1843年 12代将軍家慶に、若干25歳で老中に任命された阿部正弘。
備後福山藩主 阿部正精の五男として江戸藩邸で生まれ育った正弘は、病弱な兄の隠居に伴い藩主となるものの、
1837年に一度お国入りしたのが最初で最後だった。
そんな正弘も幕府内では、
1838年に奏者番
1839年には寺社奉行見習から寺社奉行へと着々と出世。
寺社奉行になると、前将軍家斉の時代の大奥と僧侶の乱行が発覚。将軍の非を表面化させないように僧侶を断罪、大奥は一部のみの処分として切り抜ける世渡りの上手さを見せる。
1843年に老中となるものの、
翌44年に江戸城本丸焼失事件や外国問題が紛糾、失脚していた水野忠邦が再び老中首座として復帰する(水野の復帰には将軍家慶に直訴するほど大反対だった)。
水野が復帰すると、天保の改革時代に不正などを行っていた江戸南町奉行の数名を処分(後任に元北町奉行の遠山影元(通称金四郎)が就任)
1845年には、水野をも天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、27歳で老中首座となった。
ところが、度重なる外国船の来航やアヘン戦争など対外的脅威の対応に追われ、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭(慶喜の父)など諸大名から広く意見を求め、江川英龍やジョン万次郎など大胆に人材を登用する。
1846年 アメリカ東インド艦隊司令官ビドルが浦賀に来航。通商を求めるが鎖国を理由に拒絶。
7年後の1853年6月 今度はペリーが第13代大統領ミラード・フィルモアの親書を携えて浦賀に来航。7月には、ロシアのプチャーチンも通商を求めて来航する。
正弘は、国難を乗り切る為に朝廷を始め外様大名や市井からも意見を募ったが有効な対策を打ち出せないまま、
翌54年 ペリーが再び来航。
遂に3月に日米和親条約を締結、200年に及ぶ鎖国にピリオドを打った。
聞き上手として、他人の話を良く聞いた阿部正弘。その後は、井伊直弼ら開国派と徳川斉昭ら攘夷派との板挟みとなり、
1856年には、老中首座を堀田正睦に譲る事になるが、高島秋帆や勝海舟らを登用して海防を強化。講武所(陸軍の前身)や長崎海軍伝習所(海軍)、洋学所(東大)などを創設。安政の改革に取り組み、在任中の1857年39歳の若さで急死する。
今だと『売国奴』と罵られている事でしょう。しかし、大きな波に飲まれながらも真摯に取り組んだ姿勢は今とは大違いです。果たして、いつ「そのうち」が来るのやら…
備後福山藩主 阿部正精の五男として江戸藩邸で生まれ育った正弘は、病弱な兄の隠居に伴い藩主となるものの、
1837年に一度お国入りしたのが最初で最後だった。
そんな正弘も幕府内では、
1838年に奏者番
1839年には寺社奉行見習から寺社奉行へと着々と出世。
寺社奉行になると、前将軍家斉の時代の大奥と僧侶の乱行が発覚。将軍の非を表面化させないように僧侶を断罪、大奥は一部のみの処分として切り抜ける世渡りの上手さを見せる。
1843年に老中となるものの、
翌44年に江戸城本丸焼失事件や外国問題が紛糾、失脚していた水野忠邦が再び老中首座として復帰する(水野の復帰には将軍家慶に直訴するほど大反対だった)。
水野が復帰すると、天保の改革時代に不正などを行っていた江戸南町奉行の数名を処分(後任に元北町奉行の遠山影元(通称金四郎)が就任)
1845年には、水野をも天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、27歳で老中首座となった。
ところが、度重なる外国船の来航やアヘン戦争など対外的脅威の対応に追われ、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭(慶喜の父)など諸大名から広く意見を求め、江川英龍やジョン万次郎など大胆に人材を登用する。
1846年 アメリカ東インド艦隊司令官ビドルが浦賀に来航。通商を求めるが鎖国を理由に拒絶。
7年後の1853年6月 今度はペリーが第13代大統領ミラード・フィルモアの親書を携えて浦賀に来航。7月には、ロシアのプチャーチンも通商を求めて来航する。
正弘は、国難を乗り切る為に朝廷を始め外様大名や市井からも意見を募ったが有効な対策を打ち出せないまま、
翌54年 ペリーが再び来航。
遂に3月に日米和親条約を締結、200年に及ぶ鎖国にピリオドを打った。
聞き上手として、他人の話を良く聞いた阿部正弘。その後は、井伊直弼ら開国派と徳川斉昭ら攘夷派との板挟みとなり、
1856年には、老中首座を堀田正睦に譲る事になるが、高島秋帆や勝海舟らを登用して海防を強化。講武所(陸軍の前身)や長崎海軍伝習所(海軍)、洋学所(東大)などを創設。安政の改革に取り組み、在任中の1857年39歳の若さで急死する。
今だと『売国奴』と罵られている事でしょう。しかし、大きな波に飲まれながらも真摯に取り組んだ姿勢は今とは大違いです。果たして、いつ「そのうち」が来るのやら…