今、屈原の気持ち
今度こそ、期間限定になるだろうけど、義憤にかられて以下記す。
裁判例・通説によると、大学と学生の間に締結される在学契約は、準委任契約をその中核とする無名契約である。
我々教員は、大学の被用者として、直接学生に対して在学契約上の債務を適正に履行することを義務付けられているのである。
大学、すなわち教員が負う義務の主なものは、いうまでもなく教育サービスの提供であるが、その中でも、講義を行い、学生の成績を適正に評価し、単位を認定することが最も重要な義務であることは争う余地がない。
成績評価については、基準の透明化・厳密化の要請が叫ばれており、私は大学教師になって1年余だが、前期に担当した契約法では、期末試験だけでなく、講義で毎回小テストを行い、小テストの採点もして全て返却し、厳密な採点基準を作成して、何十時間もかけて成績評価をした。
前期は7月末に終了したが、8月初めの成績提出締め切り前は大変だった。
過労で入院したことは先にご報告したとおり。
前期の成績は学生に9月30日に発表され、今週から後期が始まったが、学生、とくに4年生に非常に迷惑をかける事態が発生していることを昨日知って愕然とした。
ある教授(仮にX氏としよう)が、前期に彼が担当した○○法の採点をいまだにしていないため、その成績だけがまだ出ていないというのである。
成績表には、「○○法については後日」と注記されているとのこと。
そのために、学生は履修計画が立てられないし、とくに前期までに単位をとってしまい、後期は就職活動に専念しようとしていた4年生等が、保険のために後期も授業をとらなければならなくなったりして、大変な迷惑を被っている。
先に書いたとおり、これは重大な債務不履行である。
銀行員出身の私には「顧客に迷惑をかけるなんて最低のことで、プロとしてどんないいわけも通じない」としか思えない。
私が「もう黙っていられない」と思ったのは、実はX氏がこのようなことをするのは、私が直接知るだけでも、初めてではないからだ。さらに、私が赴任する前も、同様のことがあったらしい(しかも卒業認定に関わることだったらしい)が、未確認なので、ここでは私も当事者になっている件についてのみ記す。
昨年の後期に私は彼ともう一人の教員W氏と3人で、ある講義を担当していた。
3人がそれぞれぞれ違う課題で(3人の専門は全く違うため)レポートを課して、その結果を総合して最終的な成績を決めることになっていたが、X氏は多忙を理由に結局自分の分の採点を放棄したため、私とW氏の分のレポートだけで最終成績を決めざるをえなかった。
しかも、X氏は、学務係に提出させた自分の分のレポートを、今年の夏まで自分の研究室にもっていきもせず、そのまま学務係に置きっぱなしにしていたのである。(私は毎週2回契約法の小テストを回収する度に、2月締め切りのX氏宛てのレポートの束がそのままになっているのを目撃している)
国立大学は今年から法人化され、「学生に対して良質な教育サービスを提供する」責務の重要性、そしてそれが契約上の債務であるという意識は以前より高まっているし、厳しくなる第三者評価、そして少子化をsurviveするためにも、このようなことはあってはならないことと思う。ましてやX氏が他の教員に範を示さなければならない立場にいるのだから尚更である。
私は大学の現状を憂い、法科大学院の将来を思って、敢えてこういう文書を書いた。
刑法230条の2第3項では公務員に関することで事実であれば名誉毀損は成立しない。
もう国家公務員ではないとしても、第1項で公共の利害に関する事実で公益目的で書いた事実なら同様である。
問題があれば、「仲間の悪口をいうのはよくない」などという情緒的な批判でなく、法学者らしく理論で反駁してほしい。
それでも立場が決定的に悪くなることは確かだろう。
汨羅の淵に私の諫死体が浮かんだら粽でも投げてやってほしい。
『39』感想文(ネタばれ注意)
古すぎてすみません。
ちなみに、堤真一はここで共演した鈴木京香と一時期つきあっていた。
それが週刊誌に出たとき、「鈴木京香、美男俳優と熱愛!」という記事が出て、「いくら無名だからって、美男俳優などという陳腐な表現はないだろう」と悲憤慷慨したものである。
銀行の同僚もこの記事が出たときに「初めてあなたのいっていた堤真一が誰かわかったよ」といってたけど。舞台俳優としては押しも押されもせぬ人だったのに。
