喜劇 眼の前旅館 -3ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

去る3月31日に行われた歌集『町』批評会で基調発言をつとめたときの原稿を以下に掲載します。
歌集『町』は短歌同人誌『町』の五冊目として出されたものです。でも第五号ではなく歌集と名づけられていて、掲載歌は作者名がすべて伏せられています。
未読の方はこちらのページに購入方法がありますのでぜひ入手して下さい。短歌の現在から何かものを考えようという人には必読の一冊だと思いますので。

原稿は事前に少し削った部分や、しゃべりながら時間の都合でとばした歌なども含めたいちおう完全版ということになります。
言い換えればそのぶん冗長にもなってるし、単純に分量としてもかなりあります。こういう場でしゃべるのがはじめてだったので、緊張で頭が空白になってもそのまま読めば何とかかたちになるように、話し言葉風にくずしてそれっぽく書いてあるのでかえって読みにくいかもしれません。
そもそもこういう原稿は自分用のメモであって(家を出る直前まで書いてたノー推敲文)ほんらい人に見せるようなものじゃないと思いますが、いくら話し言葉風にしても結局ほぼそのまま読んでしまった結果、文字で読んだ方がまだわかりやすかったかな、という反省があるのでまあいろいろと文章の粗さとか割り引いて読んでもらえればということで、掲載します。おもにその場で聞いて下さった方の記憶の整理などの参考、および来れなかった方の想像の材料としてお使いいただければと思います。
それからブログという場の性質上、および私の能力の限界から引用歌の表記が(実際には縦書き、という点を除いても)必ずしも誌面どおり再現できていないことをご了承ください。




 ○



歌集「町」という五冊目の本を出して解散した同人誌「町」ですけれども。
私は短歌の同人誌というのは、この「町」第一号にはじめて触れたときから現在に至るまで、あまり多くを読んだことがありません。なので「町」という同人誌がほかと較べてどうなのか、ということを語る資格に欠けている人間なんですけども、評判を聞くかぎりにおいて、どうもほかの同人誌とは何か違うようだ、というのは伝わってくるわけです。もちろん、いい評判としてですね。

私が『町』に対して感じていたことをひと言で言えば『町』は町っぽいということです。
今二回「町」って言いましたけど、最初の『町』は固有名詞の、この同人誌の名前で、次に言ったのは一般名詞の「TOWN」のほうです。私は『町』というタイトルの本を手に取ると「TOWN」の町と一瞬区別がつかなくなるようなところがあるんですが、じっさいに本をめくっていくと、たしかに「TOWN」の町っぽいとどこか無意識に納得するところがこの同人誌『町』にはあって、やっぱり『町』は町っぽいんだ。ということで自分の中では済ませてしまっていたわけです。

そこをもうすこし具体的にしてみようと努力すると、私はそもそも道路のような短歌が好きだと思っているところがあって、つまり通り抜けるものですね。作者がそこに居座ったりしていなくて、つくったあとでその場を明け渡して風通しのいい、自由に通り抜けていい空間として残されているような。そういう歌がいいんだと思ってるということを、『町』の町っぽさについて考えながら気づいていったんです。『町』の人たちはみんな個性が違いますけど、どの作品も店員が話しかけてこない店みたいなところがあって、それが今いった道路っぽさということになるんですけど、そこは共通してるんじゃないかと思うんです。

で、解散ということで。そのことを知ったときは「えっ町が解散するの?」と、この場合の「町」は固有名詞と一般名詞が混じった感じですね。「町なのに解散するの?」みたいに思ってしまって。その最後の一冊が歌集、を名乗っているわけですが。
私は歌集というのがどういうものなのかもあまりよくわからなくて、ただ、一般に同人誌などの雑誌が「歌集」じゃないことは、そこに評論などの文章が収録されていたり、あるいは作品の載せ方として、企画を前面に出したものがあったりとか、そういうところで区別できるんだと思うんです。

でもそれをいえば『町』の四号は作品だけが収録されていたので……やっぱりほんとのところはわからないんですが、この歌集『町』はたぶん同人誌『町』の中の企画であって、ただ、それを収めるはずの『町』五号がない。この、企画のページがむき出しで存在してることで、それを包む同人誌『町』がもうなくなってしまったのだということが示されてるのだと思いました。
逆にいうと、企画だけをむき出しにした本をつくってしまったので、雑誌としては終りにせざるをえなくなったのかなと、妄想みたいなことを考えてしまうんですけど。

