aichanの双極性日記

aichanの双極性日記

千歳在住の情けないおじさんです。
双極性2型で喘息で、ブログ〈Zensoku Web〉(https://aichanzw.seesaa.net/)、
note(https://note.com/aichanzw)もやっています。

「先々月ごろから、車内で様々なことが動き出し不安なことも多い最近の当社ですが、今日もゆるゆると頑張りすぎないで過ごしましょう」

 

という文章をネットで見た。

 

「最近の当社は先々月ごろから事業所内で様々なことが動き出し不安なことも多いですが、今日もゆるゆると頑張りすぎないで過ごしましょう」

 

となぜ素直に書かないのか。

 

原田マハさんの小説でもこういう書き方が多くて気になっている。

 

マハさんはこういう書き方をよくする。

 

マハさんの文章はひらがなと漢字の配分が絶妙で好きなのだが、「修飾語+名詞+が」の書き方が多いのが残念だ。

 

例えば、

美術館を訪れた田代だったが、展示室に入った瞬間、期待はいい意味で覆された」

「すでにいつまでも暮れない宵を体験済みの田代だったが、パリの宵の明るさはまた格別だった」

「留学費用の面倒をみていた川崎だったが、本人に会ったことはなかった」

といった文章だ。

 

文法的には間違いではなさそうである。

 

しかし、修飾語を付けた名詞のあとになぜいきなり接続詞の「が」をくっつけるのか。

 

私は違和感を覚える。

 

衒(てら)いさえ感じる。

 

格好つけているように感じるのだ。

 

衒うつもりなどないのだろうが、読者に衒いと受け取られかねないことが問題だ。

 

修飾語を付けた名詞を強調したいがために、敢えてそういう書き方をしているのかもしれないが、強調する必要がないときでもそういう書き方をかる人がいるので、おそらくはそのように書く癖が付いているのだと思う。

 

テレビのアナウンサーがよくそういう話し方をするので、話し言葉の癖が出ているのかもしれない。

 

しかし、書き言葉は話し言葉とは違い、きちんと書くべきだ。

 

いい文章というのは、何の衒いもなく素直に綴られていくものだ。

 

それが一番読みやすい。

 

文章に衒いは無用である。

 

読者はそこで引っかかり、なめらかに読めないからだ。

 

読みやすい素直な文章を書くことこそ、文法的に正解なのだ。

 

ついでに、前にも何度か書いたがまた書くと、疑問符(?)と感嘆符(!)の後に一字開けるのが日本語文章の文字組の基本の「キ」である。

 

このルールを守っていない文章があまりにも多い。

 

出版社や編集会社に勤めていればそんなミスはしないが、デザイナーがこのミスをよくやる。

 

デザインについては習っていても、文字組みについては習っていないからだ。

 

例えば「私はA型っぽいの?そんなの嫌よ!」といった文章を普通に打ってしまう。

 

編集部を通せば「私はA型っぽいの? そんなの嫌よ!」と直される。

 

見た目の見やすさを“見る目”を持っているのに、どうしてこんなことに気づかないのか不思議である。

 

残念で仕方がない。

 

また、「ダメよ!!」とか「それなに!?」と書く人も多い。

 

これは「ダメよ!!」と「なにそれ!?」と書いたほうがいい。

 

そのほうが締まって見えるからだ。

 

プロ仕様のデザインソフトには必ず字詰め機能があるので、その機能で「!」と「!」や「?」の字間を詰めてもいい。

 

さらについでに、英数字とアルファベットの書き方について書いておきたい。

 

「私はこれについてAに相談したら、それは1だと答えてくれた」

 

という文章があるとしよう。

 

「私はこれについてAに相談したら、それは1だと答えてくれた」

 

と書くとどうだろうか?

 

前の文章のアルファベットと英数字は半角で、後の文章のアルファベットと英数字は全角なのである。

 

ちょっと見にはわからないかもしれないが、全角の日本文字の中に半角のアルファベットや数字を入れるとバランスが悪くなる。

 

しかし、アルファベットや数字でも半角にしたほうがいい場合がある。

 

「ここにOlympicのメダルが100個ある」

 

「ここにOlympicのメダルが100個ある」

 

どうだろうか。

 

前者のアルファベットと数字は全角で、後者のアルファベットと数字は半角である。

 

後者のほうが締まって見えるだろう。

 

こういう細かなところにも気を配って文章を書きたい。

 

