象の夢を見たことはない -115ページ目

リアルな現実 本気の現実

5月の風にTシャツが揺れる
広場のまん中で陽射しが陰る
子犬が飼い主にそっぽを向いている
マーケットでは果物が売れている

リアルな現実 本気の現実

(BY 佐野元春)

一杯のかけそばという話が大衆にうけて、それに対して山田太一氏が「こんな安直な話、少し考えればわかるだろう?」とドラマの作り手としてがっかりしたという話があった。まあ確かにねと思う一方で、いやそれってどこかおかしいと思ってたのだが。 

家電メーカーが苦戦で、次は4Kテレビだって言ってるけど、一般の人は高いお金だしてそんなもの欲しくはないのよって話とこれってどこか似ていることに気がついた。

(1)マーケットでは果物が売れている
なにが売れるか売れないかというのは作品とマーケットの関係でしかない。作品がいかに良いものだろうと、製品が如何にハイスペックだろうとそんなことはマーケットには関係がない。彼らは欲しいものを買い、欲しくないものは買わない。

(2)リアルな現実
今日はなんだか風が気持ちいい日だったから、果物が売れた。それだけの話だ。
農家のことなんて考えているわけはない。たしかに有機無農薬のを買う。そういうお客さんもいれば、そうでないお客さんもいる。だが多くの消費者にとっては、作り手の意識なんて正直どうでもよいのだ。

(3)本気の現実
ものづくりと言う言葉からは、この旧態依然とした考え方の匂いがする。作り手が上なのだ的な。こういう言葉に縛られている限り、なにを作っても同じ結果になるだけのような気がする。

価値は売り手ではなくて買い手が決める。
言葉が伝わるかどうかは、話し手ではなくて聴き手にある。

それを逆転させるには、売り手が買い手になること。
作り手が使い手になること。
話し手が聴き手になること。

簡単なのは自分が楽しくなければ、楽しくはないってこと。
疲れている相手に対してなにをしてあげるかではなく、
自分が疲れていたらどんなことされると嬉しいか、癒されるか。

スティーブ・ジョブズなんて何も新しいものは作ってない。すべては組合せで。
彼がすごいのは、こういうモノがあったらオレは嬉しいってとこからの発想で。
技術的な開発能力がなかった彼にとって、簡単なのが組合せだったということだ。
だから立場を利用して人を使って作らせた。それだけの話。
高尚なものなんていらない。
普段の生活の重荷が少しだけ楽になったり、愉しくなったりすればそれでいい。

自己主張する相手の付き合いなんて仕事だけで充分だと誰もが思ってる。
作り手、売り手、話し手、歌い手、自分が楽になってどうするんだよパンチ!と。
なんで金払っててめえを称賛しなきゃなんねえんだ?ってこと。

折れた翼

理想的な愛の空想にとらわれている。
はぁ、まあやっぱりねってとこなのだけど。
あらためて自分を騙そうとしたけどやはりダメなものはダメだったな。
馬鹿につける薬などないってことだ。
まあそれでもいいや。

マラッカに行ったときにオランウータンのTシャツ売ってる店があって、そこの店主がチャールズ・チャム氏っていう人で、人権や自然保護を目的としたテーマを持っていて。で、そういうテーマで作っているよといわれたのだけど、「はぁー」といって結局なにも買わずに出てしまった。

人権の話も自然保護の話も、実際にその土地へいっていろいろ見聞きしていると身体の中に入ってくる。オランウータンはよくわからなかったけど、人権の話は例えばタマンヌガラのジャングルの中で掘立小屋のような粗末な家に住んでいるマレーシア先住民の人たちを見かけたりすると、その切実さも伝わってくる。

だけど、絵とか芸術と言われるものとそういうのは大体において相性が悪く。
彼は顔を仮面みたいに描いた絵がいいのだけど、どうもそこから人権問題を汲み取るのは自分には難しかった。(リンク先参照)

http://malaysiajp.com/charlescham/works.html

これを見たときに自分の中に起こった感情は人権問題とはもっと別のもので。
不安とか恐怖とかそういったものだ。
むしろ人権問題とは逆で、得たいの知れない人、異質な人に対する恐怖。
東南アジアの作家にはこういう印象の絵を描く人がなぜだか多い。
どこか精神が不安定な子供の描く絵のようなというか。背景がない絵。

