2002年オランダ・ベルギー・フランス美術館めぐりその3
三、フランス篇
1.パリ
6月6日の夜遅く、ブリュッセルから列車でパリに到着し、ひかりさんのお勧めでJCBを通じ予約しておいた、Louvre Saint Anneというホテルへ。ひかりさんがいっていた「ひぐま」のまん前です。ホテルのあるSaint Anne通りは、東京三菱銀行があるせいか、日本食屋さんがずっと続く日本村みたいな場所になっていました。ホカ弁屋さんもあって、8日の夜買いに行ったら、ロシア戦勝利の読売新聞の号外を配っていました。
2.モンサンミッシェル
次の日は、パリビジョンのツアーでモンサンミッシェルに行きました。
ノルマンディー地方の、林のような生垣、Bocageの続く場所をバスでずーっと走っていき、やがてモンサンミッシェルが見えてくる。
私のイメージでは、引き潮の時のみ渡れるところというイメージだったが、舗装された堤防のようなものがあり、車ですぐ下まで行ける。ただ、堤防の脇にはたくさんの羊が放牧されており、塩水を含む草を食べるので独特の美味しさで、名物料理になっているとのこと。また、ノルマンディー地方では大西洋からの海風が湿気を運ぶためぶどうが育たず、かわりにりんごを植えていて、シードルが名産。さらに蒸留したものがカルバドス。
8世紀、司教オベールの夢に大天使ミカエルが3度現れ、この地に聖堂を建てろというお告げをしたところ。信じないオベールに、ならば証拠を見せようとミカエルが司教の額に指を当ててそこに穴ができたという逸話が城砦内の壁に彫刻として描かれている。それからも、ミカエルはさまざまな奇跡を起こした。
巡礼者が海を渡っている時に大波が来て、逃げ遅れた妊婦がミカエルの加護で海中で出産し授乳までしているというかなり古い絵をブリュッセルの王立美術館で見たのを思い出した。
城砦に入ってすぐ、オムレツで有名なレストランがある。マダム・プーラーが始めた店で、卵を入念にかき混ぜるのでスフレのようになるのが特徴。大きなボールでかき混ぜているところも、観光客に見せてくれる。周恩来が欧州を放浪していた頃、お金がなくてここで無銭飲食したが、首相になってからここを再訪してお金を払ったというエピソードが彼の写真とともに残っている。
外壁をとおって階段を上り、西のテラスへ。ここからは、はるか英国まで見渡すことができ、ガイドがノルマンディー上陸作戦について話してくれた。大きな鉄板を海に沈め、その上に廃船になった軍艦を沈めてそこから上陸したと。
そばにあるトンブレンヌという小さい島は、ここからモンサンミッシェルの城砦を造る花崗岩を運んだ場所。ルイ14世の寵臣フーケが豪勢な城を建てたため、王の怒りに触れて壊されてしまったというが、パリ近郊にある贅沢な城はそのままなので、やはりパリビジョンからツアーが出ている。
修道院附属教会は、階段から見ると、教会には見えない(逆から見ると壮麗)のは、百年戦争等で要塞として使われていたので、敵になめられないようにするためとのこと。
屋根の天辺には1897年エマニュエル・フレミエの作った32mのミカエルの像があり、1989年革命200周年のとき、修復されてヘリコプターで再びつけられたとのこと。
一部がロマネスクで3段構造になっており、主祭壇はゴシックになっているが、ロマネスクでは壁と柱を強化しなければならない結果、窓を大きくできないということから、柱をそのまま天井に繋げるゴシック建築が生み出され、それによって美しい大きなステンドグラスを作ることができた、というロマネスクからゴシックへの変化を目の当たりにできる場所。また、ノルマン人らしく、天井は、バイキング船のように樫の木でできておりしかも湾曲している。本当に、10年前の旅行で北欧の博物館で見たバイキング船にそっくりでした。また、修復するたびに当時の最新流行を取り入れるため違って様式が部分的に出現することや、職人が誇りを持って仕事をし、石畳の各パーツにそれぞれアルファベットが彫ってあるのはどの職人の仕事かわかるようにするためとのこと。
大理石でできた柱をめぐらせた中庭は、僧たちの瞑想の場所だったとのこと。柱の上には美しい花等のレリーフがあるが、一箇所だけ4人の人間の顔になっている。12使徒の内、福音書を残した4人の顔とのこと。
次に僧たちの食堂は、壁一面に窓があるが、短い間隔で桟がでているため、入口からは見えないという凝ったつくりになっている。
その真下が王や貴族の食堂。僧たちの食堂の下に貴族の食堂があるというのが宗教的建築物らしい。
隣のサント・マドレーヌという小さな部屋には、ステンドグラスに巡礼者の印、貝殻と香油壷の絵が。当時、エルサレム、ローマ、サンチャゴ・デ・コンポステーラに次いで巡礼者がたくさん訪れた場所であったせい。貝殻は巡礼者の象徴、マドレーヌはマグダラのマリア(香油壷は彼女の象徴)を語源としていると思うのだが、貝殻型のマドレーヌが定番なのは何か意味があるのだろうか?また、プルーストの『失われた時を求めて』で紅茶にマドレーヌを浸す思い出が出てくるのは何かの符丁なのか?
その後、下から物資を運んだ巨大水車のレプリカがある部屋、死んだ僧の骨壷を納めてた部屋(火葬でなく、薬品で肉を溶かしたらしい)を訪れた。
ガイドは、日帝時代の1934年に韓国で生まれたため日本語のできるガイドのキムさんという女性。説明が詳しく、とても面白かった。
3.ロワール城めぐり
6月8日は再びパリビジョンでロワール城めぐりです。
10年前にブロワ城だけは行ったのですが。
(1)シャンボール城
世界遺産にもなっており、二重らせん階段(昇りと下りが別々)がダヴィンチの発案といわれているところ。
格子天井にはフランソワ1世の紋章である火吹きトカゲが彫刻されていたり、外壁に、菱形やマル形のスレートが貼りつけられているのが特異だった。
2階の広間にあるユリシーズのタペストリーの続きは、シュベルニー城にある。
フランソワ1世は、天才でありながら流浪の人生を余儀なくされたダヴィンチをここに呼び寄せて創作を援助し、その最期をも看取ったとされている王です。
だから、ダヴィンチが肌身離さずもっていたモナリザがルーブルにあるのです。
(2)シュベルニー城
ここは王族でなく、アンリ4世の大法官の息子・アンリ・ユローの持ち物でした。
そのせいか、ティチアーノの「コシモデメディチ」等の名画や調度品がかなりよい保存状態で残っています。
とくに、離れの館は、フランス革命中ミロのヴィーナス等の避難場所になっていて、今でもオークションが開かれるそうです。廊下の壁にアメリカ独立戦争への助力を請うワシントンの直筆の手紙が飾られていたり、食堂の数十枚のパネルがドンキホーテの物語になっていたりするのも見事でした。
(3)シュノンソー城
アンリ2世が20歳も年上だったとされるディアンヌドポワチエと住んだ城です。そのため、デイアンヌを狩の女神ダイアナになぞらえた絵があります(似たような絵や彫刻がルーブルにもあります)。