今回だけ型が小さいですよね。何ていう型なのかわかりませんけど、今までずっと同じ大きさだったのが今回ひと回り小さくなってて。それはこれが本来のあるべき『町』の一部であって、これを包んでいた本体が消えてしまったことを示してるような気がします。

中身を見ますと、ここには作者名が示されずに歌が並んでるんだけど、その並び方は、ある歌の中のどこかの部分に反応して次の歌が置かれるような感じ、それははっきりひと目でわかるようなものだけじゃなくて、前の歌をまったく無視してるようにあらわれる歌もあるんだけど、たいてい何か関係が見つけられて、そのリレーのされ方は、歌の個性の違いから作者の入れ替わりがかなり露骨に感じとれることも含めて「交換日記的」だなと思いました。

で、これは本としてどのように読んでいったらいいのかといえば、やっぱりその歌から歌へと渡されていっているものをさがすような、そういう読み方で微妙な変化、それは個性の入れ替わりも含めたものですが、そこを見ていくような読み方がいいのかなと思いました。
ただ、そう気づいたのはついさっきなので、あまりそうは読めてなくて。これまでの『町』を読んでて、あるていど作者名の想像もできる状態で読んでたからどうしても頭が作者あてみたいなほうに向かってしまうんですよね。一首ごとの表情の変化というより、もともとの顔のつくりの違いみたいなのがつい気になってしまって、だから、一冊を通して見えてくる景色みたいなのはこれまでの『町』とあまり変わらないというか、これまでの『町』が何か乱丁の本みたいな不自然な折り畳まれ方をしてる、という以上のことを読むのはちょっと私は時間的に間に合わなかった感じです。

ただ、これは最後の本なのだから、今までのように半年後くらいに次が出るわけじゃないので、だから読むのに一年とか二年、あるいはもっと十年でも二十年でもかかっても全然いいわけです。同人誌の活動歴の中でいえば、いちばんほかのことにまぎれない位置に、いつまでもよく見える位置に置かれているわけなんで、その後にずっとつづく空白が、この本を読むための時間としてあけられてるとも言えるわけです。


あと、ここには作者名がないんだけど、短歌にはそもそも作品の要素として「タイトル」というものが欠けてるわけですよね。
私は作品っていうのは基本、タイトル/本文/作者名、という三つの要素からできてて、その三点がつくる三角形みたいに思ってるんだけど、短歌はもともと本文と作者名だけでできてるわけです。連作とか歌集のタイトルはあるけど、それは一首とは別な単位で読もうとしたときに見えるものであって、一首単位ではタイトルがない。そのぶん、作者名にかかる負担が大きいというところがあると思います。短歌が作者に所属してるように見えやすい理由は、そこにひとつあるかもと思ってて、タイトル/本文/作者名、という三点に囲まれた空間みたいなものが短歌には生じないから、読者は作者からなかなか離れがたいのかもしれないと思う。

ところがこの本には個々の歌の作者名が付されてないから、その一首ごとを「作品」として読もうとするときにどうしても欠落感があって、というのは「本文だけでできてる作品」ていうのは基本、ないと思うんですよ。もちろん魅力的な作品からタイトルや作者名を隠してしまってもそれは魅力的な何かなんですが、作品とはべつなものになると思う。


で、この本には個々の歌の作者名はないけど、うしろに『町』のいつもの同人によるあとがきが付いてて、だからこの集団の名前でもある『町』がこの本の作者名のようなもので、それは歌集『町』というタイトルと重なってるわけです。だからここに収録されてるすべての歌、つまり本文ですね、本文すべてとの関係をこの歌集『町』というタイトルが一手に引き受けてるんだけど、これは引き受けかねているというか、ちょっと負担が大きすぎるのかなという感じは何となくしました。すごい数の生徒をひとりで見てる先生というか。

だからこのタイトルとの関係で個々の歌を「作品」として読むのは、なかなかスムースにはできなくて、ある無秩序な、先生の機能してない教室みたいなところに飛び込んでいって、そこで個々の生徒と関係をつくろうとするような負担が、読者にかかるとは言えると思います。




