公式シンポジウム「日本型LGBT共生社会の作り方」報告
文責: 林義拓
「セクシュアルマイノリティを理解する週間」(略称セクマイウィーク)が、行政側の後援を得た形で、去年初めて実施された記憶もまだ新しいことと思いますが、引き続き今年も行われました。
このセクマイウィークに関連した企画として、5月14日(土)に公式シンポジウムが、同17日(火)~21日(土)に電話相談が実施されました。今回、公式シンポジウム全体会にシンポジストとして参加してきましたので、報告いたします。
公式シンポジウムは、前半が全体会、後半が分科会となっており、分科会は三つ開かれました。分科会については別の会員が記事を書くだろうと思いますので割愛し、全体会の流れ、ぼくの報告内容と、感想という順に書きます。
全体会は「日本型LGBT共生社会の作り方」というテーマで開催されました。シンポジストは四人。棚村政行さん(早稲田大学教授で、家族法が専門)、上川あやさん(世田谷区議会議員、ここで説明要らないくらい有名ですね)、ヘイデン・マヤヤスさん(現在UBSの、ダイバーシティプログラムの責任者)、とぼく。
つまり、法律・政治・企業・医療の専門家をひとりずつ呼んで、話をさせようという主旨なわけですが、顔触れとして実に豪華でしょう!(除:ぼく)当日のシンポジウムの模様は、おそらく近日中に、去年同様YouTubeにアップされると思いますので詳細は省き、ざっと流れだけ記すことにします。
全体会シンポジウムの前半が、各シンポジストがそれぞれ15分弱で、現在LGBTが直面している困難について説明をしました。で、後半はやはり各シンポジストが、社会におけるダイバーシティ(多様性)推進の重要性について意見を述べる、という流れです。司会は、東田真樹さんが担っていました。
ただ、惜しむらくは、本当に時間が足りなかったこと。テーマ自体が大きく、シンポジストそれぞれも一人で何時間でも話ができる論客ばかりなので、一時間半だとみんなちょっと不完全燃焼だったかも、という気がします。
けれども、棚村さんからのLGBTへの真摯なエール、上川さんからの市民的アクションの重要性の訴え、ヘイデンさんからの企業が優秀な人材獲得する上でダイバーシティ推進は必須とする話、どれも印象的なものでしたし、参加された方々のこころの深いところに「種蒔き」ができたのは確かではないでしょうか。
さて、ぼくの側からの報告内容について記します。実行委員会の側からぼくに期待されたことは、ホモフォビアについての説明と、医療現場におけるLGBTが直面している諸困難についてでした。ぼく自身は児童精神科医ですが、こどものメンタルヘルスに限定した話をする時間はないので、終末期・救急医療現場におけるヘルスケア代理に焦点を絞ってお話をしました
ホモフォビアというのは、周知の通り、同性愛あるいは同性愛者に対する否定的姿勢のことです。しかしそれは、あらゆる時代・地域に普遍的に存在していたわけではない。
人間の性というのは本来多様で豊かであるのに、それぞれの社会・文化ごとに特徴的な規格化を被っている。近現代の日本社会においてそれは、固定的で厳密な男女二分法であり、身体的・生物学的性と性自認・社会的役割・性的指向(異性愛)とが強固に結びつけられ、かつ男性優位に価値づけられる、という事態を指します。
そのような規格化を逃れる性のありさまを、価値下げし、非難し矯正しようとする歴史が続いた。それが、ミソジニーであり、ホモフォビアであり、トランスフォビアであったわけです。また、そのようなメカニズムは人々の意識の水準とともに、無意識あるいは社会構造の水準でも機能する。
人々の意識の水準で、ホモフォビアはどう機能するか。まず、同性愛者への物理的・心理的暴力やあらゆる種類の差別が、惹起されまた正当化される。またそれがゲイ・レズビアン本人に内在化されることによって、自尊感情の低下や希望を持つことの困難、そして自己及び同性愛者全体への拒絶感が強化され、本来であれば仲間になり得たはずのゲイ・レズビアン・コミュニティへの心理的アクセシビリティが低下する。その結果生じる精神的変調として、安定的・肯定的アイデンティティ形成が損なわれ、不安・抑うつ・希死念慮が惹起され、ハイリスク行動に繋がりやすくなる。
けれども、ホモフォビアは既存の社会構造によって形成・維持されてもいる。医療・教育・家族・労働など各領域を規定する法制度によって、また市場やメディアによって。
たとえば、現在日本においてゲイ・レズビアンのパートナーや友人は、面会・看護の権利、医療情報提供を受ける権利、治療の代理同意の権利は認められていない。本来であれば最もよく理解し合えるはずのパートナーや、民族や親族にも喩えられる緊密なネットワークである友人たちとの関係が、真に必要とされる人生の危機において突如断ち切られてしまう悲劇を、現在のぼくらは充分に回避することが出来ない。
