aichanの双極性日記

aichanの双極性日記

千歳在住の情けないおじさんです。
双極性2型で喘息で、ブログ〈Zensoku Web〉(https://aichanzw.seesaa.net/)、
note(https://note.com/aichanzw)もやっています。


〈日本書紀〉


「日本書紀」によると、垂仁天皇のとき、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)という人物が今の敦賀に上陸した。


頭にツノがあったので「ツヌガアラシト」(ツノがある人?)と呼ばれたのだろう。


おそらく武人がツノのある兜をかぶっていたのだと思う。


彼は朝鮮半島から来たらしい。


この「ツヌガ」が訛って今の敦賀の地が「ツルガ」と呼ばれるようになったという。


そのことを敦賀出身の友達に話すと彼はその故事を知らなかった。


敦賀の市民も知らないのかと私は少し驚いた。


都怒我阿羅斯等は日本に聖王がいると聞いて朝鮮半島から渡ってきたらしい。


それで都怒我阿羅斯等は垂仁天皇に数年仕えたという。


このことからもわかるように、朝鮮半島と日本は昔から交流が盛んだった。


日本の天皇の祖先が朝鮮半島の王族出身だといわれているのもうなずける。


宮内庁は、天皇の陵墓と比定されている古墳の発掘調査を許していない。


調査されると天皇の祖先が朝鮮半島出身だとバレるからだと憶測する人がいる。


私もそのひとりだ。

 


〈世界最大の古墳「大山古墳」。仁徳天皇の墓だといわれているが証拠はない〉

 


〈架空の天皇である神武天皇墓まである〉


宮内庁は主に「日本書紀」の記述から各天皇の陵墓だと比定したが、「日本書紀」に書かれてある歴代天皇のうち、十代天皇までは架空だと断定されている。


十一代からは実在した天皇もいるが、その天皇の墓がどの古墳なのかは、「日本書紀」を読んでも確定はできるものは少ない。


それを宮内庁は無理やり比定した。


宮内庁は天皇陵墓の発掘調査を許し、研究者たちは天皇のルーツを明らかにすべきだ。


朝鮮半島出身でも全然かまわないではないか。


だいたい、今の大阪人のDNAだったか何かは今の韓国人のそれとほとんど同じだという。


弥生時代に入って古墳時代まで70万人もの人々が朝鮮半島から日本に渡ってきて主に関西圏に移住した。


今の関西人が現代韓国人とほぼ同じDNAを持っているのは当然なのだ。


天皇だって同じなのではないか。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+3.4キロ。

日本は唯一の被爆国である。


広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなった。

 


〈原爆が投下されてキノコ雲が上がった広島〉


この死者数は昭和20年末までの数字で、被曝してその後亡くなった人も多い。


亡くならないまでも、重い病気で多くの人が苦しんだ。


そのため、「日本が核廃絶を訴えるのはどの国が訴えるより力がある」のは事実だろう。


大量の核兵器を持つアメリカやロシアや中国が「核軍縮」を他国に呼びかけても説得力など皆無である。


だから日本が核廃絶に向けて行動するのはとても大事なことだと思う。


だけど、と考えてしまう。


日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争で、日本軍はどれだけの他国人を殺害しただろうか。


特に日中戦争では、日本軍は中国市民に対して虐殺・放火・略奪・強姦をしまくった。


満州では、731部隊が細菌兵器や毒薬を開発し、主に中国人で人体実験をした。


つまり殺した。


その数はハンパではないと言われている。

 


〈731部隊の一部〉


戦後起きた「帝国銀行事件」は、731部隊の生き残りか、日本国内で毒薬等を開発していた部隊の生き残りの仕業だったとみられている。


なぜなら、犯人が銀行職員に飲ませた青酸化合物は、そのふたつの部隊で開発された特殊な毒薬だったからだ。


そのため警察は初めは彼らのことを追った。


しかしアメリカが細菌兵器に関する情報を得たいがために、GHQが警察に圧力をかけた。


やむなく警察は別方向に捜査を方向転換させ、薬の知識などない画家の平沢貞通を逮捕して、死ぬまで刑務所に入れた。

 


〈冤罪で逮捕された平沢貞通〉


それは余談。


話を戻す。


正確な数は不明だが、南京では日本軍が中国軍兵士だけでなく一般市民まで「大量虐殺」したとも言われている。

 


〈南京に侵攻して勝ち誇る日本軍兵士たち〉


ナチスドイツのフォロコースト(ユダヤ人虐殺)よりはマシかもしれないが、大量の中国人を殺したのは事実だ。

 


〈フォロコーストが行われた施設とユダヤ人女性たち〉


戦後、ドイツは、犠牲になったユダヤ人の家族にきちんと謝罪し、賠償金を出した。


その後もドイツは謝罪を続けている。


だから今は、ドイツが他国から罵声を浴びせられるといったことはない。


しかし、日本は違う。


植民地にした朝鮮半島でやりたい放題をしたのに、韓国に対してろくに謝罪していない。


賠償金は少し出したが、それで韓国国民が納得したわけではない。


なのに日本政府は、韓国に対する謝罪と賠償は済んだと言って、その後は誰も謝罪しなし賠償金を払うこともない。


中国についても同じ。


日本はろくに謝罪もせず、満足な賠償金も払わず、その件はもう決着したものと言ってはばからない。


だから韓国も中国も、いまだに反日なのだ。

 


〈中国の半日運動〉


日本政府は「賠償金を払ったのだから、この件は終わっている」と言うが、中国と韓国の人々がまだ抗日・反日なのは、それでは謝罪が足りないと思っているからだろう。

 

日本にはそういう負い目がある。


そのことを思うと、「核を廃絶させろ!」と日本人が叫んでも、韓国や中国の国民の耳には届かないだろう。


日本は両国に対して、あらためて謝罪し、賠償金を出すべきだ。


そうしないと、「核廃絶」とか「戦争反対」と言っても、説得力に欠けてしまう。


自民党は憲法を「改悪」して、日本をまた戦争のできる国にしようとしている。


それを絶対に阻止し、今の平和憲法を守り抜かなければならない。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+3.8キロ。

前に通所していた障害者就労継続支援B型事業所に、ひどく頭の硬いオヤジがいた。


彼は「同性愛を認めるってか? バッカな話だよな~。そもそも生物は子孫を残すために生まれてくるんだよ。子孫を残せない同性愛者なんて不要な存在だ!」と息巻いていた。


「それはどうかな?」と私は思った。


というのも、同性愛行動をするのは人間に限ってのことではなく、多くの動物で確認されていると知っていたからだ。


1999年、ブルース・ベージミルという研究者は、交尾に限らない同性愛的行動が1,500に近い種で観察されると報告している。


類人猿や猿では、同性愛行動がかなり多く見られる。


知能が高くなるほど同性愛行動は多くなるようだ。


下等というわけではない動物の多くも同性愛行動をする。

 


〈同性愛行動をするキリンの様子〉

 


〈オス同士で同性愛行動をするライオン〉

 