それが自分のようなものの目にもふれるのは、西洋人のマーケットに見出される、あるいは好まれる東南アジアの作家が、そういうどこか稚拙でそれでいて根源的な恐怖や闇を抱え込んでいる作品を作る人に限られているからかもしれない。あるいは、彼らが東南アジアに来て、あの夜の路地の奥の闇やそこにうごめくモノを実際に肌で感じるからでもあるのだろうけど。まあそれは置いておく。

そういったわけで、だからどうも言ってることと表現されているものが違うなあと思って、そのまま店を出てしまったのだ。

基本的に芸術家の言葉というのは自分は信用していない。
技術的な解説についてはともかく、それによって何を表現しようとしてたのかなんて全然信じない。彼らの意識なんてものとは全く違うものが作品に出ていることが多いし、逆に作家自身も自意識やら言葉で、自分自身にすらウソだとわからないウソをついている場合があるからで。

だいたい解説がいるような作品は、もう芸術ですらないだろうと。
その人の意識のデッドスポットにあるものが表出している。自分の中の普段意識していないそういうものとそれが共鳴する。だから作品に感動するわけであって。言葉に感動してどうするのさと。

でも言葉についても、たとえば、詩だってそうで、意識の上でこねくり回した詩だったり、マンガのセリフに酔うように、自分の言葉に酔っている感がある詩なんてすぐわかる。これでどうにかしてやろうという自意識がうざい。そういうのはすぐ見える。よほど才能がある人のそれはともかく。

まあ、自分が弱ってるときは言葉に酔うのもいいし、一方ではそういうコテコテのも好きだったりもするのだが。瞳をとじてだの手のぬくもりをだの折れた翼だの、正直安直すぎてアホかいなと思うのだけど、そこにハマったり。きゃりーぱみゅぱみゅの単純なアレにはまるのと原理的には同じだな。聞いてて楽というか。幼児退行してるというか。思考停止を誘う。なんかそういう浄化作用っての?そういうのもどこかで必要だろうと。今の時代はほんとみんな仕事で疲れすぎてるし。リセットしたいわけで。。まあそれも置く。

でも本当の詩は、歌詞もそうだけど、ブツかって砕ける寸前までいかないと出てこないものなんだと思う。だからどこかが壊れかけてるか、壊れてる。

そして、そういうふうな作品というのはもはやその人の意識から切り離されている。少なくとも平和とか自然保護とか人権とかいうものとは違う世界にある。本人の意思にかかわらず。
本人にはそれは決してわからないのかもしれない。

そういうのを見つけたときっていうのはホント震えるのだけど。
最近ほとんどないなあ。死んでるからか。
ちゃんと生きろ!オレ。

どっちが優れているだの劣っているだのなんて結局受け手次第で、その人が癒されたり救われたりハッと気付かされたりすることのほうに意味があるわけで、そんなこと本当はどうだっていい。作者や作品の格なんてほんとはどうでもいいのだ。

老婆心

特定の地質時代に限り生息していた特定の種の化石は示準化石と呼ばれる。
これらは、それぞれの地層の年代決定に用いられるそうだ。

ある特定の時点で起こった劇的な環境変化によって死滅してしまったもの。
死滅せずにその記録が年輪に残る。そういうものもある。
あるいはそれを乗り越えたものは、何処かに同じような性質を持つことになる。

X JAPAN(エックス・ジャパン)は日本のヴィジュアル系ロックバンド。1989年にX(エックス)としてメジャーデビュー。その後1992年に現在のX JAPANに改名。1997年9月22日に解散した。バンギャと呼ばれる世代の人たちがいる。ちょうどこの頃に中学生や高校生であった世代、1972年~1979年生まれの人たちだ。

文部科学省(当時の文部省)の中央教育審議会で、「個性の尊重」が明確に目標として掲げられるようになったのは、1980年代前半のことで。ちょうどその世代の人たちが小、中学生になったころには、教育現場でも、やかましいくらいに「個性を伸ばせ」だとか、「個性的に生きなさい」といわれていた。