これらのことは誰かから学んだわけでもなく編集の仕事をしていくうちに自然と身についた。

 

だから、誰であっても読み手が読みやすい文章を書くにはどうすべきか深く考えれば、誰でも気が付くことだと思う。

 

今は隠居していて仕事から離れているので、上に書いたようなことを他人に押し付ける気はない。

 

現役のころなら部下たちに徹底させていたけど。

 

『疑問符(?)と感嘆符(!)の後には…(日本語文章のルール)』

 

『読みやすい現代日本語の文章』

 

『英数字とアルファベットの使い方』

 

 

【ダイエット記録】目標達成体重より+5.2キロ。

 

慣用句というものがある。

 

ふたつ以上の言葉が一緒になって、もとの言葉とは違う、ある決まった意味を表す言葉のことである。

 

思いつくまま列挙しよう。

 

「阿吽の呼吸」

「灰汁が抜ける」

「怒り心頭に発する」

「生き馬の目を抜く」

「後ろ髪を引かれる」

「馬が合う」

「絵に描いた餅」

「襟を正す」

「おべっかを使う」

「飼い犬に手を噛まれる」

「顔が立つ」

「兜を脱ぐ」

「気が置けない」

「管を巻く」

「下駄を履かせる」

「後塵を拝する」

「塞翁が馬」

「賽は投げられた」

「敷居が高い」

「垂涎の的」

「是が非でも」

「関の山」「そうは問屋が卸さない」

「対岸の火事」

「竹馬の友」

「月夜に提灯」

「付け焼き刃」

「敵に塩を送る」

「董が立つ」

「泣いて馬謖を斬る」

「流れに棹さす」

「煮湯を飲まされる」

「糠喜び」

「猫の手も借りたい」

「喉が鳴る」

「伸るか反るか」

「背水の陣」

「歯が浮く」

「膝が笑う」

「冷や水を浴びせる」

「風雲急を告げる」

「へそで茶を沸かす」

「頬が落ちる」

「枚挙に暇がない」

「身が入る」

「虫がいい」

「虫が好かない」

「焼きが回る」

「有終の美を飾る」

「欲の皮が突っ張る」

「横車を押す」

「埒が明かない」

「溜飲が下がる」

「レッテルを貼る」

「老婆心」

「脇が甘い」

……。

 

これらすべての意味を知っている人もいるだろうが、知らない慣用句があるという人のほうが多いのではないか。

 

私は慣用句をあまり使わない。

 

自分なりの表現で文章を書きたいからだ。

 

例えば「阿吽(あうん)の呼吸」なら「互いに息を合わせて…」と書くし、「灰汁(あく)が抜ける」は「嫌みやあくどさがなくなり、さっぱりして洗練された」と書く。

 

「生き馬の目を抜く」は「他人を出し抜いてでも素早く利益を得ることを考える」と書くし、「おべっかを使う」は「お世辞を言って上司に取り入る」とか書く。

 

「管を巻く」は「酔っ払って不平不満などをぐだぐだといつまでも言う」と書くし、「付け焼き刃」は「一時の間に合わせに覚えた知識」と書く。

 

「へそで茶を沸かす」は「おかしくてたまらない」と書けばいいし、「糠喜び」は「あてがはずれてがっかりする」と書けばいい。

 

「冷や水を浴びせる」は「意気込んでいる人に、まるで冷水をかけるように、元気を失わせるような言動をする」と書けばいい。

 

「董(とう)が立つ」なんて、だいたい読める人があまりいないのではないか。

 

「盛りを過ぎる」意味の慣用句だが、こういう難しい読みや意味のものは使わないほうがいいと思う。

 

「塞翁が馬」も読みにくいし、意味を知っている人が少ないと思う。

 

「何が幸せになり、何が不幸になるか予測しがたい」意味だが、だったらそう書けばいい。

 

「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」は『三国志演義』を読んだことのない人には通じないだろう。

 

「背水の陣」はわかると思うが、項羽と劉邦の戦いを知らない人には「古そうな慣用句だな」と思われてしまうかもしれない。

 

文章は、自分の考えや世の中の情報とかを読み手にわかりやすく正確に伝えるためのものである。

 

論文のようにわざわざ難しい言葉を多用する人がいるが、そういう文章は読まれないだろう。

 

慣用句を使うと便利なこともあるが、多くの人がわからないような難しい慣用句は使わないほうがいい。

 

