嘉永7年という年は大地震があまりに多く縁起が悪いと言うことで、11月27日(1855年1月15日) 年号を安政元年に変更した。
6月15日(7/9)正午頃、伊賀上野(三重県)で M7.2(阪神大震災と同レベル)の内陸地震が発生。約950人の犠牲者を出したが、それが前兆とは幕末の慌ただしさとは言え知る由もなかったろう。
11月4日(12/23)午前8時頃 駿河湾から遠州灘にかけての沖合で地震が発生。
沼津藩の記録に、「小さな揺れから始まって次第に大きくなり、地面に腹這いになっても放りあげられる程の激震に変わった。」とあるこの地震は、推定M8.4で、房総半島から土佐沖までという広い範囲で激しい揺れが起こり、被害は関東から近畿までに及び、家屋の倒壊は日本海側にまで至り、現在の浜岡原発に近い静岡県御前崎では約1m隆起、相良港でも約1m隆起するという被害をもたらした。(爆発寸前まで行った福島で考えると浜岡の危険度も想像がつくでしょう)
そして、地震から15分から20分が経過した頃、津波が発生。
三重県の鳥羽や尾鷲で6m、志摩半島の国崎では22.7mあったという碑文が残されている。
この時、運悪く?日露和親条約締結の交渉の為に下田沖に停泊していたロシアの軍艦ディアナ号。
津波により浸水し何回も回転して船体が破壊され、収束後に修理の為に西伊豆戸田港に向かうと今度は暴風に遭い漂流、座礁。漁船で何とか曳航して行くものの途中で力尽き、1855年1月19日 沈没の憂き目に遭ってしまった。

この地震の余震は9年に渡り、2979回も起き、1855年11月7日(安政江戸地震の4日前)には、遠州灘を震源とする M7~7.5の最大の余震が起き、地割れや泥水の噴出、津波が起こったとされている。


静岡県御前崎市の風光明媚な海岸線にある浜岡原発。
8mの津波を想定して作られたという防波壁を、3.11後に『4m引き上げる(海抜12m)工事を、2~3年以内に完了させる』と発表するも、批判が起こると、『15m』→『18m』と小出しに引き上げ(消費税か!?(-_-#)、完成予定も2012年12月と一気に前倒しする様は、脅されると無理をも通してしまう情けない外交を見ているようで悲しくなります。

正直、いくら高い強固な壁を作っても人知を遥かに超えてしまうのが天災だし、
福島原発は、津波の前に地震で既に壊れてしまっていたわけですから…。

1853年 浦賀に来航したペリー。
大統領の親書を携え、半年前にバージニア州のノーフォークの港を出る時、既に58歳。恐らく最後の大仕事に当人も相当張り切っていたであろう。
日本人が初めて見る、蒸気機関の煙を吐く四隻の黒塗りの艦隊は「黒船」と呼ばれるようになる。
何十発もの空砲で病床の将軍家慶も肝を冷やしたのかどうかは定かではないが、老中首座の阿部正弘に決断は出来ず、1年後に返事をするという事で、その場は凌いだ。

しかし、ペリーが去ったわずか10日後に将軍家慶が死去。
跡を継いだ13代目の家定は病弱で心身両方共に国難に対処出来るような人物ではなく、他の老中にも妙案はなく世論は異国排斥を唱える攘夷論が高まり、開国要求との板挟みとなった阿部は諸国の大名ばかりか庶民にまでも広く意見を求めるが、話がまとまるはずもなく、国政を幕府ではなく合議制で決定しようという考えだけが広がっていく。
とりあえずの策として、阿部は諸大名に軍備を増強して異国船に備えるように指令だけは出すのだが…。

1854年2月 約束の1年を待たずして半年でペリーが再び浦賀に来てしまった。(香港で家慶の死去を知ったペリーは、国政の混乱を衝いて条約を締結してしまうチャンスと見て交渉を早めた)
まず、アメリカ側が招待し船上でフランス料理を振る舞うと、招待客は十手と孫の手をナイフとフォークに見立てて作法の練習をし、挙げ句の果てに出された様々な料理を一緒くたにして懐紙に包んで持ち帰るという荒業には、ペリーもビックリしたに違いない。
日本側は、江戸の本膳料理屋に300人分2000両(現在の価値で約1億5000万)を払い、酒からデザートまで百を超える料理でもてなし会談を行った。(確か財政難でピーピー言ってたはずなんですが…)
1ヶ月に及ぶ交渉の最中、日本側は何かにつけてアメリカ側に食事に行き、結局
3月31日(安政元年3月3日)横浜で
『日米和親条約』を結び、下田と函館を開港。200年に渡る鎖国に終止符を打った。
その後、下田に場所を移して和親条約の細則を定めた13ヶ条の下田条約を締結。
その第9条にある、「片務的最恵国待遇」。事実上、アメリカの属国としてのスタートを切った。


160年余り経った現在、
原発→作ります!
米軍→養います!
飛行機(民間も軍用も)→買います!
ODA→バンバン出します!
TPP→参加します!

一体、何が変わったと言うのだろう…?
2度に渡るクーデターに失敗し終身刑になりフランス北部の要塞に収監されたルイ。
1846年に石工バンゲと入れ替わり脱獄。
1848年の革命で念願の帰国を果たし、
大統領選挙に立候補。
資金援助や複数政党からの「軽い神輿」としての消極的な支持はあったものの、最終的に国民投票で圧勝するに至ったのは、
『ナポレオン』の名前であった。
何はともあれ、脱獄からわずか2年で大統領に這い上がったルイは悲願のボナパルト家の復活を達成する。

就任当初は大統領の権力が弱く、国民議会に主導権を握られ続けるが、
1851年 国民議会に対してクーデターを起こし大統領権限を大幅に強化。
新憲法を制定して独裁体制をスタートさせ1852年 国民投票により皇帝即位を宣言。
ナポレオン三世が誕生する。


討論が苦手だったり、普段は無口で妄想癖もあり、女遊びも激しく浪費で何度も財産を失くした為に、「ただのバカ」とか「間抜け」と陰口を叩かれ、外国からは『小ナポレオン』と揶揄されたりしたようですが、
彼がセーヌ県の知事に任命したオスマンによりパリの統一された街並みが出来上がり鉄道網も大幅に拡大し、
1855年にはパリ万博を開催。
パリの街をガス燈で彩り成功に導きます。
1856年 3年にも及ぶクリミア戦争に勝利(クリミア半島からカムチャッカ半島に渡る大規模な戦いにイギリス他と同盟軍を組みロシアを倒す)、名声を高め
1858年には開国した日本と日仏修交通商条約を結び、
60年には英仏通商条約でイギリスとの関係を強めて行くものの、60年代に入ってからの相次ぐ外交の失敗や経済恐慌での内政の悪化に加え、プロイセンとの戦争にも敗れ1870年 皇帝を退位する。


この時代に活躍した画家のミレー。
彼の初期の代表作である、
『種まく人』は、それまで彼が生活の為に描いていた女性の裸体画から一転して、農民の姿を躍動感溢れるタッチで描き高評価を得、以後のスタイルを確立させます。


今、目の前にある危機。
増税目前の経済や、戦争突入?寸前の外交。出来る限り真実から遠ざけ国民を腑抜けのままにしておきたいマスコミ。
ツィッターを始めネット上で、
地道に種をまく人々も、いつかは実を結ぶ事を願って種を巻き続けているのかもしれません…。

('◇')ゞ