いくつか個々の歌を読んでみたいんですが。
二十首選というコピーが配られてると思うんですが、この中からいくつか重要な歌というか、論じたくなる歌……ただほんとは同じ作者だろうなって思うべつの歌とあわせて読んでみたいというか、作家論的に読みたくなるところがどうしてもあって、そこをがまんするのは苦しいんですけど。
じゃあ一首目。


磨り硝子の面に光うつろわせ私はかつて道だったのだ(p9)

かつて道…今は道ではないということ。硝子はむこうが見えるのに行けない行き止まり、というふうにとらえると、かつて道だった、かつて道として続いていたところへ、今はもうそれが記憶として(すりガラスの景色のようにぼんやりと)望めるだけで、もう行くことができない、道ではなくなってる、ということじゃないかと思います。
かつて道だったものが今は道ではない、というのは悲しいことですね。
短歌が道のようなものであってほしい私には、道のことをうたった歌はすごく気になるので、これはまして「かつて道だった」なので、気になる歌です。

それから次は

今は一つの光となって「先生にいい子って思われたいんでしょ」(P29)

一種の倒置。「先生に~」はひとつの台詞、あるときだれかが口にした言葉の再現ととれる。そこには先生とこの台詞を語っている人、そしてこの歌じたいの話者(台詞を言われている者)の三者の関係がうつしとられている。
この三者の関係はなんかギスギスした、身を置くと痛いような関係だと思うんだけど、「今は一つの光となって」という、それとは対照的な現在を読んでから読むことで、その痛みにべつな痛み、ある甘い痛みのようなものも加わってきますよね。で、それは現在から過去に向けた視線が見出す痛みなんですが、時間的にはそこからまたぐるっと冒頭の「今」にもどってくる。そういう痛みと甘さの円環のようなものができてる、とてもせつない歌だと思います。


それから次は
これはすみません、太字になってる部分を再現するの忘れてしまって。
本のほうを見ていただくと正しい表記が分ります。


北極のように感極まった未来のなかで 陛下は
鉛筆をもどす シースルーゴンドラにたくさんの性交が貼りついている 笑顔が
夜空を持ちあげている 名前という名の天使
表面がプールなっているきみの星 目立つ傷のない
赤色の自動車とともに眠って 眠れないわたしに話しかけている
君と君のバースデイは2日ちがいで 遠慮をしないでほしい、let や make といった動詞をみていると 恐ろしい力ときみの力の貝合わせで
文節のあいだで持ちあがり 夢みること 及び 申し訳ありませんが 子供の日には開館しておりません
心して当日をむかえたら どうか わたしにも知らせてください
(p43)


これが一番、ほかのいくつかの歌とあわせて読みたい感じだったんだけど。
いちおう単独で見ますと、三行目に「名前という名の天使」、六行目に「君と君のバースデイ」とあります。
それを頭に置きつつ、七行目になるのかな、「恐ろしい力ときみの力の貝合わせで」とありますね。

貝合わせというのは、貝でやる神経衰弱みたいな遊びかな、そういう意味がたぶん元だと思うけど、ここは女性同士の性技のほうで取りました。つまりたとえば「光と陰」とか「天と地」みたいにコントラストを描きつつ一組になってるような、そういう言葉のペアとは対照的なものとして、同じ言葉を二つでペアをつくったり、あるいはいっけん意味がだぶってるような(名前という名の天使)言葉の使い方ですね。

そういうことがあったとき、その同じ言葉でも置かれてる位置は当然違うので、前と後だったり、そのことで何か、役割の違いのようなものが生じてくると思うんです。「名前という名の天使」だったら「名前」は固有名詞で「名」は一般名詞ですね。「君と君のバースデイ」のほうはそんなはっきりとはわからないけど、やっぱり、後の方の「君」は「君のバースデイ」までで前の「君」と併置されてるようにも見えるし、そういう微妙な光の当たり方の違いみたいなのが起きて、同じ言葉がべつな表情を見せる。そういう言葉の使い方が「貝合わせ」という言葉にふっと言い表されてる、そんな感じで読みました。