アンリ2世が御前試合で選手の槍がささって事故死した後、正妻のカトリーヌ・ド・メディシスがこの城を取り上げて、建て増ししたのが、よく写真に出てくる河をわたり向こう岸まで続く美しい部分です。
アンリのHとカトリーヌのCをふたつシャネルのマークのように組合せた紋章が使われていますが、それはディアンヌのDにも見えるとことが皮肉です。ルーベンスやムリーリョの絵もあります。
この城を1733年に購入した徴税請負人デュパンが息子エミールの家庭教師に雇ったのがジャンジャックルソー(教育に関する有名著作はここからきている)で、そのために革命のときも城は無傷ですんだとか。
ここで、フォンテーヌブロー派のことも勉強できて、ルーブルの予習になったのはいいが、日本人の男性ガイドの説明はいまいちいいかげんで、カトリーヌドメディシスとマリ−ドメディシスを混同しているのが、プロとは思えず前の日の人と比較しても残念でならなかった。いい年して、こんな仕事ぶりで日本人として恥ずかしくないのだろうかと思った。
4.ルーブル
6月9日、10日、12日、三日間ルーブルに通って、アジアオセアニア以外は全部見た。
10年前は団体旅行なので、主要な作品しか見られなかったので。文字通り、足は棒になり、最後には目も霞んできたが、作品は全部見たし、オーデイオガイドマークのあるものは全て説明も聞いた。部屋によっては各国語(日本語もあり)の説明ボードがあるところもあり、それもほとんど読んだ。
もちろん、素晴らしかったのはいうまでもない。
三島由紀夫が一番好きだというワトーの「シテール島への船出」、ミケランジェロの「瀕死の奴隷」もじっくり見たし。彼は遺作で主人公にマンテーニャが一番好きと語らせているので、マンテーニャのサンセバスチャンやキリストの磔刑も堪能した。エジプトの特別展をやっていたので、それも見た。
5.シテ王宮
9日の夜、夫は先に香港に帰りました。
11日は火曜日でルーブルが休みでした。
まず、ひかりさんのアドバイスにしたがってJCBプラザへ。
そこで、レストランの予約ができるのを知って、Guy Savoyという凱旋門の近くの三ツ星レストランへランチに行きました。味もサービスも大満足でした。バターが甘いのとソルティなのと両方出てくるのも初めてでしたし、生牡蠣に合うのはこれ、鴨に合うのはこれ、とその度に違うパンを配ってくれるのも初めてでした。また、担当ギャルソンの人が、「いちご」とか「ごゆっくり」とか日本語が少しできるのにもびっくり。一人きりの食事でもなんの手持ち無沙汰さもなく、3時間もかかって食事しました。それで、あづさ姐さんのおすすめのロダン美術館(月曜休み)に行く時間はなくなってしまいました。三ツ星レストランなんて日本人を馬鹿にしていると思ったのに。でも、逆に、「日本人観光客なんかあてにしなくても三ツ星ならやっていけるはずなのに、こんなに親切なのはかえってあやしい」なんて思ってしまった自分が悲しひ。
ギャラリーラファイエットでは、香港で買いそびれていた期間限定販売のランコムのアイラインを安く買いました。
その後、シテ王宮にいく途中、地下鉄を降りたところで、ある白人が私の顔を見て「カワグチ」というので、GKの川口かな、と思って思わず振り向いたら、彼が引き返して来て、話しかけてきました。川口というのは川口市のことで、アメリカ人の彼は今はパリ赴任ですが、以前東京赴任で、川口にあった工場にも行っていたそう。名前を聞いたり、今晩食事でもどう、とか聞いていきます。(どうやらナンパのようです)
どうやって断ったらいいかなと思っていたら、ちょうど「東京のどこ」「今香港に住んでる
の」「どうして香港に?」「夫が領事館に転勤になったから」といったら、「約束があるか
ら」とちょうどシテ王宮の前で離れてくれました。
シテ王宮のコンシェルジュリーでは、ベルサイユのばらに夢中になった小学生時代を思い出して、マリーアントワネットの独房とかを見学しました。
その後隣接したサントシャペルに入ろうとしたら、もう終わったと。
3日間有効の共通チケットを買っていたのですが、その2002年版のパンフレットでは、18時半までのはずなんですが、18時の間違いだそうです。こんな情報が間違っているなんて呆れてものも言えませんよ。
それから、cottoncandyさんもいっていたHerve Chapelierのブティックで鞄を三つかいました。
このブランド、全然知らなかったのですが、街で何度も見かけて「かわいい!」と思って、ギャラリーラファイエットの人に絵を描いてみせてブランド名を聞いたのです。
それにしても、パリのブティックって早く閉まってしまうので、買物するのが大変。
ルイヴィトンだけ20時までなのでどうして、とJCBの人にきいたら、行列を18時半に締めきってもその客をさばき終わるのはそれくらいになってしまうとのこと。
日本人観光客ってどうしてパリ本店にこだわるのでしょう。香港の店はがらがらなのに.値段はそうかわらないはずです。何より悔しいのは、お金を落としてやって、不景気のフランス経済に貢献すればするほど馬鹿にされるという構図です。どうせお金を使うのなら、感謝されるところで買物はしたいですよね。
街に出たのはこの日だけ(あとは郊外観光や美術館のみ)ですが、会う日本人らしい女の子という女の子はみなヴィトンの紙袋をもっていて、帰りの空港カウンターでも「超過料金です」と言われて後ろに並んでいる人も構わずその場で必死で鞄に詰め替えている日本人の女の子がいたなあ。
四、一番残念だったこと
今回の旅行はもちろんとても楽しかったのですが、心に鉛のようにつかえていることがあり、こんなことで悩む自分自身が変なんじゃないかと、意見をお聞きしたいのです。
というのは、ルーブル美術館の日本語のオーディオガイドの問題です。
翻訳自体は、自然でとても良い日本語だし、喋っているのも、発音から明らかに日本人の中年男性と若い女性で、素人とも思えない感じなのに、漢字の読みが間違いだらけなのです。思わず書きとめてしまいました(こういうことすること自体が異常でしょうか?)
男性の間違え
手法=テホウ
礼賛=レイサン
福音書=フクオンショ
神々しい=カミガミシイ
荘厳=ソウゲン
死刑執行=シケイシュッコウ
ここに記されている=ココニキサレテイル
技(一語)=ギ
設立時=セツリツドキ
女性の間違え
豊饒=ホウギョウ
建立=ケンリツ
心酔=シントウ
頻繁に出てくる言葉もありますから、まちがいを聞くたびに、同じ日本人として情けなさにその場にしゃがみこみたくなるほどの絶望感を感じ、その恥ずかしい思いを今もひきずっています。
日本人の教養ってこんなレベルまで落ちているのでしょうか。日本人であることをやめたくなるほどがっかりしています。
また、他人事なのにこんなふうな感じ方をする私は異常なのでしょうか。
また、ルーブル美術館に(フランス語は書けないので英語になりますが)手紙をだす、在パリ日本大使館の文化部に手紙を出す、等の方法で直してもらうことを考えていますが、どう思いますか?
