気象観測が行われていない頃ですから被害に遭った藩の報告書から推定して
9月18日 午前2時頃に長崎県西彼杵半島辺りに上陸。
最大瞬間風速約50m/h、約50km/hで北北東に進み、関門海峡から山口市辺りに再上陸し日本海へ抜けたようです。
この台風で佐賀藩では有明海で最大4mもの高潮が発生。6千町歩の耕地が水没し家屋の全半壊は約5万軒に及び、焼き物の町、伊万里では燃焼室を連ねた窯が損壊し強風に煽られた炎が町を焼き尽くしてしまい、1200軒を焼失、百人以上の焼死者を出してしまい、福岡藩や長州藩、天領の長崎などを中心に全国で少なくとも2万人が亡くなったこの台風は後にシーボルト台風と呼ばれます。
オランダ商館付の医師であったドイツ生まれのシーボルト。1823年6月に来日。
1824年には鳴滝塾を開講し、高野長英や伊東玄朴など多数の医者や学者を教え蘭学の発展に貢献していましたが、裏の肩書きは内情探索官(スパイ?)であったようです。
1826年に幕府の天文方で書物奉行でもある高橋景保に「世界標記伝」等を贈り、見返りに伊能忠敬の「日本地図」の写しを貰う。
これに加えて、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉の標本欲しさに間宮に手紙と布地を贈りますが、間宮はそのまま上司に提出。これが発端で、高橋や多くの日本人が捕らわれてしまいます。
高橋から(鎖国で)禁制品の地図を送られた事が分かったシーボルトは謹慎し処分の決定を待つ身となります。
1828年10月には帰国する予定でしたが、9月17日の猛烈な台風で船が座礁。12月まで動けなくなり捜査は軟禁状態の出島の自宅にも及びます。
高橋は死すものの、シーボルトの身を張った訴えで捕らわれた多くの日本人は救われます。
結局、シーボルトは国外追放となり
1830年 オランダに帰国。
帰国後は、陸軍の日本(東洋)関係の事務方を務め、政府後援で『日本』という雑誌も刊行。
1853年 ペリーが日本に向かう際には日本の資料を提供。性急な軍事行動を行わないように要請もします。
1858年 開国した日本に世界から群がり結ばれた条約にオランダも乗り遅れまいと、日蘭修交通商条約を結びシーボルトの追放も解除。
翌59年 オランダ貿易会社の顧問として長男を伴い再来日。幕府の外交顧問として幕末の動乱の3年間を務め帰国。
職を辞した後は故郷ドイツに帰り最期を迎えたようです。
季節変わりの台風です。
充分にご注意あれ!
9月18日 午前2時頃に長崎県西彼杵半島辺りに上陸。
最大瞬間風速約50m/h、約50km/hで北北東に進み、関門海峡から山口市辺りに再上陸し日本海へ抜けたようです。
この台風で佐賀藩では有明海で最大4mもの高潮が発生。6千町歩の耕地が水没し家屋の全半壊は約5万軒に及び、焼き物の町、伊万里では燃焼室を連ねた窯が損壊し強風に煽られた炎が町を焼き尽くしてしまい、1200軒を焼失、百人以上の焼死者を出してしまい、福岡藩や長州藩、天領の長崎などを中心に全国で少なくとも2万人が亡くなったこの台風は後にシーボルト台風と呼ばれます。
オランダ商館付の医師であったドイツ生まれのシーボルト。1823年6月に来日。
1824年には鳴滝塾を開講し、高野長英や伊東玄朴など多数の医者や学者を教え蘭学の発展に貢献していましたが、裏の肩書きは内情探索官(スパイ?)であったようです。
1826年に幕府の天文方で書物奉行でもある高橋景保に「世界標記伝」等を贈り、見返りに伊能忠敬の「日本地図」の写しを貰う。
これに加えて、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉の標本欲しさに間宮に手紙と布地を贈りますが、間宮はそのまま上司に提出。これが発端で、高橋や多くの日本人が捕らわれてしまいます。
高橋から(鎖国で)禁制品の地図を送られた事が分かったシーボルトは謹慎し処分の決定を待つ身となります。
1828年10月には帰国する予定でしたが、9月17日の猛烈な台風で船が座礁。12月まで動けなくなり捜査は軟禁状態の出島の自宅にも及びます。
高橋は死すものの、シーボルトの身を張った訴えで捕らわれた多くの日本人は救われます。
結局、シーボルトは国外追放となり
1830年 オランダに帰国。
帰国後は、陸軍の日本(東洋)関係の事務方を務め、政府後援で『日本』という雑誌も刊行。
1853年 ペリーが日本に向かう際には日本の資料を提供。性急な軍事行動を行わないように要請もします。
1858年 開国した日本に世界から群がり結ばれた条約にオランダも乗り遅れまいと、日蘭修交通商条約を結びシーボルトの追放も解除。
翌59年 オランダ貿易会社の顧問として長男を伴い再来日。幕府の外交顧問として幕末の動乱の3年間を務め帰国。
職を辞した後は故郷ドイツに帰り最期を迎えたようです。
季節変わりの台風です。
充分にご注意あれ!