ここでは男女の違いについてはいちいち述べないが、一つ一つの特色について、男性だったら、と考えると見方が違ってくる。
自分についての好悪は、ただの自己評価ではない。
自我が目覚めてから、欲求においての主観と、他人と比較しての客観で、自己像を捉え始める。
だが人は生涯、他者を通じて存在させられ、条件付けられてもいるものだ。特に異性の存在は大きい。
この点では男性はアニマという女性の理想像を追い求め、女性ではアニムスを自覚することとなるが、その意味合いは違う。
心の中の異性像は最初はどちらも未発達でありながら、男性では関係性を重視して発展していく。
女性の場合は、男性としての理想像ではなく、未発達のロゴスが異性に投影されると言う。
ロゴスとは簡単に言えば理性のことだが、ヨハネが書いたイエス・キリストの福音では、「人間が歩む道を照らす光に他ならない」と書いている。
つまり、ロゴスとは父の言葉であり、それを端的に言ってしまえば「罪を犯してはならない」であり、さらに重く受け止めるなら「悔い改めよ」ということになってしまう。
これらは普遍的とされながらも、ユングの説であり、科学的とは言えないが、様々に不合理で説明が付かない事象に当てはまる場合がある。
自己嫌悪に陥っている女性の場合、その悩みが深いほど自分に対する否定的な事柄を羅列するだけになりがちだ。
自分が好きになれない。自分が嫌い。
自分を好きになろうと努力するほど嫌な部分を見付けてしまう。
お酒に現実逃避するがそれで身体をこわした。
ストレスで過食になり激太りした。
自分が醜い。
禁酒やダイエットは挫折した。
恋をしたいとは思わない。
自分が情けない。
人生に意味はない。
これほどの自分に対する否定的な言葉を言いながら、その原因がまったく語られない場合があるのだ。
悩みを解決する場合、その原因が特定できなければ、どうしていいかも分からない。それは本人にとっても同じだろう。
自分の姿が気に入らない、にしても、見た目で自分より気に入らない人の方が多いはずで、自分が気に入っている容姿の人たちの方が圧倒的な少数のはずだ。まさかそんな少数のために、自分の人生を台無しにしているはずはないだろう。
ここまで自分自身に集中しているのには、何か原初的な原因があるはずだ、と思うとき、彼女の歩む道に光が当たっていないことに気付かされるのである。
つまり、父親との関係の中で、自分をも正しく映し出せないほどの暗さ、光のなさが原因しているのではないか、と思ってしまうのである。
また父親がひじょうに厳しいとき、そんな思いに応えられない娘たちが、幼いときからの挫折癖に、その人生の大半を奪われてしまうとしたら、それも不幸なことではないか。
さらに、罪を犯すことを恐れ過ぎ、やってもいないことの罪までを背負って、ただ悔い改めようと努力している人生では、それは本当に意味のないことである。
人生に意味を求めるなら、常に努力は正当で、かつ建設的なことでなければならないはずだ。
このように、あまりにも不合理でありながら、自分ではそんな理由や原因を説明できない場合、潜在意識の中にその答えがある場合がある。
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