弥生時代になってからの日本語は今の関西弁に近かったと思う。
なぜなら、大陸や朝鮮半島からやってきた弥生人たちは主に関西圏に定住したからだ。
弥生人たちの言葉がどういうものだったかわからないが、彼らが定住した関西圏で関西弁が生まれたわけだから、おそらく今の関西弁に近かったと思うのだ。
京都弁ももちろん弥生人たちの言葉が元になったものだと思う。
今の京都地域を開拓したのは朝鮮半島から渡来した秦(ハタ)氏である。
彼らは京都地域を開拓して主に織物を職として生きた。
桓武天皇が京都地域に都を造ると言い出したときには自分たちが開拓した土地を桓武に提供した。
秦氏の痕跡は太秦(ウズマサ)という土地名にも残っている。
ウズマサは秦氏が織り上げた織物をうずたかく積んだからそう名付けられたという説がある。
それはともかく、ではウズマサという地名になぜ「太秦」という文字を当てたのか。
私は、それは秦氏と関係があると思う。
平安時代でも関西では関西弁に近い言葉が使われていたと思う。
「源氏物語」や「枕草子」は関西弁ではないじゃないかと言う人がいるかもしれない。
その疑問に対しては書き言葉だったからだと答えよう。
昔は話し言葉は文章にされなかった。
文章にするときは書き言葉を使った。
関西人もそうである。
話し言葉が書き言葉に組み入れられるようになったのは明治になってからである(言文一致)。
話が逸れた。
古代日本語は、そういうわけで今の関西弁に近かったと思う。
ただし、それ以前の縄文人語の発音や抑揚は今の標準日本語により近かったのではないかと思う。
なぜなら、日本語の主流が東国言葉になったのは関東の坂東武士が台頭してきてからだが、その坂東武士たちが使っていたのは弥生人に追われて東国に逃げた縄文人の子孫だと思うからだ。
私のこの推測は間違っているだろうか。
間違っているとはどうも思えない。
だから、今やっているNHKの大河『光る君へ』でみんなが標準語をしゃべっていることに凄い違和感を持つ。
平安時代の貴族たちがもし本当に現代のような標準語を話していたとしたら、京都弁はいつどのようにして生まれたのか。
誰か説明できる人はいるだろうか。
ただ、例えば紫式部が昔の標準語で「源氏物語」を書いたとき、その標準語はどこにあったのかという疑問は残る。
あるいは、貴族は「源氏物語」に近い言葉を使っていて、庶民は今の京都弁に近い言葉を使っていたのかもしれない。
しかし、紫式部などの宮廷人でも抑揚は関西弁に近かったのではないか。
話が飛ぶようだが、ちょっとサムライの言葉について触れたい。
「候」というのがある。
あれは書き言葉で使った言葉ではないだろうか。
昔の武士の書状などを見ると「候」で文章が締めくくられている。
しかし、話し言葉では「候」はあまり使われなかったのではないか。
「存じ候」なら「存じまする」、「存じたてまつる」なら「ござりまする」とか、話していたのではないか。
言文は一致していなかったのだから、大いに考えられることだと思う。
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