しかしながら、その人たちが属する団塊ジュニア世代は人数が多く、したがって画一的な詰め込み教育にならざるえをえなかった。一方でそれを伸ばせと言っている教育者本人もそもそも個性というものがいったい何なのかわかっていなかった。無責任の極みである。だから、それを突きつけられた子供たちは何をどうしてよいのかわからない。

そういう人たちがエスカレータ式に大学生の時をむかえたときには、バブルが崩壊して、卒業するころには不況のまっただなか。就職超氷河期で、就職して自己実現しようと持ちこした個性とやらを伸ばすもへったくれもない。いきなり目の前が崖になっていたわけで。まっさかさまに落ちてデザイア。

しかしながら世間には旧来通りの価値観を持つ大人たちしかいない。そうした世間に対応した自己像を持たざるを得なかった彼らは、自尊心とアイデンティティを守るために本来の自分と切り離した仮面というものを発明することになる。

自分はこの世代よりひとまわり上なのだが、なぜだか、この世代の友達が多く、しかしその中にはこんなふうに仮面をかぶっているという風な人はあまりいない。もっと違った方法で自分を確立しているように見える。実はこのペルソナの話は、平野啓一郎氏の『私とは何か - 「個人」から「分人」へ』っていう本からの引用なのだ。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)/講談社

¥777
Amazon.co.jp

正直彼らの世代がなにをどう感じているのか本当のところは自分にはわからないのかもしれない。わからないけれどもなぜだか妙に惹かれる。彼らの中に自分が解決せずにそのまま来てしまった問題を見て、それをなんとかしようとしている、あるいはなんとかし終わった(ように見える)姿に対し、尊敬とか畏れとか共感とか嫉妬とかを感じているのだろうと思う。それは愛情と呼ばれる感情とよく似ている。

平野啓一郎氏は1975年生まれ。彼は自分を見つめ直しながらこの本を書いているのだが、どうもこの本というのはその世代の人たちにとっては「そうそう。こういうことだよ」と納得できるような本で、同じギャップに、同じ崖に直面しないといけない彼らよりもっと若い世代にとっては、これから世間とうまくやっていくための参考になるような気がする。特に自己愛の傾向が高い人にとっては。老婆心ながら。
余計なお世話だこの野郎!(竹中直人ふう)

メタルな平和

ハローワールド!

深夜だっつーの。なわけで、映画『メタルヘッド』を観ている。
ナタリー・ポートマンってそういや『レオン』で初めて見たのだが、
今育児中だとか。。

早っあせるなにそれ?

『スターウォーズ』とか出てたけど、
自分的には『ダージリン急行』の中の『ホテル・シュヴァリエ』で、かなり驚いた。
うわっ、このコすげえわと。
デコチンが広い女のコって、てか出してるコはやり手で聡明なコが多い(自分比)。
そしていろんな意味で濃い人生歩んでる。やっちゃってる。あの気の強さは人として好きだ。

『ブラック・スワン』で世界的にも認められた女優になったとおもったら、この映画では既に製作に名前を連ねてるわけで。しかも、この映画、地味にスゴイ。



そうだよ。やっぱメタルやらパンクってのはこうでないと。

そういえば、『愛と平和を』って臆面もなく叫んでるロッカーがいて。
自己中の愛と平和ってなんだよパンチ!と思ってたんだけど。この人たちアホかしらと。
この映画観ていて気付いた。

平和にも愛にもいろんなカタチがあるのだと。
年上の悪ガキにいじめられたり便器に顔をつっこまれたり、世界の理不尽さと向き合ったりしながらも、平和っていうのはある。愛というのもある。そういうことだ。
ふぁっっきゅーってことだと。
living the fuckin lifeこそが愛であり平和なのだと。

ならアリだなと。それなら賛成だ。
しゃー、そういうことならオレも叫んでやろう。
堂々と愛と平和を!!
peace be with you!!