四字熟語も同じで、使うと便利だが、読み手に理解できないような四字熟語は使うべきではない。

 

基本は、小学6年生でも読めて意味がわかるものなら使う。

 

そのことを頭に入れて文章を書きたい。

 

私はそう考えて文章を書いている。

 

他人には強制しない。

 

 

【ダイエット記録】目標達成体重より+5.3キロ。

夏になると蛾やカブトムシなどの昆虫が夜の灯火に飛んでくる。


そして灯火の近くをぐるぐる回る。

 


〈灯火に集まる昆虫たちは灯火の周りをぐるぐる回る〉


子どもたちが小さいころ、夏になると家族でキャンプに行き、夜、灯火に集まるクワガタやカブトムシをわんさか捕まえたものだ。


樹木を蹴ったりバナナトラップも試したが、一番効率がいいのは灯火に集まる昆虫を捕まえることだった。

 

〈夜、灯火に採集にいくとこんなにたくさん捕れる〉

 


〈ミヤマクワガタ(オス)〉

 

〈ノコギリクワガタ(オス)〉

 

〈コクワガタ〉

 

〈カブトムシ〉


ところで、昆虫はなぜ灯火に集まるのか、なぜ灯火の近くをぐるぐる回るのか。


昆虫たちは太古は月明かりや星明かりを頼りに飛行していた。


月や星の明かりで暗闇を見ていたのではない。


月や星の明かりを基点にして移動していたのだ。


例えば昆虫は樹液等の匂いを頼りに隣の林に行こうとしているとする。


その際、昆虫は月明かりや星明かりを確認する。


月は地球から遠く遠く離れていて、昆虫が移動してもその明かりはほぼ動かない。


だから昆虫は月明かりや星明かりを基点にして、移動先への方向と距離を測って飛ぶ。


例えば月明かりを右30度に確認して飛び立ったとする。


前方100m先の林に行くとすると、飛び立つ地点では右30度に見えていた月明かりが30度のままである。


それで昆虫は目的の林まで暗闇の中、飛ぶことができるのだ。


ところが人間が登場し文明が発達すると、夜間でもあらゆるところに灯火ができた。


昆虫たちは隣の林に飛ぶのに、月明かりや星明かりではなく、人工の灯火を確認して飛び立つようになった。
するとどうなるか。


人工の灯火が右30度に見えたとする。


前方100m先の林に行くには、人工灯火の位置が30度になればいい。


そう判断して飛び立つが、人工灯火は近くにあるため、少し飛んだだけで、右30度に見えたはずの明かりが20度、10度となってくる。


それで昆虫は左へと舵を切って明かりが右30度に見えるようにする。


そうやって飛んでいるうちに灯火に到達してしまう。


すると「あれ、おかしいな」と昆虫は左に舵を切り、右30度に見えるようになるようにしようとする。


ところが、昆虫が飛べば飛ぶほど人工灯火に近づき、いくら左に舵を切っても灯火の位置が右30度にはならない。


昆虫は、灯火の位置がとにかく右30度になるようにと舵を左に左にと切りまくる。


そのため人工灯火に昆虫が集まり、さらに灯火の近くをぐるぐる回ることになるのだ。


ああ、説明が難しいなあ。

 


〈灯火にやってきたところを捕まえたミヤマクワガタのオスとメスと後尾させて生まれた幼虫〉

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+5.3キロ。

AIを使いこなすことは、これからの人にとって必須のスキルになるだろう。


しかし、AIに頼りすぎるようになるのは問題だと思う。


なぜなら、考える力を養う努力が置き去りにされかねないと思うからだ。


私は何でも独学でやってきたせいか、どうしたらいいのか、どうすれば良くなるのか、どう直せば読者にうまく伝わるのか等について、とにかく考えて考えて考え抜いて仕事をしてきた。


それで“考えるクセ”がつき、“考える力”が付いたと思う。


もし昔からAIがあったら私もAIに頼り、“考える力”を養えなかったのではないかと思う。


AIをロボットだと考えてみよう。


仕事、家事をすべてロボットに任せていたら、仕事のスキルも家事力も確実に落ちるだろう。


よほどうまくロボットを使えば何とかなるように思うが、そうできる人は限られるのではないだろうか。


AIも同じで、これほど便利なものはないが、うまく使いこなせないと自分のスキルを磨けないと思う。


スキルを磨くうえで最も大切なのは“考える力”ではないだろうか。


“考える力”までAIに預けてしまったらどうなるだろうか。


“考える力”に乏しい人間になってしまうに違いない。


AIがないと何もできない人間になってしまう恐れさえある。

 


