書呆子のブログ -95ページ目

少子化を考える有識者会議分科会委員を務めて

私は、1998年9月に総理大臣の私的諮問機関である「少子化への対応を考える有識者会議」の二つの分科会の一つである「働き方分科会」のメンバーに選ばれ、12月に提言をまとめ新聞発表等により公表するまで、微力ながら活動を行った。本稿では、その活動についての感想と、少子化問題に関しての私見について述べることにしたい。
1. 分科会に参加しての感想
メンバーは、八代尚宏上智大教授を座長とする女15名、男10名の計25名で、会社役員から農家の主婦までバラエティに富む中、「男も女も育児時間を!連絡会」世話人や、在宅ワーク研究会主宰等の肩書を持つ人がいたのが特徴的だった。しかし、私にとって最もカルチャーショックだったのは、男性委員が、長年共働きだったり、自身が育児休業経験者だったり、育児ストライキや転勤拒否したことがあったりする、およそ日本の典型的なサラリーマンとはかけ離れた人ばかりだということであり、奥さんがフルタイムで働いている男性が一人もいない私の職場がいかに異常かということをつくづく思い知らされたのである。
そのような顔ぶれだから、12月に最終的に発表された提言の中で、「出生率上昇のために女性が家庭に戻ればいいというのは非現実的」という点が明記され、「男女の固定的な性別役割分業を隅々まで見直し、職場優先の企業風土を是正する」(この「隅々まで」というのは私の意見が採用された部分である)ことが必要という結論が出されたのは、必然であった。
しかし、年金の第三号被保険者制度や配偶者控除制度を撤廃すべきという意見は、複数の委員が主張し、会議の議事録にも何度も記載されたのに、できあがった提言を見たら「第三号被保険者制度などの議論を深め」という、かなりトーンダウンした表現になっていた。これについては、政治的配慮が働いた可能性があり、極めて遺憾である。

2. 少子化問題に関する私見
(1)少子化をめぐる問題点の整理をすると、以下のようになる。
(i)生まれるべき子が生まれないという弊害
A. 少子化の影響(マクロ経済的視点)=年金財政等への影響
B. 少子化の要因=なぜ子育てと仕事が両立できないのか
C. 少子化への対策=仕事と育児を両立できるような支援策
(ii)子供の数が少ないことによる子供そのものへの弊害(受験戦争、育児ノイローゼ等)
(2) ここでは、紙幅の関係で、(i)B.についてのみ私見を述べる。
男女の伝統的役割分担意識を労働効率のために国や企業が利用していることが問題だと考える。特に、専業主婦を優遇するのは、以下の理由で、企業戦士の再生産(妻としての内助)上も、安い労働力(パート労働力)の供給源としても、企業の論理に好都合である為である。
① 長時間労働、頻繁な転勤を前提とする日本の企業社会では、企業戦士である男性社員を企業の意のままに効率よく使うためには、家事・育児を全面的に負担し、転勤にもついてきてくれる、私的な秘書としての専業主婦の妻の存在は、便利この上ない。
② 実際に、残業が多いため、共稼ぎと育児は両立できず、育児を誰かが専業でやらなくては、立ち行かないようになっている。筆者の回りでも、育児と仕事の両立に成功している女性の9割は、夫婦どちらかの母親に全面的に依存している。つまり、祖母に専業主婦役を引き受けてもらっており、祖母の仕事や趣味等私生活は犠牲になっているケースが多い。結局誰かひとり専業主婦がついていないと仕事と育児の両立ができないようになっているという異常な労働環境。
③ 普通に働いて、数百万円の収入を得るくらいなら、専業主婦か、年収100万円以下程度の収入しかない方が、経済的に有利という不平等な制度の数々:
3号被保険者の年金保険料免除、配偶者税額控除、企業の配偶者・扶養手当て、扶養家族がいないと社宅に入れなかったり、家賃補助がもらえない企業も多い。特に、第3号被保険者と、第2号被保険者の女性の数は、1,200万人でほぼ拮抗。前者が保険料を収めないために後者の負担増は年間一人35,000円という試算があり(日経新聞1998.5.14)、この制度は撤廃すべきである。
④ 「パートに出ても、絶対に扶養家族適格がなくならないように収入抑制しよう」という動き→「パートの時給が安くても、どうせ収入調整したいのだから構わない」という主婦が大勢出てくる。
⑤ 企業はそうした主婦を、安い労働力として取り込み、利用しようとする。→収入抑制主婦を派遣社員として一般職の代替に使う大企業が増えている。こうした派遣主婦は、OGや類似職種の経験者が多いから現役の一般職と同じくらい優秀なのに、コストは4分の1くらいですむ。→派遣業法が改正されて派遣労働者の職種の限定がなくなったら、この傾向にはますます拍車がかかるだろう。
⑥ 「女性は安く使えるもの」という企業側の認識の広がり→母子家庭等、パートで生計を立てなければならない女性の時給まで安くなる。→出産後、本気で働こうとしても、時給が安いため、保育園等の経費を差し引くと赤字になってしまう。
⑦ 女性は、男性と伍して働くか、家で育児に専念するか(扶養家族の範囲でパート程度稼ぐ場合あり)という二者択一を迫られる。まともな仕事をしたければ出産は諦めるしかない。
(3) 私自身の選択
男社会度の最も高い業界で総合職として働く私には、子育てはハンディとしか映らない。そして、国や会社の専業主婦優遇策を見るにつけ、被害者意識が募るばかり(男性の同僚の専業主婦の妻はいわば、ライバルの私的秘書。その分まで税金や社会保険料を払うのは構造的に敵に塩を送らされているようなものである。)で、これ以上不利な立場になりたくないと意地になってしまう。夫は子供がほしいほしいというが、私の生殖年齢が安心して子供を産めるような社会の実現に間に合うかどうか、悲観的になっている今日この頃なのである。

