〈高野山金剛峯寺は一大宗教都市になっている/世界遺産〉
空海の興した高野山金剛峯寺では、毎日の勤行(ごんぎょう)のとき、僧たちは「理趣経」を詠む。
空海が一時住職を務めた京都の東寺でも、朝夕の勤行のときに誦(ず)するのは「理趣経」である。
〈東寺(教王護国寺とも呼ばれる)/世界遺産〉
「理趣経」とは大乗経典のひとつで、だから釈迦の教えではない。
〈藤原定信筆 般若理趣経〉
釈迦の教えは小乗経典の中にある。
法華経も阿弥陀経も般若経も大日経も大乗経典なので、釈迦の教えとは何の関係もない。
日本で栄えている「仏教」のほとんどはそれら大乗経典をよりどころにしているので、名乗るなら「仏教」ではなく他の名称にすべきだろう。
特に空海の真言密教は大乗仏教ともほとんど関係のない教義で、ほとんどバラモン教と言ってよい。
真言密教が大事にする「大日経」などは中国に渡ってから作られたものだ(確か釈迦滅後1,000以上経った7世紀ころ)。
〈高野山金剛峯寺の奥之院は空海の廟で、空海は死に臨んで「私はお前たちの信仰をずっと見守っている」と遺言した。弟子たちはその言葉を信じ、今でも奥之院に毎日食事を運んでいる。誰もいない奥之院に食事を運ぶ僧たちは疑問に思わないのだろうか〉
さて、「理趣経」である。
この経典については昔から問題視されてきた。
仏教(特に顕教)においては(密教とは空海が興した真言密教のことで、他の日本仏教は顕教と呼ばれる)、男女の性行為を否定している(近世から僧たちは妻帯するようになったが)。
これに対し「理趣経」では上記のように欲望を完全否定していないことから、「男女の交歓を肯定する経典」とも見られてきた。
実際、「理趣経」の中には、欲望肯定(あるいは男女性交)=即身成仏であると書かれてある。
インドには、岩の壁を彫って男女交合の様子を精緻に描いた仏教遺跡があるそうだが、とするとインドにはもともとそういう考え方をする人がいて、それで「理趣経」が生まれたのかもしれない。

〈インドのカジューラ遺跡の壁の彫刻/激しく交わる男女の姿が表現されている〉
「欲望を持ち、煩悩に悩まされている凡夫の暮らしのなかに、真理に生きる姿を認めようというのが『理趣経』の立場である」と解釈する人もいるが、どう読んでも男女交合が即身成仏の道だと書いてあるのだ。
その「理趣経」を、高野山金剛峯寺でも東寺でも、今になっても毎日、僧たちが声を出して詠んでいる。
この「理趣経」をもとに「男女交合こそ即身成仏の道である」と唱えて、平安時代末期に発生し江戸時代中期まで人々を惑わしたのが真言立川流である。
真言立川流は江戸時代に一度消えたが、また似たような教団が出てくるのではないかと私は不安に思っている。
釈迦は多くの戒律を守って悟りを開いた。
悟達のあとも厳しい戒律を守った。
弟子たちもそうだ。
戒律の中で最も重視されのが「女犯の戒」である。
それが釈迦の教えなのだ。
それは釈迦が死んで約百年後に孫弟子やひ孫弟子たちによって文字にされた。
釈迦在世当時は文字がなかったが、約百年後に文字ができたのだ。
そうしてまとめられたのが小乗経典である。
しかし、戒律があまりに厳しいとか、悟ることがあまりに困難等の理由で釈迦の教えは広まらなかった。
信者も集まらなかった。
釈迦が死んで4百年以上経ったころ、釈迦の教えを見直そうと弟子たちが考え、釈迦の言ったこと、したこととはまったく違った多くの大乗経典をでっち上げた。
すると信者が急増した。
戒律があまりなく、悪人でも成仏できるとか、経典を読めば生きたまま成仏できるといった、釈迦が聞けば卒倒するような「仏教」になってしまった。
肉や魚を使わない精進料理が多くの仏教寺院で作られていて、一部の僧たちは現代でも肉や魚を食べない。
彼らは、せめてその点だけでも戒律を守ろうとしているのかもしれない。
また、戒律を守る多くの僧たちは若い僧を相手に男色にふけるという。
女性を抱けないのなら男で性欲を発散させるしかないのだろう。
浄土真宗を開いた親鸞(鎌倉時代の日本の僧)が妻帯したことから僧の妻帯が普通のことになり、今ではほとんどの僧が妻帯している。
釈迦がそれを知れば呆然とするだろう。
また真言密教では加持祈祷のときに紙曼荼羅を描くが、その際に長老の僧が射精した静液を絵の具に混ぜて曼荼羅を描くこともあるらしい。
そんな気持ち悪いもので祈祷されるなんて真っ平だ。
そんなことになるなら、真言密教なんてなくしてしまったほうがいいと思うが、伝統があるものだけに、そう簡単になくすわけにはいかないだろう。
そう考えれば、精液で曼荼羅を描くことはともかく、僧たちの妻帯もやむを得ないかなと思う。
しかし、仏教開祖である釈迦が卒倒するような、いや卒倒するどころか狂い死にしてしまうかもしれないようなこと、つまり男女交合こそ仏の道と説く「理趣経」はなくしたほうがいいと思う。
性交でエクスタシーを得られるのは「仏の境地に至ったから」と説かれれば、何割かの人は信じてしまうだろう。
性交によって得られるエクスタシーは、なるほど天まで昇るような快感ではある。
だからと言って、エクスタシーが仏の境地だとは誰も思わないだろう。
「理趣経」を普通に読めば、それは禁断の書と言っていい。
この世から消し去ったほうが今後のためにいいと思うのだ。
かといって男女交合を悪いことだと言うのではない。
一般人は大いに楽しめばいい。
だけど僧は我慢すべきだ。
僧侶になろうと思うなら、その覚悟をしてほしい。
それが釈迦の教えなのだから。
それを守れないのなら、自分を仏教の僧だとは名乗らないでもらいたい。
仏教ではなく新しい宗教だと名乗るなら、人々を救えるような教義を示してもらいたい。
間違っても「理趣経」こそマコトの仏の教えだなどと思ってはいけない。
「理趣経」は人を惑わす禁断の経典なのだから。
【ダイエット記録】目標達成体重より+3.1キロ。























