土方歳三 | aichanの双極性日記

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千歳在住の情けないおじさんです。
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私の好きな歴史上の人物の第一は諸葛(しょかつ)孔明である。


『三国志演義』で有名な天才的軍師であり、天才的行政家だった。


昔から中国はコネや賄賂がモノをいう国だったが、孔明は実に清廉だった。


劉備(りゅうび)のために蜀(しょく)という国を建てさせ、劉備が「私の死後は皇帝になってくれ」と言われても断り、劉備亡きあとはその子の劉禅を皇帝にした。


自分は自国の民のために優れた行政をし、魏と呉という他国との戦いに明け暮れ、五丈原という戦地で没した。


彼ほど欲の少ない人は、中国史上(もしかするとアジア史上)、おそらくいないのではないか。


私も「欲」のあまりない人間なので、孔明の生き方に激しく共感する。

 


〈諸葛孔明/後世の人が想像で描いたもの〉


私の好きな歴史上の人物の第二は日本の真田信繁(幸村)である。


父の昌幸は武田信玄の家臣だったが、武田家滅亡後、信州上田の城主になった。


ここで二度にわたって徳川軍を撃退した。


二度目は、昌幸は豊臣側につき、関ヶ原に向かう徳川秀忠の三万八千もの軍を、わずか数千の軍で信州上田城で迎え撃ち、徳川軍を翻弄した。


秀忠は上田城を落とせず関ヶ原にも間に合わず、徳川本隊が戦場に来ないという大失態を犯し、家康に激しく叱られた。

 

(このため東軍として戦ったのは豊臣恩顧の大名で、西軍ももちろん豊臣恩顧の大名だから骨肉の争いになった)


関ヶ原で西軍(豊臣側)が負けたため、家康によって昌幸と信繁は紀州九度山に流罪となって昌幸は65歳で死んだ。


信繁は昌幸の次男で、中年になるまで九度山で流罪のまま日を送った。


家康の悪賢い陰謀で豊臣側が戦に立ち上がると、豊臣側は信繁に「大坂城に入城してほしい」と密使を送ってきた。


信繁は周囲に住む農民を騙し、豊臣側か贈られた金で武装して大坂城に入り、「大坂冬の陣」では「真田丸」というユニークな出城を築いて徳川軍をさんざんに苦しめた。


信繁は戦術の天才だったと思うが、その多くは父の昌幸から学んだものだろう。


九度山に幽閉されていたとき、昌幸から戦術を学んだのかもしれない。

 

ただし、昌幸は戦術の天才だったとともに謀略の天才でもあった。


この点は信繁は見習わなかった。


性格的に、謀略のような裏の戦術が嫌いだったのではないかと思う。


大坂城を陥せない徳川軍は、大砲を引き出してきて大坂城本丸を砲撃した。


その砲弾のひとつが淀殿の部屋の近くにぶっ飛んできたため淀殿は恐怖に駆られて講和を進めるよう家臣に命じた。


大坂城を支配していたのは、秀吉の側室で秀頼の母だった淀殿だったのだ。


信繁ら武将たちは講和に反対したが、淀殿には逆らえなかった。


講和がなると家康は、大坂城の堀をすべて埋めてしまった。


講和では「外堀だけ埋める」となっていたのだが、ずる賢い家康は堀という堀を全部埋めたのだ。


「真田丸」も取り壊された。


大坂城は本丸剥き出しの裸城になってしまい、「夏の陣」で信繁は野外戦をするしかなくなった。


信繁は何度も大坂城に伝令を出し、「秀頼様のご出陣」を督促したが、淀殿が「そんな危ないところに秀頼を出せますか!」と拒否したので実現しなかった。


信繁は覚悟を決め、赤備えの見事な真田軍を引き連れて家康の本陣に向けて突進した。


大将は後ろに控えて家臣たちに命じて戦をさせるのが普通だったのに、信繁は軍の先頭に立って馬を走らせた。


信繁は「もうすぐ家康!」というところまで迫り、家康に自害を覚悟させたほどだ。


そこで家康の旗本たちに囲まれて果てた。


信繁には、家康の首を取って豊臣家の大名になろうといった気持ちはまったくなかったようだ。


天下の大名たちの多くが家康についている状態では、豊臣家は滅ぶだろうと見切っていたはずだ。


家康を討っても、もうどうにもならない時勢になっていると知りながら、武士らしく「名こそ惜しけれ」の精神で突撃したのだと思う。


鎌倉武士から始まった「名こそ惜しけれ」の生き方を貫いた見事な生き方、死に方だった。


そんな真田信繁のことを私は日本人として誇りに思っている。


ちなみに「信繁」から「幸村」に名を変えたのは関ヶ原からのようだから、その間に大坂方についた信繁には思うところがあったのかもしれない。

 


