめる」ためだった。だがそこでおそろしい出来事に遭遇する。果たしてそれは彼にとって必然だったのか、それとも偶然だったのか。
いったいこれはどういう主題なのか?なにをどう判断すればよいのか?
正直よくわからなかった。
以下、本書の核心に直接触れるので、これから本を読む人は読まないで欲しい。
イスラム教にスーフィーってのがあって、イスラム神秘主義と呼ばれている。イスラムの中では異端とみなされているのだけど、それはこれらの教団の共通点が、「個我からの滅却・解放、そして<神>もしくは<全体>との合一(この境地を「ファナーウ」という)をみずからの体験として追求する傾向がある」からで。
錬金術はエジプトからギリシャを経てヨーロッパへ伝わったのだけど、同じようにイスラム諸国の間にもギリシャを経て伝わったらしく。そのときにグノーシス主義と結びついた。グノーシス主義の宗教としてマニ教がある。彼はそのマニ教が自国で広まっていることに憤りを感じている。一方で、グノーシス主義はキリスト教の中にキリスト教グノーシス体系として紀元2世紀から3世紀頃にはすでに存在していたらしい。このあたりの話は非常に複雑で入り組んでいて、正直よくわからない。
スーフィーと錬金術にも深い結びつきがある。そしてそれは「ファナーウ」とも密接に関係している。関係しているのだがそれもまたちょー難しいのだ。一般常識とかけ離れた教義とか直観の上に成り立ったいるので、かなり深く広く勉強しないとわからない。わっしは少し調べて諦めた。どうも本当にそれを知るためには、修行も必要らしい。ほんとうにそのあたりの本まで20才や21才の若者が読んでたのか?いや、いくらなんでもそれはあり得ないだろうと。そういう合理的な疑念がある。そういう怪しさを鑑みると、この本の時代考証についても、その当時のキリスト教徒や錬金術に対する記述も正しいものかどうか判断しかねるという点が一点。
そして、あるおそろしい出来事を通じて、神秘体験をするのだが、それがスーフィーの「ファナーウ」そのもので。この体験はキリスト教徒の修道士としても決して持ってはいけない自己体験なのじゃないかと思うのだけど。自分を神と同一視したらまずいっしょ?しかもこれって宗教的にすごくネジレてるし。一回転半してあさっての方に着地してるというか。ええっ?て感じで。
まあそこはいいとしても、そういう体験をもった自分に対するあり様として、反省だとか転身だとかなんてなく。いやいや、キミさ、いやしくもキリスト教の修道士としてそれってどうなの?と。一体、自分をどう許したわけ?という結末に対する不満というか胸倉つかんで揺すりたいというかモヤモヤ感が残るという点が一点。いったい自分と対決したの?してないの?キミの矛盾はどうなったの?それでいいんだっけ?と。それって不誠実すぎるだろうと。あるいは、まさかキミ自身があの人と同じ存在であると思っているわけではないよね?と。それこそ不敬そのものなわけで。
まあ、自分は芥川賞作品に対して私小説的な有り様を期待しすぎている点は否めない。
いろんなところで鋭利な観察眼やら表現やらがあって芥川賞を獲ったのはわかるけれど、そのときの選考委員の人達はこのあたりどう評価したんだろう?いちばん大事なとこなんじゃないの?と。さっぱりわからない。誰か解説してくれ!