私は昨年首相の諮問機関である「少子化を考える有識者会議」の「働き方分科会」のメンバーになっていた関係で、厚生省がポスターを送ってきました。なるべく多くの社員に見てもらいたいと思って、総務の許可を得て社員食堂の掲示板に貼り出しました。
ポスターとしては、なかなかよくできているんじゃないでしょうか。職場の男性に「きれいごとじゃなくてもっと大変なところをポスターにしてもらいたいとか、もっと足元を固めるような政策をやってほしいって声もあります」と言ったら、「かっこいいというイメージを持たせた方が男には利くんじゃないか」と言われました。

厚生省が本気かどうか、私も半信半疑なところは正直言ってあります。それは、少子化の有識者会議に出た経験からも言えることです。編集部の方のお勧めもあり、まず、会議の模様からお話します。(大学の同窓会の会報に寄稿したものの抜粋です)

【分科会に参加しての感想】
「家庭に夢を」分科会の方には、下積み時代専業主夫だった鈴木光司氏もいたが、私は「働き方」分科会のことしかわからないので、ここではそのことだけを記す。
メンバーは、八代尚宏上智大教授を座長とする女15名、男10名の計25名で、会社役員から農家の主婦までバラエティに富む中、「男も女も育児時間を!連絡会」世話人や、在宅ワーク研究会主宰等の肩書を持つ人がいたのが特徴的だった。しかし、私にとって最もカルチャーショックだったのは、男性委員が、長年共働きだったり、自身が育児休業経験者だったり、育児ストライキや転勤拒否したことがあったりする、およそ日本の典型的なサラリーマンとはかけ離れた人ばかりだということであり、奥さんがフルタイムで働いている男性が一人もいない私の職場がいかに異常かということをつくづく思い知らされたのである。
そのような顔ぶれだから、12月に最終的に発表された提言の中で、「出生率上昇のために女性が家庭に戻ればいいというのは非現実的」という点が明記され、「男女の固定的な性別役割分業を隅々まで見直し、職場優先の企業風土を是正する」(この「隅々まで」というのは私の意見が採用された部分である)ことが必要という結論が出されたのは、必然であった。
しかし、年金の第三号被保険者制度や配偶者控除制度を撤廃すべきという意見は、複数の委員が主張し、会議の議事録にも何度も記載されたのに、できあがった提言を見たら「第三号被保険者制度などの議論を深め」という、かなりトーンダウンした表現になっていた。これについては、事務局が厚生省だったことから、政治的配慮が働いた可能性があり、極めて遺憾である。

制度としての専業主婦優遇措置の働く女性への悪影響を挙げます。
1. 経済的な損失
① 3号被保険者の分まで年金保険料を払わなければならない。以前も投稿したように、3号被保険者が保険料を免除されている手ために2号被保険者女性の負担は一人年間35,000円重くなるという試算があります。
② 専業主婦の夫の配偶者(特別)控除のために、税金を余分に払わなければならない。
③ 本来は基本給に上乗せされるべき人件費のファンドが、配偶者手当として専業主婦の妻を持つ男性社員に支払われる。
④ 社宅や保養所等、本人か扶養家族でないと利用できないものが多く、共稼ぎだと利用できない。会社や健康保険組合の経費で賄われているにもかかわらず。
⑤ 扶養家族から外れない範囲でしか働きたくないから時給は低くても構わないというパート主婦の為に、女性全般のパート時給が低く抑えられ、パートで生計を立てなければならない女性はいくつも仕事を掛け持ちしなければならなくなる。私の知り合いは、年間3000時間働いても、年収300万円くらいだそうです。

