オウム真理教と反証可能性
「反証可能性」という新しいおもちゃを手に入れたので、
あれこれ考えております。
古い話で恐縮ですが、
地下鉄サリン事件(1995年)が起きた時に、多くの人びとは、
あれだけ高学歴で、優秀な人たちが何であんなことをしたのか?
なんで、あんなおっさんの言う事信じたのか?と驚いたと思います。
事件を起こすまでは、
オウム真理教もしくは麻原彰晃のことを非常に尊敬している人が周りに結構いた。
当時、私は昼にパン屋で働きながら、定時制高校に通っていたのですが、
担任の先生も「あんな立派な宗教はない。」とため息を漏らしていた。
あれだけ高学歴で、優秀な人たちがあんなことしでかしたのを、
普通の人たちは説明に困惑してしまう。
で、「マインドコントロール」と言う言葉がやたらと流行りました。
彼らは悪くないんだ。ずる賢い麻原彰晃に洗脳されただけなんだ。
警察に捕まって改心し、麻原彰晃を罵りだした元信者の事を、
野坂昭如さんは、
「オウム真理教のマインドコントロールから
警察のマインドコントロールに替っただけじゃないか?」と嘯いた。
ビートたけしさんは、
「彼らは優秀な科学者だとかいうけど、
サリンを発明したわけではない。製造しただけ。」と笑った。
中国の知識人は、この事件を聞いて、
「日本人には個人の哲学がない。」と言った。
これは、戦前の日本兵の中国大陸での残虐行為を踏まえての話でしょう。
丸山眞男さんは、
「昭和10年代には、日本人全体がオウム真理教の信者だった。」
と言った。これは、耳が痛いけど、忘れてはならない真実だろうと思います。
で、ここで「反証可能性」と言う概念を持ち出す訳です^^
科学は反証される可能性を残していなくては科学ではない。地球が太陽の周りを回っているというのは永遠の真理ではなく、今のところ正しいとされているだけのもので、いつかそれが反証される可能性があるからこそ、これを科学と呼ぶことができるというのである。
これを初めて耳にした時、なんでそんなことを言うのかと思ったが、今になってこれはすごい発見だったと思う。多くの人にとって科学とは真実として出来上がっているものなのに、ポパーは科学で重要なのは真実ではなく、真実と思われていることを虚偽として証明する可能性をもつことだと言っているのである。
私たちが受ける日本の教育は、「権威を疑う」question authorityという視点が全く欠けております。先生に教えて頂いた「真実」をただひたすら鵜呑みにする。暗記する。先生に教えて頂いた「真実」に対して、疑問を持って質問したり、反論したりしたら、たちまち先生に嫌われる。(←これは、日本に学びに来た留学生が非常に悩むことらしい。)
で、日本人が地球が太陽の周りを回っているという「真実」を発見したわけではないのです。江戸時代には、誰もそんなこと知らなかった。
つまり、だれも自然科学の「反証可能性」を見出す訓練を受けていない。
オウム真理教の「優秀な」信者も、麻原彰晃の教えから「反証可能性」を引き出せなかったのじゃないか?
科学で重要なのは真実ではなく、真実と思われていることを虚偽として証明する可能性をもつことだ。
でも、私たちは、水戸黄門様がやっぱり大好きなんですよね~
権威に従え~