ふつう言葉と言葉がつなげられる、関係させられるとき、どこか男女の性器結合的な表情を見せやすいと思うんです。ここではそうじゃないかたちが示されて、試されていて(この本の中には同様の歌がいくつかあって、同じ作者かなと思うんですが)、そこに自己言及的に「貝合わせ」という言葉が出てきてる、そんなことを思いました。



火刑絶えて久しく麺屋〈一蘭〉の行列になら
ぶ人々に雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪そんなにぼうっとつったってないでね
えにいさん、よあけのゆきはもえるごみかな
(p48)



これは好きですね。
雪という文字が降る雪をかたどり、二首の間を埋めるその量が時間や空間を読者に経験させる感じ。ドラマチックです。短歌をつかってつくるドラマチックな表現として、なにか、一回限りのかたちみたいなものが発見されて、つかわれてるという気がしました。


『町』は第一号がすごく魅力的な困惑を読者にあたえる、ふりまくことでスタートしてて、その困惑がその後の『町』に読者をひきとめる魔法みたいになっていたように思うんです。対するこの歌集の困惑は、第一号のようにこっちの胸ぐらを掴んでくるような魅力ではないんだけど、何か放り出されてしまったような困惑ですよね。

第一号でその場に引き止められて、それから次々と変わる景色を見せられてきて、最後にその場に置き去りにされてしまったような。だから第一号とこの歌集『町』は、『町』というひとつの体験を挟んで、困惑と困惑なんだけどなにかちょっとずれのある、そういう始まりと終りの体験になっていると思います。





歌集『町』二十首選(我妻俊樹)

磨り硝子の面に光うつろわせ私はかつて道だったのだ (p9)
かみなりを口に含んで 家具と春と夕焼けをつるす わたしとドアに (p13)
魂や心を売った人としか話したくない/夏になると人形や家も家出する (p15)
駐車場にむかうと心がひとつずつ死ぬ。変態。いい子にしてたらね。 (p17)
川底の泥をすくって孤高なるシンガー・ソングライター、遭難 (p21)
うん いいよ さっき流した トイレットペーパーがまた 浮かんできてる (p25)
音楽から叱っても賢いうさぎ 最晩年と最晩年に (p28)
今は一つの光となって「先生にいい子って思われたいんでしょ」 (P29)
きらきらと輝いている街路樹の片手で覆い隠せる範囲 (P34)
もみじ葉を銀河のように散りばめて一瞬の秋に立ち尽くす庭 (P35)
夢に血の雨が降る金星として歩いてくるあのふとい足は (P38)
そういえばこれくらいの小さな地球儀をあなたはいつか怖いと言った (P42)

北極のように感極まった未来のなかで 陛下は
鉛筆をもどす シースルーゴンドラにたくさんの性交が貼りついている 笑顔が
夜空を持ちあげている 名前という名の天使
表面がプールなっているきみの星 目立つ傷のない
赤色の自動車とともに眠って 眠れないわたしに話しかけている
君と君のバースデイは2日ちがいで 遠慮をしないでほしい、let や make といった動詞をみていると 恐ろしい力ときみの力の貝合わせで
文節のあいだで持ちあがり 夢みること 及び 申し訳ありませんが 子供の日には開館しておりません
心して当日をむかえたら どうか わたしにも知らせてください(p43)

はまぐりを水に沈めてしばらくは二月が君の住む窓である (p45)
新月がまた新月になったとき裏返すべきカセットテープ (p46)
ちからあるうさぎとねむるあめのひに心のようなおつりを よいしょ (p47)
人差し指 解雇しますと両親に告げる夢より覚めてそれから (p47)

火刑絶えて久しく麺屋〈一蘭〉の行列になら
ぶ人々に雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪そんなにぼうっとつったってないでね
えにいさん、よあけのゆきはもえるごみかな (p48)

20年前の明かりが手を広げおとずれる廊下で蝉が寝ている (p68)
東京とあなたが言って東京のあらゆる本は薄目を開けた (p71)
みどり児もけむりを吐いて眠るのでまぶたの下は汽車なのだろう


