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aichanの双極性日記

千歳在住の情けないおじさんです。
双極性2型で喘息で、ブログ〈Zensoku Web〉(https://aichanzw.seesaa.net/)、
note(https://note.com/aichanzw)もやっています。

私は精神障害者(双極性2型障害等)だが、自分がそうなるなんて、なるまではまったく想像していなかった。


若いころから、いずれ認知症になったり、脳梗塞になって半身不随になるだろうということは想像していた。


今のところそうはなっていないが、いずれはなるだろうと今でも思っている。


そうなれば子どもたちや周囲の人に迷惑をかける。


それを避けたいので、若いころから私は70歳で死にたいと思ってきた。


今はもう68歳である。


余命2年である。


障害者や病人になることを誰もが想像すべきだと思う。


そういう想像力がない人は、障害者や生活保受給者などの社会的弱者を見下す。


彼らが障害者や生活保受給者になったらどう言うつもりなのだろうか。


誰もが皆、その「想像力」を持ち、社会的弱者になることを覚悟し、社会的弱者に寄り添う生き方をしてほしい。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+2.5キロ。

日本人は、長い単語をよく短縮させたり省略したりする。


最近の若者は特にそうだが、短縮語(省略語)を作るのは昔からだ。


例えば「軍手」がそうだ。


これは「軍用手袋」の略語である。


「食パン」ももとは「主食用パン」と言われていた。


「切手」も「郵便切手」を短縮させた言葉である。


「教科書」も「教科用図書」を略した言葉である。


「就活」「携帯」「プリクラ」「チューハイ」もみな短縮後(省略語)だ。


短縮語(省略語)を作ったり使うのは若者が多い。


30年くらいも昔、まだ保育園生だった息子が「むずい」と言ったので、どこかむず痒いのかなと思ったら、「難しい」の短縮語だと知ってびっくりした。


「きもい」(気持ち悪い)も使うようになり、日本語はこの先どうなるのだろうと暗澹となった。


それからというもの、短縮語(省略語)は加速度的にどんどん増えていった。


最近の若者はもう何でもかんでも短縮させる。


「キャパシティがいっぱい」のことを「キャパい」と縮める。


「メロメロになるくらい好き」は「メロい」と言うそうだ。


「タピる」は「タピオカドリンクを飲む」ことらしい。


LINEなどでは「了解」のことを「りょ」とか「り」と打ったりするらしい。

 


〈最近の若者言葉。それらの言葉の意味を知っている年配の方はいるだろうか〉


私がいま通所しているデザイン専門の障害者就労継続支援B型事業所では、プロ仕様のデザインソフトであるイラストレーターやフォトショップを「イラレ」「フォトショ」と呼ぶ。


私が編集会社に勤めていた20年以上前は、みんなちゃんと「イラストレーター」「フォトショップ」と呼んでいた。


だから、初めて「イラレ」「フォトショ」という言葉を聞いたときは、「短縮はここまで及んだか」と呆れてしまった。


言葉、特に単語を短縮させるのは日本人だけだろうか。


欧米では、言葉そのものを短くすることはないようだが、単語の頭文字を並べて「USA」とか「FBI」とか「CIA」とか「EU」とか言うことは多い。


あ、「Tyrannosaurus rex」を「T-レックス」とも言うな。


でもこれは単語の頭文字を取った短縮語だ。


ああっと、「Japanese」を「Jap」と短縮することはあった!


とすると、欧米語でも短縮語や省略語があるのだろうか。


英語に詳しい人から、以下のことを教えてもらった。

BTW:By The Way(ところで)・ICYMI:In Case You Missed It(見逃した方のために)・ASAP:As Soon As Possible(なるべく早く)というように Clipping(単語の一部を切り取って短くする)は、昔から数多くある。 
Refrigerator → Fridge(冷蔵庫)、Bicycle → Bike(自転車)、Telephone → Phone(電話)、Examination → Exam(試験)などもそうである。
また、Blending(2つの単語を合体させた新しい語)もある。 
Breakfast + Lunch → Brunch(ブランチ)、 Smoke + Fog → Smog(スモッグ)、Emotion + Icon → Emoticon(顔文字)等もある……。

言葉が短くなる傾向は日本語に限らないのかもしれない。


ただし、日本人ほど短縮させたり省略することは多くないのではないか。


日本語の場合は、単語の頭文字を並べる略し方は少ないように思う。


思い出そうとしても、そういう日本語は出てこない。


では、日本人はなぜ言葉を短縮させるのだろうか。


林翠芳という人のまとめた「日本語に見られる省略現象とその文化背景に関する一考察」にはこうある。


「日本語に見られる省略の表現方法は言語の特徴を特徴を表していると同時に、その濃厚な文化的な色彩をも反映し、日本社会の文化と習俗慣習の表れの一つである。日本語の欠点は、表現が曖昧で十分に言い尽くされていない感じを受けると言う人もいるが、実際、省略は日本人のコミュニケーションにおいて一種の以心伝心の表現方法となっている」


「特に日本語の口語表現において、省略現象は巷にあふれ、成山重子(2009)によれば、日本語の省略現象は68.7%にのぼるという。一方、英語はわずか15.4%である」


英語にも略語が15パーセント以上あるというのは、たぶん前述した「USA」や「FBI」などのことだろう。


英語の単語を短縮したら、何の意味なのかさっぱりわからなくなると思う。


その点で日本人は特殊、というか日本語は特殊なのかもしれない。


上の論文にある「日本社会の文化と習俗慣習の表れ」という見方には納得させられた。


「以心伝心」とか「表現が曖昧」とか、そういう日本人の特性と日本語の特性により、短縮語を作りやすいのかもしれない。


日本語では「主語」(近年は「主格」と呼ぶ。欧米語の「主語」とは違うからだ)を省いても意味が通じる場合が多々ある。


そういう点でも日本語は特殊なのだが、短縮語を作ってそれを使っても相手に意味が通じるという不思議な言語なのだろう。


日本語は面白い。

 

 

【ダイエット記録】目標達成体重より+1.5キロ。

 

金、今、昆、今野、紺野、金野といった姓が日本にある。


この姓のルーツは、金帝国(1,115年~1,234年)を興した女真(ジュシェン)族にあると私は思っている。


女真族はツングース系で、牧畜や狩猟ととも漁労や農耕も行っていた。


金を建国する前の女真は、満洲(マンチュリア)の地域、すなわち現在の遼寧省、吉林省、黒龍江省、ロシア連邦の沿海州(外満洲)という広い地域に住んでいた。


司馬遼太郎の『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅〈1〉』に、こういう記述がある。


西村真次という人物(たぶん研究者)の著書からの引用だ。


「ツングース族(中略)は(中略)南下の航海を試みた。(中略)蝦夷島を発見して高島付近に門番〈オトリー小樽〉を置き、(中略)秋田地方に出たものは(中略)鮭の大漁に喜んだであろう。そこを彼等は鮭(ダワー出羽)と呼び慣らし(中略)彼等は日本海に沿うて南下し、佐渡を経て、越後の海岸に来り、(中略)出雲附近まで進んで行つたであろう。かうした移動を、私はツングース族の第一移住と呼んでゐる。これは紀元前1,800年から1,000年くらいの間に行はれたと思はれる」


ツングース系の、いわゆるオホーツク人が今の北海道の特にオホーツク沿岸にやってきたのは、遺跡からわかっている。


前出の引用文のように彼らが北海道だけでなく本州にまでやってきていたとしたら、そしてその時期が「紀元前1,800年から1,000年くらいの間」だとしたら、本州に住んでいた縄文人と混血しただろう。