1996年の『ピュア』でTV界で少し注目されたものの、『ザ・ドクター』ではひどい脚本と演出にファン一同泣いたものです(MMというプロデューサーの作品【サラリーマン金太郎】【金曜日の恋人たちへ】とかはどれも作品としてひどいけどなぜプロでい続けられるのだろう)
その後、2000年のドラマ『やまとなでしこ』をきっかけに民放ドラマにどんどん出演して今ではすっかりメジャーですが、それはそれで一番肝心な芝居のチケットが入手しにくくて困るんだけど。
舞台の立ち姿と声は本当にすてきです。
1.原作
原作も読んだが、原作は主人公がより凶悪だった。
とくに、原作では、被害者の身重の妻も主人公が手にかけるのに、映画では、被害者自身が殺したことになっていた。映画ではだから主人公に同情を覚えることが容易だ。
でも、こういうやり方ってどうなんだろう。
読み手をある程度選ぶ小説とちがって、映画では万人受けしなければならないから、原作にあるエピソードが主人公により共感できるようにかえられていることが多い。
たとえば、横溝正史原作『悪魔の手毬歌』では、方庵(映画では中村伸郎が演じた)は、原作ではむしろいい奴なのに、主人公青池リカ(岸恵子)が彼を殺したことを正当化しやすいように、彼女の弱みを握って犯したという設定にしていたのには違和感があった。
深作欣次『蒲田行進曲』も、とくに小夏がかわいい女に描かれすぎていて、つかこうへいの持ち味である原作のもつ毒がかなり薄まっていた。
2.映画
まず、全体としては、大変な意欲作で、森田監督は、やっとその才能にふさわしいテーマにめぐり合ったという感じがする。
それだけに、設定にいくつかの難点があるのが何とも惜しい。
�この映画のストーリーは、タイトルが示す通り、幼い妹を惨殺されたのに、犯人が刑法39条のために刑を免除されたことに対する恨みから、他人に自分の戸籍と恋人まで譲り渡し、他人に成りすまして多重人格者による犯行を装って犯人を殺し、刑法39条により無罪を勝ち取ることによって、復讐を成し遂げようとする男の話だった。
刑法39条がメイン・テーマであるから、法律論議をするのを許していただきたい。
この映画のテーマからして、畑田の犯行時の年齢を15歳に設定したのは失敗だと思う。
まず、15歳で殺人を犯した少年の処分方法には、保護処分と刑事処分があり、前者であれば刑法39条が適用される余地はないから、この映画では逆送されて刑事訴追を受けたものと推定される。
ところが、少年法20条で、送致の時16歳になっていないと、逆送はできない(注:2001年4月試行の少年法改正で14歳になった)。しかし、少年事件の場合、勾留23日以内に家裁に送致され、3ヶ月以内に審判がくだされるから、犯行時15歳だった少年が逆送時に16歳だった可能性は低い。仮に16歳になっていたとしても、私の友人の最近まで少年事件を専門にしていた裁判官によると、16歳の少年を逆送することはめったにないということである。また、逆送されても心身喪失で刑を免除されるような少年は、神戸の少年のように保護処分により医療少年院に送られるのが普通だそうである。少年はまだ発育途上であり、精神障害と断ずるには若すぎるとされ、改善可能な人格未熟状態と判断されることが多いからとのことである。
したがって、15歳の少年が精神障害のために殺人を犯したケースで、逆送されて刑事訴追を受けたが、刑法39条で刑を免除されるという結果になる可能性は限りなくゼロに近いということで、全くリアリティを欠く設定になってしまっているのである。
また、この映画が批判する刑法39条がもしなかったとしたら、「可塑性」ある少年に極刑を科すべきでないとの判断から、それこそ、逆送はせず、医療少年院で治療するであろう。そして、神戸事件で淳君の両親が味わったのと同じ無念さを遺族は感じるだけである。
以上、理屈っぽくなって恐縮だが、言いたいことは、畑田の犯行時年齢を15歳にしたことで、批判の対象が少年法なのか刑法39条なのか、焦点がボケてしまい、すっきりしなくなるのだ。
この映画が敢えて畑田の犯行時年齢を15歳とした理由として考えられるのは、
(1)工藤と畑田の年齢が近いという設定にすることによって、被害者の方が人生を狂わされたのに、犯人の方は進学、就職、結婚と順調に歩んできたという矛盾がより鮮明になるから。
(2)観客が神戸事件を連想してより興味をもったり、時代を反映しているという印象を与えるから。
