「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。
わたしの愛のうちにいなさい。


もしわたしの戒めを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちおるのである。
それはわたしがわたしの父の戒めを守ったので、その愛のうちにおるのと
同じである。


わたしがこれらのことを話したのは、【わたしの喜びがあなたがたのうちにも
宿るため、また、あなたがたの喜びが満ち溢れるためである】
ヨハネ15:9-11」




主の教えを行いで表すとき、主の喜びが
わたしの心にもたらされていることを通して
聖書に記されている主の言葉が真実であることを
知ることができた。




主の喜びが心を豊かにしてくれるとき、誰にでも
親切な行いや、思いやりの言葉をかけることが自然にできることに
心から感謝する思いです。





主の御霊と共に歩むとき、主はわたしの人生のあらゆる場面で
光を灯して下さる。





愛にあふれる天の御父の許に帰る光を求めて生きたい。




「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことなくがなく、

命の光をもつであろう」ヨハネ8:12




「わたしは道であり真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、

父のみもとに行くことができない。」ヨハネ14:6



主の喜びを心で感じるのは、いつもあることでは
ないのですが、ただ、偽りのない心で、主の御心を
行い続けるとき思いも寄らないとき、喜びがもたらされる。




また、不完全さを心から悔い改め、熱心に実践することで、
清められ、心は羽のように軽くなる。




天のお父様の愛と主の愛をより感じることを通して、

いかなる時でも心を強く希望もって人生を歩むことができるという
強さと確信を与えてくれます。





その確信と心の強さ、希望は、主を信じる信仰でわたしたちの人生で

もたらすことが出来るように主の贖いの犠牲によってもたらす祝福だということを

心からへりくだり証しします。








主の贖いの犠牲に日々心から遜り感謝する思いです。










わたしたちの生活には喜びをもたらすことは
あるけど




福音からもたらされる喜びはとても大きすぎることを

知っています。






福音からもたらす喜びについて真理を理解するための
きっかけになったのは神殿での、エバがアダムに
言ったことから始まりました。






新会員の頃、神殿でのエバがアダムに言ったことが心に残り
その時には理解するに及ばなかったのですが




時を経て、モルモン書の第二二―ファイの預言者リーハイが残した言葉






「アダムが堕落したのは、人が存在するためであり、人が存在するのは
喜びを得んためである。」第二ニーファイ2;25






「喜び」・・・について深く考えたとき







神殿で、善悪の知る木の実を先に食べたエバがアダムに言った言葉を
思いだし、その喜びは、福音を知らない時に得た喜びとは違うと理解するようになりました。







アダムとエバが善悪を知る木の実を食べなければ、全人類が生じることも
イエス・キリストの贖いによってもたらされる”喜び”をもたらすことは
できないと知性だけでなく知覚でも、明確に知るようになりました。







アダムとエバが善悪を知る木の実を食べたことにより、天のお父様が
天の霊の子供たちにイエス・キリストを信じる信仰によって

心からの悔い改めをして、水に沈めるバプテスマと聖霊の火のバプテスマの

聖霊の賜物を授かる按手礼を通して神の霊の子供たちにも天のお父さまが

感じている喜びをもたらされるようにしてくれました。







イエス・キリストの贖いの犠牲によってもたらされる「喜び」を
経験できたとき、真理の眼が開かれた思いでした。







天の御父の許に戻るときは、非常に大きな喜びで言葉には

言い表せないのでしょうけど、わたしの経験を分かち合うと







「福音を知らない頃の30年余りで、経験した幸せな気持ちや喜びを
すべて一つに合わせても劣ることのない、言い知れない喜びを感じた
経験を通して知ったことは、物資的に満たされていることとは
全く関係ないことでした。。どのような状況下であっても
喜びを感じることは出来るという確信でした。