口に出せばおまえを呼んだことになるつつじヶ丘に文字なす傷は


鰐というリングネームの女から真っ赤な屋根裏を貢がれる


ブルーシートに「瀬戸内海」とペンで書け恋人よ 毛玉まみれの肩よ


バス停を並ぶものだと気づくのはいずれ人ばかりではあるまい




(初出『NHK短歌』2011年4月号)
大晦日であるが、今年を振り返るかわりに三月の震災の影響で中止になった「町」4号読書会の、瀬戸夏子さんの連作『「奴隷のリリシズム」(小野十三郎)、ポピュリズム、「奴隷の歓び」(田村隆一)、ドナルドダックがおしりをだして清涼飲料水を飲みほすこと』についての基調発言の、お蔵入りした原稿を掲載します。
口頭でさらに話し言葉に噛み砕きながら発表する予定の原稿だったのと、最終稿が未完成だったのでその前の稿から一部もってきて補足してあったりと、いろいろ整合性とれてないかもしれず読みにくいかもしれませんがご容赦を。
あと聴衆は対象作品をすでに読んでて手元にもあるという前提で書いています。



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この作品、本当は一首一首の儚い韻律とイメージとか、言葉が言葉を聞き取ってかすかに返事をかえすようなそのつながりを追っていろいろ話したいんですけど、時間も限られてるのでそこは諦めて、もうちょっと目の粗い話をします。

短歌というジャンルには一種の「愚かさ」のようなものがあると思う。どんな作品でも定型という定位置に収まってじっと読み解かれるのを待っているようなところがある。瀬戸さんの作品はそういう「愚かさ」を拒絶してるように見え,一面でそれは当たってるかもしれないが、いっけん拒絶してるようでじつは遠回りして「愚かさ」に到ろうとする、そういう動きが瀬戸さんの作品にはあるのではないか。あくまで愚かなことをするための迂回、そのための必要な手続きが瀬戸さんの作品の独特な構えになっているのではということ。

その感じはタイトルにも出てると思う。

『「奴隷のリリシズム」(小野十三郎)、ポピュリズム、「奴隷の歓び」(田村隆一)、ドナルドダックがおしりをだして清涼飲料水を飲みほすこと』

全体が短歌の韻律に近づいてて、「奴隷の歓び」までと、(田村隆一)から最後までで二首分。また二つの人名のどちらにも数字が含まれている。十三と一、ならべかえると「三十一」になる。
偶然を装ってあらわれるこの「三十一」という象徴的な数字(この場合「装っ」たのは必ずしも作者ではない)、それとほぼ短歌になってる音の並びが、短歌作品につけられたタイトルの中でことさらに短歌であることを、しかし回りくどく、身を隠すように主張している。

そして人名が「二つ」と、「二つ」の奴隷、リリシズムとポピュリズムという「二つ」のイズム、短歌「二つ」分の長さというように、「二」という数へのこだわりのようなものがここにはあって、それはこれから作品全体におよぶものをひそかに、あるいはあからさまに予告。

つまり作品を見ていくと「二であること」「ペアであること」が連作全体を通して執拗に言葉にされ続けていることがわかる。一首目

 海や朝にはあいさつがなく わたしたちには殺人ばかりがあると サンタクロース

の「海や朝」だとか、二首目の

 たくさんの春を指にはめて 両手に ひろい 信号が病院のなかにある

の「両手」。
以後も「靴や靴下」「抽選と分配」「子猫や仔犬」「母や父」「スプーンやフォーク」等など、おもに「●●と●●」「●●や●●」というかたちで二つの言葉をならべたものや、対句的な表現(「こちらでもあちらでも」とか)なども含めて、「二であること」「二人組であること」を示すフレーズが連作中に少なくとも二十箇所以上ある。

この執拗さはいったい何に向けられているものなのか? とりあえずの答えとしては、あたかもこれら「二人組」の連呼が呼び出したように見える超有名カップルの登場に注意したい。つまりミッキーとミニー。10ページの四首目、

 悪人について ぼくのミニーちゃん しずかに 東京タワーとスカイツリー

「二であること」「二人組であること」の神話的なひとつの理想像みたいなミッキーとミニーだが、かれらは「二人組であること」の頂点として作品に君臨するわけではない。むしろ同じ歌の中で堂々と結び付けられているのは「東京タワーとスカイツリー」のほうであるし、ミニーは「ぼく」に横恋慕され、これ以後の歌でもミッキーと引き裂かれようとしている。つまり「二」であることに非常にこだわりつつ、「二」の象徴のようなものを呼び出してはそれを壊そうとする。そういう矛盾した、引き裂かれた動きここにはある。