以下の2と3は、優遇制度そのものの弊害というより、優遇制度があるために、もし妻の分も税金や社会保険料を払わなければならない制度だったら共稼ぎしなければならない家庭まで専業主婦でいられることの弊害です。
2. キャリア形成上の障害
専業主婦の妻を持つ男性社員は、基本的には家事・育児につき一次的な責任を負わなくていい。したがって、長時間残業や頻繁な転勤にも応じることができ、かつ、妻子を養っている以上、応じることを拒めない。そのように家庭責任からフリーの男性と伍して働かなければならない女性は、家庭の方を犠牲にせざるをえなくなる。男は馬車馬のように働きながらも人の子の親になれるが、女はなれない。
3. 子育ての上の障害
専業主婦は、子供を通じてしか自己実現できないから、子供の教育に血道を上げ、代理戦争に駆り立てる。そのために受験戦争がますます悪化し、働く母親が子供をのびのび育てたくても、周りの環境がそれを許さなくなる。



情は人のためならず ―ミャンマー・ミラクル


夫の転勤で香港に住んでいた2002年の正月休みに、夫婦でミャンマーに10日間ほど旅行した。
予め香港の旅行社を通じて日程等を作成し、専属の英語ガイド・ウィンさん(本職は経営コンサルタント)と若い運転手のオジ(軍事クーデターのために、名門ヤンゴン大学の中退を余儀なくされたという)が付いてくれた。40代独身男性のウィンさんは、歌うような英語で歴史や神話の詳細まで語ってくれ、いつもロンジ-(巻スカート状の衣服)をはき、靴を脱いで寺院を参拝する時、両踵を180度の角度にしてぺたぺた歩くのが微笑ましい人だった。
ミャンマーは敬虔な小乗仏教の国で、人々は宗教の中に生きている。1年の稼ぎを全て金箔に換えてそれをパゴダに貼りつけることだけを生きがいにしているような人もいる。首都ヤンゴンのシュエダゴォンパゴダの壮麗さも息を呑むほどだが、のどかな農村の田んぼの緑の中に忽然と金色に輝くパゴダが現れ、その周りで牛がのんびりと草を食んでいる景色こそこよなく美しい。パガンという、世界遺産にもなっている遺跡の町では、今でも続々と寄進者により新しいパゴダが建っている。聞けば日本円にして40万円くらいで新しいパゴダが寄進できるそうだ。エルメスのバッグ一つ分もしない値段で自分の名で立派なパゴダが建てられる、自分たちの金銭感覚の方がまちがっているのではないか、と考え始めたあたりから私達は不思議なミャンマー・ミラクル・ワールドに徐々に入っていったのだ。

←ここで夫から突っ込みが入りそうなので予め書いておく。
この時はこんなに殊勝なことを考えたのに、今年(2004年)冬のNY出張でエルメスの店頭にあった40cmバーキンを買ってしまい、夫から借金している小うさぎ状態なのである。ちゃんと借用書を書かされたし。

輪廻転生も当然のように信じられており、オジは自分の前世を全て覚えているそうだ。3歳の頃、家具の行商人だった両親に連れられてある村に行った時、自分が前世でその村に住んでいたことを突然思い出したとのこと。前世では早世したために息子や孫がまだ生きており、前世であったことを彼らの前で事細かに正確に話して驚かれたそうだ。今でも、井戸を掘る手伝いをしたりして、前世の息子や孫を助けているそうだ。
良いことをすれば次の生れ変わりの時、良い身分に生れ変わることができるという信仰があるので、皆一様に優しく、他の東南アジアの国のように、外国からの旅行者にふっかけたりしない。寺院の参道では、参拝者が善行を積む手助けにと、鳥屋が店を広げている。参拝者は買った鳥をすぐ空に放って善行を施すのである。
そんなミャンマーの人達に感化され、「何かいいことをしたい」という気持ちになっていた私は、観光名所・ウンタマン湖に200年前から架かっている全長1.2kmの木橋を渡っている時、一人の老人に声をかけられた。ウィンさんの通訳によると、日本のボランティア団体から寄付された古着をもらったら、ポケットに日本円が入っていたのでミャンマーの通貨に両替してほしいとのこと。軍事政権下で外貨の両替は厳しくコントロールされているのだ。夫は止めたが、私は「善行のチャンス」とばかり、良いレートで両替してあげた。

