大晦日であるが、今年を振り返るかわりに三月の震災の影響で中止になった「町」4号読書会の、瀬戸夏子さんの連作『「奴隷のリリシズム」(小野十三郎)、ポピュリズム、「奴隷の歓び」(田村隆一)、ドナルドダックがおしりをだして清涼飲料水を飲みほすこと』についての基調発言の、お蔵入りした原稿を掲載します。
口頭でさらに話し言葉に噛み砕きながら発表する予定の原稿だったのと、最終稿が未完成だったのでその前の稿から一部もってきて補足してあったりと、いろいろ整合性とれてないかもしれず読みにくいかもしれませんがご容赦を。
あと聴衆は対象作品をすでに読んでて手元にもあるという前提で書いています。
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この作品、本当は一首一首の儚い韻律とイメージとか、言葉が言葉を聞き取ってかすかに返事をかえすようなそのつながりを追っていろいろ話したいんですけど、時間も限られてるのでそこは諦めて、もうちょっと目の粗い話をします。
短歌というジャンルには一種の「愚かさ」のようなものがあると思う。どんな作品でも定型という定位置に収まってじっと読み解かれるのを待っているようなところがある。瀬戸さんの作品はそういう「愚かさ」を拒絶してるように見え,一面でそれは当たってるかもしれないが、いっけん拒絶してるようでじつは遠回りして「愚かさ」に到ろうとする、そういう動きが瀬戸さんの作品にはあるのではないか。あくまで愚かなことをするための迂回、そのための必要な手続きが瀬戸さんの作品の独特な構えになっているのではということ。
その感じはタイトルにも出てると思う。
『「奴隷のリリシズム」(小野十三郎)、ポピュリズム、「奴隷の歓び」(田村隆一)、ドナルドダックがおしりをだして清涼飲料水を飲みほすこと』
全体が短歌の韻律に近づいてて、「奴隷の歓び」までと、(田村隆一)から最後までで二首分。また二つの人名のどちらにも数字が含まれている。十三と一、ならべかえると「三十一」になる。
偶然を装ってあらわれるこの「三十一」という象徴的な数字(この場合「装っ」たのは必ずしも作者ではない)、それとほぼ短歌になってる音の並びが、短歌作品につけられたタイトルの中でことさらに短歌であることを、しかし回りくどく、身を隠すように主張している。
そして人名が「二つ」と、「二つ」の奴隷、リリシズムとポピュリズムという「二つ」のイズム、短歌「二つ」分の長さというように、「二」という数へのこだわりのようなものがここにはあって、それはこれから作品全体におよぶものをひそかに、あるいはあからさまに予告。
つまり作品を見ていくと「二であること」「ペアであること」が連作全体を通して執拗に言葉にされ続けていることがわかる。一首目
海や朝にはあいさつがなく わたしたちには殺人ばかりがあると サンタクロース
の「海や朝」だとか、二首目の
たくさんの春を指にはめて 両手に ひろい 信号が病院のなかにある
の「両手」。
以後も「靴や靴下」「抽選と分配」「子猫や仔犬」「母や父」「スプーンやフォーク」等など、おもに「●●と●●」「●●や●●」というかたちで二つの言葉をならべたものや、対句的な表現(「こちらでもあちらでも」とか)なども含めて、「二であること」「二人組であること」を示すフレーズが連作中に少なくとも二十箇所以上ある。
この執拗さはいったい何に向けられているものなのか? とりあえずの答えとしては、あたかもこれら「二人組」の連呼が呼び出したように見える超有名カップルの登場に注意したい。つまりミッキーとミニー。10ページの四首目、
悪人について ぼくのミニーちゃん しずかに 東京タワーとスカイツリー
「二であること」「二人組であること」の神話的なひとつの理想像みたいなミッキーとミニーだが、かれらは「二人組であること」の頂点として作品に君臨するわけではない。むしろ同じ歌の中で堂々と結び付けられているのは「東京タワーとスカイツリー」のほうであるし、ミニーは「ぼく」に横恋慕され、これ以後の歌でもミッキーと引き裂かれようとしている。つまり「二」であることに非常にこだわりつつ、「二」の象徴のようなものを呼び出してはそれを壊そうとする。そういう矛盾した、引き裂かれた動きここにはある。
