喜劇 眼の前旅館 -4ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

かわむきき 誰かのために皮を剥く かわむきき かわむきき かなしい  笹井宏之


「かなしい」がここで響くときにわれわれが驚くのは、この歌に語られた言葉に対する最初の反応をわれわれの誰よりも先に、ほかならぬ歌自身が発している現場に立ち会ってしまったことの驚きなのだと思う。「かわむきき」という言葉をくりかえしつぶやきながら、その言葉の中にあるかなしさを歌自身が聞きとった瞬間がここには記録されている。
作者もまた読者のひとりであり、作者はみずから記した言葉を読み、それに反応してさらに言葉をつづっているのであるが、ここではおどろくべきことに、短歌というごく短い詩型のなかでその反応の側の言葉が一首の終りまでにらくらくと“間に合って”しまっている。つまり連作の中でいくつかの歌にまたがって示されるのではなく、一首のうちに作者みずからがその一首そのものを読んだ痕跡までがみごとに見切れずに収められてしまうという、ほとんど記述における驚異的な運動神経の表現のようなものを言葉が軽々と示していることをわれわれが目撃する(と信じられる)のだが、ではわれわれがこの歌をみつめる自分をそのような、普段ならありえないほどのすぐれた動体視力の持ち主であるかのように感じられてしまうのは、いったいなぜなのだろうか。

この歌の言葉の運動の記録性を読者であるわれわれに共有させているのは、一首にくりかえされる「かわむきき」に含まれる「か」の音が、その一語より滲み出て一首全体に広がっているという事態である。「かわむきき」に含まれるそれを入れれば一首中に全部で六回響く「か」の音が、当然問題の「かなしい」の中にも響いていることにより、われわれは「かわむきき」を「かなしい」と反応するこの歌の言葉がたんに「誰かのために皮を剥く」という擬人化された献身の光景以上の根拠をもつはずだと(理由もわからぬまま)信じることができるのである。
また「誰か」や「皮」にまでひろがって響きつづけるこの「か」の音が一首を読みたどるわれわれの中に徐々にたくわえていた何ものかに、歌自身が最後に「かなしい」という名前を与えてくれたようにも感じるのである。つまり「かわむきき」は「かなしい」のだということを、たしかにわれわれはこの歌を読みたどるあいだに知っていたのだと、軽く驚きながら腑に落ちるのはわれわれがここで音の体験と意味の体験をそれぞれにしている、その両者の落差へとこの「かなしい」が投げかけられているからである。
「誰かのために皮を剥く」から「かなしい」のではないのだ。いっけんそのように言っているように見えて、じつはまったくべつなところから響いてきているところにこの「かなしい」の希有な驚きがある。そしてその驚きの現場にわれわれを釘付けにしておくのが「誰かのために皮を剥く」の擬人化のもたらす意味的な納得と共感であり、あるいは「か」の音の連続した響きによる無意識の支配である。そしてその前者についてはじつはミスリーディングであり、われわれは一首を読み終えた時点ではその共感をひそかに裏切られているのだ。だが裏切られていることを意識できないために、一首の終りに景色がいきなり変わり果ててしまっても、その理由も分からないまま呆然とこの場をいつまでも去りかねているのである。
『風通し その1』より。
護岸ブロックに真直ぐなる広き道は尽き無人の電話ボックス灯る  奥田亡羊


この歌を読んだ私の頭に思い浮かべた映像が、作者が歌のモデルとした場所(が実在するとして)の現実の景色と瓜二つであるということはおそらくありえない。言葉と映像の関係はつねにそうしたすれ違いを含んでいる。もし両者が限りなく一致するケースがあるなら、それは言葉の外で何らかのひそかな(またはあからさまな)やり取りが交わされたことを意味するだろう。この歌は私にそのようなやり取りを持ちかけてくる気配はない。たとえば同じ連作中にある〈ガスタンクを巻きてひとすじ階段の細き影あり月の光に〉という歌などはやや事情が違っており、私はこの文字列を掲出歌のような見知らぬ場所に置き去りにされた心細さとともにたどることはない。どこからとも誰のものともつきとめがたい視線がこの光景のなかから私を見返し、みちびいていると感じるからで、ここでは文字列がガスタンクや階段や影や月光そのものであるような不安な眺めをしいられることはない。それらをひとつの意味の配置にみちびこうとする視線への同調が、私を孤独から救ってしまうのである。
掲出歌であるが、私には電話ボックスの位置がわからない。わからないまま灯り、ゆえにありありと存在している。護岸ブロックと道の位置関係はつかめているつもりだが、読むたびにはじめて来た場所で味わうようなとまどいとともに視線をさまよわせずにいられない。そうしているうちにまるでたった今そこに忽然と存在しはじめたように灯る電話ボックス。あたりが暗闇であったことにさえそのとき気づいたようなこの読む/読まれる「私」を生きているのは誰なのか。それはおそらく一人ではなく、にもかかわらずここにあるのはつねに一人分の場所だけであり、その場所をわれわれは仮に「短歌」と呼んでいるのである。
『[sai]vol.03』より。
先月の12日「町」4号の読書会で瀬戸夏子さんの連作について基調発言をすることになっていた。読書会はその頃予定された多くのイベントがそうであるようにやはり中止になってしまったのだけど、当日しゃべろうと思っていた内容はまたべつの機会やかたちで発表することもあるかもしれない。

