1942年3月4日、中部太平洋で合衆国艦隊を中心に編成された任務部隊の空母群が壊滅しつつあった時、印度洋での大英帝国艦隊による攻勢が開始された。ラングーンに対する艦砲射撃により日本軍を誘き出して叩く誘引撃滅戦を企図していたのである。当時ラングーンに駐留していたのはメイクテーラへの鉄道敷設の為の工兵師団だった。師団は工事区画を守備する治安維持を目的とした歩兵部隊と膨大な員数の工兵と人足が原油搬出の為の鉄道敷設工事を行っていた。大規模な上陸作戦が実施された場合、ひとたまりもないのは明らかだった。ラングーンからの悲鳴に近い救援を求める至急電が発信されていた。

『発、在ラングーン工兵第2師団 宛、大日本帝国緬甸方面軍司令部 写)第2機動艦隊司令部、本4日未明、敵はラングーンに対して海上よりの攻撃を実施せり。しかもその規模、戦艦5、空母3を主力とする大艦隊を以ってなり。敵上陸企図不明、至急来援を乞う』

最前線では2月早々に第15軍がダッカを攻略したものの3方向を5個師団に包囲され膠着状態が続いていた。だがラングーンが英軍の上陸により失陥した場合、逆に第15軍主力が緬印国境て孤立してしまう。然し主力だけでも6個師団を有する部隊である。占領地を放棄してラングーンを奪回してしまえば自力での孤立解消は可能である。だがそれこそが英軍の目的なのは明白だった。そんな事に時間を割いている間に雨期が到来するのだ。貧弱な道路は泥濘に沈み大軍の機動力は大幅に低下し、攻撃にも補給にも多大な支障が発生する。こうして英軍は印度防衛の戦略的優位を確保しようとしているその事は日本側でも充分認識されていた。


だが、英東洋艦隊が健在である事は日本側も把握していた。事前にマダガスカルの諜報員から英駆逐艦の入港が報告されていたからである。この時期に駆逐艦数隻をマダガスカルに入港させても何ら大勢に影響は与えない。結果、この情報は英艦隊の護衛艦艇を捕捉したものと判定された。英軍も蘭軍から戦艦6隻軽空母5隻重巡8隻の大艦隊が東南アジアに展開している事は既に掴んでいる筈だ。それに見合った戦力の艦隊を差し向けて来る事は容易に想像できた。よって日本海軍も印度洋での対応を疎かにしていた訳ではなかったのである。一方で本来の任務である蘭印攻略の支援を実施する必要も有ったが、3月第1週、3個師団に1個独混旅を合わせた戦力による豪州ポートダーウィンへの上陸作戦が実施された際には第2機動艦隊はシンガポールから出動せず、敢えて戦闘序列上は第1機動艦隊に所属していた第8艦隊の支援のみで任務を達成していた。


シンガポール在泊艦艇には緊急出動命令が発せられていた。

『第2機動艦隊は、5日黎明ラングーン湾突入を目途とし急速出撃を準備すべし』

この命令に従い、艦隊参謀連は第3水雷戦隊に対潜部隊の駆逐艦や水雷艇まで臨時に編入し、燃料が不足気味な戦艦や重巡も補給の時間を惜しんで出撃準備を進めさせていた。ラングーンに到達し、敵艦艇を排除して港に入港した後に補給を受ければ良いという割り切った判断である。一方、在シンガポールの台南空を始めとする陸攻部隊にも出撃命令が下達されていた。更に第3、第4航空戦隊にも出撃命令が下達された。既に周辺拠点の偵察を行っていた第2機動艦隊では英領ニコバル諸島に大規模な戦爆連合が集結しており同戦隊がラングーン沖の英艦隊を攻撃するにはこの敵航空隊の行動半径に入ってしまう事が判明していた。よって軽空母群はバンコク沖合に進出して敵空母を叩く作戦を取る事となった。この様な情勢判断から第2機動艦隊司令部が選択した作戦は、昼間の陸上攻撃機と空母艦載機による雷撃戦、夜間の水雷戦隊と主力部隊のラングーン湾への奇襲突入であった。これは戦前から研究され尽くされて来た漸減作戦そのものであった。


ここに至り第2機動艦隊司令官、南雲忠一中将は訓示を全艦隊に発した。

『第2機動艦隊は帝国陸軍と協力、全力を挙げてラングーン周辺の敵艦艇に対する総攻撃を決行せんとす。皇国の興廃は正にこの一挙にあり。我が艦隊は所属航空隊、水上艦艇の全てを投入して突入作戦を行う。これは一か八かの大博打だが、ここで決戦しなければ、印度侵攻打開の機会は二度と来ない』

更に参謀達を驚かせたのは、南雲司令長官自らも第9戦隊に座乗して全軍の先頭に立つと表明した事であった。第9戦隊は重雷装乙巡の北上と大井からなっている。水上部隊で最初に夜戦に突入する戦隊である。戦前から『剽悍』と部下からも評されて来た南雲中将らしい意志表明であった。こうして第9戦隊の旗艦大井には中将旗が掲げられる異例の事態が現出したのである。


英艦隊は午後になってラングーンの大日本帝国陸軍第5飛行師団の97式重爆約160機の攻撃を受け、駆逐艦2隻を喪失、軽空母イーグル中破の損害を受け、喪失艦乗務員の救助とイーグルの復旧に時間を取られ、午後に予定していた飛行場攻撃を一旦延期していた。艦隊防空を担うフルマー、シーファイア各戦闘機は日本の97式戦闘機180機の直掩によりレーダーによる早期警戒警報を受けていたにも関わらず任務に失敗していた。その軽快な機動性と数に圧倒されたからである。だが攻撃が陸上用爆弾による水平爆撃だけだった事から被害は最小限に抑えられていた。然し次に来襲した日本軍96式陸攻と1式陸攻合計211機の攻撃には先の陸軍航空隊との戦闘後に補給の為に着艦していた英戦闘機は対応出来ず、一挙に戦艦ロイヤルソベリン、ラミリーズ、レゾリューションが撃沈されてしまった。これは開戦当初、高雄とサンジャックに分散配備されていた各航空戦隊をシンガポールに集結させて蘭印攻略の支援に当たらせていた部隊が陸軍航空隊基地の有るチッタゴンに向けて通過爆撃を実施したものだった。更に軽空母部隊から戦爆連合131機が来襲し、駆逐艦7隻を撃沈した。水雷戦隊の夜襲のお膳立てはこうして整ったのである。