五、オランダ人とフランス人
それから、オランダ人とフランス人についても思いを新たにしました。
オランダ人て私の性格に似ている、って思いました。
友達のユーディットに、最近あなたの国はワークシェアリングの成功と安楽死の合法化で有名よ、という話しをしました。
また、「なぜ飾り窓を合法にしているの」ときいたら、「適法でも違法でもいずれにせよ、そういったものは存在するでしょ、だったらちゃんと管理して病気の予防をしたり税金も取ったほうが合理的じゃない」とのこと。
ちょっとした公園にも点字ボードがあるし、道路には獣道のトンネルがあるし、老人用施設もモダンできれい。弱者や環境にはやさしいんです。
そうなんです。徹底した合理主義で、表面だけのきれい事が大嫌いで、お世辞やお追従も苦手で、でも本当は誠実で弱いもののことを考えている。
英語がすごくよく通じるのも北欧とここで一ニを争う感じです。
フランス人は、苦手です。フランスファンの方、ごめんなさい。
まず、はっきりいって怠け者、そしていいかげん。
パンフレットの基本的な開館時間の誤りをはじめ、約束違反ばかり。
美術館の職員も、自分たちが時間通りに帰りたいものだから30分前には客を追い出しにかかる。たいてい自分の配置にはいず、隣の部屋で同僚としゃべくっている。禁止のフラッシュ撮影をしても誰一人注意しない。カタログに載っている作品を示して「この部屋のどこにあるのか」と聞いても、「知らない」と答えたり、あごをしゃくるだけ。脳みそのある動物だったら、「門前の小僧習わぬ経を覚える」じゃないけど、どうせそこにいなければならないなら、自分の受け持ちの部屋くらい作品を鑑賞したらどうなのか?そのくせ白人の客には親切。
その姿を見て、一等客用の待合室のトイレが三週間壊れたままでも同僚と喋ったりトランプしたりしている中国人の服務員を思い出しました。中国人とフランス人て似ているっていわれているらしいですね。
ある夜、ちょっと気分が悪くて、ホテルの部屋から電話でモーニングコールを頼もうとしたら、フロントがずっと話し中です。もうパジャマに着替えていたのですが、仕方なく上着をはおってフロントに降りて行ったら、従業員が電話で話しこんでいます。文句言ったら「イタリアから友達が架けてきたんだよ,切れないだろ?」っていうんですよ。
最後の日、ぎりぎりまで美術館にいたかったので、2日前にシャトルバスを20時半に頼んだら、他の客の都合で20時にしてくれと。
当日は遅れに遅れ結局20時半ですよ.来たのは。でも謝りもしない。
空港までずっと英語で嫌味言っていました。What a developed country! I feel sorry for
the other member countries of EU to have France. You will live on what your
ancestors left forever! 一生祖先の遺産で食ってろ!とかね。でも「だからワールドカッ
プで負けるのよ」は、英語で言うと殺されかねないので日本語にしておきました。
10年前も犬の糞の多さにびっくりし、いくら芸術の都といってもこんなことして平気なやつらは絶対に信用しない!と心に決め、香港でも犬の糞を見るたび「近所に住んでるフランス人に違いない」と毒づいていたほどでしたが、今回もフランス嫌いの気持ちを新たにしました。それにしても、どうして、フランス人であるとか、フランス語をしゃべるというだけで、自分たちは世界一、なんていう根拠のないプライドを持てるのか、全く不思議ですよ。
フランス語が外国語として勉強するものとしてメジャーなのも、フランス人が英語できない(また話さない)という要素が大きいしね。ユーディットもいっていましたよ。オランダ人はつい英語に切り替えちゃうから、外国人はオランダ語がなかなか上達しないって。
言いたい放題,失礼しました。
でも、日本の過去の経済発展の理由もよくわかりますよね。
ひとりひとりの労働者がなるべく手を抜いて早く帰りたい、と思う代わりに、なるべくいい仕事をして、認められたいと思って働いたらどうなるか、その見本が戦後日本でしょう。
でも、そのかわり日本人は物理的にはquality of lifeを失い、精神的には「みんな同じじゃ
なきゃだめ」というプレッシャーに苦しめられる。
よいサービスを享受することと、quality of life、個人の本当の意味での自由や自立は両
立しないものなのだろうか、という永遠に解決できない疑問に突き当たるのはこういう時です。
1.パリ
6月6日の夜遅く、ブリュッセルから列車でパリに到着し、ひかりさんのお勧めでJCBを通じ予約しておいた、Louvre Saint Anneというホテルへ。ひかりさんがいっていた「ひぐま」のまん前です。ホテルのあるSaint Anne通りは、東京三菱銀行があるせいか、日本食屋さんがずっと続く日本村みたいな場所になっていました。ホカ弁屋さんもあって、8日の夜買いに行ったら、ロシア戦勝利の読売新聞の号外を配っていました。
2.モンサンミッシェル
次の日は、パリビジョンのツアーでモンサンミッシェルに行きました。
ノルマンディー地方の、林のような生垣、Bocageの続く場所をバスでずーっと走っていき、やがてモンサンミッシェルが見えてくる。
私のイメージでは、引き潮の時のみ渡れるところというイメージだったが、舗装された堤防のようなものがあり、車ですぐ下まで行ける。ただ、堤防の脇にはたくさんの羊が放牧されており、塩水を含む草を食べるので独特の美味しさで、名物料理になっているとのこと。また、ノルマンディー地方では大西洋からの海風が湿気を運ぶためぶどうが育たず、かわりにりんごを植えていて、シードルが名産。さらに蒸留したものがカルバドス。
8世紀、司教オベールの夢に大天使ミカエルが3度現れ、この地に聖堂を建てろというお告げをしたところ。信じないオベールに、ならば証拠を見せようとミカエルが司教の額に指を当ててそこに穴ができたという逸話が城砦内の壁に彫刻として描かれている。それからも、ミカエルはさまざまな奇跡を起こした。
巡礼者が海を渡っている時に大波が来て、逃げ遅れた妊婦がミカエルの加護で海中で出産し授乳までしているというかなり古い絵をブリュッセルの王立美術館で見たのを思い出した。
城砦に入ってすぐ、オムレツで有名なレストランがある。マダム・プーラーが始めた店で、卵を入念にかき混ぜるのでスフレのようになるのが特徴。大きなボールでかき混ぜているところも、観光客に見せてくれる。周恩来が欧州を放浪していた頃、お金がなくてここで無銭飲食したが、首相になってからここを再訪してお金を払ったというエピソードが彼の写真とともに残っている。
外壁をとおって階段を上り、西のテラスへ。ここからは、はるか英国まで見渡すことができ、ガイドがノルマンディー上陸作戦について話してくれた。大きな鉄板を海に沈め、その上に廃船になった軍艦を沈めてそこから上陸したと。
そばにあるトンブレンヌという小さい島は、ここからモンサンミッシェルの城砦を造る花崗岩を運んだ場所。ルイ14世の寵臣フーケが豪勢な城を建てたため、王の怒りに触れて壊されてしまったというが、パリ近郊にある贅沢な城はそのままなので、やはりパリビジョンからツアーが出ている。
修道院附属教会は、階段から見ると、教会には見えない(逆から見ると壮麗)のは、百年戦争等で要塞として使われていたので、敵になめられないようにするためとのこと。
屋根の天辺には1897年エマニュエル・フレミエの作った32mのミカエルの像があり、1989年革命200周年のとき、修復されてヘリコプターで再びつけられたとのこと。
一部がロマネスクで3段構造になっており、主祭壇はゴシックになっているが、ロマネスクでは壁と柱を強化しなければならない結果、窓を大きくできないということから、柱をそのまま天井に繋げるゴシック建築が生み出され、それによって美しい大きなステンドグラスを作ることができた、というロマネスクからゴシックへの変化を目の当たりにできる場所。また、ノルマン人らしく、天井は、バイキング船のように樫の木でできておりしかも湾曲している。本当に、10年前の旅行で北欧の博物館で見たバイキング船にそっくりでした。また、修復するたびに当時の最新流行を取り入れるため違って様式が部分的に出現することや、職人が誇りを持って仕事をし、石畳の各パーツにそれぞれアルファベットが彫ってあるのはどの職人の仕事かわかるようにするためとのこと。
大理石でできた柱をめぐらせた中庭は、僧たちの瞑想の場所だったとのこと。柱の上には美しい花等のレリーフがあるが、一箇所だけ4人の人間の顔になっている。12使徒の内、福音書を残した4人の顔とのこと。
次に僧たちの食堂は、壁一面に窓があるが、短い間隔で桟がでているため、入口からは見えないという凝ったつくりになっている。
その真下が王や貴族の食堂。僧たちの食堂の下に貴族の食堂があるというのが宗教的建築物らしい。
隣のサント・マドレーヌという小さな部屋には、ステンドグラスに巡礼者の印、貝殻と香油壷の絵が。当時、エルサレム、ローマ、サンチャゴ・デ・コンポステーラに次いで巡礼者がたくさん訪れた場所であったせい。貝殻は巡礼者の象徴、マドレーヌはマグダラのマリア(香油壷は彼女の象徴)を語源としていると思うのだが、貝殻型のマドレーヌが定番なのは何か意味があるのだろうか?また、プルーストの『失われた時を求めて』で紅茶にマドレーヌを浸す思い出が出てくるのは何かの符丁なのか?
