1783年 山口県萩に生まれた村田清風は、後に多数の維新の志士を輩出する事になる名門藩校明倫館を学費免除となる優秀な成績で卒業。
幹部候補として藩政に携わり、慢性的な赤字を抱えていた藩の財政改革に着手していた。
しかし、1831年 長州藩全域で天保の大一揆が起こり引責?辞職に追い込まれる。
1837年 「そうせい候」と揶揄された毛利敬親が藩主になると、
翌年、清風を右腕として起用(事実上の実権掌握)、清風に政務を任せた。
清風の天保の改革。
倹約の励行は他藩同様ですが、当時の特産物であった蝋(ろう:wax)の専売制を撤廃。自由に商取引をさせる代わりに一定額を上納(運上銀)させ、藩内の商取引が活発化、藩の財政も潤ってくる。
更に、豪商らを登用して下関越荷方を設置。
西国諸藩の商業の要所(大坂)であり、船舶交通の要所でもある下関の海峡に越荷方(貿易会社)を設置し、荷物の一時預りや、荷物を質にして高金利の貸金を行い、藩の財政は大幅な増収となった。
そして、極めつけは「37ヶ年賦皆済仕法」という長州藩と藩士の為の(ほとんど借金の踏み倒し)法律で、これにはさすがに金を貸している側の商人や保守派から猛反発が起こり、更には越荷方により大坂への商品流通が著しく減少した為に幕府からも横槍が入り、自身の病も重なり退陣に追い込まれます。
藩政から遠ざかり、外国船が度々やって来るようになると、海防論などで農民や漁民の武装化も提唱。
自身の嫌な記憶である、天保の大一揆を振り払い国防の必要性を説きます。
彼の改革は、自分の藩だけの利益の為の改革のようですが、当時の長州藩の財政状態は、歳入の22倍もの借金を抱えていたそうですから自治体としてほとんど破綻していた為に、強行策で乗り切ろうとしたのでしょう。
無駄な所にはじゃぶじゃぶ金を流して、庶民からは徹底的に搾取する政府も少しは財界に「内部留保金」を吐き出させて景気回復に繋げるように努力して欲しいものです。
そのうち(誰かさんの「そのうち」よりは早い?)海外のマネーゲームに翻弄されて、溜め込んだ内部留保金を吐き出す羽目になると思うんですけどね…。
今度の選挙では、維新という言葉に惑わされず、きちんと言動を見て投票しましょう!
幹部候補として藩政に携わり、慢性的な赤字を抱えていた藩の財政改革に着手していた。
しかし、1831年 長州藩全域で天保の大一揆が起こり引責?辞職に追い込まれる。
1837年 「そうせい候」と揶揄された毛利敬親が藩主になると、
翌年、清風を右腕として起用(事実上の実権掌握)、清風に政務を任せた。
清風の天保の改革。
倹約の励行は他藩同様ですが、当時の特産物であった蝋(ろう:wax)の専売制を撤廃。自由に商取引をさせる代わりに一定額を上納(運上銀)させ、藩内の商取引が活発化、藩の財政も潤ってくる。
更に、豪商らを登用して下関越荷方を設置。
西国諸藩の商業の要所(大坂)であり、船舶交通の要所でもある下関の海峡に越荷方(貿易会社)を設置し、荷物の一時預りや、荷物を質にして高金利の貸金を行い、藩の財政は大幅な増収となった。
そして、極めつけは「37ヶ年賦皆済仕法」という長州藩と藩士の為の(ほとんど借金の踏み倒し)法律で、これにはさすがに金を貸している側の商人や保守派から猛反発が起こり、更には越荷方により大坂への商品流通が著しく減少した為に幕府からも横槍が入り、自身の病も重なり退陣に追い込まれます。
藩政から遠ざかり、外国船が度々やって来るようになると、海防論などで農民や漁民の武装化も提唱。
自身の嫌な記憶である、天保の大一揆を振り払い国防の必要性を説きます。
彼の改革は、自分の藩だけの利益の為の改革のようですが、当時の長州藩の財政状態は、歳入の22倍もの借金を抱えていたそうですから自治体としてほとんど破綻していた為に、強行策で乗り切ろうとしたのでしょう。
無駄な所にはじゃぶじゃぶ金を流して、庶民からは徹底的に搾取する政府も少しは財界に「内部留保金」を吐き出させて景気回復に繋げるように努力して欲しいものです。
そのうち(誰かさんの「そのうち」よりは早い?)海外のマネーゲームに翻弄されて、溜め込んだ内部留保金を吐き出す羽目になると思うんですけどね…。
今度の選挙では、維新という言葉に惑わされず、きちんと言動を見て投票しましょう!