“考える”ことばかりしていると余計なことまで考えてしまうようになることもある。


それは問題だからそういう方向に行かないように注意しなければならない。


その点だけ注意して、AIを使うにしても、できるだけ自分の頭で考えて例えば文章を書き、AIにチェックしてもらうやり方であればいいのかなと思う。


ただしその場合でも、どうしてAIはこう直せというのかとか、しっかりと考えて答えを見つけて前に進むべきだと思う。


AIがこう直したのだからこれが正解なのだろうと深く考えもせず進むのは怖いことだと思う。


AIを使っても、自分で考える習慣はぜひとも持っておきたい。


ただ、AIによって学校や社会で活躍できるようになる障害者や病人がいるとしたら、それはぜひ使わせてやってほしい。


AIは、何となくだけど、そういうツールになり得るような気がするのだ。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+4.9キロ。


今日5日は、亡くなった愛犬アイルの月命日。


アイル、待っててね。


もう少しでそっちに行けると思う。


早くお前に会いたい。

 

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+4.2キロ。

「コクワさん」はさんは「note」で、「昆虫にも学習能力やモチベのようなもの、そして心や気持ちがあるというのは明らかではないでしょうか?」と書いている。

 

 

 

 

同感である。


「コクワ」さんの投稿を読むと、こんな事例が紹介されている。


ノミをコップに入れてフタをするとノミははじめは逃れようとして何度もジャンプするが、効果がない、もうダメだと判断するともうジャンプするのをあきらめるのだそうだ。


そうなってからフタを開けても、ノミはもう決してジャンプして逃げ出そうとしないという。


ノミは学習したのだ。


昆虫よりずっと下等なミミズでさえ学習をする。


上でT字路を作り、「T」の上の左右を長い道にし、片方を暗くし、もう片方を明るくする。

 



そのうえでミミズを進ませると、暗がりの好きなミミズは突き当たりで必ず暗いほうに向かう。


暗がりに曲がったミミズを針でつつく。

 



これを繰り返すと、ミミズはやがて明るいほうに進む。

 



このことから、ミミズでも学習できることがわかる。


昆虫は、ミミズよりもはるかに高等な生き物で、節足動物の中で最も進化した生き物である。


であれば昆虫が学習できるのは当然である。


それだけではなく、「心もあるのではないか」と思うことがある。


捕まえたセミの顔を見ると、私はとても哀しくなる。

 

〈エゾゼミ〉


何となく悲しげな目をしているように見えるのだ。


子どものころからそう感じていた。


カブトムシやクワガタなどの昆虫は悲しげには見えないが、きちんと飼って世話してあげている場合とほったらかしにしている場合とでは、彼らの動きが明らかに違うので、「こいつらも、生きやすさや生きにくさを感じる心を持っているのではないか」と思う。


密ゼリーをいつも置いてあげているとカブトやクワガタは安心して生きているように見える。

 

 


腐葉土を敷いてあげると彼らはすぐもぐり込むが、何も敷いていないと不安に感じているように見える。


置かれた環境によって昆虫は「生きやすい」「生きにくい」ことを感じるのは確かである。


とすれば、人間のような「心」とまでは言えないかもしれないが、彼らなりの「心」みたいなものを持っているように思える。


科学者は否定するかもしれないが、私にはどうにもそう思えて仕方がない。


植物でさえ、クラシック音楽を流して栽培するとよく育つという。


植物に優しく話しかけて栽培する人がいる。


そうするとうまく育つからだという。


逆にロックを聴かせたり罵声を浴びせつづけたりすると枯れたりすることもあるらしい。


となると植物でさえ何かを感じることができ、それは「心」とは言えないかもしれないが、植物でも環境に敏感なことは確かだろう。


昆虫に「心」があるなどと言うと「なにこの人?」と思われそうだが、私にはそう感じられるのだ。


昆虫採集の季節である。


捕まえた昆虫は逃がしてやるのが一番だが、飼育するなら、彼らにとって「生きやすい」環境を作って、ちゃんと世話してあげるべきではないか。


子どもは残酷でトンボの羽をむしったりバッタの脚を引っこ抜いたりアリを踏み潰したりする。


虫にとっては殺し屋で、とんでもない存在だとトンボやバッタやアリは感じるだろう。


でも子どもは、成長するにしたがって虫に対して行った残酷なことを反省するようになる。


それで命の尊さに気づく。


私もそうだった。


中学になるとそう思うようになった。


それで「アリさんを守る会」というのを作った。


当時の道路は舗装されていないところがあったので、アリはどこにでもたくさんいた。


普通に歩いていると必ず何匹か踏み潰してしまう。


「それをやめようよ。アリがいたら踏み潰さないように歩こうよ」というのが、「アリさんを守る会」の目的だった。

 