ちなみに映画のロゴはメタリカのそれで、ヘッシャーの風貌とタトゥーとかメタリカファンにはヲイヲイ笑って感じらしく。こういう小技を効かせるっていうのがいい監督に必須の条件だと思う。やるな、スペンサー・サッサー。これから注目の監督らしい。

クリムト

クリムト展@愛知県美術館行かず。

どうも県美術館は苦手だ。ビルの中にある美術館っていうのはあまり美術館っていう雰囲気がしないからかもしれない。独立して公園だったりの中に佇んでいる、そういう美術館しか落ちつかない。古い人間だからだろう。

そういう意味もあり、クリムトをいまさら見たい気もしないからもあり。たぶんシャガールも今となってはあまり見たいとは思わない。いまさらながら、これらが二次元的な絵であることに気づく。

クリムトの絵をつらつら眺めていると、やはり医学、法学、哲学の三部作が最高傑作で、以降は金持ちのパトロンのためにっていう絵だなあっていう気がする。むしろそっちより風景画のほうが好きなことを描いている感があっていい。

クリムトと言えば、肖像画がやはり目立つのだけど、背景を装飾にして人物をそれに溶け込ませる。あるいは、服まで装飾的に描いてしまって、肉体の部分だけ、服から露出した部分だけがその中に浮かんでいる。

そういう描き方になったのは、従来の西洋絵画における肖像画の背景が、肖像画の注文主の建物、たとえば、同じウィーン分離派のオットー・ワーグナーやらヨーゼフ・ホフマンやらの近代建築の内装として似つかわしくなかったからでもあるだろうし、もともと装飾の仕事をしていて、かつ古典主義的な絵も上手だったクリムトにとっては、こういう手法を取るのは当然の帰結だったのかもしれない。

だが人物像に較べて、その背景はあまりになんだかやっつけ仕事感があって。あるいは職人的というか。どうもいろいろ見てると飽きてくる。図版で見ている分には、派手だからカッコいいなとおもうのだけど、実際のモノをみるとおや?こんなのなんだっけ?っていう感じもする。なんだか手抜き感があるわけで。

そんなふうな感じで興味がなくなってしまったのだ。

しかし、肖像画の背景というのは難しい。クリムトの絵を見て気になっていろいろ見てたのだが、ハッと気付いた。あのボケ処理。日本の写真から世界へ波及していったといわれるアレってやはり革命的だったのだと。やはり二次元については日本ってすごいんだと思う。クリムトなんかより、光琳のほうがぜんぜん洗練されているし、狩野派の屏風のほうが迫力もある。

次回の愛知県美術館は円山応挙らしい。やっぱクリムトよりそっちかな。どうせクリムト見るなら、エゴン・シーレのほうが危機的で迫力がある。図版でみるより実物のほうがすごいっていうのがないと絵はやっぱりダメだと思う。
ライブがダメなら、いくらCDがよくてもダメでしょう?っていう感じか。 現物主義、即物主義って大事。あるいは、誤魔化しがきかない場所で闘っている。それがカッコいいなあと。特にシーレの水彩画のあの線!あれは天才の描く線だと思う。

ただ、シーレは市美術館で前見たのだけど、「死と乙女」のとなりにココシュカの「風の花嫁」のレプリカだか写真だかがあって。うわっパクリやん。しかもパクったほうが原作より劣ってるやん。シーレ頼むわと。
しかも、それが一番最後に展示してあって。あの展覧会では、それが一番ショックだった笑 あれは学芸員ナイスグッド!だと思った。

ところでクリムトってなんだかどこかに幼児性がある。大人になりきれてない赤ん坊な感じというか。幼児のエロスを感じるというか。フロイトだったら、口唇期的で母子間の愛情がうんぬんとか言いそうな感じで。装飾の中の水玉が幼児性を感じさせるからもあり、彼の普段着が赤ん坊を連想させるからでもあり。やっぱりあの服はそうだよなあと。彼の絵がオタクマンガの題材にもよく使われるのはそういう部分で親和性があるからなんじゃないのかと思わないでもない。世紀末ウィーンからの第二次世界大戦っていう流れの中で、その時代がもつ得たいのしれないモノ(あるいはそれは閉塞感なのか幼児性と結びついた狂気なのか、マーラーもそうだし)っていうのも彼の絵のどこかに感じる気もする。水玉が流行ると戦争が起こる的なうわさ話もこの時代の記憶から来ているのだろう。草間彌生のルイヴィトンとかヤバいよなと笑