その後、下から物資を運んだ巨大水車のレプリカがある部屋、死んだ僧の骨壷を納めてた部屋(火葬でなく、薬品で肉を溶かしたらしい)を訪れた。
ガイドは、日帝時代の1934年に韓国で生まれたため日本語のできるガイドのキムさんという女性。説明が詳しく、とても面白かった。
3.ロワール城めぐり
6月8日は再びパリビジョンでロワール城めぐりです。
10年前にブロワ城だけは行ったのですが。
(1)シャンボール城
世界遺産にもなっており、二重らせん階段(昇りと下りが別々)がダヴィンチの発案といわれているところ。
格子天井にはフランソワ1世の紋章である火吹きトカゲが彫刻されていたり、外壁に、菱形やマル形のスレートが貼りつけられているのが特異だった。
2階の広間にあるユリシーズのタペストリーの続きは、シュベルニー城にある。
フランソワ1世は、天才でありながら流浪の人生を余儀なくされたダヴィンチをここに呼び寄せて創作を援助し、その最期をも看取ったとされている王です。
だから、ダヴィンチが肌身離さずもっていたモナリザがルーブルにあるのです。
(2)シュベルニー城
ここは王族でなく、アンリ4世の大法官の息子・アンリ・ユローの持ち物でした。
そのせいか、ティチアーノの「コシモデメディチ」等の名画や調度品がかなりよい保存状態で残っています。
とくに、離れの館は、フランス革命中ミロのヴィーナス等の避難場所になっていて、今でもオークションが開かれるそうです。廊下の壁にアメリカ独立戦争への助力を請うワシントンの直筆の手紙が飾られていたり、食堂の数十枚のパネルがドンキホーテの物語になっていたりするのも見事でした。
(3)シュノンソー城
アンリ2世が20歳も年上だったとされるディアンヌドポワチエと住んだ城です。そのため、デイアンヌを狩の女神ダイアナになぞらえた絵があります(似たような絵や彫刻がルーブルにもあります)。
アンリ2世が御前試合で選手の槍がささって事故死した後、正妻のカトリーヌ・ド・メディシスがこの城を取り上げて、建て増ししたのが、よく写真に出てくる河をわたり向こう岸まで続く美しい部分です。
アンリのHとカトリーヌのCをふたつシャネルのマークのように組合せた紋章が使われていますが、それはディアンヌのDにも見えるとことが皮肉です。ルーベンスやムリーリョの絵もあります。
この城を1733年に購入した徴税請負人デュパンが息子エミールの家庭教師に雇ったのがジャンジャックルソー(教育に関する有名著作はここからきている)で、そのために革命のときも城は無傷ですんだとか。
ここで、フォンテーヌブロー派のことも勉強できて、ルーブルの予習になったのはいいが、日本人の男性ガイドの説明はいまいちいいかげんで、カトリーヌドメディシスとマリ−ドメディシスを混同しているのが、プロとは思えず前の日の人と比較しても残念でならなかった。いい年して、こんな仕事ぶりで日本人として恥ずかしくないのだろうかと思った。
4.ルーブル
6月9日、10日、12日、三日間ルーブルに通って、アジアオセアニア以外は全部見た。
10年前は団体旅行なので、主要な作品しか見られなかったので。文字通り、足は棒になり、最後には目も霞んできたが、作品は全部見たし、オーデイオガイドマークのあるものは全て説明も聞いた。部屋によっては各国語(日本語もあり)の説明ボードがあるところもあり、それもほとんど読んだ。
もちろん、素晴らしかったのはいうまでもない。
三島由紀夫が一番好きだというワトーの「シテール島への船出」、ミケランジェロの「瀕死の奴隷」もじっくり見たし。彼は遺作で主人公にマンテーニャが一番好きと語らせているので、マンテーニャのサンセバスチャンやキリストの磔刑も堪能した。エジプトの特別展をやっていたので、それも見た。
5.シテ王宮
9日の夜、夫は先に香港に帰りました。
11日は火曜日でルーブルが休みでした。
まず、ひかりさんのアドバイスにしたがってJCBプラザへ。
そこで、レストランの予約ができるのを知って、Guy Savoyという凱旋門の近くの三ツ星レストランへランチに行きました。味もサービスも大満足でした。バターが甘いのとソルティなのと両方出てくるのも初めてでしたし、生牡蠣に合うのはこれ、鴨に合うのはこれ、とその度に違うパンを配ってくれるのも初めてでした。また、担当ギャルソンの人が、「いちご」とか「ごゆっくり」とか日本語が少しできるのにもびっくり。一人きりの食事でもなんの手持ち無沙汰さもなく、3時間もかかって食事しました。それで、あづさ姐さんのおすすめのロダン美術館(月曜休み)に行く時間はなくなってしまいました。三ツ星レストランなんて日本人を馬鹿にしていると思ったのに。でも、逆に、「日本人観光客なんかあてにしなくても三ツ星ならやっていけるはずなのに、こんなに親切なのはかえってあやしい」なんて思ってしまった自分が悲しひ。
ギャラリーラファイエットでは、香港で買いそびれていた期間限定販売のランコムのアイラインを安く買いました。
その後、シテ王宮にいく途中、地下鉄を降りたところで、ある白人が私の顔を見て「カワグチ」というので、GKの川口かな、と思って思わず振り向いたら、彼が引き返して来て、話しかけてきました。川口というのは川口市のことで、アメリカ人の彼は今はパリ赴任ですが、以前東京赴任で、川口にあった工場にも行っていたそう。名前を聞いたり、今晩食事でもどう、とか聞いていきます。(どうやらナンパのようです)
どうやって断ったらいいかなと思っていたら、ちょうど「東京のどこ」「今香港に住んでる
の」「どうして香港に?」「夫が領事館に転勤になったから」といったら、「約束があるか
ら」とちょうどシテ王宮の前で離れてくれました。
シテ王宮のコンシェルジュリーでは、ベルサイユのばらに夢中になった小学生時代を思い出して、マリーアントワネットの独房とかを見学しました。
その後隣接したサントシャペルに入ろうとしたら、もう終わったと。
3日間有効の共通チケットを買っていたのですが、その2002年版のパンフレットでは、18時半までのはずなんですが、18時の間違いだそうです。こんな情報が間違っているなんて呆れてものも言えませんよ。
それから、cottoncandyさんもいっていたHerve Chapelierのブティックで鞄を三つかいました。
このブランド、全然知らなかったのですが、街で何度も見かけて「かわいい!」と思って、ギャラリーラファイエットの人に絵を描いてみせてブランド名を聞いたのです。
それにしても、パリのブティックって早く閉まってしまうので、買物するのが大変。
ルイヴィトンだけ20時までなのでどうして、とJCBの人にきいたら、行列を18時半に締めきってもその客をさばき終わるのはそれくらいになってしまうとのこと。
日本人観光客ってどうしてパリ本店にこだわるのでしょう。香港の店はがらがらなのに.値段はそうかわらないはずです。何より悔しいのは、お金を落としてやって、不景気のフランス経済に貢献すればするほど馬鹿にされるという構図です。どうせお金を使うのなら、感謝されるところで買物はしたいですよね。
街に出たのはこの日だけ(あとは郊外観光や美術館のみ)ですが、会う日本人らしい女の子という女の子はみなヴィトンの紙袋をもっていて、帰りの空港カウンターでも「超過料金です」と言われて後ろに並んでいる人も構わずその場で必死で鞄に詰め替えている日本人の女の子がいたなあ。
四、一番残念だったこと
今回の旅行はもちろんとても楽しかったのですが、心に鉛のようにつかえていることがあり、こんなことで悩む自分自身が変なんじゃないかと、意見をお聞きしたいのです。
というのは、ルーブル美術館の日本語のオーディオガイドの問題です。
翻訳自体は、自然でとても良い日本語だし、喋っているのも、発音から明らかに日本人の中年男性と若い女性で、素人とも思えない感じなのに、漢字の読みが間違いだらけなのです。思わず書きとめてしまいました(こういうことすること自体が異常でしょうか?)
男性の間違え
手法=テホウ
礼賛=レイサン
福音書=フクオンショ
神々しい=カミガミシイ
荘厳=ソウゲン
死刑執行=シケイシュッコウ
ここに記されている=ココニキサレテイル
技(一語)=ギ
設立時=セツリツドキ
女性の間違え
豊饒=ホウギョウ
建立=ケンリツ
心酔=シントウ
頻繁に出てくる言葉もありますから、まちがいを聞くたびに、同じ日本人として情けなさにその場にしゃがみこみたくなるほどの絶望感を感じ、その恥ずかしい思いを今もひきずっています。
日本人の教養ってこんなレベルまで落ちているのでしょうか。日本人であることをやめたくなるほどがっかりしています。
また、他人事なのにこんなふうな感じ方をする私は異常なのでしょうか。
また、ルーブル美術館に(フランス語は書けないので英語になりますが)手紙をだす、在パリ日本大使館の文化部に手紙を出す、等の方法で直してもらうことを考えていますが、どう思いますか?