英艦隊からは特にシンガポール方面への哨戒がニコバル諸島の機体も動員されて行われていたが、日本艦隊は夕暮れになっても現れず、夜間索敵能力の無い索敵機は全て撤収していた。代わりに見張りを務める駆逐艦が5隻、艦隊から分派された。この時期、対空用とは異なり未だ有力な対水上見張りレーダーを装備していない英艦隊が日本水雷戦隊と遭遇したのはその時だった。


その10分程前、第3水雷戦隊旗艦由良の夜間見張員からの第1報が戦隊司令部に入っていた。

『敵艦らしきもの!右舷1時の方向、距離約8千』

南雲中将は旗艦大井から発光信号で

『全艦、右舷砲雷撃戦用意』

を発令した。報告は次々と入り始める。各戦闘配置でも砲雷撃戦の準備は即座に行われている。後は発射諸元だけだ。

『敵は先頭に戦艦らしきものを含む』

『敵は先頭から戦艦2』

『敵一番艦、距離6千』

橋本第3水雷戦隊司令官からの命令も発せられる。

『取舵10度』

丁字戦法を採るなら面舵を取って北東への進路変更が必要だが水雷戦隊の戦術行動は違う。まず反航戦態勢を整えて魚雷の第一波を送り込もうとしているのだ。全艦準備完了の報告と共に南雲司令長官から命令が発せられた。

『右舷隠密魚雷戦開始』

『爾後全艦突撃せよ!』

各艦から敵艦隊前方数kmに扇状に酸素魚雷が発砲炎や雷跡が見えないまま発射された。夜間とはいえ月齢15.7のほぼ満月に近い夜だった為、この魚雷一斉発射は荘厳にさえ見えた。敵が陣容をバラバラに崩さない限り、約4分後には敵艦隊の真ん中に数百本の魚雷が殺到するのだ。しかも隠密魚雷戦とは本来4万mの93式酸素魚雷の最大射程で実施される射法である。それをこの射距離で実施したのだ。魚雷の敵到達予定時間は1/5に短縮され命中率の大幅な向上が期待出来る。後は敵に発見される前に魚雷を再装填しつつ突撃あるのみである。それが水雷戦隊というものであり、日本海海戦以来の伝統であった。水雷戦隊旗艦たる由良が遂に探照灯を照らし英艦隊の一部を浮かび上がらせていた。その艦影に配下の駆逐艦が魚雷を放ち、5インチ砲を撃ちまくる。が、逆に探照灯を灯火した由良にも英艦隊の射撃が集中する。艦砲としては小口径の5インチ砲ではあったが、更に距離を詰めるとほぼ接射である。戦艦と言えどもバイタルパート以外の上部構造物に命中すれば無傷では済まない。日本側が単縦陣で隠密魚雷射撃を終えた後は、各艦共右舷に90度回頭し、横隊で近接して魚雷を放ち撤退していくのに対し、英国側は縦隊で見事に隊列を整え、近接を試みる日本水雷戦隊に損害を与えていた。最初に突入した3水戦と第9戦隊の軽巡、由良、北上は撃沈されてしまっていた。他にも駆逐艦1が沈没した。然し由良が沈む前に最後の砲撃が当たったかの様に英艦隊の単縦陣中央部付近で大音量と共に巨大な水柱が立て続けに発生した。隠密魚雷がその確率論を満たし命中したのだ。戦艦戦隊後尾に居たリベンジには致命的とも思える魚雷6本が、ウォースパイトにも3本が片舷に命中、艦隊運動は一気に乱れた。4隻の英駆逐艦も沈んでいった。第3水雷戦隊の襲撃も十数分後に唐突に終了した。だが、橋本少将は戦闘突入直前に司令部通信参謀に命令していた。

『現刻を以って一部無電封止解除、旗艦由良発信自由。後続主力戦隊に通信、我戦闘開始、時間、場所だ』

主力戦隊が暗がりの中、戦場に急行しつつあった。


結局、最後に発生した主力艦艇による艦隊決戦では、日本軍が乙巡鬼怒が撃沈されたのに対して英艦隊は、戦艦ウォースパイト、空母フォーミダブル、インドミタブル、イーグル、及び、駆逐艦多数を喪失、全滅してしまったのである。これで地球の2/3から連合軍艦艇はほぼ消滅した。日本側被害は大規模な海戦の割には少なく、中破以上の判定となった乙巡、駆逐艦は6隻に止まった。日本海海戦以来の完勝であった。


1942年3月に実施された連合軍統合作戦本部が企図した中部太平洋と印度洋での連携した海軍反撃作戦も、結果は日本軍は投入された航空機ので約半数を失って、以降の中部太平洋やニューギニアでの作戦に支障を来したが大型艦艇の喪失は無かったのに対して、連合軍は空母8隻とその全ての艦載機、及び、戦艦5隻を喪失という損害を出しながらも作戦目標を何一つとして達成出来なかった事から、連合軍の大敗との判定が下り終結した。この一連の海戦は構想の雄大さ、海域の広さ、参加艦艇の多さ、そして喪失艦艇の多さからギネス認定の史上最大の海戦となったが、何よりも行動中の戦艦が航空機に撃沈されるという史上初の戦果が挙がった事に注目が集まった。航空隊2個戦隊で3隻もの戦艦が失われるのなら、戦艦は最早無用の長物となってしまう。戦後も含めて未だに多くの議論を呼んでいるのはこの点も含めて多々有る。


ひとつは米艦隊は大西洋艦隊からの増援を待たずにもっと早い段階で攻勢に出るべきでは無かったか?というものである。戦艦大和、金剛、榛名、陽炎型駆逐艦の増援前で100機近い艦載機の補充完了前のタイミングなら米軍にも勝機は有ったとする意見は後々まで主張されていた。また英艦隊も、もしも悪天候だった場合には、航空攻撃は発生せずにその巨砲を活かした勝機が有ったのではないか?と言われてもいた。何れも歴史にifは無いと言いながらもそれを考えてしまう歴史マニアの言だが、それなりの説得力も有った。然し現実は変わりはしない。深傷を負った両陣営共、早急な態勢の立て直しと可能な範囲での作戦の継続が求められていた。この段階では誰にもこの戦争の出口は見えていなかったのである。