その後裔がアイヌ民族だと私は考えている。


それはさておき、冒頭に書いたように、「金」を想像させる姓は、金帝国と無縁ではないと思う。


金帝国の人々は漢民族化し、漢字を使うようになった。


国の名前に「金」と付けたのは、女真族が金を特別な存在として敬っていたからかもしれない。


金帝国は、120年ほどでモンゴル族に滅ぼされた。


そのとき多くの女真族が日本列島に逃げてきたのではないか。


それ以前から日本はすでに漢字を取り入れて漢字と漢字から作ったヒラガナやカタカナで文章を書いていた。


日本列島にやってきた女真族たちは、「金」の字を見て喜び、多くの人がそれを姓にしたのではなかろうか。


また女真族は、17世紀になって愛新覚羅(アイシンギョロ)氏出身のヌルハチがまた中国に進出して「金」を名乗る王朝を興した。


これは「後金」と呼ばれる


後金は、1,636年にホンタイジによって「清」と改称され、大帝国を築いた。


日本人は「清」を「シナ」と読んだ。


中国ではそれに近い発音をしていたのかもしれない。


と思っていたが、それよりずっと昔にインドなどから中国を訪れていた貿易商人は中国を「シナ」と呼んでいたことを最近知った。


大航海時代になって中国を訪れた西洋人が「シナ」という国名を聞いて「China」とでも書き、それが英語圏では「チャイナ」と発音されるようになったのかもしれない。


日本は「清」の最後の皇帝を擁して満洲国という傀儡(かいらい)政権を建てた。

 


〈「清」の最後の皇帝である愛新覚羅溥儀〉


このときも、多くの女真族やその子孫が日本列島に渡ってきたと思われる。


彼らは、祖先がそうしたように自分たちの姓を「金」にしたのではないか。


けれど、ただの「金」では外国人だと知られしまい、不都合があったのかもしれない。


日本人には島国根性を持つ人が多いせいか、外国人と接するのが苦手な人が多いし、露骨に嫌う人もいる。


そのくせ舶来物には目がない。


不思議な民族である。


それで「今」とか「紺」とか「昆」とか「今野」とか「紺野」とか「金野」といった日本風の名前にしたよう思う。


私の亡母の旧姓は今野だから、もしかすると祖先は大陸から来たのかもしれない。


故今東光は、天台宗大僧正であり参議院議員もやり小説家としても活躍した。


この今東光の「今」ももとは「金」だったのではないかと思う。

 


〈今東光〉


私のこの推理は間違っているだろうか。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+1.6キロ。

慶長17年4月13日(1612年4月13日)、豊前船島(巌流島)で、作州牢人・宮本武蔵と豊前小倉藩剣術指南役の巌流・佐々木小次郎が闘った。


いわゆる巌流島の決闘がそれである。

 


〈巌流島に建てられている決闘の像〉


とされているが、決闘は実際にあったものの、その内容には諸説ある。


武蔵は牢人だが小次郎は小倉藩の剣術指南役であり、闘いは小倉藩が認めた公式試合になった。


なので、試合が行われたのは確かである。


そして、武蔵の一撃で小次郎が倒れたのは確かなようだが、どんな展開でそうなったのかいろいろな説があってわからない。


この試合の後、船島は巌流島と呼ばれるようになったが、負けたほうの剣術家の流儀名が使われたのも少し不思議だ。


武蔵は二刀で闘ったとか櫂(かい)を削って作った木刀で闘ったとか、小次郎は常識はずれの長刀で闘ったとか、小次郎が負けた場合は弟子たちが武蔵を殺すため、近くの彦島で待機していたとか、そのことを予測していた武蔵は試合が終わったら関門海峡の速い潮の流れに乗ってさっさと姿をくらましたとか、いろいろな話が伝わっていて、どれが本当なのかわからない。


武蔵が二刀で闘ったというのは、武蔵の作った流儀である二天一流に二刀の型が遺っているからだろう。


「武蔵といえば二刀流」という話が相当に広まっていたのだと思う。


しかし武蔵の書いた『五輪書』には、二刀を使うのは片手で刀を扱えるようにするためだと書かれている。

 


〈『五輪書』〉


そう、武蔵は片手斬りが得意だったようだ。


真剣は重さが1キロもあるので、片手では容易には振り回せない。


1キロといえば野球のバットと同じくらいの重さである。


野球のバットを片手で軽々と扱うには、よほどの力がいる。


武蔵はよほど体力に恵まれた男だったようで、真剣を片手で容易に扱えたようだ。


でなければ、「片手で刀を扱えるようにするため」などとは書かないだろう。

 

武蔵は身長五尺七、八寸あったと言われている。


180センチ近い、当時としては大男だったわけだ。


それに加え、天性のパワーも備わっていたのだと思う。


(武蔵の時代より少し前の斎藤道三の孫の義龍は2メートル近い身長があったようだし、武蔵と同時代の秀吉の子とされる秀頼は2メートル近かったと言われている。そういう大男がときとして出たのだろう。ちなみに、秀吉は小男だったので、秀頼は淀殿の血を引いたか、秀吉以外の男との間に子をもうけたと思われる。淀殿を側室にするまで秀吉は正室にも側室にも子を作らせることができなかったのに、淀殿を側室にするとすぐ子が生まれたからだ)


とすると、小次郎との勝負のときも片手斬りで倒したのかもしれない。


小次郎が本当に長刀遣いだったとしたら、櫂を削ることで小次郎の長刀より長い木刀を作り、しかも片手でそれを扱えば物干し竿と言われた小次郎の長刀が届かない遠い間合いから攻撃できただろう。


とすると、「櫂を削って作った木刀で闘った」という説を信じたくなる。


先日、「“合気”という言葉を使った初めての人物は宮本武蔵だ」という話を聞いた。


「合気とは水上の胡芦子である」と、武蔵の書いたものに残っているという。


“葫芦”はコロと読み、ひょうたんの別称で、そして夕顔の漢名だそうだ(「西葫芦」と書けば、それはズッキーニのことらしい)。


それに“子”が付いている。


どういう意味なのかわからない。


まだ成熟していない瓢箪のことだとしたら、それが水に浮いている状態が“合気”だというなら、ますますわからない。


水の上に漂うような状態を指しているのだろうか。


そう考えれば、力を使わないで相手を倒す“合気”と何か関係があるような気もするものの、でもやっぱりよくわからない。


けれど、“合気”という言葉はちゃんと書いてあるわけだ。


私は合気道を5年くらい習ったが、“合気”についてはまったくわからなかった。


今でもわからない。


そもそも合気道開祖の植芝盛平が“合気”を会得していなかったようだということを最近知り、だとしたら合気道を習ったとしても“合気”を会得できなくて当然だったとも思う。


合気道の技の多くは、相手の手首や肘や肩の関節を極めて、関節が曲がらない方向に押してやって相手を投げる。


投げるというより、関節を極められて痛くて痛くてその痛さが逃れるために相手が自分から回転してしまうのだ。


だから、はたから見ると相手がわざと投げられているように見え、「合気道はヤラセだ」などとインチキ呼ばわりされる。


しかし、その点ではインチキではなく、合気道は優れた武術なのである。


ただ、“合気”を使う技がないのは確かだと思う。


本当の“合気”は、合気道の源泉である大東流合気柔術にはあるようだ。


大東流合気柔術は武田惣角が中興の祖として活躍し、多くの武術家や無頼漢や暴力団と戦って不敗だった。


植芝盛平はその武田惣角から短期間だけ教えを受けた人で、そんな短期間で“合気”を会得できるほうが、考えてみると怪しい。


大東流合気柔術は今でもあり、武田惣角の直弟子で少し前に亡くなった佐川幸義氏は武田惣角以上に強かったらしい。


佐川氏は“合気”について弟子に伝授しなかったが、弟子の中には修行の末に“合気”を会得した人もいるようだ。


合気道でも、素質のある人は“合気”を会得できるらしい。


佐川氏は、相手と正面からぶつかると相手の力は百だが、横に回れば相手の力はゼロになるとも言っていたそうだ。


それは“合気”とはあまり関係ないように思うが、実戦に活かせる知識ではある。


“合気”を会得したらしい人の書いた本を読むと、相手に掴まれたりした場合に全身の力を抜くと相手の力も抜けるという。


そうなってから一瞬で技をかければ相手を自在に扱えるそうだ。


それがどう“合気”と関係しているのかはわからないが、“合気”を会得するとそれで相手を容易に倒せるらしい。


剣術で“合気”を使うとどんなメリットがあるのだろうか?


