かたちととのえながらゆうべの足音を靴にかさねてゆく雨通り
投げ上げた穴あき帽子! おめでとうの云える機械にふかく囲まれ
生まれてから一度もきみが終バスに乗ったことのない話をしよう
いいえわたしはホテルではなく牢屋です 赤いのは眼できみをみている
聞こえてるつもりのクラウン人形を洗ってた夢の中で唄って
砂の吹く中央通りにバスがなくだらりと腕にまきつけたバッグ
眉を順路のようにならべて三分間写真のように生まれ変わるよ
月光はわたしたちにとどく頃にはすりきれて泥棒になってる
勇気ある安コーヒーの迷路からとびだせホース! 散らかしながら
中里さんの塗り替えてくれたアパートに百年住むこの夕暮れから
(初出『朝日新聞』2011年4月26日夕刊「あるきだす言葉たち」)
第一歌集『砂の降る教室』から八年、石川美南の美しい双児のような歌集『裏島』『離れ島』が刊行された。
『裏島』はストーリー性の高い連作として編まれた作品を中心に、『離れ島』は連作的な文脈から比較的自由な作品を中心に纏められている。前者を代表する作品が「大熊猫夜間歩行」であり、後者は「物語集」にその極限のかたちを現してみせる。この両極をそれぞれ抱える二つの「島」の上に石川美南は同時にいる。
手品師の右手から出た万国旗がしづかに還りゆく左手よ 『裏島』
捨ててきた左の腕が地を這つて雨の夜ドアをノックする話 『離れ島』
石川美南は物語作家である。石川の連作にみられるのは歌人としての歌の構成意識ではない、あるいはそれを軽々と超えたものだ。また石川の一首は今ここを語る言葉が、つねにここにないどこかを語る最初の一行になろうと身を震わせている。そこであくまで二行目への踏み出しをこらえることで物語作家は歌人に踏み留まっている。連作で二行目三行目があとに続くかに見えたら、それは物語のありえたかもしれない別の一行目が語り直されているのである。
物語の二行目をこらえる石川は当然ながら、作品に自閉した王国を築き上げることはない。物語作家が短歌とともに手に入れた武器である文語や旧かなは、彼女にとって物語の領土を現実から守る城塞ではなく、あくまでここにはない世界への異和と親和をさびしくつたえるためにある。
壁や床くまなく水びたしにして湯浴みを終ふる夕暮れの王 『離れ島』
口移しで分け与へたし王国のさみしい領土浅き領海
この「王国」のさびしさは短歌という「島」の地形が物語にもたらすものだが、それは自画像を描こうとすれば「夕暮王」になってしまう指をもつ者のさびしさを裏側からなぞったものともいえるだろう。歌人と物語作家はコインの裏表のように一体でありながらすれ違っており、石川美南を名乗る存在は二人いる。〈二冊の第二歌集〉の刊行もそれを裏付けているし、「猛暑とサッカー」(『裏島』)の奇妙にすれ違う祖父と孫にこの〈二人〉の影を見ることも可能かもしれないが、詞書が歌と拮抗し、すれ違い、そして感動的な連繋さえみせる「大熊猫夜間歩行」こそ〈二人の石川美南〉を目に確かめるに絶好の大作といえよう。
縞模様(はた檻模様)描かれゐる路面を今宵しげしげと踏む 『裏島』
月がビルに隠されたなら遺憾なく発揮せよ迷子の才能を
夏の夜のわれらうつくし目の下に隈をたたへてほほ笑みあへば
現実のパンダ(リンリン)の死を踏まえ、死者であり動物であるという二重の意味で言葉から隔てられたこの存在の想像上の脱走を描く連作は、歌も詞書もそれぞれ言葉である自らを恥じるかのように禁欲的である。詞書は動物との間に目撃証言や監視カメラの映像といった間接性を挟み続けようとするし、歌は詞書に示される脱走劇にさらに隠喩的な距離を保つことをやめない。それはまるで、脱走した動物の道行きと交差する一点に明滅しただけの、ゆきずりの者の物語の一行目が歌としてならんだかのようだ。
だからこそこの禁欲が破れる瞬間は感動的である。連作の掉尾の一首において、言葉はついに物語のためらい続けた本当の〈最初の一行〉を、その後の余白にむけて置き手紙のようにそっと差し出すことになるだろう。
短歌連作でストーリーを語るという方法のひとつの極限を示す「大熊猫~」に対し、物語が短歌定型に凝縮されて姿を消した空間を集めたかのような「物語集」にはもはや一行目としてさえ「話」そのものは姿をみせることがない。
