かわむきき 誰かのために皮を剥く かわむきき かわむきき かなしい 笹井宏之
「かなしい」がここで響くときにわれわれが驚くのは、この歌に語られた言葉に対する最初の反応をわれわれの誰よりも先に、ほかならぬ歌自身が発している現場に立ち会ってしまったことの驚きなのだと思う。「かわむきき」という言葉をくりかえしつぶやきながら、その言葉の中にあるかなしさを歌自身が聞きとった瞬間がここには記録されている。
作者もまた読者のひとりであり、作者はみずから記した言葉を読み、それに反応してさらに言葉をつづっているのであるが、ここではおどろくべきことに、短歌というごく短い詩型のなかでその反応の側の言葉が一首の終りまでにらくらくと“間に合って”しまっている。つまり連作の中でいくつかの歌にまたがって示されるのではなく、一首のうちに作者みずからがその一首そのものを読んだ痕跡までがみごとに見切れずに収められてしまうという、ほとんど記述における驚異的な運動神経の表現のようなものを言葉が軽々と示していることをわれわれが目撃する(と信じられる)のだが、ではわれわれがこの歌をみつめる自分をそのような、普段ならありえないほどのすぐれた動体視力の持ち主であるかのように感じられてしまうのは、いったいなぜなのだろうか。
この歌の言葉の運動の記録性を読者であるわれわれに共有させているのは、一首にくりかえされる「かわむきき」に含まれる「か」の音が、その一語より滲み出て一首全体に広がっているという事態である。「かわむきき」に含まれるそれを入れれば一首中に全部で六回響く「か」の音が、当然問題の「かなしい」の中にも響いていることにより、われわれは「かわむきき」を「かなしい」と反応するこの歌の言葉がたんに「誰かのために皮を剥く」という擬人化された献身の光景以上の根拠をもつはずだと(理由もわからぬまま)信じることができるのである。
また「誰か」や「皮」にまでひろがって響きつづけるこの「か」の音が一首を読みたどるわれわれの中に徐々にたくわえていた何ものかに、歌自身が最後に「かなしい」という名前を与えてくれたようにも感じるのである。つまり「かわむきき」は「かなしい」のだということを、たしかにわれわれはこの歌を読みたどるあいだに知っていたのだと、軽く驚きながら腑に落ちるのはわれわれがここで音の体験と意味の体験をそれぞれにしている、その両者の落差へとこの「かなしい」が投げかけられているからである。
「誰かのために皮を剥く」から「かなしい」のではないのだ。いっけんそのように言っているように見えて、じつはまったくべつなところから響いてきているところにこの「かなしい」の希有な驚きがある。そしてその驚きの現場にわれわれを釘付けにしておくのが「誰かのために皮を剥く」の擬人化のもたらす意味的な納得と共感であり、あるいは「か」の音の連続した響きによる無意識の支配である。そしてその前者についてはじつはミスリーディングであり、われわれは一首を読み終えた時点ではその共感をひそかに裏切られているのだ。だが裏切られていることを意識できないために、一首の終りに景色がいきなり変わり果ててしまっても、その理由も分からないまま呆然とこの場をいつまでも去りかねているのである。
『風通し その1』より。