首都ヤンゴンの高級ホテルでも時々停電が起き、都市部の住居でも電気や水道の行き渡っていない貧しい暮らしでも、人々は敬虔な祈りの中で、来世に望みをかけて真摯に生きている。人間が生きていく上で本当に大切なことは何かを気づかせてくれた貴重なミャンマーへの旅はほどなく終わったが、ミャンマー・ミラクルが私の身に本当に起こったのはその2ヶ月後のことだった。

その年の3月に私は東京に所用があり香港から1週間里帰りした。たまっていたJALのマイレージを使ったのだが、途中国内で一箇所立ち寄っても同じマイレージでOKというので、大好きな沖縄に立ち寄った。土曜日の夜、那覇国際空港に降り立った私は、青くなった。予め香港の銀行で両替しておいた日本円の封筒と、香港からしょっちゅう中国に行くために両替しておいた人民元の封筒を、出発時に慌てて間違って持ってきたことに気づいたのだ。空港は閑散としており、銀行や郵便局も閉まっていて、クレジットカードでキャッシングしようにもATMも終了している。売店でも米ドルならともかく香港ドルは両替できないという。香港ドルと人民元はあっても日本円が一銭もない状況でどうやって那覇市内に行こうかと困っていた私は、その時、財布の底に、香港ドル硬貨に混じって500円玉があることに気づいた。だらしない私はミャンマーであの老人から両替したものをそのまま入れっぱなしにしておいたのだ。そして、その500円を使って市バスに乗り(モノレールは当時まだできていなかった)、なんとか那覇市内の予約したホテルにたどり着くことができたのである。ミャンマーの古い木橋の上で出会った老人から両替した500円に2ヶ月後沖縄で助けられた私。
情は人のためならず、というミャンマー・ミラクルを実感し、毎日のささやかな生活を大切にすることが、来世の幸せに通じるのだと素朴に信じることができるようになった私なのである。

2002/3/29~4/1洛陽・開封・鄭州の旅


一、3月29日(金)
九龍の中港城から朝9時45分発のフェリーに乗って深土川の蛇口へ、約1時間で到着。
そこで他の参加者(総勢10名)や現地ガイド(中国旅行社の鐘雲氏)と会って、バスで約1時間ほどの深土川空港へ。新空港は旧空港の隣に1995年に作られたもので、硝子張りの天井はロンドンのガトウィック空港を思わせる。香港・広州の空港と近いので、中国政府は国際線をあまり就航させず、国内線に特化する政策とのこと。
空港で昼食を食べたら、ワンタンメンが25元 もするのに、ぬるくてまずく、びっくりした。 
13時50分の搭乗機までのバスは、飛行機の目の前で20分ほど停車してしまい、ドアも開かない。中国人がどんどんと足を踏み鳴らす等の抗議をしてやっとドアが開いたが、先が思いやられる出来事であった。
機内(深土川航空)は思ったよりずっと清潔で、機内食の食器等も7年前(別の会社だが)に比べるとずいぶんましになった。機内エンターテインメントもついていて、画面で山
口百恵の「絶唱」という古い映画のハイライト場面をやっていたのにもびっくり。
予定より30分以上遅れて、鄭州の空港に着いたのは、16時30分。待っていたガイドは、陳利明という若い女性。
今日の予定の観光は明日にして、1時間ほどかかって開封のホテルに直行。高速道路から見た途中の光景は、一面の小麦畑の中に、菜の花(油用)と、ピンクの桃の花、白いりんごの花があり、夢のように美しい景色だった。街に入ると、店の看板にはやたら「補胎」という字が目についた。後で聞いたら、「胎」は「タイヤ」の音訳で、タイヤ修理の店ということらしい。また、たくさんある「摩托」という言葉は「モーターバイク」の音訳とのこと。
さらに市街に入ると、「矛盾洗衣粉」とか、「矛盾」という言葉の入った会社名等が目につく。「もしかしたら、矛盾という言葉の語源になったエピソードはここの市場で生まれたのかな」と思いあとでガイドに確認したらそうだった。また、映画「千と千尋の神隠し」に出てきたような古い街並みがいくつかあった。
バスの中の説明:河南省は日本の2分の1の面積で一億人の人口を養っており、四川省から成都が中央政府の直轄地として独立したために、最も人口の多い省。主な産業は農業。
ホテルは吉祥酒店という三ツ星ホテル。到着してすぐ、ホテルで夕食をとった 。ラフテーのような豚肉の煮込みや、いろいろな野菜料理、柔らかい豆腐料理等、10種類以上の料理が出て、味も良かった。岩佐さんの提案で全員で自己紹介。その後、近くの「鼓楼夜市」を見に行った 。道路の両側にいろんな露天が並んでいる。麺を打つ実演や、もち米で作ったケーキのようなお菓子(八宝飯。一皿4元)、交易の地(開封は、交易の中心だったため、回族も多く、清真料理の屋台にウイグル人のような風貌の人もいた。京劇の劇場に「服務員月薪400元」という広告が出ていた。
ホテルに帰ってから、7階のサウナに行った。サウナは壊れており、かわりに大きな桶みたいな風呂釜にお湯を張ったものに入った。フェイシャルマッサージ・パックと体のマッサージ(天井のレールにぶら下がって体の上を滑ったり、踏んだり、体操みたいな格好をしたりというタイ式マッサージのようなダイナミックなもの。仕上げに自分のポニーテールの髪の先で撫でてくれるというユニークなサービスも)を1時間半やってもらって128元 。日本人の客は初めてだという女の子にとても一生懸命やってくれたのでチップを渡そうとしたが断られ、そんな中国人は初めてなので感心した。