「発車時刻を五分ほど過ぎてをりますが」車掌は語る悲恋の話 『離れ島』
わたしなら必ず書いた、芳一よおまへの耳にぴつたりの話
諦めたそばから文字の色褪せて今はすつかり読めない話
ここで歌が示すのは「話」の手前に架かる橋のみ、つまり物語の本文以前の表題か粗筋に似た言葉である。始まる前に終えることが短歌の物語に対する最大の敬意の示し方だと知る歌人が、ついにその一行目からも撤退したこれらの歌は、しかしほかのどの作品よりも濃厚に物語的である。短歌と物語の間で石川美南の世界は誠実にねじれ続ける。
(初出『歌壇』2011年12月号)
『裏島』はストーリー性の高い連作として編まれた作品を中心に、『離れ島』は連作的な文脈から比較的自由な作品を中心に纏められている。前者を代表する作品が「大熊猫夜間歩行」であり、後者は「物語集」にその極限のかたちを現してみせる。この両極をそれぞれ抱える二つの「島」の上に石川美南は同時にいる。
手品師の右手から出た万国旗がしづかに還りゆく左手よ 『裏島』
捨ててきた左の腕が地を這つて雨の夜ドアをノックする話 『離れ島』
石川美南は物語作家である。石川の連作にみられるのは歌人としての歌の構成意識ではない、あるいはそれを軽々と超えたものだ。また石川の一首は今ここを語る言葉が、つねにここにないどこかを語る最初の一行になろうと身を震わせている。そこであくまで二行目への踏み出しをこらえることで物語作家は歌人に踏み留まっている。連作で二行目三行目があとに続くかに見えたら、それは物語のありえたかもしれない別の一行目が語り直されているのである。
物語の二行目をこらえる石川は当然ながら、作品に自閉した王国を築き上げることはない。物語作家が短歌とともに手に入れた武器である文語や旧かなは、彼女にとって物語の領土を現実から守る城塞ではなく、あくまでここにはない世界への異和と親和をさびしくつたえるためにある。
壁や床くまなく水びたしにして湯浴みを終ふる夕暮れの王 『離れ島』
口移しで分け与へたし王国のさみしい領土浅き領海
この「王国」のさびしさは短歌という「島」の地形が物語にもたらすものだが、それは自画像を描こうとすれば「夕暮王」になってしまう指をもつ者のさびしさを裏側からなぞったものともいえるだろう。歌人と物語作家はコインの裏表のように一体でありながらすれ違っており、石川美南を名乗る存在は二人いる。〈二冊の第二歌集〉の刊行もそれを裏付けているし、「猛暑とサッカー」(『裏島』)の奇妙にすれ違う祖父と孫にこの〈二人〉の影を見ることも可能かもしれないが、詞書が歌と拮抗し、すれ違い、そして感動的な連繋さえみせる「大熊猫夜間歩行」こそ〈二人の石川美南〉を目に確かめるに絶好の大作といえよう。
縞模様(はた檻模様)描かれゐる路面を今宵しげしげと踏む 『裏島』
月がビルに隠されたなら遺憾なく発揮せよ迷子の才能を
夏の夜のわれらうつくし目の下に隈をたたへてほほ笑みあへば
現実のパンダ(リンリン)の死を踏まえ、死者であり動物であるという二重の意味で言葉から隔てられたこの存在の想像上の脱走を描く連作は、歌も詞書もそれぞれ言葉である自らを恥じるかのように禁欲的である。詞書は動物との間に目撃証言や監視カメラの映像といった間接性を挟み続けようとするし、歌は詞書に示される脱走劇にさらに隠喩的な距離を保つことをやめない。それはまるで、脱走した動物の道行きと交差する一点に明滅しただけの、ゆきずりの者の物語の一行目が歌としてならんだかのようだ。
だからこそこの禁欲が破れる瞬間は感動的である。連作の掉尾の一首において、言葉はついに物語のためらい続けた本当の〈最初の一行〉を、その後の余白にむけて置き手紙のようにそっと差し出すことになるだろう。
短歌連作でストーリーを語るという方法のひとつの極限を示す「大熊猫~」に対し、物語が短歌定型に凝縮されて姿を消した空間を集めたかのような「物語集」にはもはや一行目としてさえ「話」そのものは姿をみせることがない。
「発車時刻を五分ほど過ぎてをりますが」車掌は語る悲恋の話 『離れ島』
わたしなら必ず書いた、芳一よおまへの耳にぴつたりの話
諦めたそばから文字の色褪せて今はすつかり読めない話