もうちょっとネットサーフしてみることにする。
後記(2013.03.01)
芥川賞-選評の概要-第120回
自分的には、石原慎太郎氏と宮本輝氏の選評が秀逸。読んでて大爆笑してしまった。
まったく御意である。そうだよなあと笑
でもそれ以上に唸ったのは、トップを飾っている河野多恵子氏の選評。
「学僧は、海苔を干す時に使われる小簾のようなもので、干し上がれば用のないものである。」と言う言葉にコロンブスの卵を見た。すげー。そんな解法があったとは。おみそれしました。
さすが一番上に載っかってるわけだ。
文章がひじょうに読みにくかった。
文体は一人称で、わざと読みにくくして古い言葉遣いっぽくしている。これは現代との乖離を表すためだと思ったのだけど、あるいは15世紀キリスト教の修道士であることを際だたせるためというか。でも古い言葉の使い方に違和感がある。
擬古文というのか。習った覚えがないけど最近は授業でやってるのか。
だがしかし、なんだか文章のリズムもおかしい。要は最初に文を作ってから、自分の勝手なルールで擬古文化しているので自然な言葉の使い方になってないし、リズムも壊れるわけで。文章として据わりが悪いのだ。
ネットでみたら、かなり文章を推敲する人らしい。
だがどうもその推敲の方法というか考え方が理屈っぽい。あるいは法学者が法律を解釈するような厳密さなのか。自分には合わないなあ。
そういえば、音感や流れよりも見た目重視で文の良し悪しを判断する人がいるとか。そうかそういう人がいるのか。いろんな人がいるなあ。
≪内容≫
キリスト教の修道士が自らのアイデンティティを確認するため、異端と闘う。というより、それをキリスト教の中に取り込むことによって解決しようとする。キリスト教はそういう異端と相対してもそれを取り込める、それほどの正義を持ち、揺るぎないものだと確信している。だが、その行為の根本にあるのは、みずからの中の異端性に対する無意識のうちの疑義。自らがキリスト教徒であることに厳密であろうとするほど、その部分は大きくなる。その自己矛盾を抱えたまま、表面上は異端である他者を説伏する手段を得るため旅にでる。まず向かった先は、錬金術師のもと。もののけ姫のアシタカ的に言えば「くもりなき眼で(異端者の有り様を)確かめる」ためだった。だがそこでおそろしい出来事に遭遇する。果たしてそれは彼にとって必然だったのか、それとも偶然だったのか。
いったいこれはどういう主題なのか?なにをどう判断すればよいのか?
正直よくわからなかった。
以下、本書の核心に直接触れるので、これから本を読む人は読まないで欲しい。
イスラム教にスーフィーってのがあって、イスラム神秘主義と呼ばれている。イスラムの中では異端とみなされているのだけど、それはこれらの教団の共通点が、「個我からの滅却・解放、そして<神>もしくは<全体>との合一(この境地を「ファナーウ」という)をみずからの体験として追求する傾向がある」からで。
錬金術はエジプトからギリシャを経てヨーロッパへ伝わったのだけど、同じようにイスラム諸国の間にもギリシャを経て伝わったらしく。そのときにグノーシス主義と結びついた。グノーシス主義の宗教としてマニ教がある。彼はそのマニ教が自国で広まっていることに憤りを感じている。一方で、グノーシス主義はキリスト教の中にキリスト教グノーシス体系として紀元2世紀から3世紀頃にはすでに存在していたらしい。このあたりの話は非常に複雑で入り組んでいて、正直よくわからない。
スーフィーと錬金術にも深い結びつきがある。そしてそれは「ファナーウ」とも密接に関係している。関係しているのだがそれもまたちょー難しいのだ。一般常識とかけ離れた教義とか直観の上に成り立ったいるので、かなり深く広く勉強しないとわからない。わっしは少し調べて諦めた。どうも本当にそれを知るためには、修行も必要らしい。ほんとうにそのあたりの本まで20才や21才の若者が読んでたのか?いや、いくらなんでもそれはあり得ないだろうと。そういう合理的な疑念がある。そういう怪しさを鑑みると、この本の時代考証についても、その当時のキリスト教徒や錬金術に対する記述も正しいものかどうか判断しかねるという点が一点。
そして、あるおそろしい出来事を通じて、神秘体験をするのだが、それがスーフィーの「ファナーウ」そのもので。この体験はキリスト教徒の修道士としても決して持ってはいけない自己体験なのじゃないかと思うのだけど。自分を神と同一視したらまずいっしょ?しかもこれって宗教的にすごくネジレてるし。一回転半してあさっての方に着地してるというか。ええっ?て感じで。
まあそこはいいとしても、そういう体験をもった自分に対するあり様として、反省だとか転身だとかなんてなく。いやいや、キミさ、いやしくもキリスト教の修道士としてそれってどうなの?と。一体、自分をどう許したわけ?という結末に対する不満というか胸倉つかんで揺すりたいというかモヤモヤ感が残るという点が一点。いったい自分と対決したの?してないの?キミの矛盾はどうなったの?それでいいんだっけ?と。それって不誠実すぎるだろうと。あるいは、まさかキミ自身があの人と同じ存在であると思っているわけではないよね?と。それこそ不敬そのものなわけで。
まあ、自分は芥川賞作品に対して私小説的な有り様を期待しすぎている点は否めない。
いろんなところで鋭利な観察眼やら表現やらがあって芥川賞を獲ったのはわかるけれど、そのときの選考委員の人達はこのあたりどう評価したんだろう?いちばん大事なとこなんじゃないの?と。さっぱりわからない。誰か解説してくれ!
