《2024年6月23日》ー福祉の仕事に就くことを考えたが今は福祉事業の世話になっている | aichanの双極性日記

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千歳・札幌の季節の風景とレザークラフトとアウトドア(特にフライフィッシング)。
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20年以上前の45歳くらいのとき、私は実に貴重な体験をした。

 

福祉に関わる勉強をしたのである。

 

「勉強」というのは職業訓練である。

 

職業訓練を受ければ雇用保険の失業給付金がもらえる。

 

そのころ、私は勤めていた会社を自己都合で退職したので、失業保険は退職後3ヵ月経たないと支給されなかった。

 

しかし、職業訓練を受ければすぐ支給される。

 

私が職業訓練を受けた目的はそれだった。

 

私が受けた職業訓練は「ホームヘルパー2級」の講座だった。

 

「ホームヘルパー」というのがどんな職業なのかさえ、申し込んだ時点で私は知らなかった。

 

雇用保険による職業訓練だが、実際の訓練は民間の学校が受け持つことが多く、私の通ったのも札幌にある民間の福祉専門学校だった。

 

初日は緊張した。

 

指定された教室に入ると、女性ばかりが座っている。

 

男は私も含めて4人だけ。

 

私は高校が男子校で専門学校も男ばかりだったので、共学は中学以来30年ぶりだったのだ。

 

最初の1ヵ月くらいは、半ばイヤイヤながら通った。

 

初めのころは勉強なんてイヤだなあと思っていたのに、次第に学校が恋しくなってきた。

 

教室は毎日賑やかだった。

 

休憩時間ともなると、女性陣の嬌声でウワンウワンと教室が振動する。

 

私はおしゃべりは得意ではないので、好きな本を読んだりして時間を過ごした。

 

ときに会話に加わるが、それが特別楽しいというわけではなかった。

 

「何が楽しいんだろう?」

 

私は自問してみた。

 

よくわからない。

 

強いて言うと、みんながこの学校に溶け込んでいるという雰囲気が心地よかった。

 

全員がひとつの目標に向かって団結しているとかそんなのではなく、みんながクラスの中に、ただ自然にそのままの姿でいた。

 

何年も前からみんな同じクラスで、同じ教室で勉強してきた。

 

そんな雰囲気に近いものが私には感じられていた。

 

あまりにも自然なその空気に、言いようのない安心感を私は感じていた。

 

それぞれ家庭があり、さまざまな問題を抱えている。

 

失業者ばかりなので、生活の苦労もみな背負っている。

 

平均年齢が40代半ばなので体の悩みを持つ人も多い。

 

けれども、私たちの会話が暗くなることはなかった。

 

ふと気付くと、こんなに明るくしてばかりでいいのかと不安になることもあるほどだった。

 

長い人生経験を経て、抱える悩みや苦しみを外に表すことなく笑い飛ばす能力を我々は身に付けたのだろうか?

 

そんな難しい理由よりも、ただ純粋に楽しかったからだったのではないかと私は思う。

 

もしかすると、高校の同窓会に似た雰囲気があったかもしれない。

 

同窓会とは違うが、同窓生が集まって同じ教室で何かの勉強を始めたらこんなふうになるのではないかという、そんな雰囲気もあったような気がする。

 

童心にかえっていたのだろうか。

 

生活の厳しさや人間関係のわずらわしさなどの世俗的なことを忘れ去るくらい、私たちは童心にかえって純粋に学校を楽しんでいたのかもしれない。

 

そして、その楽しさを、みんなが大切なものとして温めようと心のどこかで意識していたように思う。

 

その気持ちは、ある事件をきっかけにグンと強まったと思う。

 

事件の発端は、ある雪の日に行われた車椅子介護の実技だった。

 

ベッドで寝ているお年寄りの着替えを手伝い、車椅子に乗っていただき、そのまま外に散歩に行くという実技である。

 

この実技で、車椅子の構造、ブレーキのかけ方、押し方、段差の乗り越え方、方向転換の仕方、車椅子への乗せ方、車椅子からの降ろし方などを学んだ。

 

私たちはお年寄りと介護者役のペアを作り、それらの実技に挑んだ。

 

 