〈同性愛行動をするペンギン〉

 

〈同性愛行動をするアホウドリ〉


昆虫等の下等で本能のみで生きている動物でも同性愛行動をする。

 


〈オス同士のトンボが同性愛行動をしている様子〉


中にはメスと間違ってオスと交尾しようとするオスがいたりするのかもしれないが、そうではないケースもあるという。


とすると、動物は子孫を残すためだけに生まれてくるとは言い切れないのではないか。


多くの動物で同性愛行動が見られるのは、「進化の謎」のひとつである。


繁殖に結びつかない行動が、なぜ自然淘汰されなかったのかという疑問が出てくるからだ。


この問いは「ダーウィン・パラドックス」と呼ばれる。


ロンドン大学インペリアル・カレッジのヴィンセント・サヴォレーヌ博士らは、同性間の性行動が偶発的な例外ではなく、集団生活を円滑に維持するための適応的な行動である可能性を示しているという。


猿の中には、異性と交尾するより同性と交尾することの多い種類もある。


そういう行動をすることによって、集団生活が円滑に行われることがある。


人間の場合はそんな目的で同性愛者になるのではないと思うが、面白い見方だと思う。


あるいは、大いなる自然の法則が働いているのかもしれない。


つまり、人間も動物も増えすぎて、このままだと地球に溢れてしまう状況が迫ってきたため、自然の力が動物に同性愛者を作り出しているとは考えられないだろうか。


何だか宗教くさい見方だが、私にはそんな気がしてならない。


同性愛行動は昔からあった。


ソクラテスが同性愛者だったことは有名だし、宗教者の多くが女犯の戒律により異性と交わることができず、同性間で愛し合ったし、日本でも戦国時代には特に武将たちが稚児を戦地に連れていって性行為をするのが普通だった。

 


〈ソクラテス〉


江戸時代にはオカマのことをカゲマ(陰間)と呼び、陰間茶屋という男用ソープランドみたいな店がたくさんあった。

 


〈陰間茶屋〉


古代から同性愛者はたくさんいたと思う。


人間の数も動物の数もまだ少なかったのに、同性愛行動をする人間も動物もいたのだ。


とすると、私の考える「大いなる自然の力」によるのではないのかもしれない。


いずれにしても、同性愛者はたくさんいて、それは人間に限らない。


彼ら彼女らが子孫を残さなくても、それでいいではないか。


口を尖らせて「子孫を残せない同性愛者なんて不要な存在だ!」などと言う必要はまったくないと思う。


現代は多様化の時代だし、いろいろな人がいてもいいだろう。


そういう人たちを偏見や差別の目で見るのは時代遅れだし、人間としてどうかなとも思う。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+3.3キロ。

「もてなす」といえば「お客を歓迎して接待する」という意味である。


東京五輪誘致で、滝川クリステルが「お・も・て・な・し」と言ったのは記憶に新しい。

 


では、「もてなす」という言葉はもともとはどういう意味なのか。


もともと「歓迎して接待する」という意味だったのだろうか。


これは「以て」+「成す」からできた言葉で、本来の意味は「自分が何かを相手にすることで、何かを成す」ということになる。


「以て、成す」と聞いて、聖徳太子が制定したとされる憲法十七条を思い浮かべた人が多いだろう。


その第一条に「和を以て尊しと成す」とあるからだ。


聖徳太子は蘇我氏と縁が深いように「日本書紀」には書いてある。


中大兄皇子(後の天智天皇)と藤原鎌足(藤原氏の祖)が「乙巳(いっし)の変」で蘇我入鹿(いるか)を殺し、その勢いで蘇我氏を滅ぼした。


蘇我入鹿は大王(おおきみ)だったと思うので、その入鹿を倒して政権を奪取したクーデターだったと思う。


おそらく、当時は数家の豪族が交代で大王(後の天皇)を務めていて、「乙巳の変」のときは入鹿が大王だったのだろう。


「日本書紀」を編纂したのは鎌足の子の不比等(ふひと)なので、その事実を隠すとともに蘇我氏が怨霊になって祟らないように、蘇我氏を象徴するような聖徳太子という聖人をでっち上げたのだと思う。


蘇我氏には入鹿、蝦夷、韓子、馬子という変な名前ばかりある。


これは不比等が適当に付けた名前だろう。


「蘇我」という名前も怪しい。


法隆寺は聖徳太子が建てたと伝えられているが、これも蘇我氏の鎮魂のために不比等が建てたのだと思う。


つまり、聖徳太子は架空の存在だと思う。


したがって憲法十七条を制定したのは別の人物である。


その第一条を「和を以て尊しと成す」としたのは、前述したように数家の豪族が覇を競っていたからだと思う。


それで「みんなで仲良くして、ひとりの大王を立てよう」ということになり、憲法の第一条を「和を以て尊しと成す」としたのではないか。


脱線したので話を戻す。


では、「以て、成す」がどうして「歓迎して接待する」意味になったのか。


それは、「以て、成す」が「何かを相手にすることで、何かを成す」意味だったため、「相手を歓迎して相手の気持ちをやわらげる」ことなども指すようになったからだと思われる。


そのうち「もてなし」が主に「客を歓迎して接待する」意味として使われるようになったのではないか。


それに丁寧語の「お」を付けて「おもてなし」という言葉が誕生したのだと思う。


違うだろうか?

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+3.0キロ。

戦国武将の直江兼続(なおえかねつぐ)は、兜に「愛」と切り抜かれた鉄製の前立てを取り付けていた。


NHKの大河ドラマ『天地人』の主人公で、妻夫木聡が演じた。

 


〈『天地人』で兼続を演じた妻夫木聡〉


上杉謙信の薫陶を受け、その遺志を謙信の跡を継いだ景勝とともに上杉家隆昌のために生きた。


上杉家は越後を本拠にしていたが、秀吉によって会津に移され、秀吉の死後、石田三成と密かに提携して徳川家康を討とうとした。


このため、関ヶ原の戦が終わると、家康によって上杉家は米沢に移された。


会津では120万石だったのに米沢はたった6万石だった(寄騎を含めると30万石)。


家臣たちの多くは、禄をくれなくてもいいと言って米沢まで来た。


家老だった直江兼続は、彼ら家臣が生活していけるよう、不毛の土地を開拓したり、さまざまな特産物の栽培や生産ができるようにし、家臣・農民などから慕われた。


そういう思いや考え方が、兼続にとっては「愛」だったのである。


兼続の前立ての「愛」は英語の「love」ではない。


「愛」は漢字だから中国から伝わった言葉だ。


中国で「愛」といえば、「親が子をかわいがる気持ちや、好きな人など特定の人を慕う気持ちのこと」である。 


そのほかにも「音楽への愛」のように、ある物事を大切に思う気持ちや、「人間愛」のように個人的感情を超え、温かく慈(いつく)しむ気持ちなど、幅広い意味がある。


現代人の多くは「愛」に「love」の意味しかないと思っているかもしれないが、「愛」という漢字にはそれだけではない広い意味があるわけだ。


兼続の「愛」は、「人間愛」「相手を慈しむ」といった意味を込めたものだったろう。


幕末から明治にかけて生きた西郷隆盛は「敬天愛人」という言葉を好み、座右の銘とした。

 


〈西郷隆盛が身呑んで揮毫した「敬天愛人」の書〉


「天を敬い人を愛す」という意味だが、この場合の「愛」も「love」ではなく「人間愛」「相手を慈しむ」といった意味合いを持つ。


マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と言ったという。


この「愛」はどういう意味なのか?