もうちょっとネットサーフしてみることにする。
後記(2013.03.01)
芥川賞-選評の概要-第120回
自分的には、石原慎太郎氏と宮本輝氏の選評が秀逸。読んでて大爆笑してしまった。
まったく御意である。そうだよなあと笑
でもそれ以上に唸ったのは、トップを飾っている河野多恵子氏の選評。
「学僧は、海苔を干す時に使われる小簾のようなもので、干し上がれば用のないものである。」と言う言葉にコロンブスの卵を見た。すげー。そんな解法があったとは。おみそれしました。
さすが一番上に載っかってるわけだ。
hate vez
ベースラインを聞く耳が出来てない。
なので練習として聞いてみた。
lloy - STALIN 2012.12.27 IMMIGRANT HAUS#16
八ちゃんのベース
そうか八ちゃんのベースってこういうのだったのか。
vez live #07 "悲観する世界に"
セイ一っつあんのベース
うむ、ベースが前に出ると音は締まるけど曲調は暗くなるなあ。なるほど。
こうみてると、vezって1980年代のニューウエイブサイケデリックロック路線なのだろうか?なんかそっち系の音が強い。気がする。しかも、なんだかどうも暗い。暗すぎる。ライブの曲ようつべで聴いてるとつらくなってくる。しんどい。
ヘイトは、blowアルバム以前と以降で違っている感じがするのだけどベースとなってるのは、八田氏とフトシ氏で、greedだったりchairだったり、グランジっぽい暗さはあるのだけど、どこかでメロディアスな部分が露出するところがあって。たぶんそのメロディーの部分がフトシ氏の本性なんだろうと。後期のほうが特にそういう傾向が強く。だんだん曲調もやわらかくなっている。ソロを聞いているとそう思う。
八ちゃんも同じで、東狂黒的な昏い部分とLA LOTTA BABYとかlast summer susieだとか、winterdayなんかのやわらかいメロディアスな部分が共存してて。
初期のもののほうが音的にはすごいと思うのだけど、最近年喰ってきて、昏さがしんどくなって来た。若さというのはどこかに昏さを内包していて、人は多かれ少なかれ、それを内部で醸成しながら成長する。若い時は、そういうのに耐える強さがあったし、それが刺激的でもあったのだけど。
ソロを聞いてからvezを聞いてると、フトシ氏、アサキチ氏とセイイチ氏に合わせ過ぎなんじゃないかと。これだとつらいんじゃなかろうかと。どこかで楽する部分がないと長続きしないと思う。その分ソロの方で埋め合わせてるからいいんだろうけど。なんだかそういうのって不健全だ。
ほっとくとすぐ暗い方へ潜っていっちゃう人みたいだし、みんながそうならそれでいいや的な部分とか。それがもったいなさすぎる。
バンドとして長続きさせて欲しいので、アンダーグラウンドっぽいところから離れて、もうちょっと明るい曲も入れて欲しいのだが。目指せエグザイル!でも越えろ!ワンオクとかでもいいんだけど笑 いやマジでそう思う。