 


しかし友達は冷笑し、誰も参加してくれなかった。


それで私だけが常に下を見ながら歩き、アリを踏まないように注意して歩いた。


人間にとって昆虫は身近な存在だから、命を大切にする心と他人のことを敬う心を養ってくれる。


だから踏み潰したりしてもいいというのではない。


昆虫も人間と同じ生き物なんだということを教えてくれる大切な存在だと言いたいのだ。


昆虫の「心」を感じてあげて、昆虫を大切にしてあげたい。


そうすることにより、他人に優しい心が養われると思う。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+4.8キロ。


昔、子どものころ、夏休みにセミ捕りにいくとき、私は必ず麦わら帽子をかぶった。


子どもたちがよく行く「いっせんこ」には、夏になると麦わら帽子も売っていた。


「いっせんこ」は「一銭こ」のことである。


「こ」はたぶん「店」を意味していたのだと思う。


一銭、十銭といった硬貨があったころに「一銭」でもお菓子とかが買える店として子どもたちから慕われていた。


私の親世代がよく利用していて、彼らが「いっせんこ」と言っていたのを私たちの世代が聞いて、その呼び方で「いっせんこ」と言っていたのだ。


麦わら帽子は、中学に入ってからはかぶった記憶がない。


学生帽をかぶるようになったからかもしれない。


洋画を観ていて、外国人が麦わら帽子をかぶっているを見て、麦わら帽子って日本だけのものじゃないんだと思った。


麦わら帽子は中世後から欧州およびアジアにおいて夏季に着用されており、その形や原料は中世から今日に至るまでほとんど変化していないという。


麦わら帽子の最高の利点は通気性だろう。


天然素材でできており空気を循環させることができ、暑い日でも頭部を涼しく保ってくれる。


頭部の熱や汗による水分をうまく外へ逃がし、温度を下げてくれる効果もあるため蒸し暑さも感じさせない。


つばが広いものは、日焼けしやすい首の後ろまで守ってくれる。


紫外線に一番強い帽子とも言われており、約90%以上もの紫外線をカットしてくれるらしい。


麦わら帽子は英語でストとローハットという。


ストローは英語で麦わらのことなのだ。

 

麦わらはたぶん中空になっていて、それで中空になっているものをストローと呼ぶようになったのではないか。


日本の麦わら帽子は、1872年に町役人の川田谷五郎が外国人の帽子を手本に作ったのが始まりとされる。


大日本帝国海軍では明治時代に下士卒夏服の帽子として用いられた時期もあった。


特に埼玉県春日部市は、麦わら帽子を伝統手工芸品のひとつとしている。


同市では昔から麦農家が多く、真田紐を副業として作り始めたことから天然草の麦わら帽子を製造するようになったと言われている。


日本国内でもうひとつの産地として有名なのは岡山県である。


麦わら帽子をかぶる人が少なくなったと感じるが、紫外線の悪影響が強調されるようになったのだから、特に女性は麦わら帽子をかぶればいいのにと思う。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+4.4キロ。

 

「多くの人がnoteにAIで記事を書いている」ことを最近知って驚いた。


私は画像をAIで作ったことはある。


IllustratorとPhotoshopがインストールされているパソコンが壊れてしまったからだ。


IllustratorとPhotoshopといったソフトがあれば、画像作成にAIなんて必要ない。


私が使っていたIllustratorとPhotoshopはバージョンが古く、新しいバージョンのように素材集とかテンプレートなどはない。


それでも、古いIllustratorとPhotoshopでも何とか作ることができる。


文章をAIで作ったことはない。


必要を感じないからだ。だから、どのようにしてAIに文章を作らせるのか、あるいは大雑把に書いた文章をどのようにしてAIに手直しさせるのか、わからない。

 

どんな文章になるのか想像もできない。

 

おそらくだが、自分の文章にはならないと思う。

 