マザー・テレサの言葉から考えると、「関心を示す」ことになりそうだ。


だからこの場合の「愛」も「love」ではない。


「人間愛」「相手を慈しむ」意味ではないかと思う。


英語では「愛」のことを「love」とも言うが「affection」とも言う。


また「devote」という言葉を使う場合もある。


「love」は(誰かや何か)を「強く愛する」意味を持ち、「affection」はそれより柔らかい意味を持つようだ。
「devote」には、何かに時間や手間を捧げるという意味がある。


とすると、中国で生まれた「愛」という漢字の意味は「devote」に近い。


マザー・テレサが言った「愛」もその意味に近いのではないか。


話を戻すと、直江兼続は戦国武将に珍しく学問があり、それで「愛」という言葉の本来の意味を知り、前立てにしたのではないかと思う。


秀吉が死んで家康が暗躍して秀吉側の武将たちをどんどん味方に付けていった。


兼続は、家康の暗躍を激しく嫌い、家康から上杉家当主の景雄の上洛を促されたが、「直江状」と呼ばれるようになる手紙を家康に送りつけて上洛を断った(当時、家康は江戸に帰らず関西にいた)。


その中で家康のことを悪しざまに書いていて、それを読んだ家康は激怒したという。


「直江状」は原本が残っておらず、兼続が本当にそれを書いたのか疑問を抱く人もいるが、兼続が家康を嫌っていたのは確かだと思う。


そのことは、秀吉の遺児・秀頼を擁する石田三成に兼続が味方しようとしたことでわかる。


石田側は関ヶ原で家康側と戦って負けた。


この戦闘に兼続は参加せず、会津で家康を後方から討とうと考えていたようだ。


しかし関ヶ原の戦がたった数時間で終わってしまったため、兼続は何もできなかった。


関ヶ原後、家康は石田側に付いた武将たちをことごとく罰した。


上杉家が会津から米沢に移されたはそのためだ。


「直江状」のこともあったから家康は上杉家を取り潰すことも考えたようだが、上杉家は謙信以来の武侠を誇っていたし、上杉家を取り潰そううすれば東北諸藩がどう対応するかという危惧があり、米沢に移すにとどめた。


「愛」のことから話がずいぶん広がってしまった。


最後に、中国で「愛」がどのように使われているか紹介したい。


「愛人」といえば日本人は不倫相手のことなどを指す。

 


〈テレサ・テンの『愛人』。彼女は台湾出身だから、曲のタイトルと歌詞の内容に違和感を持ったかもしれない〉


しかし中国ではパートナーの意味で、つまり恋人や配偶者のことである。


中国では今は、「愛」=「love」に近い意味になっているのかもしれない。


キリスト教が説く「愛」も、男女間の「愛」ではなく、「人間愛」「相手を慈しむ」ほうの「愛」だろう。


今の政治家に、直江兼続や西郷隆盛のような「愛」を持っている人、国民を慈しむ人はいるだろうか。


いない、と私は感じる。


自分を慈しむ「愛」しかないと思う。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+2.8キロ。

私の好きな歴史上の人物の第一は諸葛(しょかつ)孔明である。


『三国志演義』で有名な天才的軍師であり、天才的行政家だった。


昔から中国はコネや賄賂がモノをいう国だったが、孔明は実に清廉だった。


劉備(りゅうび)のために蜀(しょく)という国を建てさせ、劉備が「私の死後は皇帝になってくれ」と言われても断り、劉備亡きあとはその子の劉禅を皇帝にした。


自分は自国の民のために優れた行政をし、魏と呉という他国との戦いに明け暮れ、五丈原という戦地で没した。


彼ほど欲の少ない人は、中国史上(もしかするとアジア史上)、おそらくいないのではないか。


私も「欲」のあまりない人間なので、孔明の生き方に激しく共感する。

 


〈諸葛孔明/後世の人が想像で描いたもの〉


私の好きな歴史上の人物の第二は日本の真田信繁(幸村)である。


父の昌幸は武田信玄の家臣だったが、武田家滅亡後、信州上田の城主になった。


ここで二度にわたって徳川軍を撃退した。


二度目は、昌幸は豊臣側につき、関ヶ原に向かう徳川秀忠の三万八千もの軍を、わずか数千の軍で信州上田城で迎え撃ち、徳川軍を翻弄した。


秀忠は上田城を落とせず関ヶ原にも間に合わず、徳川本隊が戦場に来ないという大失態を犯し、家康に激しく叱られた。

 

(このため東軍として戦ったのは豊臣恩顧の大名で、西軍ももちろん豊臣恩顧の大名だから骨肉の争いになった)


関ヶ原で西軍(豊臣側)が負けたため、家康によって昌幸と信繁は紀州九度山に流罪となって昌幸は65歳で死んだ。


信繁は昌幸の次男で、中年になるまで九度山で流罪のまま日を送った。


家康の悪賢い陰謀で豊臣側が戦に立ち上がると、豊臣側は信繁に「大坂城に入城してほしい」と密使を送ってきた。


信繁は周囲に住む農民を騙し、豊臣側か贈られた金で武装して大坂城に入り、「大坂冬の陣」では「真田丸」というユニークな出城を築いて徳川軍をさんざんに苦しめた。


信繁は戦術の天才だったと思うが、その多くは父の昌幸から学んだものだろう。


九度山に幽閉されていたとき、昌幸から戦術を学んだのかもしれない。

 