武蔵が“合気”を会得していたとすれば、無敵だったことと何か関係があるのかもしれない。


ただし、若いころの武蔵は片手斬りなど体力や腕力にモノを言わせて戦ったので、“合気”を会得したのは晩年だろうと思う。


晩年の武蔵は大名などに招かれて試合をしてみせたりしたが、武蔵は力を使うことなく相手を押していって「参った」と言わせている。


武蔵の気迫が相手の戦意を喪失させたとも考えられる。


それが“合気”だと武蔵が思っていたのだとしたら、それは間違った認識だろう。


“合気”はそういうものではないと思うからだ。


ただ、昔の武術家たちは常に敵に囲まれて生きていたから、神経が研ぎ澄まされ、もしかすると多くの武術家が“合気”なるものを修得できたのかもしれない。


武蔵が本当の“合気”を知っていたとしたら、どんな敵と戦っても負けることはなかったと思う。


話を戻す。


また、佐々木小次郎の出自がほとんどわかっていない。


小倉藩剣術指南役だったとしたら出自くらい残っていそうなものだが、それさえない。


冨田勢源の弟子と伝わってはいるが、とすると武蔵との試合のときには老人だったと考えるしかない。


『宮本武蔵』を書いた吉川英治はそのことで小次郎をどう描くか迷ったそうで、結局は冨田勢源の弟子の弟子ということにし、巌流島の決闘のときは20歳前後で前髪が取れていない若武者にした。


しかし、20歳にもなって前髪が取れていないのはおかしいし、その年齢で小倉藩剣術指南役になったのも信じられない。


ただ、冨田勢源は小太刀の達人だったので、小次郎は長刀を持ってその稽古の相手をしたという説もあり、それで小次郎は長刀遣いになったと吉川英治は推測していて、それは信じてよさそうな気もする。


まあ、いくら推測しても事実には辿り着けないだろう。


なので、今日はもうこのへんで巌流島の決闘について書くのをやめる。

 

と思ったが、武蔵は決闘の時刻にわざと遅刻して小次郎を苛立たせて勝利したのだから「卑怯」だと言う人がいるが、昔の決闘にルールなどはなく、何をしてもよかったので、武蔵が「卑怯」だという指摘は当たらないということを書いておきたい。

 

昔の剣術家は、刀を使うだけでなく、中には鎖鎌という特殊な武器を開発して使ったり、相手を蹴っても殴ってもよかったし、組み合いに持ち込んで相手を投げつけて関節を極めて倒すことも普通に行なった。

 

要は相手を倒すことを目的にしていたので、新兵器を使ってもよかったし戦術を使って相手の神経を苛立たせて勝つことも「卑怯」ではなかった。

 

今の剣道は「面」と「胴」と「小手」と「突き」しか認められず、しかも「面」を打つときは「メーンッ」と叫んでから打たないと「一本」にはならない。

 

こういうスポーツと昔の剣術とはまるで違うのだということを強調しておきたい。

 

もうひとつ書いておくと、武蔵よりもずっと昔の武将の義経も「卑怯」と言われた。

 

当時の武士は一対一で名を名乗り合ってから戦うのが普通だったのに、義経はその方法を取らず、騎馬による集団戦法で平家を倒した。

 

日本人で初めて騎馬による集団戦法を行った画期的な武将なのである。

 

また義経は、壇ノ浦の戦いで平家の船の「漕ぎ手に矢を射ろ」と部下に命じ、たじろぐ部下を叱咤して漕ぎ手を次々と矢で殺させた。

 

当時は漕ぎ手を攻撃してはならないというルールが暗黙のうちに武士たちの中にあったのだが、義経はそれをぶち壊したのだ。

 

実際の闘いはスポーツではないからルールなどなく、「何でもアリ」なのだ。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+2.5キロ。

 

 

両親のことを書く。


父はもう94歳になるのにまだ死なない。


母は10年くらい前に亡くなった。


父と母は同い歳だから、母は84歳くらいで亡くなった。


その母が生前、父についての不満を彼女の姉や妹にもらしていた。


父は異常なほどの潔癖症で、「消毒石鹸」というのをいつも用意していて、それで何度も手を洗うのだった。


潔癖症というのは強迫性障害のひとつで、日常生活に支障が出るほどなら病気と言える。


父はその病気レベルだった。


変な人だなと、幼いころから私はそう思っていた。


その潔癖症ゆえだと思うのだが、父はセックスするのを好まなかったらしい。


それで母が不満を抱えていたようだ。


さらに父は早漏で、そのことでも母は姉と妹に不満をぶつけていた。


私がそんなことを知ったのは、母の姉や妹から私の姉がその話を聞き、姉が私に教えたからだ。


その話を聞いて、父のことを不甲斐なく思うと同時に、母の口の軽さと軽薄さに呆れた。


私は女性を喜ばせるのが好きで、女性がイクまでは我慢してセックスしていた。


特に若いころは遅漏だったので、女性が何回もオーガズムに達するのを見てこの上ない喜びを感じたものだ。


挿入してからも1時間も2時間もイケないので、女性が疲れ果てて「もういいいよ」と言うことがよくあった。


しかし父は、セックスに嫌悪感を抱いていたようで、それで女性を喜ばせることなく、さっさとイッていたのだろう。


もしかすると、女性がオーガズムに達するときの姿を見たくなかったのかもしれない。


または、女性の粘液(愛液)が嫌いだったとも思える。


潔癖症だからだ。


40歳を過ぎると父は母にほとんど触れないようになったらしい。


私が中学生のとき、男子用便器に精液のかたまりが、流れずに残っていた。


私の家族は両親と私と妹ふたりだったので、便器に静液を発射できるのは私か父だけだった。


私はそんなところでマスターベーションをする趣味はなかったので、射精したのは父だとわかった。


「母さんがいるのに、なんで父さんは?」と私は不思議に思った。


後になって思えば、父にはまだ性欲があったのに、母とのセックスを避けていたのだと思う。


母の不満は募った。


それからしばらく経って、ある小説で幕末の佐賀藩藩主の鍋島直茂(後の閑叟〈かんそう〉)が私の父と同じく無類の潔癖症だったことを知った。

 


〈鍋島直茂〉


側室と寝て、ことが終わると手水(ちょうず)で何度も手を洗ったという。


昔は水道なんかなかったので、窪んだ石や穴を削った石に竹筒などで井戸水を貯めて手水にしたりした。

 


〈手水〉


閑叟は、その手水がひとつだけでは足りないと侍女たちに言い、いくつもの手水を作らせ、順番に手を洗っていくのを習慣にした。


「消毒石鹸」なんてものが当時あったら、閑叟は喜んでそれを使いまくっただろう。


その閑叟が正室を迎えることになった。


初夜、閑叟はいつものように、ことが終わるといくつもの手水で次々と手を洗った。


側室は身分の低い女性たちだったので、殿様の閑叟にそんな行為をされても何も言えなかったが、正室は身分の高いところから嫁入りした女性だったので、閑叟のその行為を見て驚き、そして腹を立てた。


それを知った侍女頭は、「お殿様、ご行為の後にいつものようにお手水をお使いあそばされましたか?」と聞いた。


閑叟は当然のように、「そうしたが、それがどうかしたか?」と聞き返した。


侍女頭は、「以後はお慎みあそばしますように」と頭を下げた。


それで閑叟は、自分の行為が正室を不愉快にさせたことに気づいたという。


この潔癖症は、前延したように生活に支障が出るほどなら今では病気だと認識されている。


治療もできる。


抗うつ薬による薬物療法とか認知行動療法(心理士によるカウンセリング)とか磁気刺激療法(TMS)で治療を行う。


磁気刺激療法というのは、脳に直接アプローチしてシナプスの働きを整える革新的な治療方法で、うつ病治療にも有効らしい。


しかし、父が母と結婚した彼らが若いときはもちろん、彼らが40歳になったときでも今から50年以上も昔で、潔癖症が病気だと認識する人はいなかったし、治療法もなかった。