日本軍の攻勢計画『帝国国策遂行要領』は、その第4段作戦の半ば迄を達成していたが、一方で緬甸の印度方面軍以外は一旦攻勢限界を迎えつつあった。海軍の2つの機動艦隊の燃料と弾薬が前線で不足を来し始めていたからである。


1日、蘭印ではデリに第16軍が上陸した。クーパンの敵戦力が1個大隊程度である事を偵察で察知した日本軍は軽油の揚陸を待たずにこの地も4日には攻略、チモール島全域が日本軍の手に落ちた。


大陸では1日、大理の国民党軍5個師団を中支方面軍が撃破した。国民党軍残余は国境を越えて緬甸に撤退していった。4日、日本軍は引き続きミイトキーナを攻略、7日にはマンダレーを包囲していた英印軍2個師団を逆にバーモで包囲殲滅していた。この間、ミイトキーナは英印軍に奪還されていた。


然し4日、中部太平洋方面で日本軍がパルミュラを攻略した同日に連合国海軍の反撃が開始された。作戦名『フリントロック』と命名されたこの反撃計画はイギリス軍も加わった雄渾なものであった。第1撃は合衆国空母任務部隊による日本軍の海軍根拠地クェゼリンに対する奇襲攻撃とされた。パールハーバーの意趣返しを企図したのである。第2撃はイギリス海軍によるビルマ領ラングーンの日本軍飛行場に対する戦艦による艦砲射撃戦であった。厄介極まり無いジャップの空母部隊を屠り、ビルマ後方を叩く事により連合国は太平洋とインド洋の各々で一挙に戦勢の逆転を狙っていたのである。作戦の幸先は好調だった。ハワイとニューカレドニアのヌーメアから出撃してエリス諸島付近で合流した後にメジュロ近郊迄進出して艦載機を発進させる予定だった合衆国空母任務部隊は予定通り合流に成功、戦艦2、空母5、重巡4、軽巡5、駆逐艦20の堂々たる陣営でクェゼリンに進撃していった。


4日黎明、第17任務部隊の空母レンジャーとワスプから発艦した艦載機によるタラワ奇襲により作戦は幕を開けた。メジュロに来攻した合衆国艦隊にパルミュラに唯一の機動地上戦力たる第7師団を送ってしまい混乱した日本軍の隙を付いた攻撃は成功、97式大艇全機と共にタラワの飛行場はその機能を喪失した。然し合衆国軍はこの時、大きなミスを犯していた事に気付いていなかった。この攻撃は同方面の日本軍各根拠地に警報を発する事となってしまったからである。


初動でパニックを起こして出遅れた日本海軍だったが、反撃作戦は直ちに実行された。先ず空母部隊がメジュロ環礁の北側から夜陰に紛れて出撃し、米機動部隊と間合いを置いた後、艦載機による総攻撃を実施した。重巡ウイチタのCXAM対空レーダーが機影多数を探知したのは15分前の事であった。

『来たな、ジャップの雷撃隊だ。ベティやネルを艦隊に近付けるな!』フレッチャー少将の命令で空母エンタープライズ、レキシントン、サラトガからF4F3戦闘機隊121機が発進を完了していた。然し彼等は上空からほぼ同数の零戦に攻撃され、全機が撃墜破されてしまったのである。第1撃で逆に奇襲を受けた米艦隊は、空母ワスプ、レンジャーが27機の日本機撃墜の代償として失われた。


旗艦レキシントンに座上するフレッチャー少将は索敵で日本軍空母打撃群を発見出来ていなかったにも関わらず艦隊に当初予定通りにクェゼリン攻撃を下命していた。結果、残る3空母レキシントン、サラトガ、エンタープライズも日本軍の餌食となり南冥の海に沈んでいった。然し日本軍の損害も大きなものとなった。航空隊の実に半数を失ってしまったのである。陸軍ならば全滅判定である。不幸中の幸いとして本土での艦載機搭乗員の訓練は順調だった。それでも機材の生産と前線への搬送には数ヶ月を要するだろう事は誰の目にも明らかだった。


この時点で小澤艦隊司令長官は決断を迫られる事となった。残敵たる米水上打撃群を手元の第1機動艦隊水上打撃群で叩くか否か、珍しく彼は迷っていた。その心の内に分け入ってみよう。選択1は叩く、である。手元には戦艦1、巡洋戦艦4、甲巡6、及び、1個水雷戦隊がある。空母打撃群からの報告を精査するに敵は戦艦2、重巡4、大型軽巡5、駆逐艦多数の勢力である事は判明している。勝てる。負けはしない、と彼は確信していた。然し彼我の戦力は拮抗している。選択2は待機である。負けはしないが最低でも貴重な巡洋戦艦を傷つけてしまうリスクが高かった。今時大戦は日本海海戦を10回繰り返す様な完勝を続けなければならない、と彼は考えていた。艦載機が勢力を維持出来ていれば雷撃隊で戦艦を屠り、味方の戦艦が敵巡洋艦を巡洋艦が駆逐艦を叩いて完勝に持ち込む事も可能だっただろうが、既述の通り既に艦載機にはその能力は残されてはいなかった。


予想通り米艦隊は撤退を開始した。雷撃で船足が落ちていた空母を沈められてその艦隊速力は速まっていた。小澤艦隊司令長官は全軍に待機を命じていた。空母打撃群艦載機の勢力が回復した暁には必ず残敵を叩く事を彼は誓っていた。


一方で、この艦隊決戦の最中、イギリス任務部隊がラングーンの沖合いに到達していた。連合軍艦隊のツープラトン攻撃は未だ終わってはいなかったのである。


パソコンが壊れました。正確にはノート型パソコンのCDドライブが故障してCDが読み込めなくなったのです。こうして先代のパソコンは太平洋戦記のデータと共に廃棄されました。さらば先代。