『「奴隷のリリシズム」(小野十三郎)、ポピュリズム、「奴隷の歓び」(田村隆一)、ドナルドダックがおしりをだして清涼飲料水を飲みほすこと』

このとても長いタイトルに引かれている二つの人名(小野十三郎、田村隆一)はどちらも数字(十三、一)を含む名前であるが、これらの数字をならべかえると「三十一」つまり短歌の音数になるのだという妄想じみた〈発見〉の披露から話をはじめる予定だった。いっけん短歌らしさから距離を置いているような連作のそこかしこに「三十一」的なものを指摘してゆく流れを考えていたのだが、会の前日、つまり三月十一日という奇しくも漢数字が「三十一」を示す日付とともにわれわれの記憶に生々しくよこたわる断絶によって、今ではこの七分間分の拙い作品論の筋道も夢の中で練習した台詞のように淡く輪郭を失ってしまっている。


(持ち時間の七分間が意外に短いと気づいて論旨を絞り込んでいく過程で、最終的に削ってしまっていた草稿の断片を以下に貼っておきます。つまり本来はこっちのほうが日の目を見ないはずだったけど。)







 ねじのない夕方のそらから もう3時 背の高いわたしと背の低いわたし  瀬戸夏子

この「ねじ」はひとつ前の歌の「渦巻き」という語から「渦を巻くもの」として横に渡されてきて、さらに次の歌の「画鋲」に「突き刺すもの」として受け継がれるわけだが、一首の縦方向の流れの中では「背の高いわたしと背の低いわたし」という似姿(ねじとの)を呼び出している。

また「夕方のそらから」と言ったそばから「もう3時」と夕方以前に時間が引き戻されるところにも「ねじ」の上下する動きが写されているし、「3」という字の形は二つのねじ山に少し似ていて、「そらから」とわざと平仮名で書かれることで見出された直前の二つの「ら」の字とも響きあいつつ、下句で二人の「わたし」をみちびきだし、ひいては連作全体におよぶ「二」の反復へと開かれ、またそれに横切られていることを示す。

このように一首がつねに垂直方向と水平方向の力の交差する場所としてあるのがこの作品。だがそもそも短歌にはそういうところがあり、連作は短歌の中にある垂直方向の力(一首という単位そのもの)を抑制し、水平方向の力をけしかけるところがある。水平方向の力とはつまり五音と七音の反復がもたらすもので、同じ音数がもどってくるたびそこに折り畳まれるように一首は横にのびていくし、横に並ぶ歌どうしの五音と五音、七音と七音はひびきあう。しかしこの作品は一首の中の五音・七音のかたちを曖昧にしていながら、モチーフの網目をつくることで水平方向への動き、意識をあらわしている。
今日(26日)の朝日新聞夕刊に短歌が載ります。「あるきだす言葉たち」という詩歌の枠で、「足の踏み場、象の墓場」というタイトルをつけた十首。
朝刊ではなくて夕刊です。
僕たちは海に花火に驚いて手のひらですぐ楽器を作る  堂園昌彦


たとえばこの「楽器」とは何かを正確にべつの言葉で言い当てることができるとすれば、読み手は豊かな迂回をへて唯一の出口にたどりつくというミステリ読者的な快楽を一首から受け取ることができる。そのとき一首は一首の長さ以上のものとして経験され、そのありえない長さにわれわれが身をまかせ十分迷うための条件として、“唯一の出口”が存在することへの信頼が必要なのかもしれない。
そのうえで仮に「(手のひらで作る)楽器」に「拍手」を代入して読むのが正解であるとすれば、どうにも埋めがたい隙間が「(手のひらで作る)楽器」と「拍手」とのあいだに生じてはならないはずだし、もしそんな隙間が感じ取れるとしたら「拍手」は正解の候補からしりぞけられ、隙間なく空白を埋めるべつの言葉が存在するはずだという態度で読み手は一首をにらみつけることになる。それらしい言葉をみつけてあてがっては、そこにまたあらたな隙間を発見するという経験に失望や苛立ちをおぼえるという話にもなるだろうが、われわれは必ずしもミステリ読者的な読み手ではなく、短歌はその快楽のありかを正確に定義づけられるジャンルではないだろう。
いっけんミステリ的な体裁をもつともいえる掲出歌にも、その出口と見紛えたにせのドアの開かないところから一首を振り返る快楽のあることをわれわれは知っている。このカタルシスには遠いかすかな快楽がおとずれているとき、われわれはまたかすかな不安とともにあるのだ。
『pool vol.7』より。