どうしても気になる | goldenblue

goldenblue

「古代の叡智の幼稚園」
エデュケーションとセッションが一体化した新しいスタイル、エデュ・セッションで、魂が導く本来の自分の力を取り戻していくセラピーをしています。

今年に入って2度、赤塚高仁さんの講演を聞くチャンスに恵まれた。

そこで初めて、終戦勅語をしっかり読んでみた。

終戦勅語を大切に読むと、右翼とか言われそうだけど、これは思想でも何でもない。表明されている言葉なのだ。

 

読んでみて初めて、「國體ヲ護持シ得テ」国としてのかたちがあることがどんなに有難いことか、そして、恩恵をずっと知らずに既に受けてきたんだなと思った。

 

そして、いま日本人としてこの国に生きているということは、わたしたちは責任を負っている存在なのだ。その責任とは、夢とか希望とか目標とか願われている願いと言い換えてもいいかもしれない。

 

自分探しとか、自分が何をしたいのか探し求める人もいると思うけど、自分たちが乗っている大船である国がどうしようとしているのかを知ることは、個人個人の存在が行こうとしている方向性や目的地を知る助けにもなるだろう。

 

「任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」と書いてある。

 

ネットで調べるとこんな現代語訳が出てくる。「責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。」

 

これが、国があるということに願われていることなんだ。

 

この一文の前には「宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ」とある。

 

そこでどうしても気になるんだなあ。

 

ネットの現代語訳には、「相傳」を「ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え」と訳してあるけど、ちょっと訳が浅い気がするんだな。

 

「相」はすがた、かたち。

 

小林秀雄は本居宣長のことば「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ」を伝えている。

 

仏教には、諸法実相という言葉がある。

 

すがたで伝えるという言い方もできるかもしれないけど、「すがた」というものの神髄、深さ、本質を知る道にこそ日本人のこころを知る手だてがあるようにも思う。

 

参考までに、小林秀雄「本居宣長」25章(上巻306頁)の引用を張っておきます。

 

「ある姿が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は実体ではないが、単なる符帳とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない。万葉歌の働きは、読む者の想像裡に、万葉人の命の姿を持込むというに尽きる。これを無視して、古の大義はおろか、どんな意味合が伝えられるものではない。「万葉」の秀歌は、言わばその絶対的な姿で立ち、一人歩きをしている。その似せ物を作るのは、難しいどころの段ではなかろう。

 意は似せ易い。意には姿はないからだ。意を知るのに、似る似ぬのわきまえも無用なら、意こそ口真似しやすいものであり、古の大義を口真似で得た者に、古歌の姿が眼に入らぬのも無理はない。」 

ちなみに、辞書を引くと、相には、「たがいに。二者の間で。みる。たすける。」などの言葉も出てくる。今読んでるヌーソロジーの観点からも、わたしをインスパイヤーしてくれる言葉だなあ。

この記事は、読んでもらうためというよりは、自分用の記録の方に比重があるので、読みにくかったらごめんね