変えるときは大きく変えようとしないとダメだとかよく言われるけど、ほんとに世界目指すならバカみたいな能天気さもバンドには必要だと思うのだが。バーンと一発、アホみたいに明るく突き抜けるフラッグシップになるシングルが欲しいなあ。最低でも武道館もしくは紅白で!なんだったらYANAちゃんは金爆バリの白塗りでもおK笑。グレートYANAとか。でタマに毒を吐くみたいなw みんなそれそれ別バンドと同じじゃつまらないもの。なんかやってくれ!東名阪でやってくれ(←無茶ぶり)
なので練習として聞いてみた。
lloy - STALIN 2012.12.27 IMMIGRANT HAUS#16
八ちゃんのベース
そうか八ちゃんのベースってこういうのだったのか。
vez live #07 "悲観する世界に"
セイ一っつあんのベース
うむ、ベースが前に出ると音は締まるけど曲調は暗くなるなあ。なるほど。
こうみてると、vezって1980年代のニューウエイブサイケデリックロック路線なのだろうか?なんかそっち系の音が強い。気がする。しかも、なんだかどうも暗い。暗すぎる。ライブの曲ようつべで聴いてるとつらくなってくる。しんどい。
ヘイトは、blowアルバム以前と以降で違っている感じがするのだけどベースとなってるのは、八田氏とフトシ氏で、greedだったりchairだったり、グランジっぽい暗さはあるのだけど、どこかでメロディアスな部分が露出するところがあって。たぶんそのメロディーの部分がフトシ氏の本性なんだろうと。後期のほうが特にそういう傾向が強く。だんだん曲調もやわらかくなっている。ソロを聞いているとそう思う。
八ちゃんも同じで、東狂黒的な昏い部分とLA LOTTA BABYとかlast summer susieだとか、winterdayなんかのやわらかいメロディアスな部分が共存してて。
初期のもののほうが音的にはすごいと思うのだけど、最近年喰ってきて、昏さがしんどくなって来た。若さというのはどこかに昏さを内包していて、人は多かれ少なかれ、それを内部で醸成しながら成長する。若い時は、そういうのに耐える強さがあったし、それが刺激的でもあったのだけど。
ソロを聞いてからvezを聞いてると、フトシ氏、アサキチ氏とセイイチ氏に合わせ過ぎなんじゃないかと。これだとつらいんじゃなかろうかと。どこかで楽する部分がないと長続きしないと思う。その分ソロの方で埋め合わせてるからいいんだろうけど。なんだかそういうのって不健全だ。
ほっとくとすぐ暗い方へ潜っていっちゃう人みたいだし、みんながそうならそれでいいや的な部分とか。それがもったいなさすぎる。
バンドとして長続きさせて欲しいので、アンダーグラウンドっぽいところから離れて、もうちょっと明るい曲も入れて欲しいのだが。目指せエグザイル!でも越えろ!ワンオクとかでもいいんだけど笑 いやマジでそう思う。
変えるときは大きく変えようとしないとダメだとかよく言われるけど、ほんとに世界目指すならバカみたいな能天気さもバンドには必要だと思うのだが。バーンと一発、アホみたいに明るく突き抜けるフラッグシップになるシングルが欲しいなあ。最低でも武道館もしくは紅白で!なんだったらYANAちゃんは金爆バリの白塗りでもおK笑。グレートYANAとか。でタマに毒を吐くみたいなw みんなそれそれ別バンドと同じじゃつまらないもの。なんかやってくれ!東名阪でやってくれ(←無茶ぶり)