ここで歌が示すのは「話」の手前に架かる橋のみ、つまり物語の本文以前の表題か粗筋に似た言葉である。始まる前に終えることが短歌の物語に対する最大の敬意の示し方だと知る歌人が、ついにその一行目からも撤退したこれらの歌は、しかしほかのどの作品よりも濃厚に物語的である。短歌と物語の間で石川美南の世界は誠実にねじれ続ける。
(初出『歌壇』2011年12月号)
天井に花をぶつけながら寝入る一日(ついたち)になるきれいさっぱり 我妻俊樹
「天井に花をぶつけながら寝入る」ことと「一日になる」ことにははたしてどんな関係があるのだろうか。
「寝入る」のだから今が夜である可能性が高く、とすれば寝ている間に日付が変わる、ということが考えられる。
日付が変わると一日(朔日)になる眠りなのである。その眠りの前に、天井に花をぶつけているということである。
なぜそんな行為をしているのか。
そんなことをする理由が一首の中に見あたらなかった場合、理由は歌の外にあると考えるだろう。
「歌の外にある理由」には「現実に作者の経験又は見聞にそういう事実があった」も含まれる。
または「ただの思いつきをそのまま(歌の中に根拠を書き込むことなく)リリースした」ことが考えられる。
いずれにせよ、これらのケースでは読み手の想像の余地あるいは解釈の自由を保証する空間は、作者でもなければ作品の言葉でもなく、短歌定型が用意している。あるいは短歌という制度が用意しているといってもいいかもしれない。
事実であろうと思いつきであろうと、そこに描かれている光景が作品として成立しているかどうかは、作品の言葉の中に根拠が見出せねばならない。
つまり作中でなぜそんなことをしているかという理由は、必ず作品の中に書き込まれていなければならないのである。
それはその作品が「作品の外における事実(思いつき)である」と感じさせることを魅力とするものであっても同じだと思う。
もしなんの根拠も(作品それじたいの言葉には)与えないまま作中の光景を手渡す手段として作品が利用されるなら、それは作者によって作品がないがしろにされていることになる。
作品をないがしろにすることは、作者が作者という立場を放棄することだ。そして短歌はときに「作品」をないがしろにしても易々と成立しているようにみえるジャンルでもある。
掲出歌にもどると、これは恣意的にある光景をえがいて、その光景の解釈を読み手にあずけただけの前述した「作者が作品をないがしろにした」作品のようにも見える。
そうではないのだと積極的に主張することはさまざまな理由によりできないが、いちおうここでは「そうではない」可能性を一点だけ示しておきたい。
それは「一日(ついたち)」という音の中に聞き取れる「ついた」と「たち」がそれぞれ「着いた」と「touch」にずらされたとき、上句で花が天井へぶつけられている光景への反応として読み取れるというものである。
そのことで、ここで眠られようとしている眠りが「一日」を迎える夜のものであることが、歌の外での事実や思いつき以上の根拠を一首の中にかろうじて得られる可能性である。
いいかえれば「一日」を迎える夜の就眠前だからこそ、ここでは天井に花がぶつけられている、いわば「一日」の「ついた(着いた)」と「たち(touch)」を先取りしてそのような行為におよんでいるのだという可能性である。
私はこのようなばかげたものが初めからそこに住み着いていた可能性を作品の中に発見するときのために作品を読んでいるようなところがある。そういう態度は作歌にもあらわれていると思うけど、ここでは自作の読みにそれを意識化してみた。上で指摘したようなことを歌をつくりながら意識していたというわけではない。
「天井に花をぶつけながら寝入る」ことと「一日になる」ことにははたしてどんな関係があるのだろうか。
「寝入る」のだから今が夜である可能性が高く、とすれば寝ている間に日付が変わる、ということが考えられる。
日付が変わると一日(朔日)になる眠りなのである。その眠りの前に、天井に花をぶつけているということである。
なぜそんな行為をしているのか。
そんなことをする理由が一首の中に見あたらなかった場合、理由は歌の外にあると考えるだろう。
「歌の外にある理由」には「現実に作者の経験又は見聞にそういう事実があった」も含まれる。
または「ただの思いつきをそのまま(歌の中に根拠を書き込むことなく)リリースした」ことが考えられる。
