天保の大飢饉では、東北地方を中心に全国各地で多数の餓死者を出し、江戸では御救小屋を設置した所、70万人超が駆け込み日常生活さえもままならぬ状態となっていた。
一方、三河国の田原藩では家老渡辺華山が師の佐藤信淵の思想を基にした『凶荒心得書』を著し藩主に提出。
「役人の綱紀粛正、倹約、民衆の救済を最優先すべき」
と説き、給与改革や義倉整備を実行し成果を上げ、1人の死者も出さなかった。
また、上杉鷹山(治憲)で有名な米沢藩も、治憲の時に起こった天明の大飢饉の教訓を活かした義倉整備や、「かてもの」という救荒食(米の代用食)の手引き書を作成し配布するなどし、更に藩主の上杉斉定(鷹山の孫)自らが白米の食事を止め、粥をすすり、「かてもの」の記事にある草木果実を食した為に藩士や領民も倣い餓死者を出さなかった。

飢饉に限らず、米を経済基盤としていた幕藩体制に対し、貨幣経済の浸透により米価の下落で藩の実収入は減少。
長年に渡る参勤交代や幕府に対する「お手伝い普請」により諸藩の深刻な財政難に加え、飢饉や自然災害による急な出費が堪えたのは言うまでもありませんが、平和な世の中が続き中央の幕府は華奢な生活から脱け出せず、地方がワリを食う幕政に対し藩独自に再建を行う必要性に駆られた。
天保の改革時には多くの藩が独自に藩政改革を行い幕末から維新へと繋がって行く訳ですが、私が注目したのは少し時代を遡りますが、1757年 松代藩(長野)6代目藩主真田幸弘の時に勝手方として仕え財政再建に当たった恩田木工の手法です。

自ら率先して倹約を実行、私利を貪らない姿勢で、領民の年貢の税率を
『常識(と思わされている)とは反対に引き下げ』分割納入を認める代わりに完納させる。
一方では、領民を苦しめる不正な役人や無能な役人を更迭。
と、藩行政の効率化を徹底した。
木工の急死により、財政改革は頓挫しますが、藩士や領民の意識改革には成功。
農村の荒廃は防がれ緩やかながらも再建の方向に向かったようです。

たった5年の改革で結果こそ伴わなかったものの、藩全体の意識に植え付けた魂は大きな宝だと思います。

市町村は都道府県に、都道府県は国に、国は外国(現在はアメリカ)にお伺いを立てて、参勤交代よろしく無駄に税金使ってご訪問。社会保障がパンクするとのたまい、自国民に増税を強いながら外国には変わらず巨額のバラマキ。
これじゃ何も変わりません。
我々自身が変わらなきゃ!
1841年 不仲であったと言われた家斉の死去で次々に改革を断行して行く家慶。
次期13代目には、病弱で障害を持つ4男の家定を指名(14男13女を産ませたものの結局20歳以上まで生き延びたのは家定だけだった)、
老中首座に出世の為には手段を選ばないものの能力はあった水野忠邦を重用、幕政腐敗の根源とも言うべき家斉の腹心(家定排斥も企んでいた)らを一掃、『天保の改革』を行わせた。
~水野は財政再建に乗り出し、徹底的な華奢の取り締まりを行うものの蛮社の獄などの言論統制まで行った為に世論の反感を買い、2年で失脚してしまう。~
(ここで家慶は、25歳の若手の気鋭、阿部正弘を大抜擢する人事を断行、時勢の判断力と人材の登用力に対する確かな目を見せた。)

1842年 アヘン戦争における清の敗戦が清の商人によっていち早く伝えられると
幕府は、『薪水給与令』を出し外国政策を軟化。
首相が作られたスキャンダルで交代させられるとすぐに次の首相が犬になる現代と全く変わっていないようで泣けて来ます。