仕事も忙しくなり1年近くもこの状態が続いていたのですが、アマゾンでWindows10のパソコンを遂に12K円で入手、再開出来る環境が整いました。


世の中、ゴルフだ、競馬だ。キャバクラだ、と金の掛かる親父趣味の愛好家が多い中、ハードソフト合わせて20K円で一生遊ぼうとは何たる慎ましやかな事でしょう。


連合軍の反撃の所迄ゲームを進める事も漸く叶いましたので、リプレイ3の続きをアップしていきたいと思います。

日本軍の攻勢計画『帝国国策遂行要領』は、その第4段作戦の半ば迄を達成していたが、一方で緬甸の印度方面軍以外は一旦攻勢限界を迎えつつあった。海軍の2つの機動艦隊の燃料と弾薬が前線で不足を来し始めていたからである。


1日、蘭印ではデリに第16軍が上陸した。クーパンの敵戦力が1個大隊程度である事を偵察で察知した日本軍は軽油の揚陸を待たずにこの地も4日には攻略、チモール島全域が日本軍の手に落ちた。


大陸では1日、大理の国民党軍5個師団を中支方面軍が撃破した。国民党軍残余は国境を越えて緬甸に撤退していった。4日、日本軍は引き続きミイトキーナを攻略、7日にはマンダレーを包囲していた英印軍2個師団を逆にバーモで包囲殲滅していた。この間、ミイトキーナは英印軍が進駐して奪還されていた。


然し4日、中部太平洋方面で日本軍がパルミュラを攻略した同日に連合国海軍の反撃が開始された。作戦名『フリントロック』と命名されたこの反撃計画はイギリス軍も加わった雄渾なものであった。第1撃は合衆国空母任務部隊による日本軍の海軍根拠地クェゼリンに対する奇襲攻撃とされた。パールハーバーの意趣返しを企図したのである。第2撃はイギリス海軍によるビルマ領メルギーに対する上陸作戦であった。厄介極まり無いジャップの空母部隊を屠り、ビルマ後方に橋頭堡を確保する事により連合国は太平洋とインド洋の各々で一挙に戦勢の逆転を狙っていたのである。


然し作戦の幸先は良く無かった。ハワイとニューカレドニアのヌーメアから出撃してエリス諸島付近で合流した後にメジュロ近郊迄進出、艦載機を発進させる予定だった合衆国空母任務部隊の内、ハワイから出撃した第11任務部隊が日本軍の次の目標がパルミュラ攻略であるとの情報を掴み、救援か回避かの激論の後に航路の迂回を余儀なくされ、合流に失敗したからである。結果、作戦は変更され、先ずクェゼリンに対しては第17任務部隊のみで攻撃を仕掛け、5日後に現場に到着する第11任務部隊は戦果拡大、乃至は初手でジャップの空母部隊殲滅に失敗した場合の反撃に加わる、とされたのである。これはイギリス海軍とも歩調を合わせる必要が有った事から大きく日程を変更出来ないと判断された結果であった。


4日黎明、第17任務部隊の空母ヨークタウンとワスプから発艦した艦載機によるクェゼリン奇襲により作戦は幕を開けた。メジュロに来攻した合衆国艦隊にパルミュラに地上戦力を送ってしまい混乱した日本軍の隙を付いた攻撃はほぼ反撃も受けず在泊していた潜水艦7隻を撃沈する事に成功していた。然し合衆国が当初の目標と定めていた日本軍空母任務部隊は在泊してはいなかった事から作戦には綻びが見え始めた。合衆国軍はこの時、大きなミスを犯していた事に気付いていなかった。この方面の根拠地と見做されていたクェゼリンの空母不在を合衆国第17任務部隊のフレッチャー少将は日本艦隊がパルミュラに出撃しているものと誤断してしまったのである。また行動秘匿の為にメジュロ環礁への事前偵察も行われていなかった。彼は無線封止を解除し、第11任務部隊にその判断に基づく警報を発した。日本空母部隊は貴艦隊周辺海域に移動した算極めて大なり、と。然し日本軍第1機動艦隊主力は皮肉にも合衆国艦隊の目と鼻の先であるメジュロ環礁に在泊していた。フレッチャー少将が完全にメジュロをノーマークだったのには理由が有った。メジュロ環礁は元々無人の島々からなる環礁であり、豪州軍配下の現地人からなる沿岸監視員が存在していなかった。開戦早々日本軍は予想外の戦果から、より布哇に近いこの環礁に戦前の予定を前倒しして拠点を移し、燃料弾薬の集積を行って来たのである。一方、クェゼリンでは監視員が全員捕虜になる前にハワイ奇襲から補給の為に帰還した第1機動艦隊主力の動向を正確に通報していた。こうして合衆国任務部隊の合流はますます遅延する事となったのである。


初動でパニックを起こして出遅れた日本海軍だったが、反撃作戦は直ちに実行された。先ず空母部隊が環礁の反対側から夜陰に紛れて出撃し、米機動部隊と間合いを置いた後、艦載機による総攻撃を実施した。重巡ウイチタのCXAM対空レーダーが機影多数を探知したのは15分前の事であった。

『来たな、ジャップの雷撃隊だ。ベティやネルを艦隊に近付けるな!』フレッチャー少将の命令で空母ヨークタウンからF4F3戦闘機隊21機が発進を完了していた。然し彼等は上空から数倍の零戦に攻撃され、全機が撃墜破されてしまったのである。第1撃で逆に奇襲を受けた米艦隊は、戦艦アイダホ、ミシシッピー、空母ワスプ、重巡ソルトレークシティ、軽巡オマハが57機の日本機撃墜の代償として失われた。そこに日本軍水上打撃戦部隊が突入して来たのである。


司令部を戦艦アイダホから重巡ウイチタに移していたフレッチャー少将は形勢不利と見るや合理的な判断として健在な空母ヨークタウンを守って第11任務部隊との合流を図ろうと現海域からの脱出の命令を下していたが日本軍は急速に間合いを詰めて来ていた。米艦隊が被弾して速力が低下していた重巡シカゴに合わせて21ノットで航行していたのに対して日本軍水上打撃戦部隊は艦隊最大速力の27ノットで肉薄しつつあったからである。ウイチタの艦橋見張員から報告が入った。

『水平線上にマスト多数!敵艦隊です!』

『敵だと?間違い無いのか?!』

『パゴダマストです。間違い有りません!』

その時、隣で双眼鏡を覗いていた参謀長がフレッチャー少将に質問してきた。彼はそれを二つの意味で違和感を感じた。1つ目は、彼が普段質問されたり意見を求められた時にだけ発言する事が参謀の役務だと信じ、実行している男だったからだ。2つ目は、その質問が頭脳明晰な彼から発せられたとは思えない程の愚問だったからだ。

『提督、あれは何でしょう?』

視界には1隻の戦艦と4隻の巡洋艦が映っていたが、直ぐにジャップの巡洋艦でパゴダマストを持った奴は居ない事に気付いた。では4隻が戦艦なのか?漸くフレッチャー少将も参謀長の質問の意味を理解した。では先頭のあれは、何だ?