そもそもなぜ「二」へのこだわりなのかは、短歌がまるでミッキーとミニーのように、上句と下句という「二人組」でできているものだという指摘にとどめたい。
「二人組」への矛盾をはらんだ執着をみせる瀬戸夏子という作者において、対象への愛はつねに回りくどくてしつこい、過剰で報われないものではないかと私は感じている。
「町」に掲載された二つの穂村弘論はどこか「やばいファン」の送りつけたファンレターに似ていたし、瀬戸さんの作品の、時にはまるで短歌に見えないような構えもまた短歌への「回りくどくてしつこい」ラブレターなのではないかと考える。
作品も、定型も、愛も、それじたい無根拠で無意味なものだ。ゆえに代わりがきかない。なぜか分からぬがそれでなくてはいけないもの。そうした無根拠なものへの接近はわれわれに「愚かさ」を要求する。そして最初に述べたように瀬戸さんは「愚かさ」を手に入れるために迂回する人だと思う。
12ページ五首目、
ミニーちゃんと性交したくて どうしても ユーズドの虹と 推薦状
という歌がある。おそらく「ユーズドの虹」や「推薦状」が手に入ってもミニーと「性交」は為せない。しかしなぜか「ユーズドの虹」や「推薦状」のようなものを集めることに執着してしまう。これはけして必要なものが揃うことのない道だけど、瀬戸夏子の「愛」はなぜかそうする。あらぬほうに向けて歩き出す。性交という愛の行為、つまり愚かな行為をするためにとる回り道。それが瀬戸夏子の作家性ではないかという仮説。
この愚かさは、「奴隷の韻律」的な愚かさからは距離を置く。つまり主人を持たない愚かさ。定型という、主人になりかねないものとの関係を捉え直すための手続き、それが瀬戸さんの連作なのでは。
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最後に、字あけの多さについて。
「二」であることのほかにも反復的にあらわれるモチーフはいろいろあるが(「光ること、輝くこと」についての言葉だったり「食べること、飲むこと」もあるし「眠ること、夢見ること」への言葉、「性交すること、性欲をいだくこと」への言葉もあって、人間の三大欲求がぜんぶ揃っていたりもする)、連作全体にわたるモチーフの反復が、この連作の一首単位での意味のまとまりの希薄さや、韻律の儚さとバランスをとるような(歌の垂直方向に対する)水平方向にはたらく力になっている。
そう踏まえてこの作品の「一字あけ」の異様な多さを眺めると、これは一種の「交差点」ではないかと思う。つまり「何かがこの空白のところで歌を横切っている」しるしであり、何か目に見えないものが水平に一帯を行き交っている。それは歌を寸断してバラバラにしつつ破片を美しく浮遊させる力になっている。
そして逆側から見れば、それぞれの歌は水平に行き交う通路のある一点における偶然できた断面図のようだ。
垂直と水平の力の交差した場所として歌がある。そもそも短歌とはそういうものであり、連作は短歌の中にある垂直方向の力(一首という単位そのもの)を抑制し、水平方向の力をけしかけるところがある。
水平方向の力とはつまり五音と七音の反復がもたらすもので、同じ音数がもどってくるたびそこに折り畳まれるように一首は横にのびていくし、横に並ぶ歌どうしの五音と五音、七音と七音はひびきあう。
しかしこの作品は一首の中の五音・七音のかたちを曖昧にしていながら、モチーフの網目をつくることで水平方向への動き、意識をあらわしている。それもまたひとつの迂回であり、短歌的なものへの一番の近道をないもののように無視して、しかしそれ以外のあらゆるルートを使って短歌へ接近しようとするという瀬戸夏子的な愛の「回りくどいしつこさ」のあらわれといえるのではないか。