こうした医療における諸権利が保障されていない背景として、同性間パートナーシップ法の不在に加え、ヘルスケア代理法の不在と法的親族重視という慣習が存在することが挙げられます。ヘルスケア代理法とは、本人に意思能力がない場合に本人に代わって、本人あるいは裁判所が指名した代理人が、医師から医療情報提供を受けて治療の代理同意をする法制度の総称です。日本は、北米・西欧圏の多くの国と違い、ヘルスケア代理法がない(現在ある成年後見制度は、経済行為代理に限定されたものである)。
意外と知られていませんが、法的親族も面会・看護、医療情報提供、代理同意は法制度の水準では権利として認められてはいません。とはいえ医師の専断で治療を決定するのは不適切であるから、慣習的に家族に説明し、同意を得てきた歴史があります。したがってゲイ・レズビアンのパートナーや友人が、入院している本人との関係を保持しようと願う場合、この慣習のパワーを乗り越えるため、法的親族に認められなければならない(でないと、揉め事を嫌う医療者を味方につけられない)。
その方策はいろいろと考えられます。カミングアウトと、お互いの法的親族と良好な関係を築き維持する努力。養子縁組、公正証書、任意成年後見制度の活用による象徴的地位向上。個人情報保護法や厚生労働省終末期医療ガイドラインの活用。けれどもこれらは膨大なエネルギーが必要であり、なおかつそれでも成功するとは限らない。
ヘルスケア代理法さえあれば、信頼の置けるパートナーや友人を指名し、慣習のパワーを振り切って本人が望んだような時間を作ることができるというのに、なぜ不在のままなのか。このような法制度の不在と、不在についての社会的関心のなさこそがホモフォビアなのです。それゆえホモフォビアの解決とは、人々の意識の水準(理解)ではなく法制度の水準で成し遂げられる必要がある。以上が、当日ぼくがお話ししたことです。
いま当日の議論を振り返ってみての感想を、二点記しておきたいと思います。第一点は、ダイバーシティ推進を目指す時に考えておくべきこと。第二点は、そのために個人としてすべきことは何か。この二点とも、当日の議論において充分深められなかったものです。
ダイバーシティ推進というのは、近年になって比較的一般にも耳にするようになった言葉だろうと思います。国籍、民族、出自、言語、障害、ジェンダー、などと並んで性的指向も挙げられるようになり、そうした多様な人々のありようを受け入れて認めていこうというポリシーのことと一般には思われています。
ダイバーシティはたいへんに重要なものです。人類にとって、生物学的多様性や言語・文化的多様性は、地球や人類が有する可能性のありか(オルタナティブを含め)を示すものです。国家や企業にとって、ダイバーシティを推進することは有能な人材を獲得する上で重要であり、ますます競争が激化する現代においては必須でしょう。
ただ、ダイバーシティは必ずしも「相互理解」や「調和」をもたらすわけではない。ダイバーシティは、すべての属性集団に「対等」な「権利付与」を求める(時には「対等」にケンカもできるようにする)ポリシーですから、既存の社会・文化構造と齟齬が生じるのは避けられない。多様なありようを認めるというと耳障りはいいですが、ガチでぶつからねばならぬ覚悟は必要でしょう。
そして、そのために個人としてなすべきことは何か。当日上川さんが提起したように、行政に不服申し立てをしたり、裁判したりということの重要性はいくら強調してもしたりない(たとえば個人情報保護法をめぐって、本人が意識がある間に親族ではなくパートナーに医療情報提供をするよう医師に求めて、それを医師が破った場合どういう司法判断になるか。その結果によって、間違いなく医療側の動きは変わります)。ただ、たぶんそれだけではないだろう。
たとえばAGPには、多くの医療・心理領域の専門家がいます。臨床においてぼくらが、質の高い技術を提供することは、セクシュアルマイノリティに理解ある医療機関を求めている人々にとって決定的に重要であろうと思います(したがってぼくらが日々、臨床技術を研鑽することはコミュニティにとって利益になる)。ぼくらが臨床や電話相談において見聞きした話を、いわば目撃者として、研究しデータを提示していくことは、政治的な運動をしていく上で、あるいは政策立案に際して、欠くことのできないものとなろう。
ぼくら一人ひとりには、それぞれ異なった力があるのだと思います。みんな一緒である必要はないのだから、分業しながら、より平等な社会の実現のためにできることをしていけたらいい。そのような思いを、改めて強くした一日でした。