この数日後、先生が何やら含み笑いをしながら「皆さんにプレゼントを用意しています」と言った。

 

「ええー。なになに?」

 

と何人かが聞いた。

 

私たちのほうが先生よりだいたい年上だったせいで、私たちは先生たちに対してかなり気安く声を掛けるのが常だった。

 

先生たちは年上の私たちに対して丁寧な言葉遣いをする。

 

教える側と教えを受ける側の立場が逆転して見えそうだが、そんなことはなかった。

 

言葉遣いは多少ぞんざいだったと思うが、私たちは先生たちを見下すようなことはなかった。

 

さて、「ええー。なになに?」と聞かれた先生は、多くを語らずニヤニヤしているだけ。

 

翌日、そのプレゼントがどんなものなのか、見本を見せられて私たちは感動してしまった。

 

「車椅子免許証」だったのである。

 

本物の免許証と同じくらいの大きさで、体裁もデザインもそっくり。

 

顔写真も入っている。

 

もちろん、車椅子介護を行うのにそんな免許証は必要ない。

 

遊び心いっぱいの免許証だった。

 

手作りだった。

 

クルマの普通免許証を真似て全生徒の数分の台紙を作り、全生徒の名前をそれぞれ打ち込み、全生徒の顔写真を貼り、それをラミネートでサンドイッチし、角を円く丁寧にカットしてあった。

 

昼の勤務時間内にその作業をするのはおそらく不可能だったろう。

 

何日か残業して作り上げたに違いなかった。

 

そのできの素晴らしさにも感動したが、残業してまでそんなものを私たちのために作ってくれた先生たちの真心に感動した。

 

先生の多くはお年寄りの介護施設で実際に介護を経験してきていた。

 

そのためもあってか、私たちのような年輩者に対しても先生たちは実にうまく接してくれていた。

 

先生たちは、老人介護に必須の“人格尊重”“共感”“受容”を私たちに対してごく自然に行ってくれていたのだと思う。

 

いろいろな手続きに手間取る私たちに根気よく説明してくれ、教室が寒いだの暑いだのという私たちのわがままに嫌な顔ひとつせず、それどころか、申しわけないと言っては謝ってくれた。

 

実技がなかなか覚えられない私たちに、何度も何度も、汗をかきながら実際にやってみせてくれた。

 

居眠りしていても、「私も眠いから皆さんの気持ちはわかります」と言って許してくれた。

 

そして、理解力の衰えている私たちのために、残業したり家に持ち帰っては講義用の資料を作ってくれたりもした。

 

見ようによっては、私たちは老人ホームの入所者で、先生たちは介護職員のような感じだったかもしれない。

 

そんな姿を見ていたので、私たちは最初のころから先生たちは大変だと思っていたし、感心していた。

 

車椅子免許証のことを知ったときからは、「大変だ」「感心だ」と思うだけでなく、「慕う」という気持ちも芽生えてきたように思う。

 

「この人たちは仕事だから仕方なく私たちと接しているのではない。人間として私たちに接しようとしてくれている。真剣だ」

 

と私は感じた。

 

この日以来、私は先生たちを心から「先生」と呼びたくなった。

 

私たちはあまり意識していなかったが、この素晴らしい先生たちがいたからこそ、私たちのクラスの横のつながりがより深まったのだと思う。

 

その翌日、事件が起きた。

 

朝、始業時間になるとともに、先生たち全員と学校の管理職員たち数人がぞろぞろと教室に入ってきた。

 

みなおし黙り、一種異様な雰囲気が教室を圧迫した。

 

私たちは何事が起きるのかと成り行きを見守った。

 

管理職らしい職員が教壇に立って話しはじめた。

 

回りくどい話し方で、何が言いたいのか私にはよくわからなかった。

 

そのうち何が言いたいのか少しわかってきた。

 

要するに、「車椅子免許証」はプレゼントできないということのようだった。

 

その理由についての説明がまたクドクドとしていてわかりにくい。

 

要は、本物の免許証にそっくりなのが問題らしい。

 

ちょっと見た目に本物の免許証に見えるので、何かの悪事に利用されると大変だと言いたいらしい。

 

「だから、あの免許証はハサミを入れて破棄したい」と言いたいようだった。

 