体の隅々まで非常な喜びに満たされることは、相応しい状態で
あれば誰でも経験できると思っています。」






改心もその経験に繋がると思っています。






今、わたしが望んでいるのは、天のお父様や
主をもっと近くに感じるための「改心」です。






改心するための方法はモルモン書のいたるところにあり
古代の預言者を通して主が戒められていることを諦めることなく
忍耐して実践すること。




主はここ数年、主の再臨前の備えとして、生ける預言者や使徒たちを通して

わたしたちに【改心】の重要性を呼びかけているように強く感じる日々です。










以前の私は宗教に無関心で、特にキリスト教には特別な印象があり(何故、神はお一人なのに、多くの異なる名前の教会があるのかに、疑問を強く抱いていました。)近寄れない私でしたが、そんな私を変えたのがモルモン書です。モルモン書は、私と神でもあられるイエス・キリスとを近づけ、イエス・キリストが実在の御方であることと、幼い頃から信じていた神さまが天のお父さまであることを聖霊を通して教えてくれました。主と天のお父さまを最も近づけた書物です。他に類を見ない特別な神聖な書物です。モルモン書のお陰で、末日聖徒イエス・キリスト教会が主イエス・キリストの教会であることも、聖霊を通して証しを得ました。そして、これまで手にしなかった聖書もを大好きになり、天のお父さまと主の深い憐れみに感謝の日々を過ごしています。


※最近、seesaaブログの心の光を見出そうのブログのコメント欄に書いたコメントの内容)



イエス・キリストの贖いの犠牲によってもたらされた福音を心から愛しています。



「この御方(主)はわたしの命、わたしの光、わたしの喜び、わたしの救い・・・アルマ26:36」です。





愛する天のお父さまと霊的な交わりをした翌日




仕事を終えて帰宅してから、なぜかモルモン書が無性に読みたくなり

手にとって読み始めたのは、不思議な体験でした。





これまで、読みたいという思いは一度もなく、宣教師に




「モルモン書、読んでくださいね。」と、

言われていたので、いつも親切でいてくれた宣教師に

「読まないと悪いかな・・・」という気持ちでしかなかった私。




それでも、読んでみると興味は全くなく、面白いとも思わないままで
読み進める事が出来ない状態が続いていた。




手に取ったモルモン書をタイトルページから順序よくめくり
「序文」を読み進めた後、「三人の証人の証」を読み、
その間は特別に心の変化なかったのですが
これまでのわたしからすると何か心の変化が起きたのは確かで、
不思議とスラスラと真剣に読んでいました。




次に「八人の証人の証」の内容を読んでみた。

「この書物を手にするすべての国民、部族、国語の民、民族に
このことをお知らせする。わたしたちは、この書物の翻訳者
ジョセフ・スミス・ジュニアから、前述の金に見える版を見せてもらい、
またジョセフ・スミス氏が翻訳を終えた部分を手に触れてみた。
また、そのその版に刻まれている文字も見たが、それらはすべて、
昔のもののようで、入念な造りに見えた。わたしたちは実際に目で見て、
手で持ち上げ、今語っている版をスミス氏が所有していたことを
確かに知っているので、スミス氏がわたしたちに見せてくれたことを
謹んで証するものである。そしてわたしたちは、自分たちが見たことを
世の人々に証をするために、各々の名を公にする。
わたしたちは偽りは言わない。神がそのことを証される。」

クリスチャン・ホイットマー
ジェイコブ・ホイットマー
ピーター・ホイットマー・ジュニア
ジョン・ホイットマー
ハイラム・ページ
ジョセフ・スミス・シニア
ハイラム・スミス
サミエル・H・スミス