五、オランダ人とフランス人
それから、オランダ人とフランス人についても思いを新たにしました。
オランダ人て私の性格に似ている、って思いました。
友達のユーディットに、最近あなたの国はワークシェアリングの成功と安楽死の合法化で有名よ、という話しをしました。
また、「なぜ飾り窓を合法にしているの」ときいたら、「適法でも違法でもいずれにせよ、そういったものは存在するでしょ、だったらちゃんと管理して病気の予防をしたり税金も取ったほうが合理的じゃない」とのこと。
ちょっとした公園にも点字ボードがあるし、道路には獣道のトンネルがあるし、老人用施設もモダンできれい。弱者や環境にはやさしいんです。
そうなんです。徹底した合理主義で、表面だけのきれい事が大嫌いで、お世辞やお追従も苦手で、でも本当は誠実で弱いもののことを考えている。
英語がすごくよく通じるのも北欧とここで一ニを争う感じです。
フランス人は、苦手です。フランスファンの方、ごめんなさい。
まず、はっきりいって怠け者、そしていいかげん。
パンフレットの基本的な開館時間の誤りをはじめ、約束違反ばかり。
美術館の職員も、自分たちが時間通りに帰りたいものだから30分前には客を追い出しにかかる。たいてい自分の配置にはいず、隣の部屋で同僚としゃべくっている。禁止のフラッシュ撮影をしても誰一人注意しない。カタログに載っている作品を示して「この部屋のどこにあるのか」と聞いても、「知らない」と答えたり、あごをしゃくるだけ。脳みそのある動物だったら、「門前の小僧習わぬ経を覚える」じゃないけど、どうせそこにいなければならないなら、自分の受け持ちの部屋くらい作品を鑑賞したらどうなのか?そのくせ白人の客には親切。
その姿を見て、一等客用の待合室のトイレが三週間壊れたままでも同僚と喋ったりトランプしたりしている中国人の服務員を思い出しました。中国人とフランス人て似ているっていわれているらしいですね。
ある夜、ちょっと気分が悪くて、ホテルの部屋から電話でモーニングコールを頼もうとしたら、フロントがずっと話し中です。もうパジャマに着替えていたのですが、仕方なく上着をはおってフロントに降りて行ったら、従業員が電話で話しこんでいます。文句言ったら「イタリアから友達が架けてきたんだよ,切れないだろ?」っていうんですよ。
最後の日、ぎりぎりまで美術館にいたかったので、2日前にシャトルバスを20時半に頼んだら、他の客の都合で20時にしてくれと。
当日は遅れに遅れ結局20時半ですよ.来たのは。でも謝りもしない。
空港までずっと英語で嫌味言っていました。What a developed country! I feel sorry for
the other member countries of EU to have France. You will live on what your
ancestors left forever! 一生祖先の遺産で食ってろ!とかね。でも「だからワールドカッ
プで負けるのよ」は、英語で言うと殺されかねないので日本語にしておきました。
10年前も犬の糞の多さにびっくりし、いくら芸術の都といってもこんなことして平気なやつらは絶対に信用しない!と心に決め、香港でも犬の糞を見るたび「近所に住んでるフランス人に違いない」と毒づいていたほどでしたが、今回もフランス嫌いの気持ちを新たにしました。それにしても、どうして、フランス人であるとか、フランス語をしゃべるというだけで、自分たちは世界一、なんていう根拠のないプライドを持てるのか、全く不思議ですよ。
フランス語が外国語として勉強するものとしてメジャーなのも、フランス人が英語できない(また話さない)という要素が大きいしね。ユーディットもいっていましたよ。オランダ人はつい英語に切り替えちゃうから、外国人はオランダ語がなかなか上達しないって。
言いたい放題,失礼しました。
でも、日本の過去の経済発展の理由もよくわかりますよね。
ひとりひとりの労働者がなるべく手を抜いて早く帰りたい、と思う代わりに、なるべくいい仕事をして、認められたいと思って働いたらどうなるか、その見本が戦後日本でしょう。
でも、そのかわり日本人は物理的にはquality of lifeを失い、精神的には「みんな同じじゃ
なきゃだめ」というプレッシャーに苦しめられる。
よいサービスを享受することと、quality of life、個人の本当の意味での自由や自立は両
立しないものなのだろうか、という永遠に解決できない疑問に突き当たるのはこういう時です。
2002年オランダ・ベルギー・フランス美術館めぐりその2

二、ベルギー篇です。
オランダで4泊したあと、6月3日の夕方の列車でアントワープへ。最後のキンデルダイクはアントワープのインフォーメーションの閉まる時間を気にしての観光になってしまいました。
3泊したアントワープでは、希望通り、駅前の三ツ星Agoraホテルに予約が取れました。一部屋64ユーロ(朝食付)です。
1.ゲント
翌6月4日にはゲントへ。
バーフ大聖堂のファン・アイク兄弟の「神秘の子羊」、もう感涙ものです。
キリストに擬せられた子羊の犠牲の絵を中心に、マリア、ヨハネ、アダム、イブ、カインとアベル等が無数の聖人とともに描かれている祭壇画です。
日本語のオーデイオガイドがとてもすばらしく、一つの絵なのに、1時間もたっぷり説明してくれます。
これで私はすっかりフレミッシュ絵画のすばらしさに開眼しました。
ミニチュアも買って、居間に飾っています。
2.ブルージュ
大急ぎでブルージュに移動。インフォーメーションに寄ったらカウンターでラジオがサッカーを中継していて、「どうですか?」ときいたら、ベルギーが1点入れたよ、と。やっぱり負けるのかなと思いつつ、まず、鐘楼へ。366段の階段はきついけど、安野光雅の絵のようなブルージュの美しい街並みが一望できます。
降りる時、狭い階段で遠足らしい子供たちとすれ違うと、フレミッシュ語はわからないのですが、口々に私達に何か攻撃的なことを言っている。「負けたからざまあみろ」とでもいってるんだろう、と思っていたら、引き分けがよほど悔しかったのだと後でわかりましたが。
世界遺産になっているぺギン会修道院。ここにも日本語の手書きのガイドがあります。
メムリンク美術館。英語のオーデイオガイドがあります。元々聖ヨハネ施療院だったところなので、病院の遺品(手術道具等)や、病院の依頼で描かれたために、尼僧が描かれている絵、その精神に添った良きサマリア人の絵等がありました。もちろん、目玉はメムリンクの「聖ウルスラの聖遺物箱」ですが、「聖家とリーヌの神秘の結婚」も素晴らしく、またミニチュアを買って飾ってあります。
それと、鏡に映る被写体の姿を描きこむ手法は、10年前マドリードのプラド美術館にあるベラスケスの「ラス・メニーナス」(1656年)を見て感心したのですが、ここにある、「ファン・ニウベンホフと聖母の連祭壇画」(1487年)にも既に、そうした手法が用いられていると知ったのも新鮮な驚きでした。但し、もう一つのパネルにある人物も含めた二人の人物の後姿が鏡に映っているので、ベラスケスのような意外性はないのですが。ルーブルにある「両替商の夫婦」(マセイス1514年)の鏡にも、絵には描かれていない聖書を読む人物を映して、夫婦の俗物性と対照させていますよね。
グルーニング美術館。ラッキーなことに、ヤン・ファン・アイク特別展をやっていました。
テーマ別に、軸になるファン・アイクの絵と、それから影響を受けたと思われる他の画家の作品を並べています。そのために世界中の美術館から絵を借りたようで、ブリュッセル王立美術館にもここに貸しているからない、という絵がたくさんありました。
アルプスを超えて、イタリアの画家たちにまでこれほど影響を与えていたなんてすばらしいです。
「ファン・デル・パールの聖母子」では、聖ゲオリギウスの盾に外にいる群集が映っています。
英語のオーディオガイドと日本語のガイドブックがあります。
昼は時間の節約のため、持ってきたパンをゲントからブリュージュまでの列車内で食べ、ブリュージュでワッフルを立ち食いしましたが、夜は、アラン・シャベルの愛弟子の、ベルギー一といわれているレストランDeKarmelietで食事しました。
3.アントワープ
(1)ホーボーケン