ただし、昌幸は戦術の天才だったとともに謀略の天才でもあった。


この点は信繁は見習わなかった。


性格的に、謀略のような裏の戦術が嫌いだったのではないかと思う。


大坂城を陥せない徳川軍は、大砲を引き出してきて大坂城本丸を砲撃した。


その砲弾のひとつが淀殿の部屋の近くにぶっ飛んできたため淀殿は恐怖に駆られて講和を進めるよう家臣に命じた。


大坂城を支配していたのは、秀吉の側室で秀頼の母だった淀殿だったのだ。


信繁ら武将たちは講和に反対したが、淀殿には逆らえなかった。


講和がなると家康は、大坂城の堀をすべて埋めてしまった。


講和では「外堀だけ埋める」となっていたのだが、ずる賢い家康は堀という堀を全部埋めたのだ。


「真田丸」も取り壊された。


大坂城は本丸剥き出しの裸城になってしまい、「夏の陣」で信繁は野外戦をするしかなくなった。


信繁は何度も大坂城に伝令を出し、「秀頼様のご出陣」を督促したが、淀殿が「そんな危ないところに秀頼を出せますか!」と拒否したので実現しなかった。


信繁は覚悟を決め、赤備えの見事な真田軍を引き連れて家康の本陣に向けて突進した。


大将は後ろに控えて家臣たちに命じて戦をさせるのが普通だったのに、信繁は軍の先頭に立って馬を走らせた。


信繁は「もうすぐ家康!」というところまで迫り、家康に自害を覚悟させたほどだ。


そこで家康の旗本たちに囲まれて果てた。


信繁には、家康の首を取って豊臣家の大名になろうといった気持ちはまったくなかったようだ。


天下の大名たちの多くが家康についている状態では、豊臣家は滅ぶだろうと見切っていたはずだ。


家康を討っても、もうどうにもならない時勢になっていると知りながら、武士らしく「名こそ惜しけれ」の精神で突撃したのだと思う。


鎌倉武士から始まった「名こそ惜しけれ」の生き方を貫いた見事な生き方、死に方だった。


そんな真田信繁のことを私は日本人として誇りに思っている。


ちなみに「信繁」から「幸村」に名を変えたのは関ヶ原からのようだから、その間に大坂方についた信繁には思うところがあったのかもしれない。

 


〈真田信繁〉


私の好きな歴史上の人物の第三は日本の吉田松陰である。


松陰は幕末の長州藩の貧しい武家に生まれ、伯父から「武士は公僕なのだ」ということを殴られながら叩き込まれた。


そのせいか松陰は、「私」の意識の薄い青年に成長した。


そして思想と行動はひとつでなければならないと信じた。


尊王攘夷思想を持っていた松陰は、幕府の開国政策を批判した。


しかし、攘夷(外国人を打ち払う意)を叫ぶ前に、外国の文明を見て行動すべきだと思った。


それで、ペリー艦隊の船に乗せてもらってアメリカに行くべく、友人と船に乗って艦隊に漕ぎ寄せて乗船した。


ペリーは幕府との交渉に差し支えると考え、松陰をアメリカに連れていくことを拒んだ(アメリカはまだ幕府と条約を結んでいなかった)。


そのことがあって幕府は松陰を捕らえ、罪人を運ぶカゴに松陰を乗せて長州藩に戻した。


長州藩は幕府の手前、松陰を獄に入れるしかなかった。


出獄しても松陰は家から出ることを禁じられた。


その家で松下村塾を開き、若者たちに多大な影響を与えた。


けれど弟子たちが志士活動するのをみて、松陰は彼らに以下のような手紙を送った。


「僕は忠義をするつもり。諸友は功業をなすつもり」と。


この言葉は私の座右の銘である。


「忠義」は今の時代にそぐわないいが、彼の時代には正義だった。


私だったら、「僕は信念を貫くつもり」と書き直すだろう。


松陰は天皇への忠誠のために死のうとしていた。


対して弟子たちの中には、幕府を倒して出世しようとしている人もいたのだろう。


私も「功業」を目指すことに興味がないし、そういう人を見ると怒りが湧くことさえあるので、松陰の気持ちが少しはわかる。


松陰は若くして幕府によって断首され、弟子たちは討幕運動へと進んだ。


久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文などである。


松陰がいなかったら、長州藩が過激化することはなかったと言われている。


それほどの影響力を持つ教育者だったことも素晴らしいが、それよりも私が共感するのは、孔明と同じく清廉だったことだ。

 


〈吉田松陰/老けて見えるが、これで二十代である〉


私の好きな歴史上の人物の第四は土方歳三である。


土方歳三は、幕末の京の志士たちを震えあがらせた新選組の副長である。


土方は多摩の大百姓の末っ子として生まれ、バラガキと呼ばれるほどやんちゃだった。


近藤勇とは少年のころから仲が良く、天然理心流に入門して師範代にまでのぼった。


近藤はこの天然理心流の四代目を継いだ。


その土方や近藤が京の治安を守る新選組を結成したいきさつについては省く。


京都守護職を務めた会津藩のお預かりだったとだけ書いておく。


徳川幕府最後の将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還しても、薩長土は錦旗をでっちあげ、自分たちを官軍、慶喜を賊軍と規定し、徳川氏を滅ぼそうとした。


新選組を含む旧幕府軍は鳥羽伏見で敗れ、江戸に戻った。


旧幕府の武士たちの一部は結束し、また会津藩はもちろん東北諸藩も薩長土のやり方に反対し、戊辰戦争が始まる。


会津藩士や会津の庶民は官軍になった薩長土と果敢に戦った。


会津若松城が砲弾や銃弾で崩れ落ちそうになるまで戦ったが、それ以上の交戦は無理で官軍に降伏した。

 


〈戊辰戦争で崩れそうになった会津若松城〉


その少し前に、今の千葉県で近藤は官軍陣地に投降して斬首された。


土方はめげず、旧幕府艦隊とともに蝦夷地(今の北海道)まで行った。


リーダーの榎本武揚(旧幕臣)は、蝦夷に共和国を作るつもりだった。


官軍はその蝦夷地の箱館(今の函館)にまで進軍し、榎本は降伏を決意する。


そうみた土方は、とうてい勝ち目のない戦場に単騎で突き進み、官軍の銃弾に倒れた。


「いったん幕府についたからには最後までその信念を貫こう」と考えていたのだろう。


新選組は薩長土の志士たちを数えきれないほど斬り殺しただけでなく、隊内の多くの裏切り者や卑怯者を斬首したり切腹させたりした。


降伏しても自分は斬首されるだけだと思ったろうし、それよりもかつての部下たちを死に追いやった身としては、生き延びるという道など選択できなかったのだと思う。


ともあれ、戊辰戦争で最後まで官軍と戦ったのは土方歳三なのだ。


その生き方に惚れ惚れしてしまう。


江戸幕府を開いた家康は自分の子孫を将軍にすることしか考えていなかった人間なので大嫌いだ。

 

政権を世襲させるなんてやつはダイッキライなのだ!