八人の証人の証を真剣に読み進めるうちに特別な気持ちなり




「わたしたちは偽りは言わない。神がそのことを証される。」



その言葉がわたしの心の奥底まで、響き渡り

「この人たちは嘘を言う人たちではない。」




彼らの経験は真実だと強く心にせまり、彼らの証に対する信頼を
もって、わたしはジョセフ・スミスが古代アメリカで記録
された金版の翻訳を完全に受け入れていました。




その心の変化がわたしの心をさらに大きく開き、
真理に関する理解力が与えられるようになった。



この日を機に、モルモン書を読むのが重要になり、
日課となっています。




モルモン書は、わたし個人の経験からも、確かに神から与えられた

神聖な書物と心から証しすることができます。







モルモン書を通してイエス・キリストを見出した日の晩の出来事



祈るのもままにならなかった私が
何故かごく自然に祈りたい気持ちにかられ




天のお父様に子どものような気持ちで祈ったのは

「天のお父さま、・・・本当にいるのですね。」でした。




その祈りをするやいなや、涙がポロポロ溢れてきました。




その理由が分からずに

「わたしの涙は天のお父様の喜びの涙なのですか?」と

ごく自然にその言葉で祈りました。

ローマ8:26




そうすると、更に涙があふれポロポロ流れ落ちるのを
止めらずにいました。

同時に温かい気持ちが心に広がり喜びに満たされていました。




その経験を通して


「神様は感情の持ち主でおられ、またわたしたちを

天の御父として深く心にかけ愛しておられること

イエス・キリストを見出し、御自身を見出すことを望まれている」ことを


誰からか教えられたのではなく聖霊を通して教えられました。
第一コリント12:3




寒いその日の晩、サラサラな清らかな涙を流しながら
眠りについた日でした。




バプテスマを決意してから、姉妹宣教師から
初めてレッスンを受ける約束していた日の出来事。




宣教師と約束の時間に教会で会い、楽しい雑談をして
レッスンを始める前に祈りした後に、宣教師がわたしに言った言葉は




「玉城さんに教えることは何一つありません。わたしたちの前で
一人で、モルモン書を読んでくれますか?」


と、言われました。






読むように勧められたところが、伝道が中心に記録されている
アルマ書17章~22章でした。






ページ数にすると24ページ。






わたしのペースで読むと約30分余り、宣教師の前で読むことになりました。






その時期も、

まだモルモン書を読むことも祈ることもままならない日々。






宣教師に勧められたところを読み進めていくうちに


インディアンの先祖である、レーマン人の王様が宣教師に感じていることや
神様について記されている部分で共感する部分が幾つかあることに
興味深く面白く真剣に読んでいると、これまでモルモン書を読んでも
感じたことのない心に温かい流れ感じていることに気づきました。。







宣教師のアロンにレーマン人の王様は



「・・・あなたの兄弟アンモンの言葉が寛大であり、偉大であったので
わたしは少々心に思い悩んでいることがある。・・・」アマ22:3






※その場所を読んだとき、心に浮かんだのは
宣教師の素晴らしい模範でした。



教え導いた宣教師にわたしが抱いていることと
その王様が宣教師であるアンモンに抱いていることが
オーバーラップし、宣教師のことを思いながら涙ウルルン。






王様とわたしが宣教師に抱いていることが一致したことで

王様を近くに感じ、釘付けになりながら
モルモン書を読んでいました。







アロンが王様に

「王様は神がましますことを信じておられますか」と言った。






※ここで言う神は旧約の神であられたイスラエルの民を
エジプトから約束の地に導いた新約の肉における神(御父)の独り子の
イエス・キリストを指します。ヨハネ3:16






王は


「今あなたが神はましますと言うならば、わたしは信じよう」


と答えた。






アロンはこれを聞いて心に喜びを覚え。






「王様、あなたが今生きておられるように確かに、神は生きておられます。」


と言った。






すると王は、


「神とは、我らの先祖をエルサレムの地から導き出したあの大霊のことか」


と尋ねた。アルマ22:9






※心でこの王様と私がイメージしている神さまは全く同じの
「全宇宙を支配している大きな霊」・・・。


と、つぶやきながら、王様の気持ちが手に取るように伝わり
嬉しくなっていました。


モルモン書を読み進めるのがますます面白くなっていました。


その時点までは、イエス・キリストが神とは理解していなかったので、
わたしが描いていた神は天のお父様のことでした。






そこでアロンは王に、



「そのとおりです。神とはあの大霊のことです。
神は天と地の両方で万物を創造されました。王様はこのことを
お信じになりますか」と言った。





すると、王は答えた。



「まことに、わたしは信じる。わたしは大霊が万物を創造されたことを信じる。
だから、これらすべてのことについてわたしに話してほしい。
わたしはあなたの言葉を信じよう。」







そこでアロンは、王が自分の言葉を信じようとするのを見て、
聖文を王に読んで聞かせながら、アダムの造られたこと、すなわち神が御自分の
形に人を創造されたことから始めて神がアダムに戒めを与えられたことや、
人が背きのために堕落したことを話して聞かせた。