『決まってる、あれは戦艦の化物さ』

フレッチャー少将はかろうじて司令官の威厳を保ったつもりだったがジョークのひとつも口には出せなかった。

『敵先頭艦発砲!』

観測員の報告がフレッチャー少将に更なる驚愕を与えた。まだ水平線上に現れたばかりだ。25マイルはある。そんなバカな!


大日本帝国の新鋭戦艦大和は対米英開戦直後に就役して約1ヶ月の慣熟訓練の後に第1機動艦隊の増援としてメジュロに回航されていた。これは同艦隊の水上打撃戦力が第2機動艦隊に比してかなり劣っている事、今後の米軍の反撃には16インチ砲を装備した新鋭戦艦が配備されで来ると予想される事、などの判断によるものだった。初戦の相手は新鋭戦艦でこそなかったが、空母1、大型重巡4、大型軽巡2、駆逐艦5の有力な艦隊である。然し水上打撃戦では戦艦5を持つ日本艦隊が一方的に米艦隊を叩く展開となってしまった。大和は4万メートル以上の距離から第1撃を放って、これを命中させていた。この一撃は米艦隊先頭艦ウイチタの艦橋、中央部、後部砲塔を直撃し、これを一気に轟沈させたのだ。ウイチタ司令部の全滅により米艦隊の統制は一気に崩れた。大和は日米艦隊の距離が詰まる迄に後2斉射を放った。それにより重巡ペンサコラとクインシーを轟沈させていた。続いて金剛型の4隻が射撃を開始した。残る重巡シカゴと軽巡ナッシュビル、アキレスも何ら反撃できないまま、瓦礫の山と化して駆逐艦5と共に沈んでいった。日本艦隊の損害は重巡戦隊の集中砲火で軽巡多摩が撃沈さたに留まった。日本艦隊の大勝利である。最後に大和の主砲が本隊から分離して退避を図っていた空母ヨークタウンを主砲で射撃して僚艦の後を追わせていた。


合衆国第11任務部隊では喧騒が拡大していた。

『パルミュラが陥落したのは確定情報だそうだ』

『第17任務部隊との交信も午後には途絶えたらしい』

『第17任務部隊はジャップの汚い罠にハマって全滅したらしい』

水兵達の何れの噂話も一部の真実を伝えてはいたが、そうだ、らしい、といった曖昧な単語を含むものばかりであった。だが第11任務部隊司令部でも状況はさして変わりはなかった。先発隊の第17任務部隊は日本空母任務部隊がパルミュラ方面に居るとの未確認情報を発信した後、我会敵セリの電文を最後に通信が途絶えていた。司令官のブラウン中将は迷っていた。確定情報が少な過ぎる。このままでは典型的なガベージイン、ガベージアウトになりかねない。参謀からは撤退の意見も具申されたがブラウン中将は決断した。西方への索敵を強化して、当初の合流ポイントであったエリス諸島ではなく、メジュロに向かう事が決定されたのである。然しこれは完全に失敗だった。これより3日の間に合衆国第11任務部隊も日本軍の艦載機による奇襲を逆に受け、第1波で戦艦コロラド、空母レキシントンを、第2波で空母サラトガ、エンタープライズ、駆逐艦1を撃沈されてしまったからである。そして先の海戦同様、日本艦隊水上打撃戦部隊が残余の合衆国艦隊に襲い掛かった。合衆国艦隊は重巡インディアナポリス、ノーザンプトン、ルイスビル、チェスター、軽巡リッチモンド、ホバート、リアンダー、コンコード、トレントン、駆逐艦11を喪失して文字通り壊滅した。対した日本艦隊の被害は軽巡木曽と駆逐艦1の喪失と駆逐艦6隻の中大破に留まった。


一方で、この艦隊決戦の最中、イギリス空母任務部隊がメルギーの沖合いに到達していた。連合軍艦隊のツープラトン攻撃は未だ終わってはいなかったのである。


1942年2月、日本軍の攻勢は衰えを見せていなかった。本土の燃料と弾薬の前線への輸送が順調だったからだ。鹿児島には足の長い特設巡洋艦が集められ、セメント、弾薬、鉄を占領地に搬出していた。また中速タンカーがメジュロとシンガポールに重油軽油を運び出してもいた。


蘭印では第14軍と第16軍の攻勢が継続されていた。1日、第14軍はメナドを、第16軍はバリに上陸していた。また第14軍の別働隊はメダンにも1個連隊を上陸させ、同地を制圧してもいた。7日にはマカッサル、メナドを、10日にはアンボン、ケンダリーを攻略した。この際、アンボン沖で海戦が発生していた。遠く孤立した比島のレイテに増援を送り込もうとした連合軍艦隊と日本軍第2機動艦隊の間での戦いである。連合軍はこの艦隊に米重巡洋艦アストリア、ミネアポリス、豪重巡洋艦オーストラリア、キャンベラ、駆逐艦7を護衛に付けていた。通常なら豪勢な護衛隊と称されてもおかしくない陣容だっだが相対する日本軍第2機動艦隊は戦艦6軽空母5、重巡洋艦8、軽巡洋艦4、駆逐艦20もの大艦隊であった。連合軍艦隊は鎧袖一触で全滅していた。16日にはハルマヘラが攻略された。


ここで日本軍は蘭印の内海化を企図して一気に豪州西海岸の制圧に動き出した。19日、レイテ増援艦隊を覆滅して士気が高まった第2機動艦隊はポートダーウィンに熾烈な艦砲射撃を加え、ブロックスクリークの飛行場を空襲したのだ。22日、すかさず第8艦隊が前者への上陸作戦を開始した。対艦砲撃で駆逐艦3、輸送船に擬装した特設砲艦2を失いながらも日本軍は陸軍3個師団の揚陸に成功、ポートダーウィンの豪軍は抵抗を諦め、上陸時に日本軍を苦しめた要塞砲をあっさり捨ててブロックスクリーク方面に撤退して行った。そのブロックスクリークも28日、日本軍の総攻撃を受けて陥落していた。