いずれにせよ、これらのケースでは読み手の想像の余地あるいは解釈の自由を保証する空間は、作者でもなければ作品の言葉でもなく、短歌定型が用意している。あるいは短歌という制度が用意しているといってもいいかもしれない。
事実であろうと思いつきであろうと、そこに描かれている光景が作品として成立しているかどうかは、作品の言葉の中に根拠が見出せねばならない。
つまり作中でなぜそんなことをしているかという理由は、必ず作品の中に書き込まれていなければならないのである。
それはその作品が「作品の外における事実(思いつき)である」と感じさせることを魅力とするものであっても同じだと思う。
もしなんの根拠も(作品それじたいの言葉には)与えないまま作中の光景を手渡す手段として作品が利用されるなら、それは作者によって作品がないがしろにされていることになる。
作品をないがしろにすることは、作者が作者という立場を放棄することだ。そして短歌はときに「作品」をないがしろにしても易々と成立しているようにみえるジャンルでもある。
掲出歌にもどると、これは恣意的にある光景をえがいて、その光景の解釈を読み手にあずけただけの前述した「作者が作品をないがしろにした」作品のようにも見える。
そうではないのだと積極的に主張することはさまざまな理由によりできないが、いちおうここでは「そうではない」可能性を一点だけ示しておきたい。
それは「一日(ついたち)」という音の中に聞き取れる「ついた」と「たち」がそれぞれ「着いた」と「touch」にずらされたとき、上句で花が天井へぶつけられている光景への反応として読み取れるというものである。
そのことで、ここで眠られようとしている眠りが「一日」を迎える夜のものであることが、歌の外での事実や思いつき以上の根拠を一首の中にかろうじて得られる可能性である。
いいかえれば「一日」を迎える夜の就眠前だからこそ、ここでは天井に花がぶつけられている、いわば「一日」の「ついた(着いた)」と「たち(touch)」を先取りしてそのような行為におよんでいるのだという可能性である。
私はこのようなばかげたものが初めからそこに住み着いていた可能性を作品の中に発見するときのために作品を読んでいるようなところがある。そういう態度は作歌にもあらわれていると思うけど、ここでは自作の読みにそれを意識化してみた。上で指摘したようなことを歌をつくりながら意識していたというわけではない。
60日間更新がないからと、勝手にテンプレート変えられたので直すためになんか書く。
今年も題詠ブログに参加してます、というのを書いてなかったので書く。去年まで使ってたとこがトラックバック機能を終了(するんだ終了)してしまったので、今年は違うところを使ってます。こちらです(ブログタイトルは「器物」)。
あと、少し前に出た短歌同人誌『率』創刊号の「自選歌5首への批評」にゲストで参加しています。
ブログの使い方だけど、一首評とかはツイッターではやりにくい(ような気がするけどどうなのか)のでレギュラー化してここでやったらいいかもしれない。レギュラー化にはなんかタイトルが必要だ。かっこいいタイトルがあったらおしえてください。採用された方の一首は必ず評させていただきます。あとこの一首を評してくれというのもありましたらぜひ。
今年も題詠ブログに参加してます、というのを書いてなかったので書く。去年まで使ってたとこがトラックバック機能を終了(するんだ終了)してしまったので、今年は違うところを使ってます。こちらです(ブログタイトルは「器物」)。
あと、少し前に出た短歌同人誌『率』創刊号の「自選歌5首への批評」にゲストで参加しています。
ブログの使い方だけど、一首評とかはツイッターではやりにくい(ような気がするけどどうなのか)のでレギュラー化してここでやったらいいかもしれない。レギュラー化にはなんかタイトルが必要だ。かっこいいタイトルがあったらおしえてください。採用された方の一首は必ず評させていただきます。あとこの一首を評してくれというのもありましたらぜひ。
いろいろなことが過ぎていくが、いろいろなことをいちいち書くには何かが手と頭から欠けており、ひとつも関係ないことを書くかもしれない。