 

世襲議員も大嫌い。

 

世襲企業も大嫌いだ。


徳川幕府もあまり好きではない。


土方の生まれた多摩は幕府の直轄地で、天領と呼ばれていた。


そんな土地で生まれ育った人間は、幕府や将軍を雲の上の存在のように敬ったろうし、「オレたちは将軍さまの百姓だ」と威張る気持ちにもなったろう。


けれど土方の場合、幕府のために最後まで戦ったのは、それだけが理由ではない気がするのだ。


信念や節度を貫き通す強い意志がもともと彼にはあったのではないかと思う。


それで、時代が封建制から変わるべく動いていることに気づいていても、土方は最後まで戦ったのだ。


そういう土方さんを、私は敬愛している。


「第四番目」にしたが、誰の生き方が一番好きかと問われたら、土方歳三と答える。


時代遅れだと言われても、自分の信念を貫いて生き、死にたい。

 


〈土方歳三/箱館で撮影された。超美男子である〉


ほかにも、直江兼続(かねつぐ)や上杉鷹山(ようざん)なども尊敬に値する人物だと思っているが、今回は敢えて上記四人を挙げた。


私は、清廉だったり、信念を貫いた人を敬愛する性格のようだ。


自分もそう生きたいと願っているからだろう。


そういえば、きょう5月11日は土方さんの命日だ。


冥福を祈る。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+2.7キロ。

『サンダーバード』(Thunderbirds)は、1965年から1966年にイギリスで放送されていた人形劇による1時間枠の特撮テレビ番組である。

 


〈『サンダーバード』〉

 

〈登場する人形たち〉


日本でも同時期にテレビ放映された。


当時小学生だった私は、それに夢中になった。


日本では『ゴジラ』『ガメラ』『ウルトラマン』などの特撮映画が封切られたりテレビ番組が放映されていたが、その特撮と比べると『サンダーバード』の特撮ははるかに上回っていたからだ。


「サンバーバード」は、ある孤島に基地を持つ人間が自分の子どもたちを隊員にし、ロケットや宇宙ステーションや貨物運び用の大型ジェット機や潜水艇など、1号から5号までの乗り物を備えて子どもたちに操縦させ、地球で起きるさまざまな危機を救う物語である。

 


〈「サンダーバード」の基地〉

 


〈「サンダーバード1号」〉

 


〈「サンダーバード2号」〉

 


〈「サンダーバード3号」〉

 


〈「サンダーバード4号」〉

 


〈「サンダーバード5号」〉


登場人物は人間ではなく操り人形なのだが、違和感を抱かないほど実にうまく操っていた。

 


〈『サンダーバード』に登場する人形たち〉


何より凄いのは、前述したように特撮である。


ロケットの発射、ジェット機の発進と飛行はまるで実物のようだったし、また陸地や海の様子も本物に見えて驚いた。


第一話では確か最新鋭のジェット旅客機が飛行場に着陸することになったとき、車輪が出ないトラブルが起きた。


それで「サンダーバード」が出動し、「サンダーバード2号」で特殊な車両4台をその飛行場まで運び、着陸しようとするその旅客機の下に4台の特殊車両がぎりぎり入り込み、タイヤを上下にきしませながら土煙を上げて旅客機を支えて滑走し、見事に停止させるという内容だった。


あまりにリアルで、とても特撮には見えなかった。

 


〈「サンダーバード2号」が特殊車両を積んで飛行場に着陸するシーン〉

 


〈「サンダーバード2号」は、特殊車両や潜水艇(サンダーバード5号)を格納して現地に飛ぶ〉


「少年マガジン」などの少年誌では『サンダーバード』についてよくグラビアで紹介した。


そこには、ロケットやジェット機が飛ぶシーンは、ロケットやジェット機を細いピアノ線で吊るし、空のバックを動かして撮影しているのだと書いてあった。

 


〈「サンダーバード2号」の飛行シーン〉


発射や離陸シーンでは大量の煙が勢いよく発生し、噴射ノズルからは、物凄い勢いで炎が噴き出すのだった。

 


〈「サンダーバード1号」は基地のプール部分がスライドして、その地下から発射されるのだった〉

 


〈「サンダーバード2号」の離陸シーン〉


そのころの日本の特撮では、ロケットやジェット機から噴射される炎はライターの炎のようで、炎の先がゆらゆらと揺れるようなか細いもので、どう見ても「あれでは飛べない」と子どもでもわかった。


それに比べて『サンダーバード』は本当に飛ばしているようしか見えなかった。


少年誌のグラビアにはそのロケット等や基地のミニチュアと人間とが写っている写真も載っていて、それを見るとミニチュアはかなり大きなもので、だから迫力があるのだなと思った。

 


〈「サンバーバード」基地のミニチュアと特撮チームの人間〉


山で爆発が起こり山が崩れて山肌が剥き出しになると、何とそこには地層が見えた。


ただ単に土を盛り上げてミニチュアの山を作ったのではなく、地層が見えるように数種類の土を使ってミニチュアの山を作っていたのだ。


細部にこだわり抜いて特撮シーンを作っていたのだ。

 

〈これは『サンダーバード』の映像ではないが、『サンダーバード』の特撮チームはこんなふうに地層まで作っていた〉


この特撮チームは、後に『決死圏SOS宇宙船』という映画でも特撮シーンを担当した。

 


〈『決死圏SOS宇宙船』〉


その特撮も凄まじいものだった。


太陽の向こう側に行くべくロケットが打ち上げられるのだが、そのロケットがアメリカのアポロ計画で使われたサターン5型ロケットそっくりで、その打ち上げシーンは、どう見ても本物のサターン5型ロケットの発射シーンを使ったとしか思なかった。


しかし、これも大きなミニチュアであり、ド迫力の発射シーンも特撮なのだ。

 


〈『決死圏SOS宇宙船』のロケット打ち上げシーン。これは特撮である〉

 


〈『決死圏SOS宇宙船』のミニチュアロケットと発射台〉


また小さめの飛行船も登場するのだが、これまた本物にしか見えず、地上からの離陸と飛行シーンは、本物を作って飛ばしているとしか思えなかったほどリアルだった。

 


〈『決死圏SOS宇宙船』に登場する飛行船〉


これほどレベルの高い特撮番組が登場したのだから日本の例えば円谷(つぶらや)プロも特撮にもっと力を入れるのではないかと期待したが、日本の特撮映画や特撮番組の特撮のレベルはあまり変わらなかった。


たぶん日本ではそれほど金をかけられなかったのだと思う。

 

『サンダーバード』のさらにいいところは、ナニナニ怪獣とかナニナニ星人とかいう敵が現れてそれに立ち向かうのではなく、地球各地で実際に起こりそうな事件解決のため活動するところがまたいい。


しかも、「サンダーバード」という組織はひた隠しに隠し、危機を救った痕跡をなくして消えるところである。


やってくれるんだよ、まったくもう。


『サンダーバード』は、15年くらい前だったろうか、CGで復活した。

 


〈CGで復活した『サンダーバード』〉


それは漫画的で、昔の『サンダーバード』のほうがはるかに迫力があったし、リアルだったと感じた。


今は何でもかんでもCGで作ってしまうが、CGではなくミニチュアでリアルさを追求する職人のようなチームがまた出てほしいと思う。


CGで画像や動画を作るのがどんなに大変かは想像できる。


きっと手作り特撮並みの労力を要するのだと思う。


凄い仕事をしていると感心する。


けれど私は、手作りの特撮のほうが好きなのだ。


古い人間なのである。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+2.8キロ。

昭和34年、東京の善福寺川で国際線スチュワーデス(今のCA)の扼殺(やくさつ。腕で首を締めて殺すこと)遺体が発見された。

 