緬甸では1日、第15軍により遂にチッタゴンが空挺降下を含む5個師団により攻略され、印度国境は突破された。3日には交通ので要衝ダッカが続いて攻略され、第15軍の任務は達成されたのである。後は中支方面軍が印度方面軍に改称して北緬に侵攻するまでダッカで持久態勢に入るのである。3方向を敵に晒されたダッカでは1方向に集中して軍を進めるのは至難であったからだ。


中部太平洋では1日、ジョンストン島が第1機動艦隊に援護された第17軍により攻略された。第1機動艦隊は布哇、ミッドウェーを攻撃し、16日には第7師団により後者が攻略されていた。


大陸では1日、英徳包囲戦の間に再び衡陽を奪還していた国民党軍2個師団を中支方面軍が蹴散らし、3日には霊陵が攻略された。日本軍の攻勢は衰えず、6日には桂林が攻略された。このタイミングで予想通り国民党軍は戦力の少ない仏印の諒山(ランソン)に向けた脱出作戦を開始した。然し日本軍がこの地に陸揚げしていたのは256門に及ぶ要塞砲だった。国民党軍1個軍はこれらにアウトレンジで叩かれ日本軍に打撃らしい打撃を与える事も出来ずに撤退して行ったのである。日本軍柳州に無血進駐したがこれを見た国民党軍は諒山攻略を諦め柳州を全力で奪還した。然し南寧は日本軍第21師団に攻略され、この方面の国民党軍は柳州で包囲殲滅されてしまったのである。桂林を奪還した日本軍は独山、貴陽を攻略してこの地に5個師団を止め、残る4個歩兵師団、2個戦車師団、及び、軍直轄砲兵約600門で安順、六盤水、昆明、大理と侵攻を継続した。大理で5個師団の国民党軍国境警備軍に遭遇したがこれを背後から攻撃、国民党軍は国境を越えて緬甸に逃走して行った。


蘭印は2拠点の微弱な蘭印軍以外、全て日本軍の手に落ちていた。占領地の宣撫諜報を任務とする藤原機関は馬来の時同様に動き出していた。親日派と呼応して共和国政府として蘭印をインドネシアとして独立させ、民度を上げて原油増産を戦略的に図るのだ。緬甸からの印度侵攻は達成され第2ので矢である中支方面軍による緬甸侵攻も現実のものとなった。それ以前に大陸打通作戦は達成され、一部の中国共産軍と国民党軍が辺境て日本軍と対峙していた。更には中部太平洋に於いても布哇の前哨たるジョンストン、ミッドウェーが陥落、太平洋艦隊根拠地としての布哇が危機に晒され始めていた。


然し連合軍も手を子招いているばかりでは無かった。米英海軍が呼応した反撃作戦が着実に準備されつつあったからだ。太平洋、印度洋では大激戦の幕か切って落とされようとしていた。


1942年1月、日本軍の攻勢は継続されていた。緬甸では第15軍が3日にモールメンを攻略、続いて全力でラングーンを呆気無く陥落させ、爾後、モールメン奪還、トングー、メイクテーラ、マンダレー、ミンギャン、アキャブと進撃し、プロームで英印軍2個師団を包囲殲滅していた。この間、一旦アキャブは英印軍に奪還されたが第15軍の反転攻勢を受け、30日には再びアキャブは日本軍の手に落ちていた。こうして日本軍の印度侵攻の扉は開かれたのである。


比島では3日に蘭印戦への投入の為にサイパン攻略後にパラオに進出していた第8艦隊が、ダバオに新たに発見された飛行場制圧の為に派遣され、同地を攻略していた。


蘭印では3日に日本軍第16軍がパレンバンを無傷の精油施設共々攻略、待機していたリンガの工兵第2師団が早速鉄道建設に着手していた。6日にはブルネイに第14軍が上陸、攻略を果たしていた。続いて12日には第2機動艦隊がバリクパパンの飛行場を制圧している間にバンジェルマシンに第16軍が上陸、15日には無傷の精油施設共々バリクパパンを攻略していた。同日、第14軍はジャカルタに上陸していた。15日には第8艦隊がタラカン上陸を決行、これを攻略していた。同日、クチンにも日本軍が上陸していた。チラチャップは21日に、スラバヤは24日には無傷の海軍工廠共々攻略されていた。30日にはタウイタウイが攻略された。


大陸では12日に衡陽で大規模な会戦が生起していた。北支方面軍からの増援を受けた中支方面軍が火砲1817門、装甲車両262両を含む歩兵8個師団、戦車1個師団で侵攻したのである。迎え撃つ国民党西部軍主力は長沙の戦いの間に歩兵14個師団を数える大兵力を進出させていたが、火砲は235門のみであり、装甲車両に至っては皆無の人海戦術であった。結果は日本軍にも1個師団弱の被害が出たものの、国民党軍は3個師団弱の被害を被って敗退する事となったのである。その後、中支方面軍は上海の第23軍との打通を図る為、来陽、楽昌に騎兵による武装強行偵察隊を向かわせ英徳の国民党軍の誘引を画策した。21日には国民党軍第4戦区張発奎将軍はこの策に引っ掛かり来陽迄を奪還したが後方を日本軍第23軍に遮断されて来陽で中支方面軍主力の包囲攻撃を受け壊滅してしまっていた。これにより日本軍は釜山から上海、香港迄の打通を達成したのである。だがそれも束の間、国民党軍西部軍はその間に再び長沙迄侵攻していた。然しこれも日本軍の狡猾な罠であった。来陽から出撃した日本軍は衡陽の2個師団の国民党軍を蹴散らし長沙の国民党軍10個師団を全力で包囲攻撃、これを殲滅してしまったのである。