二、3月30日(土)
1.鉄塔
朝、8時半にホテルを出発し、鉄塔へ。
開封は、魏、梁、晋、後漢、周、北宋、金の七つの王朝の都があったところ。特に、北宋時代は張択端の「清明上河図」にあるように、運河が掘られ、黄河と揚子江の交叉する場所でもあったことから交易の街として栄えていたが、現在では度重なる黄河の氾濫(特に14世紀の明代のもの)で運河や北宋時代のものはほとんど全て(鉄塔は丘の上に建っていたため残ったが、それでも基底の部分は埋もれたまま)地中に埋もれているとのこと。発掘したくても、地下水があるため困難ということであった。色が遠目には鉄のように見えるので「鉄塔」と呼ばれているが、実際は、緑色を基調としたたくさんの瑠璃瓦で作られている。瓦の一つ一つは仏像等の形の彫り物(浮き彫りではなく凹)があるが、同じパターンがいつもあるので型で焼いたものらしい。八角形13層あり、高さ55.88m。一層に一つ風を通す穴があいている。「開封寺」という寺の一角をなす仏舎利塔だったが、現在も原型をとどめているのはこれだけ。現在北西に傾いているのは、季節風の影響。元々は、120mの木造の塔で、季節風を計算し、初めから南東に傾けて作っていたが、落雷で崩壊したとのこと。
この説明から、中国では、風向きを、日本と反対に、風の行く先で「南風」等ということが判明して面白かった。
敷地内の売店に「清明上河図」のコピー (本物は今台北の故宮にある)や中国画の刺繍等が売っていた。
2.大相国寺
次に、大相国寺へ。日本の相国寺と区別するために「大」がつけられたというこの寺は、555年創建。広い境内には、まず初めの建物に布袋様の像があり、その裏には韋駄天。横には、それぞれ剣、傘等の持ち物を持った四天王が二人ずつ控えている。2番目の建物は大仏殿で、釈迦を挟んで右に文殊、左に普賢の各菩薩像があり、全て金箔が施されている。3番目の建物には、千手千眼観音像がある。昔、3人の娘のある太守が不治の病にかかり、生きた人間の手と眼を食べれば治るといわれたが、長女は子供がいるから、次女は結婚したばかりだからと断り、三女は喜んで父のために死んだ、それを神様が憐れんで千の手と眼を送ったとのこと。リア王のような伝説は万国共通らしい。銀杏の木の一本彫りに金箔を貼ったという4面の像は、全てお釈迦様を掲げており、たくさんの手の中に眼がある。実際の手の数は1056とのこと。一番奥の建物の左横にはここで修行したという空海の像があるが、中国語の説明の中に、「長岡国立大学で勉強した」というような件があり、長岡京のことかな?側には、「松山なんとか講」(お遍路さんの組織と思われる)による寄付を記念するプレートがあった。讃岐出身の空海だから四国に縁があるのか。深土川のネイルサロンの楊小姐に姓別の占(10元)をお土産に買った。
3.宋代一条街
次は、前の日にバスから見えた宋代一条街を見学。宋時代の建物を清時代に再現したものということ。建物は日光東照宮にそっくりな色使いと釘代わりに使われている独特のコネクティングポイント(管なんとか方式というらしい)があった。門の前には、2頭の象。鄭州を表わす漢字は「豫」、昔この辺に象がいたということ。野性の象を人間の知恵でコントロールすることから、豫定の「豫」の語源となり、転じて文明の曙にもなったという、黄河文明の発祥の地らしい由来に感動。門の両脇にある古い建物の向かって左側は銭湯、右側は中国銀行の支店として使用されているほか、他の建物も立派に現役の店として活躍している。他の似たような古い街並みは書店街だった。
さらに、河陜山会館(河南省、陜西省、山西省の同郷会、昔交易の中心だったため複数の地方出身者が集った)という、関羽が祭ってある場所に行った。やっぱり日光東照宮みたいな建物。門を入って中庭の先にある本堂の入口の上には「威震夏華」という文字が。夏は開封にあったとされる中国最初の王朝だから、関羽の威光が中国のすみずみまで行き渡るという意味とのこと。他にも、関羽が重症を負い手当を受けながらも碁に興じるという豪傑振りを示す絵とか、奥には、繁塔等、開封のたくさんの名所が写真(白黒だが)で紹介され、中庭を囲む建物の向かって左のものには、「清明上河図」そっくりに作った立体ミニチュア模型もあった。
