分科会 「企業の中のLGBT」 レポート



  文責: Miyaken.
AGPのブログ









概要

司会者はコチの東田さん(マーケティング会社)

パネリスト:

 外資系金融会社から、アライの女性とゲイ男性。

 外資系メーカーから、ゲイ男性。

 (加えて、最近トランス職員の処遇で大きな前進を果たした、とある日系メーカーの職員にも出演打診したのだが、辞退されたそうである。)


鍵となりそうな発言:
・ 企業の中でトランス以外の当事者がカミングアウトする必要性や利益が、当事者としてさえもピンと来ていない。
→とはいえ、同僚・上司との人間関係中、言い換えたり隠したりするための労力を、本来の業務に振り向けることができるメリットはすでにカミングアウトした当事者として、実感している。
→しかしそれとて、最近の労働環境は社員同士がプライベートなことにお互いに踏み込むような人間関係を望まずにドライな方向に変化しているので、「言い換えなくてもいい、隠さなくてもいい」企業でアウトする当事者にとっての利益は相対的に小さく感じられているかもしれない。

・ (司会者) LGBT フレンドリーなサービスを企業が提供すると、それは消費者の利益に直結して、つまり企業の利潤に直結する。対企業にマーケティン グの人間としてはそこが押しどころである。企業内にLGBT 組織があることは、対消費者へのサービス改良にも大きな意味を持っているだろう。

・ 企業の LGBT 組織の実際は、非当事者で賛同者(アライ)が集まりやすく、 当事者は集まりにくい。当事者メンバーのアウティングになってしまわないように、活動内容にも気を遣う。

・ (聴衆からの質疑) 大企業と比較して、中小企業では職場でカミングアウトする行為は状況が異なる(職場の人間関係がより旧来の家族的なもので、社長や上司の個人的な意見が大きく影響する)。カミングアウトも LGBT 組織の構成も、中小企業では難しいのではないだろうか?
→一概に中小企業の環境=ホモフォビック・トランスフォビックとは言えない。非常に理解の進んだ中小企業主や立場をオープンにすることに成功した 中小企業社員の例にもことかかない。


感想
AGPのブログ いきなりこの分科会から離れた個人的な体験からお話しするのだが、一年近く前の こと、東アジア圏の金融機関合同の LGBT 組織が東京で開催したチャリティー・パーティーに、プレゼンテーションしに呼ばれたことがあった。その時ひどく違和感を覚えたことがあって、その組織を動かしているのは欧米からの当事者とおぼしき金融会社社員、プレゼンテーション・ブースに説明を積極的に聞きにくるのは異性愛者日本人とおぼしき社員で、イカホモ風情のアジアのリーマンちびっ子たちが、純粋にパーティーゴーワーとして歓談を楽しみにだけ来ていた……ような、そんな意地悪い見え方を禁じえなかった(ガイセンのガイセン嫌い目線……とも言う、爆)。
今回の分科会の内容は、半年前のその奇妙な光景への僕の理解を進めてくれたと思うのだ。その理由は、上にまとめたパネリストたちの発言のサマリーをごらんいただければ読者の皆さんもわかっていただけると思う。



受け入れられたい欲求のその先
自己受容のニーズと、身近な他者(ここでは職場同僚)に受容されるニーズは、LGBT としての基幹的欲求であり、普遍性がある。まずこの二つのニーズを満たさなければその先の欲求の追求には進めないだろうし、これらの基本的な欲求は未来永劫的にメンテナンスされなければならないだろう。しかし、LGB の近隣は、いっこうにその要求ばかりに固執してそこから先に出 て行かないことに苛ついていると思う。全体会での上川さんの発言(行政に当事者が何か言っていかないと行政は対応しようがない。LGB よ、もっと行政の窓口に何か言え)しかり。

改名、トイレ、制服と更衣室…といったニーズはトランス以外は出てこない。

MSM に特に身近な、HIV/AIDS を巡る処遇のニーズは、我が国では主に薬害被害者が手厚く勝ち取ってくれた。

それらとは対称的に、企業の福利厚生におけるカップル・オプションの平等の問題は、僕個人的にはいますぐ火がついても良いトピックではないかと 何年も前から思っているのだが、いつまでたってもこのニーズが声として上がったのを見たことがない。また、当事者が老いてからの問題も、企業活動とはなかなか結びついてこなかった印象を持つ。老後イコール退職後であり、 その問題をつかさどるのは企業の福利厚生ではなく行政だから…という考え方があるからだろうか? また若い人たちの「将来の備え」としての文脈しか、 この老後イシューはいま現在持ち合わせていないのかもしれない。