そもそも病気だと認識されていなかったし、だから治療できるものだとは誰も思わなかっただろう。


しかし、今は違う。


前述したように病気と認められられているし、治療法もある。


かく言う私も、そういう知識を得たのは最近のことだ。


父が母に触れることもなくなり、それだけが理由ではないだろうが、60歳を過ぎたくらいのころに離婚した。


母から求めて離婚した。


父と母はよく喧嘩して、父は母をよく殴っていた。


母は酒好きで社交的な人だったが、父は酒嫌いで社交が苦手な人だった。


そういうことでも母は父に不満を抱いていたのだろう。


それで離婚を決意したのだと思う。


そのころには私はすでに実家から遠く離れた札幌に住んでいたし、元妻がいい顔をするはずがないと思い、母を引き取ることができなかった。


母はひとり暮らしを始めた。


それからの母は、友達とよく酒を飲んだり、踊りにいったりしていた。


母は酒のほかにダンス好きで、高校生になった私にダンスの基本を教えてくれたりした。


私がまだ幼いころ、母はよく食卓に座り、家計簿を付けたりしていた。


ずっと付けているわけではなく、しばしば顔を上げて遠い眼差しになり、何かを考えていた。


そういう母を見て幼い私は、幼いなりに母は幸せではないのではないかと思っていた。


母はときどき、自分の娘時代のことを私に話してくれた。


母の父親が満州鉄道に勤めたため母は幼いときに満州に渡った。


母は、朝鮮人や中国人たちと仲良く遊んだこと、冬は広大な土地が一面氷に覆われ、みんなでスケートをして楽しんだことなどを、実に懐かしそうに私に話してくれた。


そして「あのころは良かった」とよくつぶやいた。


母が亡くなって葬儀を執り行ったとき、私は喪主として挨拶に立った。


ありきたりの挨拶をするつもりで、殴り書きのメモを見ながら私は話はじめた。


話しながら、「違うな」と思った。


もっと話すべきことがある、話すべきことは違うことだと思った。


母は幸せとは言えない人生を歩んだ。


食卓テーブルに肘を付きながら「あのころは良かった」とよく言っていたのは、幸せだった娘時代に戻りたいということだったのではないか。


挨拶をしながら、私はそのことに気づいた。


そして、死んで娘に戻れたのではないかとも思った。


そのことを話すべきだと思ったが、うまく言葉にできず、挨拶はありきたりなものになってしまった。


母の人生が幸せではなかったというのは、こういうことだ。


戦局が怪しくなってきて、母の一家は満州から日本に引き上げた。


母の父親は博打にのめり込んで大きな借金を背負った。


そのため母は、姉と妹とともにキャバレーに売られた。


母はそこで知り合った男と交際し、私の姉を産んだ。


母の妊娠を知った男は東京に逃げ、その後を母が追った。


その後をさらに私の父が追った。


そのころ父は母に目を付け、求婚しようとしていたらしい。


逃げた男の行方はわからず、あきらめて母は故郷に帰ってきた。


その母に父は猛烈にアタックした。


母が自分ではない男の子どもを宿していることを知りながら、父は母を自分のものにしたかった。


母はやがて女の子を出産した。


私の姉である。


それでも父は母へのアタックをやめなかった。


「連れ子がいてもいい。俺と一緒になってくれ」と懇願した。


その言葉を信じて母は求婚を受け入れた。


「昔の父さんは情熱的だったんだけどなあ」と、高校生の私に母が言ったことがある。


その情熱は、結婚すると次第に冷めていった。


その一番の理由は私の姉の存在だった。


父もその両親も、私の姉を嫌い、無視した。


いたたままれなくなった母は、私の姉を実家に預けた。


しかしすぐに母の母親が死に、私の姉は知り合いの年寄りに預けられた。


その年寄りもかなりの高齢だったから、母はやむなく私の姉を養女に出すことにした。


姉は小学2年のときに、新しい両親の家に引き取られていった。


姉はすべての事情を知っていた。


実の母が誰なのか、どうして知らない家に行かなければならないのか。


すべて知りながら、運命を受け入れた。


その話を私が知ったのは高校2年のときだ。


母から聞いた。


それまでは姉のことを母の妹だと聞かされ、それを信じていた。


ずいぶんトシの離れた妹だなとは思ったが、まさか自分の本当の姉だとは露ほども思わなかった。


どうしようもない鈍感男だった。


私の姉を養女に出そうと考えたとき、母は、なぜ父と離婚して姉と暮らす選択をしなかったのかと思った。


おそらく母は、父と暮らすほうが経済的に幸せになれると思ったのだろう。


私は、私の姉を嫌い無視した父のことも憎く思ったが、自分のことを優先して実の子を養女に出した母のことも憎く思った。


(このりあたりのことは、〈Zensoku Web〉の「小説・柿の木旅館」に詳しく書いている。また「note」にも投稿している)

 


〈〈Zensoku Web〉の「小説・柿の木旅館」〉


話がそれた。


戻そう。


そんなふうにして父と母は結婚し、私のほかにふたりの子どもを作った。


とすると、やることはやっていたのだと思う。


ただ、鍋島閑叟のように、ことが終わると「消毒石鹸」で盛んに手を洗ったのではないか。


父は女性に偏見を持っていて、「女は男より欲が深いから女には気を付けろ」というようなことを子どものころの私によく言っていた。


もしかすると、軽い女性恐怖症だったのかもしれない。


すでに男を知っていて性行為に積極的な母と行為に及ぶことに、父はどうしても積極的になれなかったのではないか。


母のことが怖かったとも考えられる。


性行為にはもともと淡白だったところにそういう気持ちがあったため、さっさとイッてしまっていたのかもしれない。


前述したたように潔癖症だったことも関係していると思う。


性行為をすれば、お互いがお互いの粘液でまみれる。


父にとってはそれが一番嫌だったのかもしれない。


今の時代のように潔癖症が治療できたなら、父と母は、もっとうまくやっていけたかもしれない。


潔癖症の方、今は治療ができるのだから、ぜひ治療してください。


じゃないと、パートナーとうまくやっていけませんよ。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+1.2キロ。

私がまだ子どもだった60年から50年くらいまで、どこの家にも風呂敷(ふろしき)があった。


何かを持って出かけるとき、人はみな風呂敷にいろいろな物を包んで持ち歩いた。


バッグとか鞄もあったはずだが、昔の人はそれよりも風呂敷を多用した。


風呂敷は今でもあるが、使う人は少ないのではないかと思う。


風呂敷は、物を包み持ち運んだり収納したりするための正方形に近い形の布である。

 


〈昔の風呂敷は唐草模様のものが多かった〉


では、その風呂敷はなぜ「風呂敷」と呼ばれていたのか?