そもそもなぜ「二」へのこだわりなのかは、短歌がまるでミッキーとミニーのように、上句と下句という「二人組」でできているものだという指摘にとどめたい。
「二人組」への矛盾をはらんだ執着をみせる瀬戸夏子という作者において、対象への愛はつねに回りくどくてしつこい、過剰で報われないものではないかと私は感じている。
「町」に掲載された二つの穂村弘論はどこか「やばいファン」の送りつけたファンレターに似ていたし、瀬戸さんの作品の、時にはまるで短歌に見えないような構えもまた短歌への「回りくどくてしつこい」ラブレターなのではないかと考える。

作品も、定型も、愛も、それじたい無根拠で無意味なものだ。ゆえに代わりがきかない。なぜか分からぬがそれでなくてはいけないもの。そうした無根拠なものへの接近はわれわれに「愚かさ」を要求する。そして最初に述べたように瀬戸さんは「愚かさ」を手に入れるために迂回する人だと思う。

12ページ五首目、

 ミニーちゃんと性交したくて どうしても ユーズドの虹と 推薦状

という歌がある。おそらく「ユーズドの虹」や「推薦状」が手に入ってもミニーと「性交」は為せない。しかしなぜか「ユーズドの虹」や「推薦状」のようなものを集めることに執着してしまう。これはけして必要なものが揃うことのない道だけど、瀬戸夏子の「愛」はなぜかそうする。あらぬほうに向けて歩き出す。性交という愛の行為、つまり愚かな行為をするためにとる回り道。それが瀬戸夏子の作家性ではないかという仮説。

この愚かさは、「奴隷の韻律」的な愚かさからは距離を置く。つまり主人を持たない愚かさ。定型という、主人になりかねないものとの関係を捉え直すための手続き、それが瀬戸さんの連作なのでは。



最後に、字あけの多さについて。
「二」であることのほかにも反復的にあらわれるモチーフはいろいろあるが(「光ること、輝くこと」についての言葉だったり「食べること、飲むこと」もあるし「眠ること、夢見ること」への言葉、「性交すること、性欲をいだくこと」への言葉もあって、人間の三大欲求がぜんぶ揃っていたりもする)、連作全体にわたるモチーフの反復が、この連作の一首単位での意味のまとまりの希薄さや、韻律の儚さとバランスをとるような(歌の垂直方向に対する)水平方向にはたらく力になっている。

そう踏まえてこの作品の「一字あけ」の異様な多さを眺めると、これは一種の「交差点」ではないかと思う。つまり「何かがこの空白のところで歌を横切っている」しるしであり、何か目に見えないものが水平に一帯を行き交っている。それは歌を寸断してバラバラにしつつ破片を美しく浮遊させる力になっている。

そして逆側から見れば、それぞれの歌は水平に行き交う通路のある一点における偶然できた断面図のようだ。
垂直と水平の力の交差した場所として歌がある。そもそも短歌とはそういうものであり、連作は短歌の中にある垂直方向の力(一首という単位そのもの)を抑制し、水平方向の力をけしかけるところがある。

水平方向の力とはつまり五音と七音の反復がもたらすもので、同じ音数がもどってくるたびそこに折り畳まれるように一首は横にのびていくし、横に並ぶ歌どうしの五音と五音、七音と七音はひびきあう。