こうして日本軍の攻勢は当初予定より大幅に前倒しで実施されて行った。また、連合国軍の1月1ヶ月の損害はコマンド部隊揚陸用の小型艦艇25、潜水艦28に上ったのである。一方の日本軍は更なる攻勢を企図、クェゼリンからメジュロに根拠地を移した第1機動艦隊は布哇前面のジョンストン島の攻略に向けて現地で編成が完了した高射第1師団と第7師団により編成された陸軍第17軍を護衛して出撃しようとしていた。また第2機動艦隊も西オーストラリア侵攻に向けてシンガポールで補給を受けていたのである。


1941年12月27日、比島では平地で塹壕もろくに用意出来ていないサンフェルナンドで孤立していた米比軍がマニラからの日本軍主力の包囲攻撃を受け、あっさりと降伏してしまっていた。これでルソン島の米比軍は壊滅する事となり、この島での戦いは終幕を迎えたのである。然し日本軍では偵察の結果、未だミンダナオ島には相当数の中型爆撃機を保有する米軍飛行場が確認されて、第8艦隊の急襲によりこれを占領する等の戦闘が継続されていた。


大陸では北支方面軍主力が太原を守備していた3個歩兵師団と合流して鄭州に復帰していた。軍は次なる目標を信陽と定めていた。然し信陽の国民党軍は当初から1個師団程度の戦力であり、漢口からの連日の空襲にも晒されていた事から全力での攻撃は返って敵が窮鼠となる事を懸念して歩兵部隊は5個師団程度に抑えた攻撃を決定していた。これは鄭州前面の洛陽の国民党軍歩兵部隊が増強されていた事にも影響されていた。日本軍の攻撃の結果、信陽での包囲戦は日本軍に数十名の損害を与えただけで国民党軍第85軍第3軍団は降伏するに至った。


一方、中支方面軍主力による衡陽奪還は停止されていた。衡陽には国民党西部軍約10個師団もの戦力が第2次長沙包囲戦の間に進駐していた。対する日本軍はこれを9個歩兵師団と2個戦車師団で押し返そうとしたが、戦力が拮抗していた為、支那派遣軍はこの攻勢を裁可しなかった。日本軍は北支方面軍の増援を待って敵を撃滅する安全策をとったのである。これは開戦前の大陸での決戦回避の方針に即した判断であり中支方面軍からも反対意見は少数派に留まった。こうして上海への打通は先送りとなったが、それは戦理に適った判断でもあった。


馬来では日本軍の攻勢は継続していた。クアラルンプールへの日本軍第25軍3個師団の侵攻に対して約1個師団の英軍はまたも撤退を選択した。日本軍にとって政治的戦略的目標であるシンガポールへの道は開かれたのである。


この日、開戦以来初めての米軍による反攻作戦が実施された。海軍第1陸戦隊が進駐したばかりのタラワに対する海兵連隊による奇襲上陸である。然しこれは無謀な作戦だった。タラワには既に97式大艇が進出して哨戒網を張っていたからである。米軍の小艦隊はこの網に掛かり、直ちにクェゼリンから発進した海軍第24航空戦隊の千歳空の96式陸攻36機の迎撃を受けた結果、海上で全滅してしまっていた。数百名が艦と運命を共にし、数十名がゴムボートで海上に逃れた。半数は米海軍のカタリナ飛行艇に救出されたが半数はタラワに進出していた特設砲艦に拾い上げられ日本軍の捕虜となった。捕虜となった米軍海兵隊士官はジュネーヴ協定に基づく将校待遇と食事にワインを付ける事を日本軍に要求して、英語の分かる元英語教師だった日本軍舞鶴陸戦隊伍長の通訳を聴いた軍曹に斬り殺されかけたが、内田中隊長に制止され、中隊長からケンタッキー製のバーボンを進呈されていた。


連合軍の反撃は海中からも仕掛けられ、海上交通の要衝カムラン湾やリンガ泊地沖の艦隊が連合軍潜水艦隊の襲撃を受けたが何も日本軍の特設水上機母艦から発進した水上偵察機に発見されて撃退されていた。


1941年12月30日、遂に日本軍第25軍によるシンガポール攻略作戦が開始された。先ず最初に動いたのは海軍第2艦隊だった。カムラン湾で燃料と弾薬を最大限補給した艦隊は2日掛かりでシンガポール沖に到達、16インチ砲16門と8インチ砲80門で内陸部の陣地帯に対する艦砲射撃を見舞った。次に行動を開始したのはサンジャック飛行場で待機していた空挺部隊だった。零戦43機の護衛の下、35機の陸軍100式輸送機と海軍零式輸送機は4時間程でシンガポール上空に到達、降下を開始した。その直前、クアラルンプールから第25軍の3個師団がジョホール・バル水道の渡河を開始していた。敢えて難しい西側からの渡河を実施した日本軍は馬来半島の方向に急増された陣地を各所で突破して一気に攻勢を強めた。英軍も善戦したが一般の民間人の被害を恐れた英本国の意向も有り、3日後に英軍は未だ戦力を残したまま降伏した。こうして遂にシンガポールは日本軍の手に陥ち、馬来半島での電撃戦は幕を閉じたのである。


一方、蘭印では新たな日本軍の行動が開始されていた。スマトラ島の要衝たるリンガ泊地への奇襲上陸が敢行されたのである。蘭印軍はCW21デモン戦闘機43機とマーチン166軽爆44機による空からの反撃を試みた。然し日本軍は4隻の軽空母に搭載されていた零戦41機、96式艦戦29機による迎撃を行い対空砲火と合わせて30機を撃墜、爆撃に成功した軽爆は13機に過ぎず、戦果は輸送船1隻を大破させるに留まりリンガ泊地への上陸作戦は予定通りに実施された。日本軍は対艦砲撃て駆逐艦1隻を失いながらも第16軍2個歩兵師団全力の揚陸に成功、蘭印軍は踏み止まらずにパレンバン方面に撤退していった。


更に緬甸では第15軍の戦闘序列が発令され、国境のイエには第52、54、55、56各師団が到着していた。先ず泰王国第1師団と合流したこれらの戦力で既に陣地帯を空襲で破壊されているモールメンの突破が決定されていた。