〈現在の善福寺川。事件当時は人けのない寂しいところだった〉


警察はカソリック杉並ドンボスコ修道院(教会)のひとりの若い信父を容疑者だとにらむ。


というのも、殺された女性は同教会の信者で、若いその信父(神父?)と親しかったと思われたからだ。


その女性と若い信父が交際して、痴情のもつれから殺害されたのではないかと警察は推測した。


とすれば、彼らは連れ込み宿(今のラブホテル)を利用していたかもしれない。


それで警察が連れ込み宿を捜索すると、殺されたCAの女性が頻繁に利用していた旅館が見つかった。


相手の男が、体格のいい外国人だったこともわかった。


その外国人は杉並ドンボスコ修道院の若い信父なのではないかと警察は考えた。


けれど、その外国人はいつも派手な柄の背広を着ていたという。


信父が背広を着ることはない。


しかし、若い信父がどうにも怪しい。


警察は教会に踏み込んでその若い信父を連行するのをためらった。


日本は敗戦国で、そのせいもあって警察は外国の宗教団体の坊さんを連行などしたら、国際問題になると恐れたのだ。


現代でも宗教団体施設は、治外法権的な雰囲気を漂わせている。


信者以外の人間を容易に入り込ませない。


CA殺害事件のときは、宗教団体へのそういう気遣いが今以上に大きかった。

 


そのため警察は容疑者とみられる若い信父に会うこともできず、事件は迷宮入りかと思われた。


しかし、ひとりの新聞記者が耳寄りな情報を得た。


杉並ドンボスコ修道院の近くの住宅に住む中年女性の家に、同教会の初老の信父が足繁く通っていることを突き止めたのだ。


その女性は同教会の信父と聖書の共訳をしていると周囲に話していた。


それは事実なのだが、それにしては信父があまりにも頻繁に彼女の家を訪問しすぎていた。


深夜までいることも珍しくなかった。


そのため近所では、その女性を「あの信父の妾だ」と噂していた。


実際、ふたりは肉体関係にあったらしい。


さらに、その女性宅を訪問する信父たちの中には、信父の聖服を脱いで背広に着替えて家から出てくるという目撃談も取ることができた。


とすれば、信父が背広を着て連れ込み宿を利用していた謎も解ける。


その上、その女性は教会に届けられる海外からの援助物資(砂糖や衣類等)を家の中に溜め込んでいた。


というより、教会側が彼女に頼んで、彼女の家を倉庫代わりにしていた。


その家は、教会が彼女に与えたものだった。


戦争中、外国人はいろいろな場所に収監された。


杉並ドンボスコ修道院の信父たちは長野県の湖のほとりの建物に押し込められた。


食べ物も満足に与えられず、彼らは飢えに苦しんだ。


そのとき、すでに信者だったまだ若かったその女性は、その湖を泳いで、収監されている建物まで行き、信父たちに食糧を渡した。


日本が敗戦すると信父たちは自由の身となり、自分たちのことを救ってくれた彼女に、教会は特別なはからいとして土地と家をプレゼントしたのだ。


それ以来、信父と彼女のふたりは聖書の翻訳をともにするようになった。


そして、ついには深い関係になったのだろう。


信父としては戒律を破ったわけだ。


それとともに、彼女は教会から頼まれて、海外から教会に届けられる援助物資を家の中に置くようになった。


教会はその物資を利用して、警察の目を盗んで儲けつづけた。


警察に察知されると、信者に言い含めてその信者が個人で勝手にやったことにした。


CA事件が起きて警察が昔のそのことを知り、杉並ドンボスコ修道院をいよいよ怪しんだ。


同時に教会は、ある外国人貿易商と親しくなり、その貿易商と手を組んで、さらなる儲けをたくらんだ。


麻薬の密輸である。


そのためには、協力者が必要だった。


税関検査を受けないCAを作りたかった。


それで、若い信父の親しくしている若い女性信者が標的となった。


若い信父は彼女に言い含め、外国の航空会社のCA試験を受けさせた。


彼女は外国語が苦手だったが、しかし採用された。


貿易商が裏で工作して彼女を合格させたのだ。


そして彼女は、東京と香港の間を飛ぶ飛行機のCAになったのだが、彼女と肉体関係にある若い信父は彼女に、麻薬の運搬係になってほしいと頼む。

 

この事実は新聞記者はまだ知らなかったが、電話を盗聴することで警察はほぼ見当を付けていた。


けれども盗聴で得たことは証拠にならないので、密輸容疑で貿易商や教会を取り調べることができないでいた。

 

しかし、信父と親しかった中年女性の存在と、信父がその家に入りびたり、ときには聖服を脱いで背広に着替えて出かけることもあった事実を知って新聞記者は小躍りした。

 

その新聞記者は担当刑事の家を訪れ、刑事と取り引きした。

 

新聞記者はその女性宅を刑事に教え、その代わり、扼殺されたCAを解剖したら胃の中から未消化の松茸が入っていたという事実を刑事は新聞記者に教えた。


その“松茸”の事実はまだ公表されていないものだった。


捜査と取材は続けられ、ついに警察はその若い信父を参考人として警察署に連行することに成功する。


けれど信父は日本語がわからないフリをしてろくに話もせず、指紋や唾液を取られることも恐れ、出されたコーヒーに手を出すこともせず、トイレに行くこともしなかった。


結局、警察は彼の指紋も血液型を知るのに必要な唾液や尿を取ることもできなかった。


警察はやむなく彼を放免した。


そして、若いその神父は、警察の手落ちで海外に逃げた。


というのが事件の概要である。


要するに事件は未解決のまま終わったのだ。

 


松本清張は、上のような概要を警察や新聞記者に取材し、『黒い福音』という作品を書いた(清張さんは「信父」と書いているが「神父」のことをそう呼ぶのだろうか? フィクションだから「信父」と書いたような気がする)。

 


〈『黒い福音』〉


うまいタイトルを付けたものだ。


それはともかく、その内容は精緻である。


小説仕立てにしてあるが、いくらフィクションだとしても、そこまで書いたらサレジオ会とカソリック・ドンボスコ教会が怒り狂い、「宗教裁判で訴えてやる」と息巻く恐れがある。


そうならなかったのは、清張さんの取材による推理がほぼ当たっていたからだと思う。


清張さんはすごい作家だったなと、あらためてそう思う。


それにしても、殺されたCAさんは教会に利用されて殺されたのだから、さぞ無念だったろうと思う。


それとともに思うのは、聖職者たちに厳しい戒律を守らせるのは現代ではかえってマイナスになることもあるのではないかということだ。


日本仏教の僧の多くは妻帯し、肉食もし、楽しみも持つ。


釈迦が知れば卒倒するような破戒行為である。


けれど、聖職者といえども人間なのだ。


人間の欲をすべて抑え込むなんてことは、まず無理なのではないか。


特に異性と付き合うのを禁じたら、特に若い聖職者たちは、ありあまる性欲をどうやって発散させればいいのか。


以前に私は、仏教僧なら釈迦の教えを守って戒律を破るべきではないというようなことを書いた。


しかし、『黒い福音』を読んで、気が変わった。


仏教の僧に限らず、多くの宗教の教祖は戒律を定めてそれを守っている。


守らないで信者の女性に手を出すような不心得者もいるが、建前としては守っている。


弟子たちもその戒律を守らなければならない。


そうなると、上に書いた昔の殺人事件のようなことがまた起こらないとも限らない。


実際、「オウム真理教」などは、とんでもない犯罪を犯した。

 