しかし、私たちが楽しみにしていることを知っているせいなのか、そのようにズバッとは言いにくいらしい。

 

遠回りにそれとなく言っている。

 

私は次第に腹が立ってきた。

 

他のみんなも同様に腹を立てていたようだ。

 

男勝りのマッチャンが、怒気もあらわに言い放った。

 

「だから何が言いたいのよ? 破棄するってことかい?」

 

「いえ、ですからね」と職員がまた回りくどい説明を始める。

 

それをさえぎるように、私たちの間から次々と声が飛ぶ。

 

「私たちが悪事に使うってことですか?」

 

「私らはいい大人なんだからそんなバカなことするはずないでしょう」

 

「これは遊びでしょう? 遊びに横槍入れるってのはどうですかね」

 

「先生方がせっかく作ってくれたのに……」

 

職員は困惑顔で、しかし「皆様の気持ちはよくわかります」というようなことを言ったあと、こう言った。

 

「そのかわり、あの免許証を拡大コピーしたものを皆さんに差し上げます」

 

これには私がキレた。

 

あの免許証を作った先生たちは、確かに配慮が足りなかったかもしれない。

 

個人で作るならともかく、組織の一員として本物の免許証とそっくりなものを作れば、万が一、問題が起きたとき、事が大きくなる。

 

公文書偽造だなどと騒ぐアホな人間もいるかもしれない。

 

しかし、私たちにとってあの免許証は、先生たちとの短い付き合いを証明するものだったし、先生たちの真心が形になったものだった。

 

そして、私たち生徒全員と先生たちが、この時期、この場所で、同じ空間と時間をともにし、絆を深めた証しなのである。

 

車椅子免許証は、そうなるはずの貴重なものだったのだ。

 

「あなたがそうおっしゃる気持ちはわかります。私があなたの立場なら、同じことを言っていたかもしれません」

 

と私は話しはじめた。

 

まず相手の立場を認めてあげて、気分的に楽になってもらおうと思ったのである。

 

そうすれば、こっちの意見をもう少し聞いてくれるかもしれない。

 

「しかしですね。あの免許証は、あの大きさと、あの体裁と、あのデザインであってこそ価値のあるものだと思うんです。拡大コピーなどしたものをいただいても、私たちは嬉しくありません。あれは私たちにとって現物でなくてはならないのです。そういうものだと思います」

 

私の説明は足りていなかった。

 

しかし演説など苦手な私にはそれ以上うまく自分の気持ちを話すことができなかった。

 

職員はまだ頑なに「コピー」で勘弁してもらいたがった。

 

「クルマの免許証と同じ大きさとデザインである」ことがどうにも引っかかるらしい。

 

何か問題が起きたときのことが不安で仕方がなかったのだろう。

 

どうにも頭が固いようなので、私は折衷案のようなものを出してみた。

 

「あれは現物でなくては価値がないのです。であれば、どうでしょうか、各人があの免許証を手に持ち、その姿を写真に撮っていただけないですか? そしてその写真をいただけませんか?」

 

それなら、先生たちの苦心作がそのままの形で残る。

 

しかも「この時、この場所で私たちはともに学んだ」という証拠が確かに残る。

 

しかし、私のこの案も受け入れられることはなかった。

 

その翌日、学校から大ぶりの封筒が各自に渡された。

 

中には免許証の拡大コピーが入っていることはわかっている。

 

私は見たくもなくて、そのまま鞄に入れ、家に帰ってから捨てた。

 

いやしくも教育者であれば、世間体や体面や後難を恐れるあまり生徒のヤル気を削ぐようなことはすべきではないだろう。

 

その意味で、あの学校の管理職職員の度量のなさは何とも情けない。

 

他の仕事をするほうが向いていると思うので、教職は辞めたほうがいいと思う。

 

少なくとも私は彼らを「先生」とは呼べない。

 

それに対して、私たちに車椅子免許証をプレゼントしてくれようとした先生たちのことは、私は素直に「先生」と呼ぶことができる。

 

教育者にとって最も大切なものを持っていると私は感じるからだ。

 

間もなく私たちは実習に出た。

 