〈真田信繁〉


私の好きな歴史上の人物の第三は日本の吉田松陰である。


松陰は幕末の長州藩の貧しい武家に生まれ、伯父から「武士は公僕なのだ」ということを殴られながら叩き込まれた。


そのせいか松陰は、「私」の意識の薄い青年に成長した。


そして思想と行動はひとつでなければならないと信じた。


尊王攘夷思想を持っていた松陰は、幕府の開国政策を批判した。


しかし、攘夷(外国人を打ち払う意)を叫ぶ前に、外国の文明を見て行動すべきだと思った。


それで、ペリー艦隊の船に乗せてもらってアメリカに行くべく、友人と船に乗って艦隊に漕ぎ寄せて乗船した。


ペリーは幕府との交渉に差し支えると考え、松陰をアメリカに連れていくことを拒んだ(アメリカはまだ幕府と条約を結んでいなかった)。


そのことがあって幕府は松陰を捕らえ、罪人を運ぶカゴに松陰を乗せて長州藩に戻した。


長州藩は幕府の手前、松陰を獄に入れるしかなかった。


出獄しても松陰は家から出ることを禁じられた。


その家で松下村塾を開き、若者たちに多大な影響を与えた。


けれど弟子たちが志士活動するのをみて、松陰は彼らに以下のような手紙を送った。


「僕は忠義をするつもり。諸友は功業をなすつもり」と。


この言葉は私の座右の銘である。


「忠義」は今の時代にそぐわないいが、彼の時代には正義だった。


私だったら、「僕は信念を貫くつもり」と書き直すだろう。


松陰は天皇への忠誠のために死のうとしていた。


対して弟子たちの中には、幕府を倒して出世しようとしている人もいたのだろう。


私も「功業」を目指すことに興味がないし、そういう人を見ると怒りが湧くことさえあるので、松陰の気持ちが少しはわかる。


松陰は若くして幕府によって断首され、弟子たちは討幕運動へと進んだ。


久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文などである。


松陰がいなかったら、長州藩が過激化することはなかったと言われている。


それほどの影響力を持つ教育者だったことも素晴らしいが、それよりも私が共感するのは、孔明と同じく清廉だったことだ。

 


〈吉田松陰/老けて見えるが、これで二十代である〉


私の好きな歴史上の人物の第四は土方歳三である。


土方歳三は、幕末の京の志士たちを震えあがらせた新選組の副長である。


土方は多摩の大百姓の末っ子として生まれ、バラガキと呼ばれるほどやんちゃだった。


近藤勇とは少年のころから仲が良く、天然理心流に入門して師範代にまでのぼった。


近藤はこの天然理心流の四代目を継いだ。


その土方や近藤が京の治安を守る新選組を結成したいきさつについては省く。


京都守護職を務めた会津藩のお預かりだったとだけ書いておく。


徳川幕府最後の将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還しても、薩長土は錦旗をでっちあげ、自分たちを官軍、慶喜を賊軍と規定し、徳川氏を滅ぼそうとした。


新選組を含む旧幕府軍は鳥羽伏見で敗れ、江戸に戻った。


旧幕府の武士たちの一部は結束し、また会津藩はもちろん東北諸藩も薩長土のやり方に反対し、戊辰戦争が始まる。


会津藩士や会津の庶民は官軍になった薩長土と果敢に戦った。


会津若松城が砲弾や銃弾で崩れ落ちそうになるまで戦ったが、それ以上の交戦は無理で官軍に降伏した。

 


〈戊辰戦争で崩れそうになった会津若松城〉


その少し前に、今の千葉県で近藤は官軍陣地に投降して斬首された。


土方はめげず、旧幕府艦隊とともに蝦夷地(今の北海道)まで行った。


リーダーの榎本武揚(旧幕臣)は、蝦夷に共和国を作るつもりだった。


官軍はその蝦夷地の箱館(今の函館)にまで進軍し、榎本は降伏を決意する。


そうみた土方は、とうてい勝ち目のない戦場に単騎で突き進み、官軍の銃弾に倒れた。


「いったん幕府についたからには最後までその信念を貫こう」と考えていたのだろう。


新選組は薩長土の志士たちを数えきれないほど斬り殺しただけでなく、隊内の多くの裏切り者や卑怯者を斬首したり切腹させたりした。


降伏しても自分は斬首されるだけだと思ったろうし、それよりもかつての部下たちを死に追いやった身としては、生き延びるという道など選択できなかったのだと思う。


ともあれ、戊辰戦争で最後まで官軍と戦ったのは土方歳三なのだ。


その生き方に惚れ惚れしてしまう。


江戸幕府を開いた家康は自分の子孫を将軍にすることしか考えていなかった人間なので大嫌いだ。

 

政権を世襲させるなんてやつはダイッキライなのだ!

 

世襲議員も大嫌い。

 

世襲企業も大嫌いだ。


徳川幕府もあまり好きではない。


土方の生まれた多摩は幕府の直轄地で、天領と呼ばれていた。


そんな土地で生まれ育った人間は、幕府や将軍を雲の上の存在のように敬ったろうし、「オレたちは将軍さまの百姓だ」と威張る気持ちにもなったろう。


けれど土方の場合、幕府のために最後まで戦ったのは、それだけが理由ではない気がするのだ。


信念や節度を貫き通す強い意志がもともと彼にはあったのではないかと思う。


それで、時代が封建制から変わるべく動いていることに気づいていても、土方は最後まで戦ったのだ。


そういう土方さんを、私は敬愛している。


「第四番目」にしたが、誰の生き方が一番好きかと問われたら、土方歳三と答える。


時代遅れだと言われても、自分の信念を貫いて生き、死にたい。

 


〈土方歳三/箱館で撮影された。超美男子である〉


ほかにも、直江兼続(かねつぐ)や上杉鷹山(ようざん)なども尊敬に値する人物だと思っているが、今回は敢えて上記四人を挙げた。


私は、清廉だったり、信念を貫いた人を敬愛する性格のようだ。


自分もそう生きたいと願っているからだろう。


そういえば、きょう5月11日は土方さんの命日だ。


冥福を祈る。

 


【ダイエット記録】目標達成体重より+2.7キロ。