やたらと整然としているとか、単調だとか、つけ込む隙がないとか、そんな文章になるのではないかとは想像する。


特に人間の感情を揺さぶるような文章には決してならないだろうなと思う。


論文みたいな記事をよく見るが、それらの見せ方、見出しの付け方、文章の書き方が実によく似ている。


薄い色のバックに箇条書きの目次を付けていたり、いくつかの小見出しを付けていて、決まって最後に「まとめ」とか「終わりに」と小見出しを付けているところもそっくりである。


AIに、箇条書きで「これこれについて書きたい」「読みやすいように内容をいくつかに分けて」「それで記事を作成して」とか指示すると、そういう内容になるのではないか。


そういうのはAIなのかなと思う。

 

ロボットが作るようなそんな文章になど興味がないので、AIで作ろうなんてまるで思わない。

 

けれど、文章を書くことにあまり慣れていない人などはAIを使うのだろう。


文章を書くのが嫌いだとか苦手という人は、AIでできるならと文章を作らせるのかな?そういう文章を何かの賞に出していいものだろうか。


AI時代だからそういう作品を出してもいいのかもしれない。けれど、AIで作った記事や小説を有料で売っていいのかなとは思う。


記事や小説などではなく、例えば仕事のまとめとかをエクセルに作らせるとか、仕事用文書をワードなどで作らせるのはいいと思う。


能率が高まるし、空いた時間を別の仕事に振り向けることができるからだ。


しかし、記事や小説などは自分の頭で書くべきだと私は思う。

 

これからはAIがもっと進化して人間が書く以上の文章を生成できるようになるような気もする。

 

そうなれば、多くの作家や記者や編集部員がAIに頼るようになるかもしれない。

 

そんな記事を読ませられたり金を取られたりするのは、正直に書くと嫌である。


古い人間だからなのだろうが、この気持ちは変わらない。


もしAIを利用して文章を作っているのなら、その旨を明記すべきだろう。

 

ただ、「note」の記事を見ると、例えば疑問符や感嘆符の後に一字開けるといったちゃんとした文章が稀である。

 

日本語文章のルールまではAIもまだできないのではないか。そんなものに頼らないで、自分にしか書けない文章を書きたい。


AIに頼って文章を作っていたら、文章力は確実に落ちる。


どう書くと読者に正しく伝わるのかといったことを考える力が落ちるのが何より恐ろしい。


若者たちの日本語文章力と考える力が落ちるとしたら、これは大きな問題だと思う。

 

 


《追記》


この投稿に対していくつかのコメントをいただいた。


「AIの文章は感情がこもっておらず、パッションが感じられないのであまり使おうと思わないですね。画像作成では便利なので使いますけど」


「人類はいろんな機械を発明して、それを使うことで不可能だったことを可能にしてきました。コンピュータの発明は、それまでの人為的計算速度を飛躍的に向上させ、今ではそれなしの生活は考えられません。私は文章作成にAIを必要と感じたことはない(それ以前に使い方が分からない)ですけど、文章が苦手な人には救世主には違いないでしょうね。ただ、どんな機械も頼りすぎは、自身の能力低下を招くわけで、それを自覚しながらの使い方ならまあ許せるか、と言うのが今のところの見解です」