6月5日は、まず、「フランダースの犬」ゆかりのホーボーケン村へ行きました。地下鉄の終点です。NYにもホーボーケンという地名があるのは、旧オランダ領だったことの名残ですね。
アントワープのインフォメーションで「ネロとパトラッシュの散歩道」という日本語のブローシャーが入手できます(1.24ユーロ)。ホテルでホーボーケンの行き方を聞いたらフロントの人に「パトラッシュ(ただし現地語ではペトラルカ)でしょう」といわれるくらい、日本人のこの話好きは有名。
村といっても、住宅地ですが、そこに着いて地図を見ているだけで、町の人が「パトラッシュはそこだよ」と教えてくれるネロとパトラッシュの像は、観光案内所の前にあります。地元の彫刻家が作ったそれはアニメとはかなりちがいますが、写真を撮って感激。1985年の除幕式には在ベルギー日本大使がテープカットしたということです。案内所の中は、「フランダースの犬」に関する出版物があり、懐かしいアニメの絵を見ただけで、私は最終回を思い出して号泣してしまい、夫がなぐさめてくれました。
このイギリス人女性作家の童話は地元では知られていなかったのを、あまり日本人観光客の問い合わせが多いので、観光案内所の職員が日本語を勉強して原作を調査し、どうもモデルになったのはホーボーケン村らしいとつきとめたのです。アロアの家のような水車小屋もあったようですし(現在は売られているのでその場所(小学校)にミニチュアの水車が建っています)、作者ウィーダのいた頃、アロアと同じ年頃の女の子も粉屋にいたようです。散歩道は、ネロとパトラッシュが手厚く葬られたとされる教会から始まり、銅像を通って、原作によく出て来る並木道を通り、水車のミニチュアまで行きます。ベルギー人にこの話が今でもあまりうけないのは、村人が彼らを見捨てるような冷たいことをするわけがない、いくらでも助かる道はあったはずだ、ということらしいです。日本人のセンチメンタリズムはどうも理解しにくいのでしょう。
観光案内所は、このことがなければ絶対に造られなかったでしょうし、日本人のためだけにあるような場所です。それでも常勤職員が二人いるのだからたいしたものですが、言葉はわからないながら、私達を見てサッカーの話をしているのだけはわかりました。日本人がたくさん来るとわかっても、日本のように便乗して土産物屋がたくさんできているわけでもなく、銅像を象ったプラリネが売られているお菓子やさん(といっても目立たない)やパトラッシュという名のレストランが1件あるくらいで、町がとくにそれがために潤っているわけでもないのに、この親切さはどうでしょうか。そこにまた感動します。
(2)アントワープ市内
ネロの憧れたノートルダム大聖堂も外せません。ルーベンスの「キリストの昇架」「キリストの降架」「聖母被昇天」は見られましたが、「キリストの復活」は残念ながら修復中でした。お金を払った人だけが見られるというのは、最近まで続いていた制度だということです。ルーベンスの斜めのラインの使用によるダイナミズムに圧倒されました。
王立美術館でもすばらしいルーベンスのコレクションを見ました。
夕方、マルクト広場のカフェでベルギービールを飲んでいたら、ドイツと引き分けたアイルランド人が狂喜乱舞して、並んでお尻を出したり、大騒ぎしていました。
夜、ミシュラン一つ星の'l Formuisは、イマイチでした。
2日前にいったサーアントニーファンダイクの方が、圧倒的に味もサービスも雰囲気も値段
もよかったので、こちらの方がお勧めです。ホテルで予約してもらったらフロントの人がびびっていましたが、50ユーロのコースだってものすごくおいしいし、サービスも洗練されている割に気取りはなくてすばらしいです。
それから、昼行ったBacinoの白アスパラガススープ(日本では缶詰が普通だがヨーロッパでは初夏の風物詩である白アスパラガスは旬だったので毎日のように,いろいろな料理を食べていました)とムール貝を5種類のスープで煮た料理は絶品でした。
4.ブリュッセル
(1)王立美術館
6月6日の朝、ブリュッセルに到着し、何はさておいても、王立美術館へ。英語のオーディオガイドと日本語のガイドブックあり。
またまたラッキーなことに、ここではブリューゲル特別展をやっていました。
ブリューゲルは、一番有名なピーター・ブリューゲル(父)と息子のヤン・ブリューゲル、ピーター・ブリューゲル(息子)の3人がいますが、息子たちは父を超えられなかったようで、(当時は名画のコピーは頻繁に行われていたとはいえ)父の名画の模写ばかりしている感じです。この特別展では、父のオリジナルと息子たちのコピーを10枚以上展示しているのです。
「イカロスの失墜」のコピーには、オリジナルにはなかった父の飛ぶ姿があったり、「鳥の
罠」という絵のコピーの一つには、他の村人に混じって、うんとちいさく、イエス親子のエジプト逃亡の図が描かれているし、「ベツレヘムの戸籍調査」は、オリジナルだけ右の方でスケートを履いている男性がいる、といった具合です。館員に「ベツレヘムには雪は降らないはずですが」と質問したら、当時は地理的な知識もないから、画家は自分の知っている村の風景をベツレヘムとして描いたのだということでした。
名画がたくさんありましたが、メムリンクの「聖セバスチャン」が珍しくタイツをはいているのが印象的でした。私の大好きな三島由紀夫が聖セバスチャンに異常な執着を示した人だったので(ダヌンツィオの翻訳もしたし)、つい聖セバスチャンの絵は真剣に見てしまいます。今回の旅行ではあちこちで見ましたが、可能な限り写真も撮りました。読書会の仲間に送るつもりです。
結婚前に夫と渋谷のbunkamuraにマグリット展を見に行ったのですが、彼の特別展もあって、たくさん見られたのが幸せでした。
それにしても、フレミッシュ絵画はすばらしい。今までは、素朴だとか、稚気にあふれているとしか思っていなかったけど、不明でした。
基本的に文盲の多かった庶民にキリスト教教育をするために描かれているので、一つの絵に新旧聖書上のいろいろなエピソードや教訓がびっしり描きこまれています。おかげで、聖人とそのシンボルを覚えてしまいました。預言者ヨハネ:子羊、福音者ヨハネ:毒蛇の杯、マグダラのマリア:香油壷、聖バルバラ:塔(父親に閉じ込められた)、聖カテリーナ:車輪(キリストと結婚したといって君主の求婚を拒んで車輪に轢かれた)。でも、自分が殺された道具をもっているというのはいくら殉教のシンボルとはいえ、日本人の感覚ではちょっとわからない面もありますが。受胎告知には、聖母の純潔を表わす百合、水の入った透明なガラス瓶というのが定番です。そして、祭壇画の場合、両脇のパネルには、絵の依頼者が祈る姿で、背後にそれぞれの守護聖人を従えて描かれています。これは、中国のシルクロードの石窟仏教壁画でも、供養人といって、寄付者の姿が描かれていますから、そこのところは洋の東西を問わないのでしょうね。祭壇画は、普段閉じられていますから、閉じた時見える部分にも絵が描いてありますから、美術館でも後ろに回って見てみて下さい。
(2)その他
サンミッシェル大聖堂を見てから、グランプラス、そして小便小僧。世界三大がっかりのひとつらしいがすごい人だかり。(もう2つは、コペンハーゲンの人魚姫(確かに思ったより小さい)とシドニーのオペラハウスとか、三番目には諸説ありますが)。お土産にコルネのチョコを買い、マグリットの絵のついた(青い空に雲が鳥の形に切り取られている)傘を買い、慌ててブリュッセル・ワッフルを買って、パリ行きの列車に乗るために駅へ。この列車では、近くの席に画家の奈良美智がいました。
2002年オランダ・ベルギー・フランス美術館めぐりその1
夫からHPの更新をさぼっているだろう、といわれた。
時間がないので、昔書いた旅行記などをupすることにする。
以下は、2002年5月から6月まで、香港大学の期末試験の直後に、アムステルダムにゴッホ・ゴーギャン展を見に行き、ついでに2カ国の美術館めぐりをした体験をあるMLに流したもの。呼びかけはその参加者のHNです。
素朴と洗練がぎりぎりのところで調和を保っている、15世紀フレミッシュ絵画にはまるきっかけになった旅でした。
先週の木曜日の深夜帰ってきて、4ヶ月ぶりに夫人会があったり、端午節のドラゴンボートレースを見に行ったり、日本人倶楽部で中国法のことで講演したり、点字の講習会をやったり、深土川にいって、オーダーメイド、エステ,ネイルをしたり、広東語の授業に出たり、始まったバーゲンで買物の梯子したり、いまだ時差ぼけが取れずボーっとしながらも、忙しい日々でした。