『日蝕・一月物語』 平野啓一郎
平野啓一郎の本をたて続けに読んだ。
『私とは何か 「個人」から「分人」へ』っていうのを読んで、
芥川賞受賞したデビュー作の『日蝕』を読んだ。
日蝕・一月物語 (新潮文庫)/平野 啓一郎

¥620
Amazon.co.jp
『私とは~』では、まあそういう考え方も対処方法としてあるよねと思ってたのだけど。そしてamazonの書評で好意的なものも概ねそのような感じだったのだが。
『日蝕』を読んでみて、もしかしてこの人は本気でそう思っていたのかと。
ある事象に対して、その事象の結果に対する認識は同じでも、それがどのような原因でどういう過程でそういう結果になったのかという認識が違う。考えるプロセスが違う。そういう人がいる。神を信じるものは、すべてが神の思し召しだと思っているし、その想いにしたがって事象を解釈するわけで。
日常生活においては、表面上はぶつからない。
ようにしている。あるいは相手のことなどほんとは考えていない。
しかし、ある瞬間に、そのクレヴァスが口をあけることがある。
おまえ、そんなふうに考えてたのか?と愕然とする。
そういうことは結構あるわけだけど、それでもなお、関係の修復は可能だったりする。それは同じ時代に、同じ国に生き、同じ社会に属しているから、その人の基盤、プラットホームが同じような形、同じような素材で生成されているからなわけで。
だがしかし、15世紀のキリスト教徒、ドミニコ会の修道士とはどうか?
錬金術が信じられていた時代、多くの迷信に捕らえられていた人たちとはどうか?
そこには、避けることのできない大きな裂け目があるのではないか?
「人」の「間(あいだ)」と書いて人間。
「人」というのが主体であって「間」というのはつけたしみたいなもの。そう思っていたのだけど、人間という存在においては、この「間」というのが主体であって、これがあまりに大きいと、もはやお互いはお互いにとって人ですらなくなる。理解不能の他者となる。
絶望的な断絶。
彼らは私たちをナプと呼び、自分たちと明確に区別した。
ナプ。
ナプとは、ヤノマミ以外の人間、あるいは
人間以下のモノ。
女がひとり、生まれたばかりの子供を弔っていた
子供のなきがらはシロアリの巣の中におさめられている。
シロアリに食べさせたのち、巣ごと焼き払うことで天に送る。
だが、子供をあやめたのは母である女自身だった。
その部族は自らをヤノマミと呼ぶ。
ニンゲンという意味だ。
(from NHKスペシャル ヤノマミ)
安部公房に『人間そっくり』っていう小説がある。あるとき私のもとに「ぼく、火星人なんですよ」とその男が訪れてくる。ただの気違いなのか。だがしかし、押しの強い男の論調に押し流されていくうちに私は自分が「人間」であることを証明しなくてはならないはめになる。いや、まてよ、果たして私はほんとうに「人間」なのだろうか?
間というのは、思考のプロセスである。
原因から結果までを考える道のり。
それが似通った人とだけ、「人間」としての関係が築ける。
彼は意図してこの断絶を書いたのか?