「衣食足りて礼節を知る」…下位欲求が満たされてはじめて上位欲求が生じるという Maslow という学者の理論を当てはめるならば、(加えて、自己承認の欲求と身近な他者からの受容もある程度満たされている、という条件を仮定して)私たちは自らのパートナーシップを作る権利・能力・喜びを、 まだまだ過小評価している、ということではないだろうか?外資系金融企業 ……同性カップル/トランスカップルのライフスタイルにこなれている欧米 バックグラウンドの社員と、ガイセン君社員だってたくさんいるはずのそうした外資系金融企業……でさえ、今回の分科会の発言の通りなのだから、その 堅さや縮こまり方はかなりのものかと思う。



職場内福利という発想 対 消費者のため(マーケティング)という発想
マーケティングがバックグラウンドの司会者は、LGBT 向けのマーケット戦略がいかに消費者利益・企業利益に結びつくのかについては数値をしたがえ てプレゼン可能だとおっしゃる。しかし僕個人の感情レベルで、その「エビデンス」で腑に落ちるのかどうかと言うと、たぶん納得しないと思う。その 東田氏監修の最近出た雑誌「GQ」の特集記事を読んでも(僕たちってそんなに消費力旺盛かしら?少なくとも、道ばたの雑草食う習慣が身に付いたような僕にはあんまりピンとこない虹色の消費スタイルなのだよコンなモンは!)とか情動レベルで本当は思っているし。レズビアンと、F が出発点のトランスからも「私たちそんなに可処分所得無いですよ」という嘆きの声をしばしば聞く。そんな僕個人の感覚から察するに、企業の中の当事者も感情レベルでは対消費者、マーケティング戦略としての自己存在価値には大多数 が懐疑的なのではないかと予想する。

しかしその考え方と対抗する考え方も、自分の体験にはある:僕ら(AGPのプロジェクトなど)が保健の業界に働きかけていることは、企業に言い換えれば「マーケティング」に他ならないですよね。

少し昔は LGBT に特化した保健のニーズがあることすら認知しない保健 機関ばかりだったし、それは現在だって新規開拓で行った先は変わらない。「我が校にそうした学生はいない」「特別な人口層に特化した介入は行政の使命上できない」とか、明らかに合理性においておかしい言い訳の壁が新規開拓には立ちはだかりますよね。LGBT コンシャスな保健事業(プロジェクト)を自ら興したり、また LGBT コンシャスな態度を前面に出して就労しようとしたら、そこを言及しない場合よりも段違いに道は険しくなる。それでもいばらの道を選択している僕たちは、その「マーケティング戦略の有効性」を確信しているからこそ、生傷こしらえながら前に進んでいる訳だ(……結果 ……出てる?)。

金融は金融、製造は製造、餅は餅屋で、その業界にいないと描けないアイディアだと思うが、LGBT 向けのマーケティング戦略はめいめいの領域できっと豊かなビジョンの潜在性があるに違いない。要は業界がその潜在性に目を向けるか向けないかの違いであり、それはひいては LBGT 当事者職員が消費者生活者としての自己をどれだけ尊んでいるのかの違いなのではないだ ろうか?

だから私たちの「いま・ここ」での要求、自己欲求と身近な他者からの承認欲求がクリアできたら、もっと恋人探してデートして財産を共有して(養) 子を育てて看取り看取られ一緒の墓に入る空想にウキウキすることに貪欲 であるべきなのだろう。ニーズあるところにサービスが供給される。金持ちばかりがマーケティングのターゲットではない訳だし。お酒とクラブとハッテンが単に、それら一生涯のうちに変化するライフステージに即したリレーションシップが自分たちには叶わない・できないという思い込みの代償行為に過ぎないのであったら悲しい……まあ代償に凝り固まる当事者は「そういうのはかったるい」という考えにすり替えて認知するのだろうけれど。


そんな偉そうなことを書いて来た僕だが、日本に戻ってきてから(あるいは四十路を迎えてから)もうすっかり、パートナーシップ能力(←そんなものがあるのならば)が萎縮してしまっている自覚がはっきりある。これって この地での支配文化への順化なのではないかと自己警戒している。「もう中 年だし」、「もともとガイセンだし」とか、そういう言い訳のもとで「枯れた」 だとか意気がってみせて、かまどにクモの巣を張らせておくのは大変よくないことだ。