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+3.2キロ。

私が退所した千歳の障害者就労継続支援B型事業所からメールが届いた。


退所したのが5月27日なので、それから2ヵ月以上経った。


躁期からうつ期に入って退所したわけだが、なぜうつ期に入ったかといえば職員にひどい態度を取られ、ひどい言葉を浴びせられたからだ。


それで私がうつ期に突入して引きこもり状態におちいり退所したことを事業所は知っていると思っていた。


なのに1ヵ月以上経っても謝罪してこないので、もしかするとハラスメントをしたことに気づいていないのではないかと思った。


とすれば、私以外の人もハラスメント被害を受ける恐れがある。


それで告発することにした。


先々週くらいに、厚労省と北海道庁と千歳市役所に告発メールを送った。


先週、千歳市役所からそのことに関してのメールが私に届いた。


私がハラスメントを受けた事業所の名前と職員の名前を教えてほしいという内容だった。


告発メールには、その事業所名と職員の名前までは書かなかったからだ。


返信メールには、事業所名と職員名を書いた。


今週になってその事業所に千歳市役所から何らかのアクションがあったのだろう。


それでその事業所からやっと謝罪メールが私に送られてきたというわけだ。


以下がそうである。


…………………………………………


○○さん
ご退所後のご連絡となり、失礼いたします。
これまでの事業所での関わりの中で、スタッフの対応や言葉などにより、○○さんに不快な思いやつらい思いをさせてしまったことについて、申し訳なく思っております。
私たちとしても、○○さんのお気持ちを十分に汲み取れないまま、ご退所という結果になってしまったことを残念に思っています。
また、当時はお電話での対応も難しい状況だったため、こちらから十分にお話を伺ったり、気持ちを確認したりすることができなかったことも心残りです。
もし今後、少しお話しできる状態になりましたら、可能であれば一度直接お会いして、○○さんのお気持ちや当時のことをお聞かせいただければと思っております。
こちらからお伺いすることも可能です。
もちろん、今すぐのお話し合いが難しい場合は無理をしていただく必要はありません。
今回のことを振り返り、スタッフ間でも関わり方や対応について改めて考え、今後の支援に活かしてまいります。
これまでご利用いただき、ありがとうございました。
○○さんがこれから少しでも穏やかに過ごされることを願っております。


…………………………………………


私に配慮したきちんとした謝罪文である。


打ったのはサービス管理責任者だと思う。


この方はとても優しい人なので、ごく自然にこの謝罪文を書くことができたのだと思う。


私にハラスメントをした職員なら、配慮の足りない文章になったように思う。


「自分にはそういうつもりはなかった」とか「忙しくて」とか、そんなニュアンスを込めた文面になったように思う。


(ハラスメントとは、被害を受けた人がハラスメントだと感じればハラスメントであり、ハラスメントしたほうの「そんなつもりはなかった」といった言いわけは通用しない)


プライドの高い人なので、文面のどこかに自分の能力の高さを意識している言葉が出ると思うのだ。

 

『プライドなんか捨てろ!』という投稿をしたことがあるが、それはこの職員のことを念頭に置いて書いた)


私が文章の書き方について少し話したとき、まったく興味がなさそうだった。


文章なんて小学生でも書けると軽視しているか、俺は専門外だからとでも考えているからだろう。


小学生でもすらりと読めてすぐ理解できる文章を書くことがいかに難しいのか、考えたこともないのに違いない。


「言葉」の持つ恐ろしい力を知らないし、知ろうともしないのではないか。


イエスは、「はじめに言葉ありき」(新約聖書)と言った。


言葉の持つ力の大きさに気づいていたのだろう。


言葉で人を救うこともできるが、殺すことだってできるのだ。


それに気づいていない人などからメールなどもらいたくない。


もらったら私のうつ感はもっと堕ちただろうし。


私が文章の書き方について少し話したとき、まったく興味がなさそうだった。


文章なんて小学生でも書けると軽視しているか、俺には専門外だからとでも考えているからだろう。


小学生でもすらりと読めてすぐ理解できる文章を書くことがいかに難しいのか、考えたこともないのに違いない。


「言葉」の持つ恐ろしい力を知らないし、知ろうともしないのではないか。


そんな人からメールなどもらいたくない。


もらったら私のうつ気はもっと堕ちただろうし。


サービス管理責任者からのメールでホッとした。


ただ残念なのは、部下がハラスメントをしたことに気づいていなかったみたいに感じられる表現があることだ。
 

2ヵ月以上も謝罪せず、行政から指導か何かされてやっと謝罪してきたということは、気づいていなかったのだろう。


だとしたら管理者として少しばかり問題である。


責任者としての管理責任はあるだろう。


職員任せにしていた面があるので、それは見直したほうがいいと思う。


任せられていると感じて職員がハラスメントに及んだのだとしたら、責任者と職員の双方に責任がある。


責任者にしろ職員にしろ、障害者支援をする会社で働く人が「気づかなかった」と言いわけしても許されない。
 

ハラスメントしてきた職員が謝罪にきたりしたら、恐怖から反射的に蹴り倒してしまうかもしれない。


だから謝罪はもういらない。


他の利用者(障害者就労継続支援事業所に通所する障害者)には決してハラスメントをしないと誓い、自分を律してほしい。


この事業所とは、金輪際、関わりたくない。


人を死に追いやるような人とメッセージをやりとする気はさらさらない。


もちろん、引きこもり状態なので会う気もない。


会えばとんでもないことをしてしまいそうである。


それに、会ったら精神的にさらに追い込まれ、死期が早まる。


もうメールなんてしないでほしい。


私に近寄らないでほしい。


なお、これまでの経緯を以下のページにまとめているので、興味のある方はご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+3.1キロ。