それとも彼は「人間そっくり」な他者なのか。
この人ヤバい。
とにかく自分にとっては黄信号だ。キジルシだ。
これ以上近づくとこっちがやばくなる。この人の本はもう読まないでおこう。
こんなヤツならわかりやすいが苦笑
似て非なるモノというのは自分の存在そのものを危機に陥れる。
アイデンティティの根本をぐらつかせるわけで、人は本能的にそういうものを嫌うように出来ている。自分のドッペルゲンガーを見た人は死期が近いと言うそうだが、それはその人がそういう不安定な状態にあるという危険信号以上の意味はないのかもしれない。他人のドッペルゲンガーを見る人は、人のそういう状態を察知する能力に長けた人なのかもしれん。
それはさておき、脳内の血流の変動による脳の機能の低下によっても引き起こされるらしいので、サブちゃんは一度脳外科でCTスキャンしてもらったほうがいいと思うのだが。
『私とは何か 「個人」から「分人」へ』っていうのを読んで、
芥川賞受賞したデビュー作の『日蝕』を読んだ。
日蝕・一月物語 (新潮文庫)/平野 啓一郎

¥620
Amazon.co.jp
『私とは~』では、まあそういう考え方も対処方法としてあるよねと思ってたのだけど。そしてamazonの書評で好意的なものも概ねそのような感じだったのだが。
『日蝕』を読んでみて、もしかしてこの人は本気でそう思っていたのかと。
ある事象に対して、その事象の結果に対する認識は同じでも、それがどのような原因でどういう過程でそういう結果になったのかという認識が違う。考えるプロセスが違う。そういう人がいる。神を信じるものは、すべてが神の思し召しだと思っているし、その想いにしたがって事象を解釈するわけで。
日常生活においては、表面上はぶつからない。
ようにしている。あるいは相手のことなどほんとは考えていない。
しかし、ある瞬間に、そのクレヴァスが口をあけることがある。
おまえ、そんなふうに考えてたのか?と愕然とする。
そういうことは結構あるわけだけど、それでもなお、関係の修復は可能だったりする。それは同じ時代に、同じ国に生き、同じ社会に属しているから、その人の基盤、プラットホームが同じような形、同じような素材で生成されているからなわけで。
だがしかし、15世紀のキリスト教徒、ドミニコ会の修道士とはどうか?
錬金術が信じられていた時代、多くの迷信に捕らえられていた人たちとはどうか?
そこには、避けることのできない大きな裂け目があるのではないか?
「人」の「間(あいだ)」と書いて人間。
「人」というのが主体であって「間」というのはつけたしみたいなもの。そう思っていたのだけど、人間という存在においては、この「間」というのが主体であって、これがあまりに大きいと、もはやお互いはお互いにとって人ですらなくなる。理解不能の他者となる。
絶望的な断絶。
彼らは私たちをナプと呼び、自分たちと明確に区別した。
ナプ。
ナプとは、ヤノマミ以外の人間、あるいは
人間以下のモノ。
女がひとり、生まれたばかりの子供を弔っていた
子供のなきがらはシロアリの巣の中におさめられている。
シロアリに食べさせたのち、巣ごと焼き払うことで天に送る。
だが、子供をあやめたのは母である女自身だった。
その部族は自らをヤノマミと呼ぶ。
ニンゲンという意味だ。
(from NHKスペシャル ヤノマミ)
安部公房に『人間そっくり』っていう小説がある。あるとき私のもとに「ぼく、火星人なんですよ」とその男が訪れてくる。ただの気違いなのか。だがしかし、押しの強い男の論調に押し流されていくうちに私は自分が「人間」であることを証明しなくてはならないはめになる。いや、まてよ、果たして私はほんとうに「人間」なのだろうか?
間というのは、思考のプロセスである。
原因から結果までを考える道のり。
それが似通った人とだけ、「人間」としての関係が築ける。
彼は意図してこの断絶を書いたのか?
それとも彼は「人間そっくり」な他者なのか。
この人ヤバい。
とにかく自分にとっては黄信号だ。キジルシだ。
これ以上近づくとこっちがやばくなる。この人の本はもう読まないでおこう。
こんなヤツならわかりやすいが苦笑
似て非なるモノというのは自分の存在そのものを危機に陥れる。
アイデンティティの根本をぐらつかせるわけで、人は本能的にそういうものを嫌うように出来ている。自分のドッペルゲンガーを見た人は死期が近いと言うそうだが、それはその人がそういう不安定な状態にあるという危険信号以上の意味はないのかもしれない。他人のドッペルゲンガーを見る人は、人のそういう状態を察知する能力に長けた人なのかもしれん。
それはさておき、脳内の血流の変動による脳の機能の低下によっても引き起こされるらしいので、サブちゃんは一度脳外科でCTスキャンしてもらったほうがいいと思うのだが。