各地の老人関係施設に短期間勤務し、実際の介護の現場を体験するのである。

 

この実習で私が4日間お世話になったのは、後で知ったのだが、最低最悪の施設(特別擁護老人ホーム)だった。

 

どう「最低最悪」だったのかについては、ここで詳しくは書かない。

 

施設で見聞きしたことを外部にもらすことはしたくないからである。

 

実習に入る前、私はひとつのルポルタージュを読んだ。

 

「ルポ老人病棟」という本である。

 

当時から15年ほど前の老人施設の実態を克明に報告し、北欧等の老人福祉の現状も合わせて報告し、今後の日本の老人福祉に課題を投げかけていた。

 

そこに描かれている日本の老人介護の実態は、もはや人間のやることとは思えないほどひどい。

 

家の厄介者として放り出されるようにその施設に入れられたお年寄りたちは、必要ない治療を施され、必要のある治療や介護をしてもらえず、病気の人はどんどん悪化し、病気でない人も病気になり、勝手に歩き回らないようにと手足をベッドに縛られ、自分で歩ける人もいつの間にか寝たきりになり、夜間は排泄介助をするのが面倒という職員の都合で無理矢理オムツをされ、夜間に歩き回られると手間が掛かるという理由で多くの人は就寝前に鎮静剤を飲まされる。

 

そのような実態は、昔なら日本各地でよく見られたらしい。

 

当時はだいぶ改善されていた。

 

介護保険が整備され、お年寄りは「お客様」になったのである。

 

昔は「介護していただけませんか」「介護してやるぞ」「はは、恐れ入ります」という関係だったのが、介護保険の施行により、介護はギブ・アンド・テイクのビジネスになったわけだ。

 

「介護を欲します」

 

「では介護をいたしましょう」

 

「こことここの介護を頼みます」

 

「では○○円になります」

 

このギブ・アンド・テイクにも善し悪しはあると思うが(このようなギブ・アンド・テイクでは業者間の競争が変な方向に行くとお客に対するサービスの質が落ちる恐れがある)、まるで葵紋の印篭をかざすように「介護してやるぞ」という意識の強かった昔と比べれば、ギブ・アンド・テイクの介護保険のほうがマシなのは確かである。

 

何にしろ、お年寄りが「お客様」に昇格したのは、お年寄りにとって悪いことではなく、老人福祉の進歩と言ってよい。

 

しかし、現代の老人施設でも、お年寄りを「お客様」どころか「厄介者」扱いするところがまだある。

 

まさか鎮静剤を飲ませたり手足を縛ったりはしないが、何しろお年寄りを“厄介者”と見ているわけなので、真心のこもった介護など期待できない。

 

私がお世話になった老人ホームは、そのようなところだった。

 

「家に帰りたい」

 

私が接したほとんどのお年寄りたちが同じくそう言った。

 

中には涙をこぼしながらそう言ったおばあちゃんもいた。

 

その施設にこのままいたいと言った人はいない。

 

冷たく冷えた手や足を私は時間があればさすってあげた。

 

みな、申しわけないと言っては過剰なほどの感謝の態度を取る。

 

日頃、そんなことをしてもらったことがないからとしか思えなかった。

 

職員が近づくと両手を合わせて「おねがいします、おねがいします」と訴えるお年寄りがいた。

 

おそらくそれは単なる口癖なのだろうが、私には、もっと優しく扱ってほしいと懇願しているように見えて仕方がなかった。

 

職員の方たちは確かに大変である。

 

ウンコは拭いてあげなくてはならないし、オシッコの始末もしてあげなくてはならない。

 

食事だって、つきっきりで食べさせなくてはならない。

 

うまくやらないとムセさせてしまい、最悪の場合は喉に詰まらせる大事を招きかねない。

 

入浴ともなれば大変である。

 

モウモウと湯気のたちこめる浴室に何時間も入ったまま、お年寄りの体を洗い、全身濡れネズミのようになる。

 

それでいて給料は安い。

 

福祉に関わる人たちは、医療に関わる人たちと比べ、一段低く見られている。

 

社会的地位も報酬も、似たようなことをする仕事なのに、医療関係者に比べるとずっと低い。

 