〈「オウム真理教」は、地下鉄サリン事件等、多くの犯罪を犯した〉

 


〈旧統一教会の合同結婚式〉


また、多くの宗教法人は、無税なのをいいことに、金儲けに走る。


そんな宗教に騙されて入信してしまう人が多い。


「オウム真理教」や「旧統一教会」などがそうだ。


そんな宗教はいらないし、厳しい戒律も今の時代では不要なのではないか。


神や教祖の言うことなら、法に違反していても正当な行為だと信者は思ってしまう。


これはどんな宗教にも言えることではないだろうか。


そんな宗教は存在させていけない。


だいたい、宗教なんてなくても人間は生きていける。


道徳観や倫理観は宗教でなくとも子どもに教えることができる。


政治家や役人は、一度立ち止まり、宗教団体についてあらためて考えるべきなのではないか。


全国の宗教団体に税金を払わせれば、税金収入は相当な額になるだろう。


今の日本の物価高対策や貧困な福祉政策にそのカネを充てれば、物価高は収まり、福祉政策は充実するかもしれない。


政治家や役人には、そのことを真剣に考えてもらいたい。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+3.7キロ。

『雨鱒の川』という小説がある。


青森県出身の川上健一が書いた作品だ。

 


〈『雨鱒の川』〉


舞台は昭和30年ころ(たぶん)の青森県。


母子家庭の少年と、醸造家の家に生まれた聾唖(ろうあ)の少女とのラブストーリーである。


少年は、絵を描くことと魚獲りにしか興味がない。


授業中でも絵を描いてばかりだし、ときには学校をサボって魚獲りに走る。


小学生のときに書いた絵はフランスの何とかという大賞に輝いた。


おそらくサヴァン症候群なのだろう。


発達障害者などの障害者の中には、特定の分野で異常な能力を発揮する人がいる。


例えば山下清(裸の大将)は知的障害者だったが、絵に特別な才能を持っていて、素晴らしい作品をたくさん残した。

 

〈山下清が遺した絵のひとつ〉


イチローはアスペルガー症候群だし、モーツァルトやアインシュタインやスティーブ・ジョブスも障害を持っていたとみられている。

 

〈イチロー〉

 

〈モーツァルト〉

 

〈アインシュタイン〉

 

〈スティーブ・ジョブス〉

 


そのためなのかどうか少年は、少女が何も言わなくても彼女がどうしてほしいのか、何を考えているのかすぐ察することができた。


少女も、少年の気持ちをすぐ察することができた。


ふたりは近所同士だし年齢も近いので幼なじみだった。


それだけでそのように不思議な意思疎通ができるようになったとは思われない。


障害を持つ者同士にしかわからない、何らかの深い関係がふたりの間で結ばれていたとしか思えない。


ふたりは成長しても好き合っていた。


しかし青年は満足に仕事ができず、成長した少女は醸造会社を継ぐため養子を迎えて結婚させられようとしていた…。


そういう物語である。


結末は、「本当にこれで良かったのかな?」というものだ。


最初に読んだときはそう思ったのだ。


しかし2度目に読んだとき、「ふたりにはこの道にしかなかったのだ!」と気づいた。


私は、気に入った本や気になった本は何度も読む。


そのおかげで、作者の言いたいことがわかったような気がする。


私は68歳になるこれまでに、6,700冊以上の本を読んだ。

 


〈読んだ本を登録していくことのできる『読書メーター』というサイト〉


編集の仕事で「書籍紹介」などの記事を書くことも多く、月に何冊もの本を仕事で読むこともあった。


また何かの記事を書くに際しても、図書館から参考文献を借りてきて、読んで知識を得てから記事を書いた。


そういう場合は真面目に読んでいると何時間もかかって仕事に支障が出るので、いわゆる斜め読みをした。


日本語の文章の場合、漢字混じりのヒラガナである場合が多い。


そういう文章なら、漢字だけ拾って読んでいくだけで、その本の大意はわかる。


重要なことを書いているなと感じた部分はちゃんと読んだが、そのほかは斜め読みで済ませた。


今の記者や編集者は、わからないことがあるとネットですぐ調べることができるので、その点では昔より仕事量が減ったのではないかと思う。


そういう本を加えれば、読んだ本の冊数はおそらく7,000冊を超えるだろう。


とにかく私は読書の虫みたいにたくさんの本を読んできた。


それで、作者が言いたいことは何なのか、何を訴えたいのかを、だいたいの本では読み取ることができるようになった。


しかし、ノーベル文学賞を受賞した川端康成の『雪国』を読んだときはそうはいかなかった。

 


〈『雪国』〉

 


〈ノーベル文学賞を受賞する川端康成〉


抒情生に優れた作品だと思ったものの、わかりにくい文章が多く、その点で戸惑った。


本文の部分部分に縦線が引かれ、「注1」とか「注2」とか書かれていて、その「注」について本文の下に説明が書かれていた。


それを読んで、「ははあ、そういうことが前にあったからこんな書き方をしたのね」と、それでやっとわかるという部分が多かったのだ。


翻訳者はこの作品をどう外国語に訳したのだろうかと不思議になった。


もし直訳すれば、日本人でもわからない文章を外国人に理解できるはずがない。


日本語の文章では主語(今は「主格」と呼ぶ。欧米語でいう主語は日本語にはないと考えたほうがいいからだ)を省いても意味が通じる場合が多々ある。


だから、日本人作家の作品を外国人が翻訳するとなると、翻訳者がその作者に「この文章の主語は誰なのか?」としょっちゅう聞いてくるのだそうだ。


これは村上春樹がエッセイの中で書いていることなので、他の作家も同じ経験をしていると思う。


『雪国』を翻訳したのは外国人なのか日本人なのか知らないが、外国人なら叫びたくなるほどに狂っただろう。


日本人が翻訳したとしても、「注」を入れなければいけない部分をどうやって翻訳したのか。


外国人にもわかるように、さまざまに工夫し、抒情生をくずすことがないよう配慮して訳したのだと思う。


そうでなけばノーベル賞なんて取れなかっただろう。


話がそれた。


川上健一の『雨鱒の川』も、何度か読み込まないと作者の思いがわからない作品だと思う。


映画にもなったが(玉木宏・綾瀬はるか主演)、近代化で青森県には作品の舞台にできるような川などがなかったのか、映画は北海道で撮影された。

 