調べてみると、以下のようなことがわかった。


「起源は定かではないが正倉院の所蔵物にそれらしきものがある。古くは衣包(ころもつつみ)、平包(ひらつつみ)と呼ばれていた。風呂敷の名称は、日本の室町時代末期に大名が風呂に入る際に平包を広げその上で脱衣などして服を包んだ、あるいは足拭きにした等の風呂にまつわる説、“風呂”の語源となった茶の湯で道具として用いられる風炉に由来するとの説などの諸説ある。 言葉自体の記録としては、駿府徳川家形見分帳の記載が最初のものとされる。その後、江戸時代になり銭湯の普及とともに庶民にも普及した」


諸説があって、風呂敷の語源は定かにはなっていないようだ。

 

何となくだが、風呂に関係があるように思えるので、大名が風呂に入る際に使ったから風呂敷と呼ばれるねようになったのかなと思う。


風呂敷はただの布なので、物を包んで運ぶだけでなく、例えば下駄や草履の鼻緒が切れたりしたら、風呂敷を破って鼻緒にできたりしたので、それで昔の人は風呂敷を重宝したのだろう。


今はみんな靴を履くので、鼻緒が切れて歩けなくなるなんてことはない。

 

昔の泥棒は、盗んだものを唐草模様の風呂敷で包み、かついで逃げた。

 

旅をする人たちなどは風呂敷を背負って歩いた。

 


今は風呂敷を使う人が減り、風呂敷を使う人を見ることが稀になった。


風呂敷には包み方があって、子どものころ私もやってみたが、ちょっと面倒だったので覚えるのをやめてしまった。


だから、風呂敷で包めと言われても正しく包む自信がない。


そのうち風呂敷はなくなってしまうような気がする。


いや、オシャレな柄の風呂敷が今はたくさん出ているし、使い方も工夫されてきているから、今後も残るかもしれない。

 

〈最近の風呂敷。さまざまなデザインのものがあり、使い方も多様になっている〉

 

〈和服を着た女性が今風のデザインの風呂敷を今風の使い方で持つ姿は美しい〉

 

女性が今風のデザインの風呂敷を今風に使うことが増えているらしいので、あるいは、すたれるどころか人気になるかもしれない。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+1.4キロ。


〈オープンカーに乗ってダラス市内をパレードするケネディ夫婦〉


ケネディ大統領暗殺の犯人は、リー・ハーヴェイ・オズワルドだということで決着している。


ケネディがダラスで演説するためオープンカーに乗って街を巡っていたとき、突然、銃声が轟いてケネディの頭部が粉砕され、脳みそがクルマの後部に飛び散った。

 


〈銃撃の瞬間〉


この事実から、ケネディを狙った暗殺者はオープンカーの前方から発砲したと思われる。


事実、オープンカーの前方にあった立て看板のところから銃声が聞こえた、そこから白い煙が上がったという目撃情報が多数あった。


銃撃直後、ファーストレディのジャクリーン・ケネディ・オナシスは、クルマの後方に向かって身を乗り出した。


ケネディの頭部から飛び散った脳みそを拾うためだったと言う人がいるが、そうではなく、銃弾の飛んできた方向とは逆に逃げようとしたのだと私は思う。


このことからも、銃弾はオープンカーの前方から発砲されたと考えていい。


もし、教科書倉庫にいるオズワルトが射殺したのなら、ジャクリーンがその方向に体を持っていったのはおかしい。


人間の心理として、銃弾の飛んできた方向に逃げることはあり得ない。


ところが警察は、事件発生直後にオープンカーの通り過ぎたところに建つ教科書倉庫に踏み込み、そこにいたオズワルトを逮捕した。


オズワルトのいたところにはライフルがあり、発砲した痕跡が認められた。


それで警察は犯人はオズワルトだとさっさと決めつけた。


そのオズワルトは、警察に連行されるとき、地元の実業家でマフィアと深い関係にあったジャック・ルビーに射殺された。

 


〈警察に連行されるオズワルト。この直後に射殺された〉


この事件を調査したウォーレン委員会は、ケネディの後頭部から入った弾丸はケネディの体の中をぐるぐる巡り、後方に飛び出たという荒唐無稽な「診断書」をもとに、「教科書倉庫からオズワルトがケネディを暗殺した」と決めつけた。


つまり、オズワルトはケネディの後方から撃ったのに、その銃弾は不思議なことにケネディの前方に飛び出すことなく、何と後方に飛び出たと結論づけたわけだ。


おそらく、ケネデイの遺体を解剖した医者たちが、政治家か誰かに圧力をかけられてそんな不思議な「診断書」を書いたのだろう。


大統領が暗殺されたので、その時間に飛行機に乗っていた副大統領のリンドン・ジョンソンが飛行機の中で宣誓して次の大統領になった。

 

神父が一緒に乗っていたから宣誓ができたのだが、エアフォースワン(当時はそうは言わなかったかもしれない)には常に神父が乗っているのだろうか?


このことからジョンソンが裏で暗殺を計画したのではないかとも言われた。


ケネディはベトナム戦争を終わらせようとしていた。


ベトナム戦争が始まって大儲けしていた軍需企業や、その企業と深い関係にあったマフィア、そこから多額の寄付を受けていた政治家たちの陰謀とも考えられた。


ジョンソンはそうした政治家のひとりだったので、ジョンソンが怪しまれたわけだ。


またケネディはCIAの権威が高まりすぎたことを憂いていたので、それを快く思わないCIAの犯行だという説を唱える人もいる。


いずれにしても、ケネディ暗殺事件が起きてすぐダラス警察は教科書倉庫に飛び込み、そこにいたオズワルトを逮捕した。


まるで犯行を前もって知っていたかのようである。


パレードのコースが直前に変更されたのも、怪しいと言えば怪しい。

 


〈パレードコースは直前に変更された〉


これらのことから、政治家かCIAかマフィアがケネディ暗殺計画を練り、オズワルトを犯人に仕立て上げて幕を下ろしたと考えるのが自然だと主張する人もいる。


ケネディ暗殺計画を練った連中は、都合のいいことにオズワルトが旧ソ連やキューバ(どちらも共産主義国家)と深い関係があったことから、そのオズワルトを使ってケネディを銃撃させれば、旧ソ連などの犯行とみせることもできると考えたと言う人もいる。


どの説が本当なのかはわからない。


ただ、ケネディの頭部を貫いた銃弾はオープンカーの進行方向から発砲されたことは確かで、オープンカーの後方に位置していた教科書倉庫から発砲されたものではない。


つまり、オズワルトもケネディを狙って発砲したのかもしれないが、その銃弾がケネディを殺したのではないことは確かなのである。

 


〈ライフルを持って立つオズワルトの写真。事件後に公開された。しかしこれは合成写真だと専門家が鑑定している。「オズワルト犯人説」を強調するため作られたのだろう〉


アメリカ国立公文書記録管理局(NARA)は、2025年にケネディ大統領暗殺事件に関する政府文書およそ1000点を公開した。


しかし文書数が膨大すぎて解析がまだ進んでいない。


さらに、すべての文書が公開されたわけではないようだ。


その文書からは、おそらく真実は導き出されないだろう。


真実が公開されるのを、アメリカの多くの政治家や企業が嫌がっているのだ。


とすれば、旧ソ連の犯行ではなく、アメリカ国内の誰か(複数の組織だと思う)が暗殺を計画し、暗殺屋を雇ってケネディを銃撃したのだと思う。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+1.8キロ。

 

 

昨年あたりから教員による盗撮が増えている。


小中学校の教員が、女子トイレの中や女子更衣室に小型カメラを仕掛けて撮影したり、階段を上がる女子生徒のスカートの中をスマホで撮影するケースが増えた。


スマホではなく、ボールペンみたいな形をした小型カメラが今ではあり、それを使って盗撮するやつもいる。

 


〈ボールペン型の小型カメラ/公然と売られているのだ〉


盗撮は教員に限ったことではなく、一般人や警察官などまで行うようになっている。


自分ひとりだけでやるのならまだしも、撮った写真や動画をネットに流したり仲間内で共有したりすることもある。


そういうことや痴漢などをするのは、女性に積極的に接近する勇気がない人や、大人の女性相手だと見付かった場合に「セクハラだ!」と騒がれるのでそれを避けるためか、もともと大人の女性に興味がなく、子どもの女性に興味がある人たちに多いと思う。


その中でも、大人の女性に興味がない男が増えている気がする。


男が幼稚化しているのか、大人の女性と接することが苦手な男が増えているのではないか。


近年は女性の権利が強くなり、男に対して上から目線になる女性が増えた。


そういう女性は扱いにくいから幼い女の子の下着を見て我慢しようということになっているのか?