一、オランダ篇
1.Enschede
スキポール空港から列車で2時間ほどのEnschedeという町の友人ユーディットを訪ね、2泊させてもらいました。車でクローラーミューラー美術館に連れて行ってもらい、ゴッホの絵を見た時は、感涙に咽びました。
ユーディットとは9年前イスラエル旅行で知り合ったのですが、その時は離婚後長く付き合っていた恋人と別れたばかりで元気がありませんでしたが、昨年再婚し、初孫にも恵まれ本当に幸せそうでした。出産後専業主婦になったものの、どうしても働きたいという気持ちから努力して職をもち、市会議員も務めたという指向が夫とぶつかり離婚原因になったという話は、本当に身につまされました。離婚後も、法律上は認められる生活費の送金を断り,独力で資格をとって自活したという話には感動しました。
彼女は、ユダヤ人で、隠れ家で1944年に生まれたのですが、その隠れ家の写真を見せてもらったり、「シンドラーのリスト」の配給収入から作られたホロコースト記録基金からインタビューを受けたという83歳の母上にも会えたことがとてもいい経験でした。ユーディットは、何よりも、私のひどい日本語訛りの英語(文法やボキャブラリー的にはOKですが、いかんせん発音が)を一生懸命聞いてくれて(中にはわからなくてもわかったふりをする人もいるのに)、それに集中するあまり車の運転で道をまちがえたりするという誠実さには感動しました。前々から考えていた、英語の訛りを直すコースにいくことをさらに堅く決心したことはいうまでもありませんが、2日の間に私達が話した互いの人生のこと、一生忘れないでしょう。
年齢や国籍さえ超えるこういう魂のふれあいのために、人は生きているのではないかと思ったほどでした。
2.デンハーグ
amiさんに教えていただいたマウリッツハイス、とてもよかったです。
英語のオーディオガイドがとても充実しています。
フェルメールの「デルフトの眺望」、「青いターバンの少女」、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」等が素晴らしかった。
「マドゥローダム」という、東武ワールドスクエアのようなところもお勧めです。
なかなか仕掛けが凝っていて、大人でも楽しめます。行くのなら、小銭をたくさん用意してください。所定の小銭を入れると、いろいろなおまけの楽しみがあるアトラクションがあります。とくに、78番の木靴工場では、50セント入れると、ミニチュアのトラックがデルフト焼きの木靴の記念品を工場から運んできてくれて、それを観光客がお土産にもらって帰ることになっていて、楽しいです。
3.アムステルダム
(1)ゴッホ美術館
念願のゴッホ・ゴーギャン特別展。
今回の旅行は構想10年というこの展示を見るためのものでした。
すごい人でしたが、日本語のオーデイオガイドがとてもよくできていました。
二人の画家の出会い、同居、別離それぞれの時期に、どんなふうに影響を与え合ってきたかを、テーマ別に展示しています。
たとえば、1888年10月にゴーギャンがゴッホの黄色い家に来た時携えていた共通の友人ベルナールの「牧場のブルターニュ人女性」という絵を、ゴッホが模写したり、二人して同じ風景を描いたりしています。
ゴッホのゴーギャンを慕う気持ちはいじらしいほどで、ひまわりも、友情の象徴として、元々は、これで黄色い家を飾ってゴーギャンを歓待するために描いた作品でした。1888年8月に元々12枚描いた内、気に入った2枚だけを飾ることにし、その内の1枚がロンドンナショナルギャラリーにあるものです。花瓶にVincentのサインがあります。
安田火災の買ったものは、ゴッホがゴーギャンと同居中の12月に描いたもので、これは最近までClaude-Emile Schuffehecker(1861-1934)の贋作ではないかと疑われていました。(安田火災はいい面の皮と思われていたようです)しかし、今回この展示のための調査で、本物であることが確認されたのです。というのは、この作品だけジュートに描かれている(他はカンバス)のですが、そのジュートの繊維の流れ等を調べた結果、ゴーギャンが注文したジュートを二人で分けて使ったのだとわかったとのことです!ただし、花瓶にVincentのサインがありません。
ゴッホ美術館所蔵のものは、ゴーギャンが去った後、1889年1月に描いたもので、花瓶にVincentのサインがあります。
これら三つの作品が一堂に並ぶのは100年以上振りとのことです。それから、よく「14本のひまわり」と誤訳されていますが、14本の作品も初期にはありますが、この有名な三枚の絵はいずれも15本です。
「アルルの女」は、モデルのジノー夫人を、脇でゴーギャンがデッサンしている間に、ゴッホが熱に浮かされたように完成させてしまった作品ですが、ゴーギャンが残していったこのデッサンを元に、ゴッホは5枚も新しいアルルの女を描いて、その内の1枚をゴーギャンに送ったりもしています。
二人の決定的な違いは、想像力で描けるゴーギャンに対して、眼前にあるものしか描けないゴッホということにもありました。だから、ゴッホはモデルを雇う金がなかったこともあり、自画像や自己作品のコピーをあれほどたくさん描いているのです(ルーラン夫人の絵もたくさんある)。そのことは、1888年12月、ゴーギャンがゴッホがひまわりの絵を描いている肖像画(ひまわりの生花も入っている)を描いたこと(12月に生のひまわりはないはずだが、ゴーギャンには描ける)に端的に表れています。
ゴッホが描いた椅子も、一方は自分を象徴する、石の床にパイプとともにあるもの、一方はゴーギャンを象徴する、豪華な床に知性を象徴するろうそくと本が置かれているというように好対照になっています。
企画展の二人のそれぞれの(この展示における)最後の作品の演出もとてもきいています。ゴッホのは、糸杉の側にゴッホとゴーギャンらしい二人づれのいる絵、これを見て、いまだに友情の復活を信じる彼に涙が止まらなくなりました。ゴーギャンのそれは、タヒチで故国フランスを懐かしむあまり友人に送らせた種子からその庭に成長したひまわりを描いた「肘掛椅子とひまわり」です。ゴッホの影響を本人は強く否定したようですが。数々の現地妻の絵もあいまってゴーギャンの非情さとゴッホの純粋さが対比されている展覧会といえるでしょう。
それにしても、60以上の美術館から作品を借り、調査し、テーマ別に分類するという膨大な作業にはほとほと感心しました(ただし、ゴッホの耳切り事件直後の包帯した自画像はこの美術館所蔵なのに、この特別展ではコピーしか見せないというのはどういうこっちゃ)。
(2)国立美術館
英語のオーディオガイドが充実。見所の代表的な20絵画だけを外さないための地図もくれますので、まずそれを見てから残りを見るというのはどうでしょう。
レンブラントの「夜警」、フェルメールの「恋文」「手紙を読む女」「台所女」「デルフトの家並みの眺め」、ファン・ハーレルムの「ベツレヘムの嬰児虐殺」等が印象的でした。
4.キンデルケルク
のんびりした田舎の水郷地帯にたくさんの水車がある世界遺産です。7、8月の土曜日のうち1日は全部が回るそうですから、確認して合わせていったらどうでしょう
か。一つの水車だけ中を見せてくれます。管理人が、客がきた時だけ、どこからともなく自転車で現れるし、木靴を履いているのにもびっくり。
個人で行くとなると、ロッテルダムから地下鉄でZuidpleinにいき、154番のバスでまた1時間くらいなので、本数も少なく不便です。
ロッテルダムから、船で行くツアーが午前と午後2回(10:45と14:15)、12.5ユーロ、でていますから、それで行ったほうが効率的だと思います。
TEl:010-2183131, info@rebus-organisatiebureau.nl
ロッテルダムのインフォメーションで予約するのが一番わかりやすいと思います。
時間がないので、昔書いた旅行記などをupすることにする。
以下は、2002年5月から6月まで、香港大学の期末試験の直後に、アムステルダムにゴッホ・ゴーギャン展を見に行き、ついでに2カ国の美術館めぐりをした体験をあるMLに流したもの。呼びかけはその参加者のHNです。