昼食は、鄭州に行き、ガイドさんの会社と同じビルにあるレストランで。
4.洛陽
その後、洛陽ガイド李さん(男性)と合流して、洛陽へ。
洛陽は、人口130万人の都市で、洛河の北側という意味。川の土手に日の当たる北側が陽、南側が陰だから。
ちなみに、簡体字って面白いと改めて思ったのは、陽の簡体字がこざとへんに「日」、陰の簡体字がこざとへんに「月」と書くことで、元の字ではなく、陰陽五行説を忠実に反映している中国らしい略し方だと妙に感心してしまった。
夏、殷、東周、後漢、西晋、魏、北魏、隋(煬帝)、唐(則天武后)の九つの都があったことから、「九朝の都」ともいう。ちなみに、中国では私たちが歴史で習ったように「前漢・後漢」といっても通じない。なぜなら、長安に都があった時代を西漢、東の洛陽に都のあった時代を東漢といっているから。なぜ、日本の歴史教育はこれに合わせないのだろう。
5.白馬寺
白馬寺の前はきれいに整備された公園になっている。
ここは、後漢時代68年にできた中国最古の仏教寺院で仏教発祥の地とされている。インドへ派遣した僧が白馬にまたがって帰ってきたことが由来といい、門前には一対の馬の石像がある。北魏時代、洛陽には3000以上の寺があったが、現存しているのはこれだけ、といっても、戦乱や火事で焼け、現存の建物の中で最古のものも元代のもの。
大雄殿には十八羅漢があり、乾漆法という中が空洞のつくりになっている。上の欄間には、ヒンズー寺院にあるガルーダにそっくりな「大凰」という鳥の浮き彫り。竜を食べて困るので、如来をよんで供物を差し出させたら、以降食べなくなったという由来のある絵だった。奥には、元代に再建したという後漢公邸の避暑地があり、左に竺法蘭、右に摂摩騰という二人のインド高僧の墓があり、中の四角い水溜りはお金を投げて浮くと運がいいといわれている。そこの売店で、仏教の発祥地にあやかろうとブレスレット型の数珠を20元で買った。
この避暑地の入り口の手前の向かって左側には空海の立像があり、大相国寺で見た、松山なんとか講が日中国交正常化20周年で(1992年)立てたらしい。
6.漢魏古城
運転手さえ知らなかった、畑の中にある、昔の城壁の後。でも、言われないとわからないただの、土塁が少し残っているところ。でも、20世紀世界10大考古学発見の一つとのこと。のちに河南省博物館でここで発掘されたものを見ることになる。
7.水席料理
その夜は、真不同飯店という、100年以上の伝統のある有名料理店で、洛陽名物水席料理を食べた。則天武后の好物という宮廷料理で、スープをはじめ、水っぽい煮込み料理等が次々に出てくる。10種類の菜と3種類の主食、そしてデザートは以下のとおり。
① 牡丹燕菜(大根の細切りの煮たもの)
② 洛陽熱貨(豚肉のもつ煮込み)
③ 洛陽肉片(豚肉の味噌煮込み)
④ 料子風+中国語のふかひれを表す漢字
⑤ 鶏蛋餅(トルティーヤみたいなもの)
⑥ 酸湯焦炸丸(揚げた紅芋入りすっぱいスープ)
⑦ 西辣魚片
⑧ 女乃湯火屯吊子(豚の腸)
⑨ 火会四件(豚の肝臓)
⑩ 三色火会蟹
⑪ 油炒八宝飯(鼓楼夜市で売っていたもち米で作った一見ケーキのような甘いお菓子)
⑫ 蜜汁人参果
⑬ 五香芝麻餅
⑭ 白飯
⑮ 米酒満江紅
⑯ 洛陽酥肉
⑰ 条子捉肉
⑱ 洛陽海参(紅芋の粉を固めてナマコに見立てたもの。海がないのでナマコはぜいたく品)
⑲ 円満如意湯(ウイグル料理に似た卵スープ)
⑳ 果物(いちご、みかん、りんご)
スープが後のほうででてくるのは、ウイグル料理に似ている。やはり、交易の中心だったところにはウイグル文化が残っていて、ウイグル料理店も多い。

