私の友人で、社会的養護としての里親をやっているご夫婦がいます。
子どものいない50代夫婦です。
5年前くらいから、主に短期間の養育里親として活動をしてらして、例えば児童養護施設から急遽連絡があって3日間ほど12歳の女児を預かったり、次は中2女子を2週間だったり、次は高1の子を1ヶ月だったり・・・という感じで短期の養育里親をしていらっしゃいます。
そのたびに、私は彼女から「今回はこんな風な状況下でね、こんな出来事があったの」と、プライバシー配慮のうえで(実名などはお互い話さず聞かずに)、その期間のリアルな体感や貴重な経験などを分かち合ってもらっています。
そのご夫婦、このたび中3の受験生を半年間預かって、その期間に高校受験をさせるという状況で短期養育をすることとなったんです。
その時、彼女が私に言ったのは「高校受験生を預かるのって本当に大変だった。信じられない苦労の連続。塾に入れたり模試を受けたり家庭教師を探したり受験校を絞ったり、世の中の親たちは、こんなに大変な思いをするのねって思ったわ。子育てしてるころんのことを心から尊敬したよ!うちはこの3月で彼女の預かり期間は終了だけど、親はこのままずっと続くんだものねぇ」と。
私はその時、全く逆のことを思っていたのです。
受験サポートをする彼女の様子を見ていて、預かっている里子ちゃんだからこそ、全力で精一杯のことをしてあげるけど、「親としての偏った思い入れ・親特有の一方的な期待」はないわけです。
この3月で預かり期間終了となり「よかったね、よく頑張ったね。高校生になってからもムリなく頑張ってね」と言って、養護施設に送り出したわけです。見事な「親業」に感服でした。
その様子を見ていると、子どもを授かった頃に流行った格言「子どもは授かりものだから、神様から預かって、いずれお返しするものとして育てなさい」という言葉を思い出されました。
子煩悩、という言葉があります。
今ではポジティブな意味で使われることが多い印象ですね。
「夫は子煩悩で、休日はいつも子どもを遊園地に連れて行ったり、学校行事にも積極的に参加してくれて・・・」みたいに使われますね。
文字を見てみると、子「煩悩」。
「煩悩」なんですね。
私は息子がこの病気になってから、まさにこの「煩悩」にまみれて苦しんだなぁと思うのです。
外でもない、唯一の「我が子」が、苦しそうに倒れ伏し、期待していた道を行くことが不可能となってしまった、その嘆きが甚大だったのです。
「我が子」だからこそ「他の子」と比べてしまったり、「我が子」だからこそ「期待通りに歩んで自分を満足させて欲しい、親を安心させて欲しいという無意識の下心」が生じて、息子をクラッシュさせて長患いを体験させたと思います。
発症にも加担したと思えますし、これぞ「煩悩」だと思ったのです。
発症してからは、何が何でも治してやりたい本能的な愛情と、常に混在して「親としての私が安心したい」という煩悩のせめぎ合い。
不可分なほど混ざり合っていましたし、今も混ざっています。
子煩悩なんだなぁ、と思いました。
そうでしか、在れない。
そうとしか、できない。
「親だから」っていうか、そもそも「自我の在る人間」ですからね、どうしようもない自然現象だなぁと感じる今日この頃です。