AUMについて | ○●ガネーシャの栖〜ヨガとバンスリと〜●○

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バンスリを吹いたりして時間を過ごしています。


哲学分野は別ブロクに引っ越しします。
http://blog.livedoor.jp/yukamangalam/

引き続き怪しいインド哲学の纏め。理屈続きな上、マニアックなので読む場合注意。
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Omとゆう言葉について。
その期限は古代インドで司祭が儀式を行う時に使われていた言葉だと言われています。



私が勉強しているパタンジャリのヨガスートラでの扱いは、
1.27: tasya vachakah pranavah.
"Pranavh"のnavhは新しいとゆう意味。pranavhでOmとゆう言葉を示しています。もしくは、唱える度に新しくなる言葉?的な感覚。だと思う(笑)
直訳すると
"That expresses Om."
(訳:それはオームを示す)

このスートラは、
1.23: ishvara pranidhana va
(直訳:《サマディへ近づくための方法は》神への祈念も)
からの続きなので、パタンジャリのアシュタンガヨガで示される神を言葉にしたのがOmだと言っていいと思う。

このIshvaraの説明は
1.24:klesha karma vipaka ashayaih aparamristah purusha-vishesha ishvara
(直訳:煩悩、行い、行いの結果、行いへの依存、それらを伴わない特別なプルシャをイシュワラと呼ぶ)

サンスクリット語からの私の邦訳が大丈夫なのかは別として…。

私たち誰もが持っている、とゆうか、私たちの純粋な本質であるプルシャの中でも、格別に純粋な特別なプルシャがIshvara。このIshvaraは1.26によるとグルのグル(大変なので直訳は省く!笑)。

ヨガの世界で修行はサットバグル(本物の師匠)の元で行わなければいけないことになっている。師匠から弟子に代々受け継がれてきた教え。それを遡るとIshvaraに辿り着くらしい。
つまり、ヨガの教えを与えてくれる存在でもある。

Ishvaraへの祈念、Omを繰り返し唱えることはヨガの修行への障害を取り除いてくれるとされる。
仏教のある宗派では念仏で極楽浄土に往生出来るそうだけど。ヨガではそんなに甘く無く、Omの復唱や神への祈念だけでは解脱出来ない(笑)
神への祈念はクリヤヨガの一貫で、次の段階に進むための精神の準備にすぎない。

だけど、とても大切。
ヨガの練習をする上で「私が私が」とゆう観念は捨てなくてはいけないのだが、それはけっこう難しい。頑張って専念するほど
「私はこれだけやった」「私はこんなに深い瞑想した」「私のヨガはここまで達した」
とゆう考えに陥りやすい。
これらも全部ヨガの障害になる妄想(笑)
自我を捨てて献身に練習に向かう為には、神への祈念がとても有効らしい。

ヨガは自力本願的なものだとゆう意識があったが。自分の力でやる!とゆう意識自体が自我を伴っているとゆう落とし穴なのかもしれない。



パタンジャリの意味するOmはこのくらいにして、Omとゆう言葉の音について。

ヨガが出来る以前はOmとゆう言葉に上記の意味は無く、単純に音として存在した言葉だった。

一般的に良く言われるように"Om"は本来"AUM"であり、五十音(50なのは日本語だけだけど)の1番最初の音"A"と、1番最後の音"M"と真ん中の音"U"を合わせた言葉。つまり、始まりから終わりまで全ての音を含んだ言葉だとされている。
(AとUをいっぺんに発音しようとするとOになる。)

このような言葉はインド以外でも世界中で崇められていて、私はキリスト教の"アーメン"と仏教の"南無"しか思いつかないが。

とにかくOmは意味を持たなくても音自体に強い力があると言われている。

有名な説明では、
Aの音はお腹に振動し、
Uの音は喉に振動、
Mの音は脳に振動する。

だからOmを唱える練習ではMを出来るだけ長く唱える練習を行う。


また、マンドゥキャ・ウパニシャットによると
Aは起きている状態
Uは夢を見ている状態
Mは深い眠りの状態
に例えられている。

マンドゥキャ・ウパニシャットは手元に無いので直接読んで無いから説明出来ないのが残念。
でも、これはとても分かりやすい説明だと思った。

Omを繰り返し唱えることは私たちの心を静かにして、ネガティブなものを消し去ってくれるもの。
だから一回づつ丁寧に発音し、自分の唱えたOmの音をよく聞かなくてはならない。

ヨガスートラ1.27でpranavhと呼ばれているように、Omは一度唱えるごとに新しくなり、前に唱えたOmとは全く違うもの。それと同時に唱えている自分自身も瞬間ごとに唱える前とは別の存在であることを教えてくれる言葉。

個人主義的なはずのヨガの練習で、自分以外の存在に頼る意味?

よく分からないけれど、私はOmを唱えるのは自分自身の中の神に意識を向けることだと勝手に思っている。

それは、ウパニシャット以降に生まれた一元論に近いのだが。
アートマン(自己の原理)とブラフマン(宇宙の原理)の融合と同じ原理。
自分自身の本質であるプルシャと、イシュワラと呼ばれる特別なプルシャ(Om)、別々に存在しているのかは分からないがイシュワラを祈念する事で自分自身であるプルシャに意識を向けられるのだと。

私はそう思ってる。