そしてアロンは、アダムが造られたことから始めて聖文を説き明かし、
人が堕落したことと、人類のこの世の状態と、贖いの計画について話した。






この贖いの計画は、キリストの名を信じようとするすべての人のために、
キリストによって世の初めから備えられたものである。






また人類は堕落したので、自分自身で何も良い報いを得ることはできなかった。






しかし、信仰と悔い改めなどによって、キリストは死の縄目を断ち、墓は勝利を
得ず、死のとげは栄光の望みの中にのみ込まれてしまう。





アロンはこれらのことをすべて王に説き明かした。





さて、アロンがこれらのことを王に説き明かした後、


王は言った。






「あなたが語ったこの永遠の命を得るには、わたしは何をすれば
よいのか。まことに、わたしは何をすれば、この悪い霊をわたしの
胸からことごとく取り除いて、神から生まれ、神の御霊を受けて、
喜びに満たされ、終わりの日に捨てられなくて済むのか。
見よ、この大きな喜びを得るために、わたしは持ち物をすべて捨てよう。
まことに、王位も譲ろう。」







アロンは王に言った。


「あなたがこのことを願い、神の前にひれ伏すならば、
まことに、あなたの罪をすべて悔い改め、神の御前に
ひれ伏して、与えられると信じて信仰をもって神の御名を
呼ぶならば、そのときあなたは、今願っているものを得るでしょう。」







アロンが王様に、イエス・キリストの贖いについて触れたとき
わたしの胸は熱いものが込み上げ、泣きながら悟ったのは





「イエス・キリストは実在の御方で今なお生きておられる」でした。






これまでイエス・キリストは架空の存在で、

実在していたということを全く受け入れられることが出来なかった私には

理解のまなこが開かれることが思いも寄らないことでした。




イエス・キリストは確かに歴史上実在の御方であることを
心から証しします。






主を証しする聖霊の力をとおして
イエス・キリストに対する強い証を持つようになったその日から
わたしの人生は変わりました。






「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことは
できない。第一コリント12:3」










わたしのバプテスマが見たいといってバプテスマを

勧めていた宣教師はアイダホ出身のクリステンセン長老と言います。





普段はまったく教義に触れず、友人に徹してくれた

男性宣教師の4人のうちの一人でした。





2回目も切実な思いを持ってお願いされた。





「もう少しでわたしは転勤します。汗その前に玉城さんの

バプテスマがみたいです。

玉城さん、バプテスマを受けてくれませんか。」





真剣な目で2回目をお願いをされても





「わたしはまだです。」




2度目も簡単にお断りをしました。あせる





正直な率直な気持ちでしか対応できずにいました。あせる





悲しそうな顔して帰っていくのも心にとめずに・・・・。





今思えば・・・・・・ごめんなさい(>_<)





それからしばらくして別の日に





いつもは明るくにぎやかでもあるワイルドな顔をしたクリステンセン長老が

悲痛な顔で、またしても・・・・・・3回目のお願いあせる





「玉城さん、わたしは転勤します。

その前に玉城さんのバプテスマがどうしても

見たいのです。」(__)(__)





わたしは・・・・・・・・・・・・・・(・・;)(・・;)





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。





無言でしか対応できずにいました。





これまで、宣教師に切実にお願いされても、

冷たい態度でしか対応しなかったわたしが

3度目には、心が動き始めたのを知りました。





その晩、これまでのことを思い起こしながら

これまで決断できなかった二つの理由は、


1.毎週日曜日に教会に行くという確固とした決意が

出来なかったということ。


(求道者としては約9か月間の内、ほとんど教会には

行っていました。求道者になったばかりの時期の1ヶ月半だけ

行っていないときもありましたが・・・。)




・その年の那覇マラソンに参加したかったからあせる(笑)。




日曜日に那覇マラソンが予定に入っていたので、

バプテスマを受けるなら那覇マラソンに一度参加してからと・・・・(笑)




