東京で失意のどん底、たいしたキャリアもなかったわたしは、どこで暮らそう?と、住む場所を探しました。

その頃、なんとなく移住ブームの先端を感じていたので、移住だな、と思い、場所を探す中で、なぜか縁があったのが伊勢でした。

 

ほとんど知り合いすらいない場所で、なんとか助けてくれる人と出会って、単身移住。

東京を出たあの日、離婚した元夫と、新幹線のホームで”今生の別れ”(いろいろあってパートナーとしては終わりを迎えたけど、とってもとっても好きだったんです)をしたときの風景は、一生忘れないと思います。

 

なんでこんなことになっちゃったんだろう、と、新幹線と特急を乗り継いで伊勢につき、伊勢でもしばらくずっと、東京が恋しくて泣いていました。

 

そして、生きるための就職活動。この車がないとなんにもできないような三重県で、自転車のみの移動手段のわたしが、なんとあっさり家から近い会社の正社員に決まり、わたしはようやく、光を見ました。

 

 

生きていけるかもしれない、と思いました。自分一人の力で生きていく喜びや、わたしだけの大好きな部屋の空間の喜びに満ちました。

自分で稼いで自力で生きる気持ちよさを味わうために、わたしは離婚しても実家ではなく移住を選んだのだな、と今は思います。

だいぶハードでしたけど(笑)、そこまでしないと精神的経済的自立が出来なかったんでしょうね。

 

東京時代の友達もたくさん来てくれて、状況が変わっても繋がれる喜びがありました。

 

そんな時に、出会った人と再婚、出産。(我ながらスピードですが・・・)

結婚のきっかけは妊娠でした。

妊娠は、前の結婚で全然子どもが出来なくて、35歳を境にすっぱり諦めていたのです。検査などはしなかったのですが、不妊なんだろう、と思いこんでいました。

 

最初の子どもは流産。自宅でひとりで、産みました。唯一の、陣痛体験でした。

怖くなって出産経験のある親友に電話していたら、波の感覚が”それ、ほぼ陣痛だよ”と教えてもらったのです。

もしかしたらこれが最初で最後の出産かもしれないと、本当に大切に臨みました。

後日療養中に、ヒーラーの友達が来てくれて、体もしっかり癒すことが出来ました。

 

そのときにね、その赤ちゃんとお話ししたんです。

 

そこで”お母さん、しあわせになりなよ”ってその子が言ったんですね。そこではじめて、ああ、わたしは、幸せになっていいんだ、と自分に許可を出した気がします。

 

それから”生まれたい子がいるよ”と今の子どもを紹介してくれたんですね。

そしてその生まれたい子が名前と、おなかに宿る日を言ってくれて、本当にその期間で妊娠しました。

 

シングルで産むことも考えていたのですが、妊娠により仕事を辞めることになり、さすがにメンタル的に参っていたため、

というかなり消極的な理由でしたが、一般常識に則って結婚を決めました。

 

順調に妊娠は進んだのですが、出産予定日の4日前に血圧が上がって入院。

新月の夜に、破水して、促進剤で誘発したのですが、時間切れで帝王切開になりました。

ヒプノセラピーを知っていたので、”めっちゃ痛いよ”と噂の促進剤さえ、痛みとは感じませんでした。

 

手術は怖くて怖くて、もう嫌で仕方なかったのですが、最後は勇気がなくて病院の言いなりのように、うなずいてしまいました・・・

 

そして出産。

産声を聞いた瞬間に、”赤ちゃん”と呼ばれているのが気になって、

「その子の名前は〇〇ちゃんです!〇〇ちゃんと呼んであげてください!」(母子は離されるので、せめて名前だけでもと思った)

と叫びました。

 

そのときに、母としてのスイッチがばんと入ったと思います。

 

術後の経過は、毎朝交代で来る看護師さんたちが軒並みびっくりするほど子宮復古(子宮の大きさが元に戻ること)が速く、布なぷきんやスクワットが効いていたのかな~と思いました。まぁそれでも、2年くらい痛くて、やっぱり自然的に産めたらなぁと何度も思いました・・・。

 

子育ては驚くほど順調でした。子どもの言いたいことは全部わかるし、健康に生まれてくれたので、特に困りませんでした。困ったときの相談口として、助産院と繋がって、技術的なことをなんでも相談できたのもありがたかったです。ママ友も助産院を通じて出来ました。

 

わたしはたぶん、一般とはだいぶ変わった新感覚の子育てをしていると思います(ワンオペでも悩みなし、ストレスなし!)

この子育て方法はすごく楽なので、またこれも、いつかお話会とか、講座に出来たらなあって思っています♡

 

では次回はいよいよ起業編!波瀾万丈すぎるわたしの半生ですが、どうぞお付き合いください。

 

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