30年も昔、私は札幌に住んでいた。
結婚したばかりで、すでに息子が生まれていた。
しかし息子は生後4ヵ月で難病にかかり入院した。
そのとき勤めていた会社は、一般社団法人北海道総合研究調査会(略称:HIT〈ヒット〉)の機関紙(月間誌で『しゃりばり』という名前だった)を企画・編集させるためHITが作った会社(『ノーザンクロス』という会社)だった。
HITのオーナーでもある男(名前はT)は、私と気が合わなくて、「難病の子どもを抱えているような奴は辞めさせろ」と雇われ社長に言った。
雇われ社長はずいぶん抵抗してくれたようだが、オーナーはものすごいワンマンなので押し切られたようだ。
実は、私を採用するとき、そのオーナーは自分の同級生で文才のある小学校の教員を次の編集長にと狙っていた。
交渉もしていた。
しかし、その教員はなかなか首を縦に降らなかった。
そこで私という人間を一時的な腰掛けとして編集長に雇った。
そんなことは露知らない私は一所懸命働いた。
私が入社すると、私は編集長としてオーナーの意向など無視して特集記事を次々と書いた。
それがオーナーの癇に触ったようだ。
それ以来、オーナーは私に話しかけてもこなくなった。
私も無視していた、
そんなある日、息子が難病にかかって入院したのだ。
それでオーナーは待ってましたとばかりに私を追い出すことに決め、雇われ社長に言い含めた。
雇われ社長は、たぶんだけどわざと傲然な態度を取って私の日頃の振る舞いを糾弾してきた。
同時にオーナーお気に入りの教員を無理に説得して教員を辞めさせ、自分の会社に招いて編集長に据えた。
かなり多額の待遇を提示したのだと思う。
でなければ、長年勤めてきた教員という公務員の立場を捨てて民間の小さな会社に入ろうとは決断がつかなかっただろう。
それまで編集長だった私は、その元教員が私よりも年上だったので編集長席を彼に譲り、自分は一編集部員に自分で格下げした。
あのときの屈辱といったらなかった。
その屈辱に耐えきれなくて、結婚後間もなかったが私は無断で1ヵ月ほど会社を休んだ。
部下たちには申しわけなかったが、もう働く気を失ってしまっていたのだ。
それでオーナーは私をいよいよ嫌うようになった。
1ヵ月後、私は会社に戻って他社の機関紙や記念誌の企画・編集に携わった。
それらの会社からは私はずいぶん頼りにされた。
しかし、一編集部員に落とされた私の屈辱は消えなかった。
そのうち次第に頭に来た私は雇われ社長に辞表を叩きつけた。
それで私はその会社を追われた。
裏でオーナーが指示していたことは後に聞いた話だ。
あの雇われ社長には悪いことをしたなと思っている。
次に就職した会社は、札幌で月刊誌を発行していたが、ほとんどすべてのページが金付きという内容だった。
地方の出版社はそうでもしないとやっていけないのだとそのときわかった。
それで嫌気がさしたし、持病の喘息が悪化したのですぐ退職した。
その次に就職したのは、当時私が住んでいた札幌市東区元町に近い伏古(フシコ)にあるプ○○○スという小さな印刷会社だった。
歩いて通勤できるし給料がまあまあ良かったので私はすぐ就職した。
しかし、そこの社長はものすごい偏見の持ち主だった。
私がそこに入社して間もなく、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起きた。
実行犯の多くは私と同年代だった。
〈鸚鵡真理教の死刑確定の連中〉
すると社長は、「あんたの世代は信用ならん。なに考えているのかさっぱりわからん」と言い出し、私を変な目で見るようになった。
当時、私は喘息が悪化していて、しかし吸入ステロイド療法をまともにやっていなかった。
そのため毎日のように発作に見舞われた。
ある朝、大発作が起きて呼吸困難になり、出勤は無理だと思った。
電話することさえでない状態だったので元妻に頼んで会社に「休む」と連絡してもらった。
翌日、出社すると、「休むのになんで奥さんに電話させたの? 自分でなんでできなかったの?」と問い詰められた。
私は自分が喘息であることを打ち明けざるを得なくなった。
するとその社長は「なら辞めてもらいます」と当然だという顔で言った。
当時は喘息というだけで採用してくれない会社が普通だったし、就職しても喘息だとバレればクビになるのが普通だったのだ。
ひどい時代だったと言わざるを得ない。
今は喘息だからといって採用されないとか鶴首されることも少なくなっているだろう。
そんなことをしたら訴えられても仕方のない時代に成長してきているからだ。
あのころのことを思い出すたびに、差別的だったあの偏屈社長の顔を思い出してしまって胸糞が悪くなる。
【ダイエット記録】0.3キロ増えた。あと-0.2キロだ。