素朴と洗練がぎりぎりのところで調和を保っている、15世紀フレミッシュ絵画にはまるきっかけになった旅でした。
先週の木曜日の深夜帰ってきて、4ヶ月ぶりに夫人会があったり、端午節のドラゴンボートレースを見に行ったり、日本人倶楽部で中国法のことで講演したり、点字の講習会をやったり、深土川にいって、オーダーメイド、エステ,ネイルをしたり、広東語の授業に出たり、始まったバーゲンで買物の梯子したり、いまだ時差ぼけが取れずボーっとしながらも、忙しい日々でした。
一、オランダ篇
1.Enschede
スキポール空港から列車で2時間ほどのEnschedeという町の友人ユーディットを訪ね、2泊させてもらいました。車でクローラーミューラー美術館に連れて行ってもらい、ゴッホの絵を見た時は、感涙に咽びました。
ユーディットとは9年前イスラエル旅行で知り合ったのですが、その時は離婚後長く付き合っていた恋人と別れたばかりで元気がありませんでしたが、昨年再婚し、初孫にも恵まれ本当に幸せそうでした。出産後専業主婦になったものの、どうしても働きたいという気持ちから努力して職をもち、市会議員も務めたという指向が夫とぶつかり離婚原因になったという話は、本当に身につまされました。離婚後も、法律上は認められる生活費の送金を断り,独力で資格をとって自活したという話には感動しました。
彼女は、ユダヤ人で、隠れ家で1944年に生まれたのですが、その隠れ家の写真を見せてもらったり、「シンドラーのリスト」の配給収入から作られたホロコースト記録基金からインタビューを受けたという83歳の母上にも会えたことがとてもいい経験でした。ユーディットは、何よりも、私のひどい日本語訛りの英語(文法やボキャブラリー的にはOKですが、いかんせん発音が)を一生懸命聞いてくれて(中にはわからなくてもわかったふりをする人もいるのに)、それに集中するあまり車の運転で道をまちがえたりするという誠実さには感動しました。前々から考えていた、英語の訛りを直すコースにいくことをさらに堅く決心したことはいうまでもありませんが、2日の間に私達が話した互いの人生のこと、一生忘れないでしょう。
年齢や国籍さえ超えるこういう魂のふれあいのために、人は生きているのではないかと思ったほどでした。
2.デンハーグ
amiさんに教えていただいたマウリッツハイス、とてもよかったです。
英語のオーディオガイドがとても充実しています。
フェルメールの「デルフトの眺望」、「青いターバンの少女」、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」等が素晴らしかった。
「マドゥローダム」という、東武ワールドスクエアのようなところもお勧めです。
なかなか仕掛けが凝っていて、大人でも楽しめます。行くのなら、小銭をたくさん用意してください。所定の小銭を入れると、いろいろなおまけの楽しみがあるアトラクションがあります。とくに、78番の木靴工場では、50セント入れると、ミニチュアのトラックがデルフト焼きの木靴の記念品を工場から運んできてくれて、それを観光客がお土産にもらって帰ることになっていて、楽しいです。
3.アムステルダム
(1)ゴッホ美術館
念願のゴッホ・ゴーギャン特別展。
今回の旅行は構想10年というこの展示を見るためのものでした。
すごい人でしたが、日本語のオーデイオガイドがとてもよくできていました。
二人の画家の出会い、同居、別離それぞれの時期に、どんなふうに影響を与え合ってきたかを、テーマ別に展示しています。
たとえば、1888年10月にゴーギャンがゴッホの黄色い家に来た時携えていた共通の友人ベルナールの「牧場のブルターニュ人女性」という絵を、ゴッホが模写したり、二人して同じ風景を描いたりしています。
ゴッホのゴーギャンを慕う気持ちはいじらしいほどで、ひまわりも、友情の象徴として、元々は、これで黄色い家を飾ってゴーギャンを歓待するために描いた作品でした。1888年8月に元々12枚描いた内、気に入った2枚だけを飾ることにし、その内の1枚がロンドンナショナルギャラリーにあるものです。花瓶にVincentのサインがあります。
安田火災の買ったものは、ゴッホがゴーギャンと同居中の12月に描いたもので、これは最近までClaude-Emile Schuffehecker(1861-1934)の贋作ではないかと疑われていました。(安田火災はいい面の皮と思われていたようです)しかし、今回この展示のための調査で、本物であることが確認されたのです。というのは、この作品だけジュートに描かれている(他はカンバス)のですが、そのジュートの繊維の流れ等を調べた結果、ゴーギャンが注文したジュートを二人で分けて使ったのだとわかったとのことです!ただし、花瓶にVincentのサインがありません。
ゴッホ美術館所蔵のものは、ゴーギャンが去った後、1889年1月に描いたもので、花瓶にVincentのサインがあります。
これら三つの作品が一堂に並ぶのは100年以上振りとのことです。それから、よく「14本のひまわり」と誤訳されていますが、14本の作品も初期にはありますが、この有名な三枚の絵はいずれも15本です。
「アルルの女」は、モデルのジノー夫人を、脇でゴーギャンがデッサンしている間に、ゴッホが熱に浮かされたように完成させてしまった作品ですが、ゴーギャンが残していったこのデッサンを元に、ゴッホは5枚も新しいアルルの女を描いて、その内の1枚をゴーギャンに送ったりもしています。
二人の決定的な違いは、想像力で描けるゴーギャンに対して、眼前にあるものしか描けないゴッホということにもありました。だから、ゴッホはモデルを雇う金がなかったこともあり、自画像や自己作品のコピーをあれほどたくさん描いているのです(ルーラン夫人の絵もたくさんある)。そのことは、1888年12月、ゴーギャンがゴッホがひまわりの絵を描いている肖像画(ひまわりの生花も入っている)を描いたこと(12月に生のひまわりはないはずだが、ゴーギャンには描ける)に端的に表れています。
ゴッホが描いた椅子も、一方は自分を象徴する、石の床にパイプとともにあるもの、一方はゴーギャンを象徴する、豪華な床に知性を象徴するろうそくと本が置かれているというように好対照になっています。
企画展の二人のそれぞれの(この展示における)最後の作品の演出もとてもきいています。ゴッホのは、糸杉の側にゴッホとゴーギャンらしい二人づれのいる絵、これを見て、いまだに友情の復活を信じる彼に涙が止まらなくなりました。ゴーギャンのそれは、タヒチで故国フランスを懐かしむあまり友人に送らせた種子からその庭に成長したひまわりを描いた「肘掛椅子とひまわり」です。ゴッホの影響を本人は強く否定したようですが。数々の現地妻の絵もあいまってゴーギャンの非情さとゴッホの純粋さが対比されている展覧会といえるでしょう。
それにしても、60以上の美術館から作品を借り、調査し、テーマ別に分類するという膨大な作業にはほとほと感心しました(ただし、ゴッホの耳切り事件直後の包帯した自画像はこの美術館所蔵なのに、この特別展ではコピーしか見せないというのはどういうこっちゃ)。
(2)国立美術館
英語のオーディオガイドが充実。見所の代表的な20絵画だけを外さないための地図もくれますので、まずそれを見てから残りを見るというのはどうでしょう。
レンブラントの「夜警」、フェルメールの「恋文」「手紙を読む女」「台所女」「デルフトの家並みの眺め」、ファン・ハーレルムの「ベツレヘムの嬰児虐殺」等が印象的でした。
4.キンデルケルク
のんびりした田舎の水郷地帯にたくさんの水車がある世界遺産です。7、8月の土曜日のうち1日は全部が回るそうですから、確認して合わせていったらどうでしょう
か。一つの水車だけ中を見せてくれます。管理人が、客がきた時だけ、どこからともなく自転車で現れるし、木靴を履いているのにもびっくり。
個人で行くとなると、ロッテルダムから地下鉄でZuidpleinにいき、154番のバスでまた1時間くらいなので、本数も少なく不便です。
ロッテルダムから、船で行くツアーが午前と午後2回(10:45と14:15)、12.5ユーロ、でていますから、それで行ったほうが効率的だと思います。
TEl:010-2183131, info@rebus-organisatiebureau.nl
ロッテルダムのインフォメーションで予約するのが一番わかりやすいと思います。