〈映画『雨鱒の川 ファーストラブ』〉


しかも、内容が原作と少し違う。


少し違うその部分は、絶対に伝えなければならない部分なのだ。


だから、映画を観ただけでは、障害者同士だからふたりはわかり合える関係だったのだということが頭に入ってこない。


川上健一がどうしてそのことをはっきりと書かなかったのか。


わからない。


でも、何度も読み返したくなる本ではある。


そういう魅力のある作品だ。


そのことを見越して、「何度も読んでね」ということで、大事なことを故意に書かなかったのだろうか。


そうだとしたら、近年まれにみる文豪かもしれないと思う。


私は、わかりにくい文章を書く人を小説家やエッセイストとは認めない。


まして文豪とは認めない。


けれど、川上健一の場合は、どうみるべきなのか、迷っている。


なお、川上健一の小説は、接続詞をほとんど使わないで書かれている。


これは実に難しいことである。


その点でも私は川上健一を特別視している。

 

〈川上健一。トランペット奏者でもあるようだ〉

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+3.9キロ。

仇(あだ)討ちは敵(かたき)討ちとも言い、特に江戸時代の武士の間でよくみられた。


というのも、江戸幕府が仇討ちを正当な行為(法で認めた)としたからだ。


しかし、仇討ちはずっと昔から行われていた。


「日本書紀」には、安康天皇の456年に起きた「眉輪王の変」の記事がある。


これが史料に残る最古の仇討ち事件である。


その後、仇討ちは、中世の武士階級の台頭以来、その血族意識から起こった風俗として広くみられるようになった。


そして江戸時代になると、前述したように法制化され、多くの仇討ちが行われた。


江戸時代の仇討ちは、喧嘩両成敗の考えのもと法制化されていて、主眼は復讐ではなく武士の意地・面目の維持だった。


加害者が行方不明になり、幕府や諸藩等がこれを処罰できない場合には、被害者の関係者に処罰を委託する形式を取ることで、仇討ちが認められた。


仇討ちの範囲は、父母や兄等の尊属が殺害された場合に限られた。


仇討ちを果たした者に対して、討たれた側の関係者がさらに復讐をすることは禁止されていた。


仇討ちを許可されるのは、基本的に士分のみだったが、それ以外の身分の者でも仇討ちを行うことがあった。


しかし、ほとんどの場合は大目にみられ、むしろ称賛された。


武家の当主が殺害された場合、その嫡子(ちゃくし)が仇討ちしなければ、家名の継承が許されない慣習もあった。


赤穂藩浅野家当主の内匠頭(たくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切り付けて切腹させられたことで、赤穂藩はお家断絶に追い込まれた。


赤穂の浪士たちは吉良を討つべしと血盟し、旧城代家老の大石内蔵助(くらのすけ)を盟主にして吉良邸に討ち入って上野介の首を上げた。

 


〈映画『忠臣蔵』の討ち入りのシーン。「忠臣蔵」と言うのは「忠臣内蔵助」の略だろう〉


このとき江戸庶民は赤穂浪士たちを絶賛した。

 


〈浮世絵に描かれた「忠臣蔵」。江戸庶民は赤穂浪士たちの忠誠心を絶賛した〉


諸藩の藩主も彼らの忠誠心の強さに感動し、討ち入りに参加したものの子孫や親戚というだけで召し抱えられる者が多かった(討ち入りに参加した四十七士はみな切腹して死んだ)。


その反対に、討ち入りに参加しなかった旧赤穂藩士は、世間からも諸藩からも冷たい目で見られた。


赤穂浪士による討ち入りは仇討ちの代表とも言えるほど有名だ。


江戸時代の仇討ちでは、そのほか、「曾我兄弟の仇討ち」「鍵屋の辻の決闘」などが有名だ。


ちなみに、仇討ちは決闘になることが多いため、敵とされる側にもこれを迎え撃つこと(正当防衛)が認められていた。


仇討ちをする側が子どもや女性の場合などは、他の人間が仇討ちを助けた。


ここから「助太刀(すけだち)」という言葉が生まれたようだ。


助太刀した者も罪に問われることはなく、むしろ称賛された。


仇側が仇討ち側を殺害した場合は「返り討ち」と呼ばれた。


この「返り討ち」という言葉もここから生まれたのではないか。


しかし明治になると、司法卿の江藤新平らによる司法制度の整備が行われ、明治初年、政府は「敵討禁止令」を発布し、仇討ちは禁止された。 


もっとも、明治に入ってから一件だけ仇討ちがあった。


「木挽(こびき)町の仇討ち」である。


吉村昭の短編小説集『敵討』所収の「最後の仇討」に詳しい。


ドラマ(『遺恨あり 明治十三年 最後の仇討』)にもなったから観た方もいるだろう。

 


〈『遺恨あり 明治十三年 最後の仇討』〉


幕末、九州の秋月藩執政・臼井亘理は大久保利通からも嘱望されるほどの開明派だったが、守旧派の反感を買い、国家老の命を受けた家臣たちの襲撃を受け、妻ともども残忍に殺された。


藩の裁定は臼井殺害の犯人を罰せず、かえって臼井家を罰するという不合理なものだった。


残された亘理の息子・臼井六郎は周囲の反対にもかかわらず仇討ちの決意を固め、ついに東京木挽町で仇討ちを果たしたのだ。 


明治政府は、仇討ちをすでに禁止していたため、臼井六郎を逮捕して収監した。


すぐに釈放されたのは、明治の役人(多くは元武士)の中に臼井六郎の行いを「罪」とは思えない人が多かったからではないか。


武士の時代が終わり、仇討ちは「美徳」から「殺人」になった。


しかしそれは法に定められただけで、日本人の心の中には、「仇討ち」を認めてあげたいという気持ちがあったのだと思う。


今の時代になっても赤穂浪士の仇討ちを称賛する人が多い。


もし、もしもである。


自分の身内が誰かに無惨に殺されたら、多くの人が「仇を討ちたい」と思うのではなかろうか。


私だったら、息子や娘や孫が理不尽に殺されとしたら、殺したそいつを叩き殺しにいく。


そんな不吉なことなど考えたくないが、もしそんなことになれば、必ず復讐する。


法の裁きなんていらない。


自分で復讐する。


殺人犯が逮捕され裁判になっても、人を殺したのに十年くらいの軽い刑を受け、8年くらいで刑務所から出てきたりする。


有能な弁護士を雇えば、場合によっては執行猶予が付くかもしれない。


そんな生ぬるい処罰など処罰とは呼べない。


だから私は、絶対に自分で復讐する。


犯人が逮捕されていなければ、探し出して殺す。


警察署や刑務所に入れられていれば、何とかして入り込んで殺してやる。


それが人間の本心ではなかろうか。


ところで、仇討ちは日本に限られた習慣だったのだろうか。


調べてみると、外国にも仇討ちの例があった。


近親者を殺されたことに対する復讐の例は、南イタリアをはじめとして、世界各地で見られるのだそうだ。


近親者などの親しい人を殺されたら、普通の人間なら復讐したくなるし、実際に復讐するのは日本人に限らないのだ。


今の時代でも、仇討ちを認めてもいい場合があると思う。


ただし、殺してはダメ。


「仇を百回殴っても蹴ってもいい」という「仇討ち法」を作ってくれないものか。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+4.3キロ。