その日の夜は、洛陽大酒店に宿泊。

三、3月31日
1. 龍門石窟
待ちに待った龍門石窟へ。
伊河をはさんで、西山が龍門山、東山が香山。
後漢時代までは伊闕といったが、皇帝の住むところは「竜宮」と呼ばれたところから、後漢時代に「龍門」と呼ばれるようになった。
今回見たのは西山だけだが、東山にも石窟はある。また、頂上に白楽天の墓がある。
北魏時代の494年、都が大同から洛陽に遷されたときから始まり、北魏時代に3分の1、あとの3分の2は、それ以降の時代、唐代にわたって作られ、2、345の石窟、2,800以上の石碑、十万体の石仏がある。
(1) 万仏洞
唐代、860年から20年かかって作られた。阿弥陀仏の上にある54の蓮。天井の蓮の中に「永隆」の文字が見える。
(2) 蓮花洞
525年から527年に作られた。中央の釈迦像には顔がない。天井には蓮の花があり、最小の2cm大の仏像がある。
(3) 奉先洞
一番有名な洞、というより、階段を上っていった先にある巨大な盧舎那仏は、則天武后に似せて作られたとのこと。像の高さ17.14m。耳だけで1.9m。則天武后が化粧料を寄付して875年から55年がかりで作らせたとのこと。奈良東大寺の大仏に似ているので、これを見た遣唐使が伝えたのではないかといわれている。腕は唐代の地震で破損。両側には、大相国寺等でおなじみの配列:カショー、アナンの弟子と文殊・普賢菩薩、そして四天王がまわりにいるが、自然崩壊している。
(4) 古陽洞
「龍門二十品」という書の名品のうち、十九品がここにあるので書家がよく訪れる。
仏像の顔が長いので鮮卑人をモデルにしたといわれている。
(5) 薬方洞
門のところに、漢方薬140種類の作り方が彫ってあるのでこういう。
(6) 賓陽三洞
中洞、北洞、南洞の三つの洞がある。中洞は宣武帝が80万人を動員して作らせた北魏時代のもの。南洞は唐代のものなので北魏に比べてふくよか。
(7) 潜渓寺洞
入り口のすぐ脇にある阿弥陀仏のある洞。