更に水野は、『上知令』により江戸、大坂から十里四方の大名、旗本の領地を幕府に返上させ(近郊に代替領)防衛を固めようとしたが同僚の老中土井利位を中心とした強力な反対派(御三家紀州藩も反対)に加え、水野の腹心までもが内部資料を持って寝返り失脚。
上知令と共に天保の改革も終焉した。

1831年 江戸の大火や京都の地震という災厄で文政13年12月に天保に改元。
平安時代に一度、候補に挙がるも字面の縁起が悪いと言う事でボツになった年号を災厄の後に持って来たものの、
天保の大飢饉や度重なる一揆など災厄から逃れる事は出来ず(家斉期の腐敗政治による人災もあったようですが)
1845年 天保15年12月2日を以て弘化に改元されます。


現在は天皇の時代で年号を決めていますが、平成に入ってロクな事がないと感じるのは私だけでしょうか?
バブルだ何だと浮かれていた頃のツケを払わされているような気がしてなりません。
放射性物質の影響を真剣に厳しく追及してしまうと、平成の大飢饉が訪れてしまうから身体に悪くても、『絆』で『食べて応援』だなんて、やはり狂っています。
事故の張本人とも言うべき、東電始め各電力会社と日立、東芝、三菱を始めとする原発産業。
経産省に原発推進に尽力してきたメディアこそが、先頭に立って『食べて応援』して欲しいのですがね…。
今でこそ、北の将軍様の権力の相続を鼻で?笑いながら、「何で?」
といぶかしがっていますが、
江戸時代の日本は全く同じ事を延々250年以上も続けていたわけですから泣けてきますね。(T_T)
(っつうか、天皇を立てて崇拝しているんだから、ずっと同じじゃねぇ?)


その江戸幕府11代目の将軍として50年もの長きに渡り君臨してきた家斉。
1832年から続く「天保の大飢饉」や、度重なる百姓一揆にも華偖な生活を変える事はなかったが、
1837年3月(天保8年2月) 遂に大坂から火の手が上がった。

大坂東町奉行所の元与力 大塩平八郎。
1日に150~200人もの餓死者が出ていたと言われた大坂の窮状を救うべく、奉行所に救済を提言するも拒否され、仕方なく自宅の蔵書5万冊を売却、救済に充てていた。(奉行所は「売名行為」と非難)
そんな中、家斉がやっと将軍を退き、次男の家慶に継嗣する事が決まり、就任の儀が催されるという事で大坂東町奉行所の跡部良弼(後に天保の改革を実施した老中 水野忠邦の弟~忠邦は自身の出世の為に賄賂工作を積極的に行っていた~)は、米不足で米価も高騰していた大坂から江戸に向けて、豪商にから買った米を廻送。
こんな情勢下でも豪商は金の力で米の買い占めで更なる米の不足と高騰を誘発、大塩らも激怒し決起を決意した。


乱は、決起の前に内通者により奉行所に知れてしまい不完全な準備のままで市内の豪商の家に火を放つなどするものの半日で鎮圧され、大塩も40日後に潜伏先を通報され爆弾自決しますが、『幕府の元役人が大都市大坂で反乱を起こした』という衝撃は大きな波となり、
6月には越後で生田万の乱が起こるなど『大塩残党』などの名を使い全国で同様の乱が頻発。
7月30日に起こったモリソン号事件の後の
9月2日 家慶が将軍に就任した。
家慶に将軍職は譲るものの、家斉は先代の悪癖 大御所として君臨。
1841年に死去するまで実権を握り続けた。
結局、45歳と言う当時では高齢で将軍になった家慶は政治よりも趣味に耽り、家臣の意見に、「そうせい」と答えるのみで、『そうせい様』と揶揄されてしまう。


大塩は在職中も不正を告発、水野忠邦や大久保正清ら4名もの現職老中の名がある上に諸藩に都合が悪かった為に隠蔽されてしまいます。


不正、告発、隠蔽、冤罪、処分…。
今でも欲の為に同じ事が繰り返されています。
正義が陽の目を見る日は来るのでしょうか…?