仕事がきついのに給料が安く、医療関係者と比べると社会的地位が低いとなれば、ヤル気を出すのも難しいかもしれない。

 

しかし、だからといってお年寄りたちにそのウップンをぶつけるようなことをしてはいけない。

 

老人福祉のシワ寄せをお年寄りたちに向けてはならない。

 

この施設実習を終えて、私は、施設も悪いが、そういう施設ができてしまう体制や仕組みを作った国にこそ大きな責任があると痛切に思った。

 

そうして私たちは修了式を迎えた。

 

総勢25人、1人の脱落者もなく全員が“卒業式”を迎えた。

 

いつもはジャージ姿で登校していた私たちも、この日ばかりはスーツやドレスを着て教室に集まった。

 

先生たちを含む職員、校長が出席し、修了式が進められた。

 

雇用保険の職業訓練の修了証書が渡され、ホームヘルパー2級の証書が授与された。

 

神妙に受け取る人もいた。

 

照れくさそうにそそくさと受け取る人もいた。

 

私は黙ったまま頭を下げて受け取った。

 

いつもふざけてばかりで授業のペースを無視してマイペースだったテルさんは、「ありがとうございました!」と元気よく校長に挨拶し、「お世話になりました!」と先生たちに頭を下げた。

 

芸達者のパパイヤ武蔵丸は百万ドルの笑みを浮かべて受け取り、大きな体を揺すって先生たちと握手した。

 

一番小柄なチビッコ1号はダブダブのスーツに身を隠すようにして前に出て受け取り、おとなしくて目立たなかったベッちゃんは涙ぐみ、笑顔の素敵だったアコちゃんは顔をくちゃくちゃにしてしまった。

 

世話好きでみんなに慕われたタカさんも今にも泣きだしそうになっている。

 

スケベのニシビさんも、いつもとはさすがに違ってやや神妙そうだ。

 

全員が証書を手にすると、教壇の前の先生を囲むように私たちは教室の中で大きな輪を作った。

 

パパイヤ武蔵丸が「いきますよー!」と号令をかける。

 

私たちは人差し指を立てた右手を頭上に伸ばした。

 

パパイヤさんは目を閉じ、額に皺をこしらえると、体の中にため込んだ力を絞り出すようにゆっくりと身をよじった。

 

そして、魂をほとばしらせるかのように、よじった体の上部から声を噴出させた。

♪果てしない大空と 広い大地のその中で

 いつの日か 幸せを 自分の腕でつかむよう

輪を作った私たちは、頭上に掲げていた右手で大きく天を指さし、次に両手を伸ばして顔の前で交差させ、左右に弧を描いた。

 

平泳ぎのように両手で漕ぎ、左手は手のひらを上にして胸の前に置き、右手は人差し指を立てて手の甲を下にし、その右手を左の手のひらの中に下ろしていく。

 

再び人差し指を立てて右手を頭の右に構え、それを前方に伸ばす。

 

胸の前で左の手のひらを広げ、そこに右手を下ろし、その親指を手のひらに押しつけ、くるんっと下に回転させる。

 

右手を喉の前に持ってきて、指を揃えて伸ばし、つかむように喉にかぶせ、指を閉じながら前方へ引く。

 

こぶしを作った両手を、左右にひじを張って胸の前で上下に揺さぶり、右手のこぶしを開いて腕を前に伸ばす。

 

右手は何かをつかむように手を握りしめ、それをゆっくりと手前に引き、胸の前で開いた左の手のひらの中にそっとおさめる。


…………………


私たちは手話で唱和していた。

 

パパイヤさんの魂の歌に合わせ、中央の先生とともに手話で歌っていた。

 

前日、私たちは手話を学んだ。

 

そのとき、私たちの要望に応えて先生たちがこの歌を手話で教えてくれたのだ。

♪歩きだそう 明日の日に
 ふり返るには まだ若い
 ふきすさぶ 北風に
 とばされぬよう とばぬよう

♪こごえた両手に 息をふきかけて
 しばれた身体を あたためて

♪生きることが つらいとか
 苦しいだとか 言う前に
 野に育つ花ならば 力の限り生きてやれ

 〈松山千春「大空と大地の中で」〉

校長をはじめ職員が呆然と見ていた。

 