(2)の方はやや邪道だが、本音だろう。しかし、このようにいらぬ色気と欲を出すことによって、せっかくのテーマの焦点がボケてしまうのはどう考えても失敗であろう。
(1)のことを別にすれば、畑田と工藤を同じ世代にする必然性はないであろう。むしろ、畑田の犯行時年齢を20〜22歳くらいに設定したら、まさに「刑法39条さえなければ…」という問題がクローズアップされるてくるであろう。
�工藤は恋人まで犠牲にし、あんな手の込んだ復讐をしなくても、自分が未成年のうちに、少年法を逆手にとって畑田を殺すという方法もあったのでは。
�いくら子供の頃別れたといっても、柴田の父親が、工藤を偽者と見破れないのは不自然過ぎる。たとえば、息子と名乗り出た時は、既にアル中で人事不省だったとかいう設定にすればよかったのに。
�何も恋人を赤の他人と結婚させてまで、多重債務者を工藤として仕立てなくてもよかったのではないか。工藤は故郷の人からは行方不明と認識されていたのだから、そのままにしとけばよかったのに、わざわざ昔の担任に年賀状を出してまで偽者の存在をアピールしなくても。特に、砂岡の性格上、嘘をつき通せないことは、聡明な工藤になら予想がついただろうに。そこまで犠牲を払わなくても…という気がするが。
以上、いろいろ難点を取り上げたが、この映画はこうした欠点をカバーして余りある出来映えだったと思う。
刑法39条に泣いた主人公がその刑法39条に復讐するという奇抜な設定もさることながら、そのために行った周到な準備の数々、自らを犠牲にして協力した恋人、そして、精神鑑定人自身が抱えるトラウマ…
全く先の場面が読めず、最後まで観客をぐいぐいつかんで離さない展開。斬新な映像処理。はりめぐらされた伏線。challengingな演出手法。
そして、堤真一のすばらしい演技。はじめは、多重人格の白目を剥いた演技が「作りすぎ」という印象だったが、それは、実は、「多重人格者のふりをする」演技だったからにほかならず、計算尽くされたものだったことがわかった。そして、復讐のために、全てを犠牲にし、精神医学の本を読み漁り、自分に成りすます多重債務者を探し出し、他人に成りすますという冷徹でストイックな生き方が納得できるような重厚な演技。そして、最後に本当の自分をさらけ出せた時の、解放感とともに本来の知性をほとばしらせた話し方。役者としての舞台上の演技も含め、さまざまな心象を自在に演じており、
出色の出来であった。ファンとしての欲目でなく、映画さえ興行的に成功すれば、主演男優賞候補に間違いなくなると思う。
鈴木京香はほとんどノーメークの迫真の演技で、「死の棘」で新境地を開拓した松坂慶子を彷彿とさせる。
助演の吉田日出子、樹木希林もすばらしい。
ただ、江守徹のあの目つきはいただけない。全くあの検事の性格が読めないし、どういうつもりであのような演出をしたのか、理解できない。
見所のシーンは、新潟の浜辺で香深が工藤の落としたサングラスごしにかもめを見る所と、香深が母親のほほについたご飯粒をなめとって
やる場面であろう。
いろいろ書いたが、全てこの作品への愛ゆえとわかってほしい。
東野圭吾『幻夜』『白夜行』(ネタばれ注意)
少し前になるが、東野圭吾『幻夜』を読んだ。
これは、『白夜行』の続編ともいえる作品であり、これを読んで、東野圭吾という作家を見直したきっかけになったのだが(どれくらい感心したかは以下に感想文を添付)、『幻夜』はどうもいただけなかった。『白夜行』では、主人公二人の魂が寄り添っていたのに、『幻夜』では、男が女に一方的に利用されるだけで、せっかくの傑作である前作まで台無しになるような後味の悪い作品だった。
ちなみに、「見直した」というのは、彼の昔の江戸川乱歩賞作品『放課後』についてはそれほど感興を覚えなかったからだ。
私は、江戸川乱歩賞作品を、小説が対象になってから最初の受賞作仁木悦子『猫は知っていた』から、昨年までのものを(今年のは図書館の順番がまだ廻ってこない)全部読んでいる。
最近は質が落ちてきたが、昔の受賞作品はすごかった。
トリックや人間心理の描写が卓越しているだけでなく、『写楽殺人事件』では写楽の正体についての謎解き、『20万光年の孤独』には、考古学等、ミステリーを切り離しても、十分通じる世界が描かれていたし、『伯林1888年』では森鴎外、『猿丸幻視行』では折口信夫という著名文学者が主人公だったりして、重厚な作品世界を作り出していた。『アルキメデスは手を汚さない』の小峰元の作品(古代哲学者の名を冠したもの)も全部読んだけど彼は筆を折ったのだろうか?
