砂壁のくずれる日々をながめては ぼくらはいつか穴でつながる 我妻俊樹
一文でひとつながりに言ってしまえるようなことを、一字空けまで挟んでつながりを切ってる歌でしょうか。切ってるように見えてじつは繋いでるんじゃとか、上句と下句が並列してることを字空けは示してるのかもとか、いや直列だけどあいだの何かが抜けてるのかもとか、抜けてるように見せてるけど何も抜けてないみたいとか、そういうことを一字空けの周囲でいろいろ考える歌にこの歌がなってるかどうかは心許ないけど、そういう歌は言葉をフラットに使わないとつくりにくいと思う。言葉がつながってること前提の磁場、みたいのが歌にないとつながりをめぐる読みの揺れが生じないので。で、この歌をつくった頃は斉藤斎藤さんや宇都宮敦さんの作品を参考にしつつ、自作のフラット化を試みてた頃で、その試みはいったん中途半端に終わった気がするけど、今も中途半端に血肉化しているようでもある。
第四回歌葉新人賞候補作「水の泡たち」より。
夏空がはるばると焼く休日のだれもがいずれ滅びる家族 我妻俊樹
題詠マラソン2004、題「家族」より。
つくったとき「何かうまく言い遂げた感じ」みたいな満足感があった歌ほど、しばらく時間置いて読み返すと鼻について嫌な気分になることが多い。
それは歌そのものの独りよがりな表情を、純粋に読者として読み取る距離が得られたせいなのか。それとも過去の自分という、純粋に読者として眺めることはできない相手に対し、微妙に自己嫌悪のまじる距離にいるということなのか。
どっちかわからないけど、2004年頃つくった歌というのは今丁度そういう距離に入ってるなあと思います。できのよしあし、というのとまた別な意味で読むのが苦痛な歌が多い。掲出歌はその中で例外だったもので、それはつくったときの、言葉をいじってる感触を忘れてる歌だからっぽいので、自己評価というのは正しく低く下すことすら難しいものだと思いますね。
題詠マラソン2004、題「家族」より。
つくったとき「何かうまく言い遂げた感じ」みたいな満足感があった歌ほど、しばらく時間置いて読み返すと鼻について嫌な気分になることが多い。
それは歌そのものの独りよがりな表情を、純粋に読者として読み取る距離が得られたせいなのか。それとも過去の自分という、純粋に読者として眺めることはできない相手に対し、微妙に自己嫌悪のまじる距離にいるということなのか。
どっちかわからないけど、2004年頃つくった歌というのは今丁度そういう距離に入ってるなあと思います。できのよしあし、というのとまた別な意味で読むのが苦痛な歌が多い。掲出歌はその中で例外だったもので、それはつくったときの、言葉をいじってる感触を忘れてる歌だからっぽいので、自己評価というのは正しく低く下すことすら難しいものだと思いますね。
メガホンをさかさに叫ぶ愛じゃなく死にたいほどの同情それを 我妻俊樹
題詠マラソン2005、題「メガホン」より。
この頃の歌で、のちに歌葉新人賞に出す連作に入れなかったものは大半忘れてて、なんかもう他人がつくったように見えますね。
ブレーキ踏みながら飛び出してる、みたいな感じの歌ですが、最後に字数合わせぎみに詰めたふうの「それを」がわりといいんじゃないかと思いました。なんかこう、ちょっと矛盾に疲れて地声が出ちゃってるような感じが。
たぶん自分でつくったという記憶が薄れることでよく見えてきた歌だと思う。
題詠マラソン2005、題「メガホン」より。
この頃の歌で、のちに歌葉新人賞に出す連作に入れなかったものは大半忘れてて、なんかもう他人がつくったように見えますね。
ブレーキ踏みながら飛び出してる、みたいな感じの歌ですが、最後に字数合わせぎみに詰めたふうの「それを」がわりといいんじゃないかと思いました。なんかこう、ちょっと矛盾に疲れて地声が出ちゃってるような感じが。
たぶん自分でつくったという記憶が薄れることでよく見えてきた歌だと思う。
横笛が頬にささってる雪だるまバス停にありぼくらは並ぶ 我妻俊樹
今夜は雪だったので雪の歌がないかと思ってさがしたけど、意外とつくってないのか、さがしかたが悪いのか(ネットで我妻俊樹+雪で検索した)一首しか見つからず。
雪だるまに横笛、という組み合わせがなぜか似合う気がしたのだと思います。似合うとしても、雪だるまにそれを与えるには刺すか埋めるしかないわけですね。結果的にそれでは似合わない姿にしかならない気もする。
それからこの歌のような書き方をしたとき、たとえば「並ぶ」はバス停に並ぶとも雪だるまに並ぶとも取れる。またどちらでも同じことだとも、違うことだけど両立するのだともいえる、というような、微妙な読み方のぶれが歌の膨らみになるかな、という期待はわりとしますね私は。
今夜は雪だったので雪の歌がないかと思ってさがしたけど、意外とつくってないのか、さがしかたが悪いのか(ネットで我妻俊樹+雪で検索した)一首しか見つからず。
雪だるまに横笛、という組み合わせがなぜか似合う気がしたのだと思います。似合うとしても、雪だるまにそれを与えるには刺すか埋めるしかないわけですね。結果的にそれでは似合わない姿にしかならない気もする。
それからこの歌のような書き方をしたとき、たとえば「並ぶ」はバス停に並ぶとも雪だるまに並ぶとも取れる。またどちらでも同じことだとも、違うことだけど両立するのだともいえる、というような、微妙な読み方のぶれが歌の膨らみになるかな、という期待はわりとしますね私は。
新墓か自販機か仮設交番か読めない文字をたばこで照らす 我妻俊樹
題詠blog2008、「設」の題でつくった一首。
「新墓」「自販機」「仮設交番」というあきらかに大きさの違うものから絞り込むのに、たばこの火で「読めない文字を」照らすという行為のちぐはぐさ。といったあたりがポイントでしょうか。
寺山修司の「吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず」はとくに意識しなかったと思いますが、今気づいたけど「吸いさし」ってことは火が消えてるんでしょうか。ついてるのかと思ってた。ついてるのかと思ってる無意識が、思い込みに従って寺山の歌を参照した可能性は否定しません。
題詠blog2008、「設」の題でつくった一首。
「新墓」「自販機」「仮設交番」というあきらかに大きさの違うものから絞り込むのに、たばこの火で「読めない文字を」照らすという行為のちぐはぐさ。といったあたりがポイントでしょうか。
寺山修司の「吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず」はとくに意識しなかったと思いますが、今気づいたけど「吸いさし」ってことは火が消えてるんでしょうか。ついてるのかと思ってた。ついてるのかと思ってる無意識が、思い込みに従って寺山の歌を参照した可能性は否定しません。