 

私はセミが好きである(バルタン星人も好きだ)。


左右に離れた小さい目を見ると、何か思案しているように感じるし、とにかく可愛くてしょうがない。

 

〈エゾゼミ〉


千歳では6月にはエゾハルゼミが、今はエゾゼミが鳴き誇っている。


暑い夏は苦手だが、セミの鳴き声は大好きだ。


小学生の夏休み、毎日、セミ捕りに行った。


長い長い竹竿の先に虫捕り網を取り付け、横にして持つと竹がしなって先端と後端が地面につく。


それで妹に頼んで同行してもらい、ふたりで竹竿を前後に連なって持ち、近くの東北大学構内の林に行ったものだ(当時、私は仙台に住んでいた)。


セミを見つけるのが私は大得意だった。


セミが木の幹に止まっているとする。それを正面から見つけるのはちょっと難しい。


しかし横から見るとセミのシルエットがはっきりして見間違えることはない。

 


〈クマゼミの横の姿〉

 


〈クマゼミのオスとメス〉


そこでオスかメスかも見分けられる。


メスならジッとしているが、オスならたいてい鳴いているので腹部が大きく動くのだ。


そのことを思い出してふと気づいたことがある。


テレビでセミが出てくることがある。

 

蝉時雨(せみしぐれ)の降る真夏の中のドラマやニュースなどだ。


そこでテレビで映るセミは決まってメスなのだ。


動かない。


オスなら腹部を大きく動かして鳴くので、腹部がピコンピコンと動く。


その上にある羽根をも押し上げて動く。


蝉時雨のシーンを表現したいなら、そういうオスのセミを映すべきだ。


カメラマンや監督さん、そこんところ、わかってほしいなあ。


ちなみに、セミは1週間で死ぬと思っている人が多いが、成虫は短くて1週間、長いと1ヵ月生きる。


『八日目の蝉』という小説がある。

 


〈『八日目の蝉』〉


セミは1週間で死ぬという“常識”から思いついたタイトルだろう。


内容もそうなっている。


しかし、セミの成虫は普通は1週間以上生きるのだ。


また、セミの幼虫が地中時代を過ごすのは7年と教えられた人が多いと思うが、実際は3年から8年くらいと一定しないらしい。


外国には、幼虫が17年も地中で過ごすセミもいる(「17年ゼミ」という)。


セミの成虫を探して網で捕まえるのも面白いが、幼虫を捕まえるのも面白い。


夏の夕方になると、セミの幼虫が地下から地上に出てくる。

 


〈地中から出てきたセミの幼虫〉


夕方になる前に地面のすぐ下までのぼってきていて、地面にちょっとだけ穴を開ける。


アリの巣の穴なら掘った土や砂が穴の周囲に盛り上がっているが、セミの幼虫があける小さな穴は、平らな地面にちょこんと開いている。


そういう穴を探し、指を突っ込むとボコッと穴が大きくなる。


その穴に細い木の枝等を入れてやるとセミの幼虫はそれにつかまる。


その枝を持ち上げれば幼虫をゲットできる。


そうやって何匹も幼虫を捕まえ、家に持って帰ってカーテンとかにくっつけてやる。


そうして夜になると、彼らは羽化する。


見事なほど美しい青白い姿をしている。

 


〈羽化途中のセミ〉


羽化したセミは朝になるまでジッとしている。


羽根に血が入って硬くなるのを待っているのだ。


自然界では、そんなセミをアリたちが襲って食べてしまうことがある。


家の中なら安全だ。


朝になってちゃんとした成虫になったら窓から放してやる。


懐かしいなあ。

 


※ちなみに、エゾゼミの成虫を捕まえるのは実に難しい。彼らは高い木のずっと上に止まっているからだ。よほど長い竿を使っても届かないはるかな上にいるのだ。それで考え、勾配の急な山の道を登りながら捕まえてみた。勾配の急な山には斜めに道が付いている。その山道を登っていくと、山の下側に生えている木の上部が間近に見えてくる。竿の届くところにエゾゼミがいるのが見えてくるのだ。それで竿を近づけ、網ですくうわけである。お試しあれ。


【ダイエット記録】目標達成体重より+2.4キロ。