後で会員に笑われてしまいましたけど・・。




だって、宗教持つなら、その位の覚悟がないと・・・・

なんて、自分なりに考えていましたから





今思えば、本当に純粋なわたしでした。




2.根強い先祖崇拝者の母親として尊敬する母に対して

親不孝になるのでということ。母を悲しませたくなかったから。





真剣に再三考え、出した結論はバプテスマを受ける上で

ネックになっていた二つの問題を振り払う決意をし、





「これまで、何一つ疑問に思うことなく

いつかバプテスマを受けても良いなら

わたしのバプテスマを誰かが最も喜ぶときに

行動に起こすことは大事かもしれない。・・・・

バプテスマを決意しても良いかもしれない。」




そう、固い決意をして、早速宣教師に電話で

報告をしました。





わたしのバプテスマの報告を聞いた電話の

向こうの長老が他の長老たちにも





「玉城さんがバプテスマを決意した!!」と





声をかけているのが聞こえるや否や





「わぁ~~~~!!!!!わぁ~~~~~!!!!!!」





予想もしない歓声に





「何故??? そんなに喜ぶの?」





と、非常な歓声に信じられない気持ちで受話器を置いた。





次に姉妹宣教師にも報告をしたら





「玉城さ~~~~~ん!!!すごい、すごいです!!!ほんとうに

すごいですよ!!!嬉しい~~~~~!!!!!!」





ここでも、あまりにも喜ぶので、あっけにとられているわたしでした。





そのときは、人一人のバプテスマが重要であるとは理解できなかったのです。






「人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきなさい。

見よ、主なるあなたがたの贖い主は、肉体において死を受けた。




それによって、すべての人が悔い改めて自分のもとに来ることが

できるように、主はすべての人の苦を引き受けた。



そして、悔い改めを条件として、すべての人を自分のもとに

導くことができるように、主は再び死者の中からよみがえったのである。



人が悔い改めるとき、主の喜びはいかにおおきいことか

教義と聖約18:10-13
























何故って、あなたばかりでなく
あなたと一緒にいる時の自分が好きだから



あなたを愛しています。

何故って、あなたが現在のあなた自身になったからではなく
あなたが作り上げてくれる現在の私自身が好きだから



あなたを愛しています。

何故って、あなたが私から引き出してくれた部分が好きだから。



あなたを愛しています。

何故って、あなたが私のふくれあがった心に手をあて
私自身の中にある見るに耐えない愚力で、弱い物を見出し
誰も気づいてくれなかった美しい物に
光をあててくれたあなたが好きだから。



あなたを愛しています。

何故って、あなたは私をより良い人間にするために
いかなる信条教義が成せることより、
ずっと多くのことをしてくれたから。




又、私を幸福にするためにいかなる運命が成せることより
ずっと多くのことを私にしてくれたから。




あなたはそれを私に触れず、
言葉もかけず何のサインもなしにやりました。




あなたは常に飾ることなく
自分自身であることにより、そうしたのです。




本当の友達って、結局そういうものなのでしょう。



作者不明



※この詩の「あなた」の中にイエス・キリストを
見出し愛を感じました。

愛するロードリゲズ姉妹が沖縄から離れてからは

わたしは普段と変わらずに過ごしていた。




4人の長老たち(男性宣教師)は、

ほとんど福音の教義に関してはふれず

友人とし徹底していたのにはとても好感をもっていました。




次の転勤を控えている可能性の高い

ある男性宣教師(通常は○○長老と呼ぶ)は

わたしのバプテスマを誰よりもずっと心待ちにしていたよう。




ある日、その宣教師が突然




「玉城さん、わたしは次転勤すると

思います。玉城さんのバプテスマがみたいです。

バプテスマを受けてくれませんか?お願いします(__)」と




切実なお願いをした(・・;)(・・;)




にも関わらず、わたしの中では、まだバプテスマに

ついて考えることもなく過ごしていたので




「まだ、受けるつもりはないので」と




あっさり、簡単に流してしまいました。




今、思えば冷たすぎたかなと(>_<)

心に残るのですが、宗教をもつということは

わたしの生涯に関わることなので、

とても慎重になっていた・・・。




その宣教師のお願いがわたしの心を大きく開いてくれる

ことにもなるとは考えてもみませんでした。