あるいは、教員や警察官などは縛りの多い世界で働いていて、気軽にキャバクラやソープに行ったりできない。


それで鬱憤(うっぷん)がたまるのだろうか。


いずれにしても、性犯罪者は、他の犯罪者より再犯率が高い。


捕まってもまたやってしまうわけだ。


とすると、ひとつの病気にかかっているとみて、治療に類する何らかの対策をほどこすことが必要になってくる。


また、それらの“病気”が育った環境によるとしたら、子どもの生育環境がどうなっているのか、例えば児童相談所に大きな権限を与えて各家庭の子育てについて詳しく調べることもやるべきなのではないか。


プライベートに関わることだからそれは難しいだろうが、子どもがどういう環境で育てられているのかをきちんと調べていないと、おかしな大人に成長してしまう人が増えるので、何らかの方法でそれをするべきだ。


監視カメラを増やして盗撮ができないようにするといった対策では、そういう性向を持つ人はいなくならない。


そういう変質者に育たない子育てが必要になる。


国や行政が家庭に介入するのは「やりすぎ」かもしれないが、子ども相手の性犯罪を減らすにはそれもやむを得ないことなのではないかと思う。


ここでは「子どもの女の子相手の性犯罪」について書いたが、成人の女性も盗撮されたりセクハラされたりすることが増えている。


セクハラは昔のほうが多かったと思うが、今はセクハラに対して世間が厳しいからセクハラはしないで、その代わり盗撮したりするのだろうか。


また、自分の思うようにならない女性に対して殺意を抱いて殺してしまうケースも増えていると感じる。


これはおそらく、その男の育った環境によると思う。


男性も女性も、小さいときからお互いを尊重し合うように教えて育ててあげることがとても重要なのではないかと思う。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+1.7キロ。

〈釈迦の誕生日とされる4月8日には「花まつり」が行われる〉

 

今日は釈迦の誕生日らしい。


釈迦がいつ生まれたのか学者の中でも定説がないのに、誕生日が4月8日だと、誰が言いはじめたのか不思議だけど。


宗教、特に仏教について私は何度も書いてきた。


釈迦の死後4百年から千年以上も経ってからできた大乗経典は釈迦の教えではない、それら大乗経典を依りどころにしている“仏教”は仏教ではないと。


釈迦の時代、インドには文字がなかった。


彼の死後、百年くらいして文字が使われるようになった。


そのとき釈迦の孫弟子やひ孫弟子たちが「第一回結集(けつじゅう)」を開き、釈迦の教え(声。「経」は声を意味する)をまとめた。


それが後に小乗経典と呼ばれるようになる仏典である。


雑阿含経とも呼ばれる。

 


〈雑阿含経〉


そこに書かれている釈迦の「声」は、厳しい修行の果てに「悟達して苦を克服しろ」という内容だ。

 

インドでは紀元前13世紀からカースト制度という厳しい身分制度があった。

 

バラモン(祭司)、クシャトリヤ(武士)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(奴隷)に分けられていた。

 

釈迦の時代(紀元前5世紀ころ)、インドでは苦行をして生きる苦しみから逃れようとする人たちがたくさんいた。

 

〈自分の体をわざと痛めつけ、苦しい姿勢を続けるなどの「苦行」〉

 

その多くは、シュードラ階級の人たちだったのではないかと思う。

 

シュードラの階級の人たちは、それほど苦しんでいたのではないか。

 

釈迦は今のネパールの釈迦族の王族出身と言われているが、それは怪しいなと私は思っている。

 

けれど、シュードラの出身ではないことは確かなようだ。

 

釈迦がどの階級だったかはわからないが、苦しみから解放されるにはどうしたらいいか知りたいために、出家して今のインドで初めは苦行をした。

 

しかし「こんなことをしても無駄だ」と気付き、苦行をやめ、すべての欲を遠ざけ、瞑想するようになった。

 

それであるとき、世の中のすべては移ろうもので実態はない、であればそれにとらわれる必要はないと悟った。

 

すべての欲からも完全に解放され、人間の最高の境地をつかんだ。

 

〈釈迦は菩提樹の下で瞑想中に悟った/手塚治虫の「ブッダ」より〉

 

〈悟達した釈迦はすべての欲から解放された/手塚治虫の「ブッダ」より〉

 

そんな釈迦を人々はブッダ(悟った人の意味)と呼んだ。

 

この「ブッダ」を中国人が「仏陀」と表記し、そこから「仏」という言葉が生まれた。

 

だから釈迦の教えは「仏教」と呼ばれるようになった。

 

ちなみに英語圏の人は仏教徒を「ブッディスト」(Buddhist)と言う。

 

話がそれたので戻す。

 

釈迦が厳しい戒律を自分にも弟子たちにも課したのは、苦行を経験したことと無縁ではないと思うのだ。

 

釈迦は苦行をしても苦しみから解放されないと思ったのだが、移ろうものに心をとらわれたり欲に身を任せたりしたら、厳しい修行の妨げになると考え、苦行にも似た厳しい戒律を守る生き方を選んだのだと思う。

 

それを弟子たちにも強いたのだろう。

 

それで初期仏教は戒律をやかましく言った。

 

そうすれば「悟達」できて苦しみから解放されると信じて弟子たちは努めた。

 

ところが、あらゆる煩悩を遠ざけて「悟達」できるなんて人はまずいない。


「そんな教えでは広めていけない」と後世の弟子たちは考えたのだろう。


それで、経典を誦んで仏像を拝めば即身成仏できるとか、前世の罪悪を消滅できるとか、ご利益が得られるとか、釈迦が聞いたら唖然とするような内容の経典をでっち上げた。


それが大乗経典である。


インドで生まれた釈迦仏教はすたれ、後世の弟子たちはインドやシルクロードで大乗経典をこしらえた。


そこで釈迦仏教は第一次の大変化をしたわけだ。


それが中国に渡ると第二次の変化をした。


仏壇をこしらえてその中に仏像を安置し、線香を焚いて鈴(りん)や木魚を鳴らしてお経を上げる形になった。


遣隋使船や遣唐使船に乗って中国に渡った僧たちは、中国語に翻訳された経典を書き写して持ち帰り、また中国の僧たちの行う修行方法も持ち帰った。


日本に持ち込まれた最初の経典は小乗だった。


それらは奈良の寺々で研究され、僧たちは戒律の多い小乗的な修行をするようになった。


その後、大乗経典が持ち込まれると、日本天台宗や真言宗ができた。


当時は天皇が国を治めていた。


天変地異が続々と起こって天皇は頭を悩ませていた。


日本天台宗や真言宗ができたのはそんなときだった。


天台宗は最澄が中国の天台山から持ち込んだ宗教で、もともと大乗経典の中では法華経が最も優れていると見ていた最澄は、その法華経こそが釈迦の真実の教えであると考える中国天台宗に学びに行きたかったのが実現したわけだ。


もっとも最長が中国にいたのはわずかな期間で、その間に弟子たちとともに経典を大急ぎで書き写しただけのようなものだった。


真言宗は空海が創始した宗教で、その依りどころとしている大日経は最も遅く作られた大乗経典である。


それは釈迦の教えとはまったく関係なく、インドのバラモン教やヒンズー経の教義や儀式を取り入れたものになっている。


紙に絵を描いた曼荼羅を拝んだり、護摩を焚いて祈祷するという、釈迦仏教はもちろん、正統な中国仏教ともまるで違っていた。

 


〈護摩を焚いて祈祷する真言宗の僧〉


どちらも即身成仏が可能だという教義を持っていた。


現生利益を得られるとも説いていた。


天皇は日本天台宗と真言宗に目をつけた。


それら“仏教”が国家鎮護の宗教になると思ったわけだ。


特に真言宗は、加持祈祷によって雨を降らせたりやませたりすることができると説いていると知り、それこそが日本を救うものだと天皇は飛びついた。


こうして日本天台宗と真言宗は日本の“仏教”の総本山的な存在になった。


しかし、それら宗教は国家のためのものであり、民衆のものにはなっていなかった。


鎌倉時代になると、民衆のための“仏教”が続々と輩出した。


浄土宗、日蓮宗、禅宗などがそれだ。


浄土宗は大乗経典の阿弥陀経を依りどころとする宗教で、南無阿弥陀仏と唱えていれば死ねば極楽に行けるという教義を持つ。


日蓮宗は天台宗と同じく法華経を第一とする宗教で、その教義は他の仏典を信じてはいけないという激しいものだ。


日蓮宗は南無妙法蓮華経と称えれば即身成仏でき、多くの現生利益に恵まれると説いた。

 