しかしこの作品は一首の中の五音・七音のかたちを曖昧にしていながら、モチーフの網目をつくることで水平方向への動き、意識をあらわしている。それもまたひとつの迂回であり、短歌的なものへの一番の近道をないもののように無視して、しかしそれ以外のあらゆるルートを使って短歌へ接近しようとするという瀬戸夏子的な愛の「回りくどいしつこさ」のあらわれといえるのではないか。
更新しないと表示される広告、が出てるので何か書く。
短歌は縦に長いのではない。横に狭いのではないか。ということを以前ツイッターに書いた。
シネスコの画面は映画館で見ると横に広いが、テレビ画面で見ると横にはそれ以上広げられないので、その分上下のマスクされる面積が増えて、縦方向がつぶれた画面になる。つまりシネスコはテレビで見ると横方向が広いのではなく、縦方向が狭いのである。
それと同じようなことが、短歌にはいえるのではないか。
俳句や川柳は31音の短歌とくらべると17音しかないので、そのぶん縦に短い(縦書きを前提として)といっけん言えそうである。だがそうではなく、それらは横方向に広いのではないか。
つまり短歌や俳句を読むときわれわれは、テレビ画面のようなものをそこに当てはめて読んでいるのではないだろうか。その画面の中では、字数(音数)が増えて全体が長くなるほど、その長さを画面とぴったり合わせるために、相対的に横方向の幅が狭くなるのである。

いつものように調べもせず勘だけでものを言うが、たぶん和歌的な修辞だとか前衛短歌的な技法は短歌の「狭さ」を克服または隠蔽するためのものであり、アララギ的な写実やいわゆるただごと歌は短歌の「狭さ」に殉じようとするものではないかと思う。
ごくおおざっぱにいって前者は短歌の複数性(五音と七音が反復することや、上下句からなることを起源とする)を重視するし、後者は単数性を重視するといえるだろう。短歌を内部で切断して横に並べることで狭さにあらがおうというのが前者のやり方である。

ただ、こういう見取り図はあくまで文語が前提のもので、口語短歌は切断したはずがつながっていたり、つながっているはずがどこか切れてるように見えたりと、単数性/複数性がきれいに分けられないところがある。はたして口語短歌は文語とくらべて広いのか狭いのか。口語短歌の場合は、何かそもそも画面の比喩で語るのがふさわしくないような気もするのだが。
王国は滅びたあとがきれいだねきみの衣服を脱がせてこする  平岡直子


上句が下句のことを言っている、下句のことを比喩的に言っているのだという読みに誘われるのだが、下句は上句といかにも短歌らしく釣り合うには、その具体性を意味として目鼻がそろうようフレームに収めてはいないように見える。
たとえば「きみ」の汚れてしまった衣服を脱がせて、その汚れを落とすべく水で濡らしてこすっているのだ、とこの光景を納得するには、「こする」対象が「きみ」本体である可能性を下句の措辞は手放していない。あるいはテーブルや床に何らかの液体をこぼしてしまった後始末をするものがとっさに周囲に見あたらず、「きみ」に命じて「衣服を脱がせ」た可能性がゼロだという証拠もどこにもないだろう。これらの読みの優先順位は上句との関係をどう読むかで変動するだろうし、下句の誘惑的な曖昧さというべき措辞はこれら以外の読みの可能性にもなお開かれたままである。いずれを採るかでここにいる二人の関係性は微妙に、あるいは極端に変化することになるはずだが、「脱がせてこする」という性行為になじみの深い動詞を二つ畳み掛けた歌の表情は、あくまでその性行為的な印象を通過してから一首を読み取ることを要求しているようであり、「話はそれからだ」とわれわれの前に視界を覆うように立ちふさがっているかのようである。

三句目「きれいだね」に四句目が「きみの」とつづくとき、この「き」の音の接近の印象を残したまま五句目の「こする」にいたることで、読み手は初句にあった「王国」の「こ」の音を思い出すことになる。「滅びた」「脱がせて」という上下句の喩的関係のキーとなるそれぞれの動詞をはさんで、「き」の音と「こ」の音がシンメトリックに配置された歌の最初の文字が「王」というシンメトリックな漢字であるというこの一首の“美しさ”にも、われわれはすでにかすかに気づいていたはずなのである。
曖昧さを定型がじかに支えるような貧しさと無縁であることが、この歌を意味と無意味のあいだに危なげなく立たせる力となっている。曖昧さを帯びた言葉をひそかに裏から支えるこうしたたくらみは目には見えないかもしれないが、たしかにわれわれの耳には聞こえていたし、瞳の表面に筆先のように触れてもいたのである。
短歌とは定型でも定型にととのえられた言葉でもなく、それらの間にあるもの、ありえない方向に構造化された隙間のことなのではないか。
『早稲田短歌 40号』より。