一番すきなのは、大谷羊太郎の『殺意の演奏』。
高校の文化祭でミステリー劇の脚本を担当したのだが、この作品のトリックがあまりに気に入っていたので、トリックだけ使わせてもらった。
今はトラベルミステリーで荒稼ぎしている西村京太郎も、乱歩賞作品は『天使の傷痕』という、障害者差別を扱うきわめてまじめな社会派の作品だった。
そういえば、桐野夏生についても、受賞作品『顔に降りかかる雨』はそれほど感心しなかったが、『OUT』で示された才能には驚嘆し、今では全ての作品を読破している。最近では東電OL事件をモデルにした『グロテスク』に心酔した。
2.白夜行
普通、小説を読むということは、書いてある内容を鑑賞することであり、読者は受身であり作家は書く文章だけで勝負しなければならない。そうした常識を覆し、書かれていないことこそ最も重要であり、読者は想像力を総動員してそこで何が起こったかを推量するという、いわば読者の想像力が主役の小説である。革命的な手法ではないだろうか。
「白夜の中を歩くような人生」を生きる男と、彼を「太陽のかわり」として「陽のささない人生をやっと生きてきた」女の、出会いから別れまでの約20年間の魂のふれあいをを綴る作品だが、二人が実際に会っている場面は一度もなく、彼ら二人による完全犯罪の被害者たちの経験のみを語り、その背景にある二人の瀕死の魂の結びつきを読者に想像させる。そのうちに、読者にも次第に主人公の影にもう一人の主人公が寄り添っているのが見えるようになり、胸を締め付けられるような思いがしてくる。彼らを負う刑事が「君は本当に『一人』なのか」と思わずつぶやくように。
また、少なくとも4人の殺害、強姦、窃盗等の凶悪犯罪を描きながら、ミステリーでなく清冽な純愛小説の読後感を与える点も特異だが、それは、幼い頃、二人が大人の酷い仕打ちを受け「魂を奪われ」て以来、「自分たちの魂を守る」ためにしてきたことだと納得できるからである。
さらに、1970年代から90年代の、オイルショック等の事件やヒット曲等の社会風俗が丹念に描写されている点や、電気工学科出身の作者らしくコンピュータ・ソフトの偽造、ネットワークへの不正侵入など、IT技術の進歩に伴う彼らの犯罪の進化も緻密に描いている点も、特筆に価する。鋏、切絵細工、小物入れ、キーホルダーの鈴といった小物使いのテクニックも出色。
自分もこの作品に参加したのだという快い疲労感とともに、聖夜のラストシーン、ジングルベルの音がいつまでも読者の胸に響く。果たして二人の魂は救済されたのであろうか。
3.他の作品
本格的に読み始めたのは『白夜行』以来だから、そんなに読んではいないが、
『秘密』(映画化)『分身』(1993年作品だが最近胚移植による生殖医療が現実化しており、時代を先取りしていたんだなあ)『殺人の門』『ゲームの名は誘拐』(藤木直人で映画化)『手紙』『超殺人事件』(一部が『世にも不思議な物語』西村雅彦でドラマ化)。
どうも最近の作品では、他人を意のままに操る人間の悪意が描かれているような気がする。