(「妙法蓮華経」は「法華経」と同じ経典を漢訳したものだ。「法華経」と名づけたのは三蔵法師として有名な玄奘三蔵、「妙法蓮華経」と名づけたのは鳩摩羅什というインド人である。「南無」とは「帰依する」「命を預けるの」の意味)


禅宗は「不立(ふりゅう)文字」を訴え、経典に依らないで禅を組んで悟達を目指すものだった。


それら宗教はいくつかに分かれ、浄土宗から浄土真宗が生まれたり、日蓮宗から多くの宗派が生まれたりした。


禅宗はもともといくつかの宗派があった(臨済宗や曹洞宗など)。


中国に渡った何人かの僧が、それぞれ別の禅宗を名乗った。


この中で禅宗は釈迦の教えに近い。


悟達を目指すものだったからだ。


しかし、江戸期になって檀家制度が始まって国民がみなどこかの寺の信者にされると、寺は信徒たちの葬式を行ったりするようになる。


それで禅宗の僧たちも信徒のために葬式などを行うようになり、経典を誦むようになった。


他の日本“仏教”もそうで、みな葬式仏教に成り果てていった。


寺々は墓地まで作るようになり、そのため信徒に金を払わせて墓石を立てるようになった。


それ以前は人が死んでもその遺骨や死体を寺が引き取るということはあまりなかった。


街の郊外に死体を捨てたりしていたようだ。


墓なんて、そのへんの石ころを置く程度だったのではないか。


釈迦の時代ともなると、死んだら焼いて遺骨を川に捨てるのが普通だったようである。


だからなのか、釈迦の墓など存在しない。


あるとしても、どこにあるのか誰も知らない。


人が死んでも葬式をするということもなかったようだ。


まして信徒から金を取るなどということはなかった。


釈迦は言っている。


「よく戒律を守っている者だけが布施を受ける資格がある」と(小乗経典)。


戒律とは、女性と交わったり盗みをしたり嘘を付いたり殺生したり楽しむことなどをしてはならないという厳しい内容である。


むろん妻帯して家庭を持つことなど許されなかった。


日本“仏教”で初めて妻帯したのは親鸞である。

 


〈親鸞〉


親鸞は浄土真宗を建てた僧で、公然と妻を娶った。


ここから日本“仏教”の堕落が激しくなった。


(ちなみに親鸞は「弟子一人ももたず候」と書き残していて、教団を作ることを否定していた。これは立派である。しかし弟子たちはいくつもの派に分かれて教団を作った)

 

室町時代の禅僧である一休は、女犯(にょぼん)の戒だけでなく肉食や飲酒までし、自分の草庵に連れ込んだ女性に子どもを産ませたと伝えられている。

 

「女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む」

 

などという歌まで詠んだ。

 

アニメの一休さんからは想像もできない破戒僧だったのだ。

 

堕落した日本仏教を批判・風刺したとも言う人がいる。

 

そうだとしても、ほかに方法があったのではないか。

 

一休は、女性の愛液にまみれることに無上の幸福を感じるというようなことも言い残しているようなので、スケベなただの破戒僧だと言っていいと思う。

 

〈一休〉

 

今では、ほとんどの日本“仏教”の僧たちは妻帯を許されているのではないか。


女性と交わることのできなかった昔の僧たちは、寺の稚児を相手に性欲を発散させていた。


昔は同性愛(特に男性の場合)が大目に見られていたから、僧たちも当たり前のように男相手に性行動をしていたのだろう。


本当は女性と恋もしたいし結婚もしたいと思っている僧にしてみれば、この戒律が一番きつかったのではないか。


その戒律から解放された。


女性と交わってはならないという戒律は、キリスト教などの他の宗教にもある。


そういう世間欲を捨てなければ本当の修行ができず、また人々の尊敬を集められないので教団を存続させることが危うくなる。


それで僧たちは我慢して戒律を守ってきたのだろう。


けれど、戒律がいったん破られると、崖崩れのようにも教義はもろくも崩れ去る。


親鸞が妻帯すると他の日本“仏教”の僧たちも妻帯するようになり、江戸期になって日本人がみな仏教徒になると日本“仏教”はこぞって葬式仏教になり、死人に戒名を付けて金を取り、葬式でお経を誦んで金を出させ、墓を買わせてまた金を出させる。


(こんな坊さん連中に金を出すなんてアホらしいし、葬式をしてもらっても無駄だと思うので、私は「遺書」に「葬式無用、戒名不要」と書いた)


こうして寺々は金で潤うようになり、するともっと潤いたくなり、僧たちは信徒に対して「もっと布施を」と求めるようになっていく。


中には寺の中でギターを弾いて歌ったりと、音楽を楽しむ僧まで現れた。

 


〈ギターを弾く僧〉


音楽はその字の通り「楽」しむものなので、これも仏教の戒律を破っている。


『ビルマの竪琴』という昔の映画は太平洋戦争中の物語では、ビルマ(現ミャンマー)の小乗仏教の僧が竪琴を弾く(若いころの中井貴一がその僧を演じている)。

 


〈『ビルマの竪琴』〉


小乗仏教は戒律が厳しいので、音楽を楽しむことは許されていなかったはずだ。


もし本当の話なら、その僧は破壊僧だっただろう。


宗教団体の中には、幼稚園や大学などの教育機関を経営していたり、出版社を経営していたりしているところも多い。


そして、それらはみな無税である。


宗教団体がなぜ無税になるのか不思議である。


誰がなぜそんなふうにしたのか?


ボランティアばかりするのなら無税でもいい。


しかし多くの宗教団体は金儲けをしている。


それが無税でいいわけがないと思う。


宗教団体からもちゃんと税金を取るべきだ。


無税なのをいいことに、いよいよ儲けることばかり考えている僧や宗教団体もい(あ)る。


大乗経典を信じているので彼らの宗教は仏教とは呼べないが、彼ら僧たちが釈迦の弟子だと思っているなら、「よく戒律を守っている者だけが布施を受ける資格がある」という釈迦の言葉を思い出して自分を戒めるべきだ。


しかし、釈迦仏教は現代では広まらないだろう。


悟達を目指そうと考える人が少ないだろうし、目指してもまず無理だろう。


そう考えると、日本“仏教”の僧たちは仏教を名乗らずに、新しい宗教として出発し直せばいいと思う。


ただし、現生利益とか功徳とか即身成仏だとか死ぬと仏になるとか極楽に行けるとか、釈迦が聞けば卒倒するような、いや冷静な頭で科学的に考える人間が「おかしい」と思うような教義は捨て去らないといけない。


そんなエサで信徒を釣るのは詐欺である。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+2.0キロ。

 

 

私は作家の原田マハが大好きだ。

 


〈原田マハ〉


美しい文章をつづるし、素晴らしい物語をつむいでくれるからだ。


マハさんを大好きなのは、それだけが理由ではない。


原田マハ作品には沖縄を舞台にしたものが多いせいだ。


いま公開されている映画『風のマジム』はマハさんの同名小説を映画化したものだし、『カフーを待ちわびて』も『太陽の棘』も沖縄を舞台にした作品だ。

 


〈『風のマジム』〉

 


〈『カフーを待ちわびて』〉

 


〈『太陽の棘』〉


沖縄に対するマハさんの温かい眼差しに私は強く共感するのだ。


沖縄は、昔は琉球王国という独立国だった。


それを薩摩の島津氏が滅ぼし、以来、薩摩藩は琉球で育つサトウキビから取れる黒糖を奪うようにして自分のものにし、莫大なカネを貯めた。

 


〈島津斉彬〉


その後、島津斉彬という名君が出てそれらのカネを西洋技術の導入に使い果たしたが、有能な家臣がいて薩摩藩の金蔵はまた満ちた。


その多くは琉球から搾取したカネだろう。


このカネで幕末の京での勢力を高め、討幕へと進んだ。

 