歌が終わると拍手が爆発した。

 

鳴りやまぬ拍手の中で校長はパパイヤさんに握手を求め、パパイヤさんの歌を、私たちの歌を、感動を隠すことなく何度も誉め称えた。

 

私は、こぼれそうになる涙を目の中に呑み込もうとして、瞬きを繰り返して悪戦苦闘していた。

 

45年の人生の中で最高に思い出に残る“卒業式”だった。

 

その夜がまた楽しかった。

 

私たちはススキノに繰り出し、先生たちを囲んで、食べて、飲んで、歌い、語り合った。

 

別れの時間が近づいた。

 

私は、時間がこのまま止まるか、それとも逆回転してくれないかなどと考えていた。

 

終電の時刻が迫り、私たちはやむなく立ち上がった。

 

「明日は学校に来るんじゃないよ!」

 

誰かが言った。みんな笑った。

 

「そうだ、もう学校はないんだ」

 

店を出てからあらためてそう思った。

 

身体の力が抜けていくような感覚に襲われた。

 

明日から学校はもうないのだ。

 

学校はもう終わりなのだ。

 

この仲間たちとは、また会えるだろうけれど、しかし明日は会えない。

 

そう思うと悲しいやら寂しいやらで、店の前で、駅の改札で、駅のホームで仲間たちと別れる度にしんみりしてしまった。

 

3ヵ月ともに過ごした同級生との別れは、中学や高校のときの別れよりももの悲しかった。

 

電車に揺られて家に向かいつつ、私は、短い期間だったがともに時間を過ごした人々のことを、まるで恋人を思い出すように瞼に浮かべていた。

 

実習中、メールでたくさんの励ましをくれたマサネィ、調理実習のときにおいしい料理を作ってくれたチャッピーとザッキーさん、いつも飴やチョコをくれたトミー、レクリエーションの授業で私の足をしたたかに蹴って私のすねに青タンを作ったリンさん、寒いといって授業中にフードをかぶったメグさん、いつも静かだったキーちゃん、よく風邪を引いていたイッシー、楽しい会話でなごませてくれたカメちゃん、最高齢なのに10歳は若く見えたアオさん、食べる話とカラオケが大好きなミユさん、いつもハツラツとしていたエミーさん、まるでモデルのように美人でスタイル抜群のジュンちゃん、派手なドレスがよく似合うおケイ、いつもテルさんにからかわれていたけど笑顔を絶やさなかったノリピー、女釣り師のヤマさん……。

 

「ありがとう」

 

誰にともなく私はそうつぶやいていた。

 

厳しいけど素晴らしい福祉という世界を学ぶ中で、素晴らしい先生と仲間たちとの出逢いがあり、かけがえのない経験をした。

 

この3ヵ月間のことを、ともに過ごした人々の顔と声とともに私はいつまでも克明に覚えていたいと思った。

 

卒業生の中には、その後、福祉の世界に就職した人もいる。

 

彼らは毎日が戦争のような施設の職場の中で奮闘している。

 

私も、いずれ何らかの形で福祉に関わりたいと思った。

 

ひとりの人間としてそうしたいと思った。

 

私はただ、“あのクラスに確かにいた”という証しを持ちつづけたいだけだったのかもしれない。

 

福祉の世界から離れてしまうと、仲間たちと先生たちとの絆が切れてしまいそうで不安なのかもしれなかった。

 

ここまで私を感傷的な寂しがり屋に変えた、福祉の世界とあの素晴らしき仲間たちに、心からこう言いたい。

カンパイ!

ただ、私はその後、うつ病になってしまって福祉の仕事どころか普通の仕事にも就けなくなり、今に至っている。

 

あのクラスの数人と先生のひとりとは今でも年賀やLINEで連絡を取っているが、それだけだ。

 

今では障害者就労継続支援B型事業所という福祉施設のお世話になってしまっている。

 

お年寄りや障害者をお世話する立場ではなく、お世話される立場になってしまった。

 

哀しい。

 

なお、これと同じ小文はホームページ『Zensoku Web』「喘息でも元気だ!」とブログ〈Zensoku Web〉にも載せている。

 

 

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