ひとつだけ書くと平岡直子さんの連作タイトルがどれもものすごくいいですよね。「みじかい髪も長い髪も炎」なんてタイトル見ただけでこの人が今どれだけのところにいるかがほとんど風圧のように字面からつたえられてきてしまう。あれだけの作品を(たとえば同連作から挙げると〈心臓と心のあいだにいるはつかねずみがおもしろいほどすぐに死ぬ〉とか〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉とか)出し続けてそこにこれだけ攻めてるタイトルをのせられるというのは、あれほどの作品やこれほどのタイトルそのもののすごさをたんに足しただけでは済まない驚くべきことなのだ。
そしてこれはほとんど妄想めいた想像による見立ての話になるけど、平岡さんはいわゆる天然の天才タイプみたいに言葉が変な重力を持って自律していくタイプとは違って、言葉の見せつける力はそのままつくり手が言葉にかけた体重そのものを方向までふくめてかなり忠実に反映しているように思えてしまう。だから天然タイプの人(もちろん技巧派の人はなおのこと)の言葉が崖からせり出すことが必ずしも作者の身に起きている光景だと思わなくていいようには、作品から作者の影を分けてとらえることはできないように感じられるし、しかも影以上のもの(たとえば私小説的な「歌人」の物語の読み取りをうながす細部など)を作品に描き込まないだけに、この影の立つ場所の地形を一首のうちに感知することが読み手にとって、物語的な共感の制度を挟まない、ほとんど自分の見ている夢のような手さぐりの切実さを帯びるというところがあると思う。
だから、いずれこの作者がどこか平凡な修辞的環境と折り合いをつけた「歌人」めいた表情の豊かさをまとう日がくるとすれば、そのときはほっと安堵するとともにひそかに祝福もしたいような、それともむしろそのときこそ「影」の居場所を失ったような不安が読み手もろとも夢を内側から動揺させるのではといった、複雑な想像を、この夢の地形にうながされることで読み手は身勝手にも巡らせてしまうのだった。
ひとつだけ、が予想外に長くなったので今日はここまでとする。
ひとつだけ書くと平岡直子さんの連作タイトルがどれもものすごくいいですよね。「みじかい髪も長い髪も炎」なんてタイトル見ただけでこの人が今どれだけのところにいるかがほとんど風圧のように字面からつたえられてきてしまう。あれだけの作品を(たとえば同連作から挙げると〈心臓と心のあいだにいるはつかねずみがおもしろいほどすぐに死ぬ〉とか〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉とか)出し続けてそこにこれだけ攻めてるタイトルをのせられるというのは、あれほどの作品やこれほどのタイトルそのもののすごさをたんに足しただけでは済まない驚くべきことなのだ。
そしてこれはほとんど妄想めいた想像による見立ての話になるけど、平岡さんはいわゆる天然の天才タイプみたいに言葉が変な重力を持って自律していくタイプとは違って、言葉の見せつける力はそのままつくり手が言葉にかけた体重そのものを方向までふくめてかなり忠実に反映しているように思えてしまう。だから天然タイプの人(もちろん技巧派の人はなおのこと)の言葉が崖からせり出すことが必ずしも作者の身に起きている光景だと思わなくていいようには、作品から作者の影を分けてとらえることはできないように感じられるし、しかも影以上のもの(たとえば私小説的な「歌人」の物語の読み取りをうながす細部など)を作品に描き込まないだけに、この影の立つ場所の地形を一首のうちに感知することが読み手にとって、物語的な共感の制度を挟まない、ほとんど自分の見ている夢のような手さぐりの切実さを帯びるというところがあると思う。
だから、いずれこの作者がどこか平凡な修辞的環境と折り合いをつけた「歌人」めいた表情の豊かさをまとう日がくるとすれば、そのときはほっと安堵するとともにひそかに祝福もしたいような、それともむしろそのときこそ「影」の居場所を失ったような不安が読み手もろとも夢を内側から動揺させるのではといった、複雑な想像を、この夢の地形にうながされることで読み手は身勝手にも巡らせてしまうのだった。
ひとつだけ、が予想外に長くなったので今日はここまでとする。