敦煌や新疆ウイグル自治区にある石窟と比べると、簡素。
第一に、彩色がない(あるいはほとんどはげている)
第二に、敦煌や新疆では、中央の仏の裏にもうひとつ空間があって、涅槃物があったりしたが、龍門のは単純な一室構造ばかりだった。
今度是非、この違いがどこからくるか調べてみたい。
2. 関林堂
1593年建立、660アールの敷地。219年孫権に殺された関羽の首塚があるところ。
中国にはほかにも二箇所関羽の墓があるが、首があるここが最重要といわれている。
「林」というのは、聖人、偉人の墓のことだが、「林」という言葉が使えるのは、孔子と関羽だけ。
入り口の前に印鑑を彫る人がいたので、100元で作ってもらった。
門の左に、関羽が曹操に捕らわれて、家来になることを勧められたときに、竹の葉に模した詩で劉備に変わらぬ忠心を伝えた墨絵がある。「哀謝東君意 丹青独立石莫嫌孤曹談終久不彫霊」。門の上の「成容六合」は西太后の書といわれている。六合とは、天地東西南北のこと。
一堂の次、二堂では、孫権のいる南京の方角をにらみつけている関平がおり、三堂は寝殿。
裏の売店で、梅の花のような白い模様が自然に出ている火山石でできた文鎮と、関羽の記念切手を買った。
3. 少林寺
少林寺は494年にインド僧のために建てられた
少林寺のある中岳、太室岳(1492m)、少室岳(1512m)を合わせて中岳嵩山といい、中国五岳のひとつ。太室は正妻、少室は愛人という意味があり、愛人の方が愛されることから、高さが逆転しているという説があるそう。
(1)塔林
塔林は、僧の墓が林立する場所。最高15mの墓が224基あり、七層という点は同じだが、時代によって形が違う。四角:隋唐宋、丸:元、六角:明清。唐代最古の塔は、楊貴妃の体型を模してずんぐりしているといわれている。
僧の死後、弟子が寄付金を募って建立するので、①地位、②弟子の数、③功徳がそろわないと立派な墓ができない。独立した墓を建てられなかった僧については、「普通塔」にまとめていれるので、普通塔は追加できるよう入り口が開いている。ただし、普通塔のレベルも功徳によってちがう。小僧さんようの「普通童行」もある。
先代29代少林寺方丈の墓は1990年(死亡は1987年)に建てられた立派なもの。
(2)少林寺本堂
門の「少林寺」の文字は、康煕帝の揮毫といわれる。
三大火災(唐、宋、1928年の国共内戦)で消失したが、1980年代に再建した。映画「少林寺」は、李世民(太宗)を少林寺の僧が助けた話。それに謝意を示すために太宗が彫らせた石碑に「世民」のサインが残っている。
僧80名と在家弟子1000名が暮らしている。尼僧用の住居は別のところにある。
樹齢1400年という銀杏の雄木は結婚しない僧になぞらえたもの。そこにあいているたくさんの穴は拳法の練習でできたものだという。
庭にある明代の粥を炊いた鍋は深く、人の背より高いが、料理僧は拳法の技で天井からぶらさがって混ぜたらしい。
また、日本の寺にもたくさんある、亀の甲羅に石碑が乗っているもの、少林寺にもたくさんあったが、あれは亀でなく、「贔屓」という、竜の九番目の子供だということがわかった。この子だけ姿かたちが違うので、同情されかわいがられたところから「贔屓」という言葉ができたのだろうか。
(3)立雪亭(達磨亭)
527年にできた。小乗仏教の盛んな中国で大乗仏教を布教しようとして、受け入れられなかった達磨大師は、9年間近くの山にこもった。恵可が弟子入りしようとしたが拒まれたため、誠意を示すために、雪の中に立ち続けた上、自分の腕を切り落としたという逸話からこの亭ができた。
(4)少林寺拳法見学
近くにあるたくさんの拳法学校のひとつで、生徒がパフォーマンスを見せてくれた。中にはたった6歳の子供もいて、拳法そのものはもちろん、その前に時間をかけて呼吸法で気を整えているところはとても興味深かった。外でも生徒がずっと訓練をしていた。
なぜか、この辺には一人っ子政策のスローガンの看板がたくさんあって、「少生優生」とか、「丈夫有責」とかでかでかと書いてあった。
この日は鄭州の索菲持国際飯店に宿泊。夜は一時間100元のマッサージに。

四、4月1日
1. 黄河遊覧船
船で黄河を遊覧。海のように広大な河。そして、泥が多い。途中で船を降りた場所は、河の中洲のようなところだが、ジャンプするとその部分が凹むのにすぐ戻るという面白い現象がみられる。
2. 河南省博物館
非常によく整理されて英語の説明もついている良い博物館で、黄河文明の発祥地河南省の面目躍如。とくに、墓の副葬品「明器」のすばらしさにはうなった。家や台所の精巧なミニチュアとかが、昔のお人形さんごっこみたいに作られて、副葬品として埋められていたのだった。

夕方、飛行機で深土川へ、そして船で香港へ。

五、ガイドさん
今回の旅行が楽しかったのは、ガイドさんが優秀でいい人だったことに負うところが大きい。
陳利明という洛陽出身、1978年10月19日生まれの女性のガイドさんで、去年の夏に大連外国語学院日本語学科を卒業したばかりで、鄭州の旅行会社に勤めている。男性のような名前なのは(中国でもそう)、姉3人の後に生まれたため、誕生後1ヶ月で一人っ子政策が施行されたそう。河南省からはその年ただ一人日本語学科に進学し、卒業時も200人中4番だったという秀才。卒論のテーマが「はとがの使い分け」というのにはびっくり。将来は学者になるのが夢だそうで、博物館の説明も、研修会にあらかじめ参加するなど、とても熱心で誠意ある対応には感心した。
昨夏のシルクロード旅行で中国人に偏見をもってしまったが、考え直した。
こういう人との出会いこそ、旅の醍醐味と思わせるガイドさんだった。
また、同行者がみな、知的好奇心のある方ばかりだったので、いろいろ教えてもらったりして楽しい時間をすごすことができた。