(島津氏は琉球を征服すると人々から武器を取り上げた。このため琉球の人々は、唐から伝えられていた拳法をもとに唐手〈トウディ=後の空手〉を作り上げたと言う人がいるが、唐手は「唐」の「手」と書くように唐の時代から琉球に伝えられていたので、島津氏に征服されて武器を取り上げられたから云々というその説は違うと思う。ただし、人々が唐手の習得に力を入れたのは間違いないだろう)


明治政府ができて琉球は沖縄県として日本に加えられた。


しかし、本土の人間たちの中には沖縄県民を本土人ではないからと差別視する人が多かった。


明治になると政府は日清戦争をして清国に勝利し、日露戦争でも(かろうじてだが)勝利した。


この戦勝に日本国民は大興奮した。


日本は「神が守ってくれる国だから不敗だ」と国民は思ってしまった。


マスコミが扇動したせいもある。

 


〈日露戦争に勝って熱狂する日本国民〉


昭和に入ると、その国民感情を利用し、陸軍参謀本部が暴走し、議会に無断で日中戦争を始めた。


ついにはアメリカと戦うべきだと言い出し、ハワイ真珠湾攻撃から太平洋戦争になった。


太平洋戦争末期にアメリカ軍は沖縄に上陸し、凄惨な殺戮を続けた。

 

の沖縄戦で、沖縄県民の何と4分の1が亡くなった。

 


〈沖縄戦〉


軍幹部は「本土決戦」をするための時間稼ぎになると言って沖縄を見捨てた。


昭和天皇も、「仕方なかろう」と言ったと伝えられている。


日本が敗戦しても、沖縄は犠牲になりつづけている。


米軍基地が沖縄のあちこちに置かれていることを知らない人はいないだろう。


米軍は県民の土地を勝手に取り上げて各地に基地を作った。

 


〈沖縄県の米軍基地〉


日本政府は、そのほとんどを沖縄に押し付けて知らんぷり。


それら基地から飛び立ち、戻ってくるジェット機などの騒音は生半可なものではない。

 


〈沖縄の米軍基地から飛び立つジェット機。住宅街の上スレスレに飛んでいる〉


米軍兵士による悪逆非道な犯罪も頻発した。


アメリカは、日米安全保障のためだとか言い、日本に「思いやり予算」と呼ばれる多額のカネを払わせている。


アメリカは、反共の砦として沖縄に基地を置きたいのだ。


いくら戦勝国といえども、敗戦国の土地に勝手に基地を作って地元民に迷惑をかけていいものか。


沖縄言葉は現代日本語とずいぶん違ったものに聞こえる。


しかし、ある学者は「古代日本語が沖縄に渡って四百年経って今の沖縄弁ができた」と発表した。


沖縄言葉を聞いたり読んでいると、確かに日本語の名残がそこここに感じられる。


前述した『風のマジム』の「マジム」は「真心」(心のことを沖縄では〈ちむ〉と言う。それに〈真〉を付けて「マチム」となり「マジム」と発音されるようになった。つまり「マジム」とは真の心の意)、『カフーを待ちわびて』の「カフー」とは「果報」を意味する沖縄言葉である。


「辺野古」(へのこ)も、「尖ったところ」という意味で日本各地で今も使われている。


だいたい沖縄県民は、日本列島の先住民族だった縄文人の末裔だと私は思っている。


縄文人は概して小柄で毛深く、顔の彫りが深く目が二重である。


沖縄県にはそのような人が多い。


アイヌ民族も似た外見を持っている。


縄文時代末期に、主に朝鮮半島から大量の人々が日本列島に渡来した。


その数、古墳時代までに70万人にものぼったという。


彼らは北九州、近畿地方に主に入り込んだ。


そのせいで、そこに住んでいた縄文人の多くは南へ北へと追われた。


南に追われたのが沖縄県民の祖先で、北に追われたのがアイヌ民族の祖先だと思う。


つまり、沖縄県民とアイヌ民族は日本列島の先住民族である縄文人の末裔なのだ。


なのに、本土人は沖縄県民とアイヌ民族を今でもどこか偏見視している。


アイヌ民族はロシア沿海州やサハリンから南下してきたオホーツク人とだいぶ混血したようで、だから彼らの言語は今の日本語とかなり違って聞こえる。


ただし文法は同じで、単語には古代日本語の名残が少し見られる。


例えば「能登半島」の「ノト」がそうである。


北海道には「能取岬」(ノトロミサキ)、「ノシャップ岬」、「野付半島」(ノツケハントウ)という地名がある。


いずれも半島や岬などの突き出たところに付けられた名前だ。


これはアイヌ語の「ノト(あるいはノッ)」(「突き出してしているところ」の意味)から来ていると思う。


この「ノト」から「能登半島」という地名ができたのだと思う。


また、話し言葉のイントネーションは沖縄弁のそれと似ている。


アイヌ民族は今は北海道でも「アイヌ」と呼ばれるが、北海道民なのだからそんな呼び方はやめるべきだ。


沖縄に話を戻そう。


沖縄は、今も本土の犠牲になっている。


アメリカが辺野古に基地を作ると決めたとき、住民が反対運動を起こし、現地に集まって抗議した。


そのとき、本土から多くの警官が派遣されて沖縄県民の前に立ちはだかった。


その中の警官のひとりは、ひとりの沖縄県を足蹴にし、「この土人め!」とののしった。

 


〈辺野古基地反対の抗議運動〉


彼にとって沖縄県民は日本人ではなく土人なのだろう。


というか、沖縄を日本ではないと思っているとも言える。


こんな奴は、特に右翼に多い。


今の自民党は右翼だらけである。


今後も沖縄は犠牲になりつづけるだろう。


そう思うと、沖縄と沖縄県民を差別視する奴ら、沖縄を日本ではないと言い張る奴らを蹴り倒してやりたい。


同時に、沖縄と沖縄県民に、申しわけない気持ちでいっぱいになる。


そういう感情があるので、沖縄に対して特別な眼差しを持っている原田マハが大好きなのだ。

 


《付記》
『風のマジム』は実話をもとにしたサクセスストーリーである。
主人公の伊波まじむのモデルになったのは、「グレイスラム」社長の金城祐子さんである。
金城さんは、勤めていた沖縄電力のベンチャーコンクールに、「沖縄産サトウキビで作る沖縄産ラム酒を造りたい」と考え、それを企画にして応募した。
その企画が見事に通り、金城さんは沖縄の離島である南大東島のサトウキビを使ったラム酒製造会社(グレイスラム)を南大東島に立ち上げた。
「グレイスラム」の「グレイス」には、自然の恵み、感謝の意、豊穣の女神という意味がある。
その「グレイス」という名を冠した金城さんの会社は、環境にやさしい微農薬栽培のサトウキビからラム酒を造っている。
その酒の名は「コルコル」。
「コルコル」とはサンゴの王冠のことである。
南大東島は珊瑚礁が隆起してできた島で、しかも周囲が高く内部は低地になっていて、王冠のような形と言ってもいい。
それで、南大東島で生まれたラム酒に「コルコル」の名を付けたのだろう。
原作では、生まれたラム酒の名を「風のマジム」にしている。
原作者の原田マハさんが、南大東島に行って強い海風を体験し、金城さんに会って「沖縄を愛する真心」を感じたから、そう名付けたのだと思う。
私は数年前、ネットで「コルコル」を注文して飲んでみた。

(最初アクセスしてみたらみんな売り切れていて、しばらく経ってからまたアクセスしてようやく注文できた。いまネットを見ても「コルコル」は大評判のようで「売り切れ」ていることが多い。飲んでみたい方は早めに注文したほうがいい)
原作や映画で描かれているような「黒糖の香り」はしなかった。
私の期待が大きすぎたせいか、それほどおいしいとは感じなかった。
カクテルにすればきっとおいしいと思うけど。

 


〈金城祐子さん〉

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+1.6キロ。