クェゼリンには既に第7師団が到着していたが、日本本土や大陸からの高射砲、対空機関砲の搬入も進み、200門の高射砲と66門の対空機関砲を主力とした高射第1師団が現地で編成され、第17軍の戦闘序列が発令されていた。搬入は更に予定されていたが、第1機動艦隊への燃料、弾薬の補給と増援の戦艦大和、金剛、榛名、最上型甲巡4隻、陽炎型駆逐艦が揃った所でジョンストン島、ミッドウェー島の攻略作戦が開始される事が決定していた。


こうしてルソン島、馬来での戦いは終幕を迎えたが、比島の戦いは継続され、緬甸、蘭印、西太平洋では新たな戦いの幕が切って落とされようとしていた。開戦の1941年の年末の月、一気に数多くの日本軍の作戦が実施され、連合軍は戦艦10、巡洋艦19、駆逐艦48、その他6を失って壊滅した。戦史史上に残る大戦果だった。対する日本軍の損害は上陸作戦時の対艦砲撃で失った駆逐艦2、掃海艇1のみであった。然し1942年以降の戦いの趨勢を予測出来る者はこの世界の何処にも居はしなかった。


1941年12月27日、比島では平地で塹壕もろくに用意出来ていないサンフェルナンドで孤立していた米比軍がマニラからの日本軍主力の包囲攻撃を受け、あっさりと降伏してしまっていた。これでルソン島の米比軍は壊滅する事となり、この島での戦いは終幕を迎えたのである。然し日本軍では偵察の結果、未だミンダナオ島ダバオに相当数の中型爆撃機を保有する米軍飛行場が確認された為、第8艦隊の急襲によりこれを占領する等の戦闘が継続されていた。


大陸では北支方面軍主力が太原を守備していた3個歩兵師団と合流して鄭州に復帰していた。軍は次なる目標を信陽と定めていた。然し信陽の国民党軍は当初から1個師団程度の戦力であり、漢口からの連日の空襲にも晒されていた事から全力での攻撃は返って敵が窮鼠となる事を懸念して歩兵部隊は5個師団程度に抑えた攻撃を決定していた。これは鄭州前面の洛陽の国民党軍歩兵部隊が増強されていた事にも影響されていた。日本軍の攻撃の結果、信陽での包囲戦は日本軍に数十名の損害を与えただけで国民党軍第85軍第3軍団は降伏するに至った。


中支方面軍主力は衡陽奪還の為の攻勢に打って出ていた。衡陽には国民党軍約10個師団もの戦力が第2次長沙包囲戦の間に進駐していた。日本軍はこれを9個歩兵師団と2個戦車師団で押し返そうとしていた。戦力が拮抗していただけあって戦闘は激戦となった。日本軍の総攻撃に対して国民党軍が逆撃に出たのである。然し砲兵で5倍、装甲車両で277両対ゼロの優位性を活かした日本軍が押し切り、日本軍に2個師団弱、国民党軍に2個師団強の損害を出して衡陽は再び日本軍の手中に陥ちた。これにより日本軍は第23軍が確保している上海への打通の拠点を確保する事に成功した。


馬来でも日本軍の攻勢は継続していた。クアラルンプールへの日本軍第25軍3個師団の侵攻に対して約1個師団の英軍はまたも撤退を選択した。日本軍にとって政治的戦略的目標であるシンガポールへの道は開かれたのである。


この日、開戦以来初めての米軍による反攻作戦が実施された。海軍第1陸戦隊が進駐したばかりのタラワに対する海兵連隊による奇襲上陸である。然しこれは無謀な作戦だった。タラワには既に97式大艇が進出して哨戒網を張っていたからである。米軍の小艦隊はこの網に掛かり、直ちにクェゼリンから発進した海軍第24航空戦隊の千歳空、横浜空、木更津空の96式陸攻75機の迎撃を受けた結果、海上で全滅してしまっていた。数百名が艦と運命を共にし、数十名がゴムボートで海上に逃れた。半数は米海軍のカタリナ飛行艇に救出されたが半数はタラワに進出していた特設砲艦に拾い上げられ日本軍の捕虜となった。捕虜となった米軍海兵隊士官はジュネーヴ協定に基づく将校待遇と食事にワインを付ける事を日本軍に要求して、英語の分かる元英語教師だった日本軍舞鶴陸戦隊伍長の通訳を聴いた軍曹に斬り殺されかけたが、内田中隊長に制止され、中隊長からケンタッキー製のバーボンを進呈されていた。


1941年12月30日、遂に日本軍第25軍によるシンガポール攻略作戦が開始された。先ず最初に動いたのは海軍第2艦隊だった。カムラン湾で燃料と弾薬を最大限補給した艦隊は2日掛かりでシンガポール沖に到達、14インチ砲20門と8インチ砲30門で内陸部の陣地帯に対する艦砲射撃を見舞った。次に行動を開始したのはサンジャック飛行場で待機していた空挺部隊だった。零戦43機の護衛の下、35機の陸軍100式輸送機と海軍零式輸送機は4時間程でシンガポール上空に到達、降下を開始した。その直前、クアラルンプールから第25軍の3個師団がジョホール・バル水道の渡河を開始していた。敢えて難しい西側からの渡河を実施した日本軍は馬来半島の方向に急増された陣地を各所で突破して一気に攻勢を強めた。英軍も善戦したが一般の民間人の被害を恐れた英本国の意向も有り、3日後に英軍は未だ戦力を残したまま降伏した。こうして遂にシンガポールは日本軍の手に陥ち、馬来半島での電撃戦は幕を閉じたのである。


一方、蘭印では新たな日本軍の行動が開始されていた。スマトラ島の要衝たるリンガ泊地への奇襲上陸が敢行されたのである。蘭印軍はCW21デモン戦闘機43機とマーチン166軽爆44機による空からの反撃を試みた。然し日本軍は4隻の軽空母に搭載されていた零戦41機、96式艦戦29機による迎撃を行い対空砲火と合わせて30機を撃墜、爆撃に成功した軽爆は13機に過ぎず、戦果は輸送船1隻を大破させるに留まりリンガ泊地への上陸作戦は予定通りに実施された。日本軍は対艦砲撃て駆逐艦1隻を失いながらも第16軍2個歩兵師団全力の揚陸に成功、蘭印軍は踏み止まらずにパレンバン方面に撤退していった。


更に緬甸では第15軍の戦闘序列が発令され、国境のイエには第52、54、55、56各師団が到着していた。先ず泰王国第1師団と合流したこれらの戦力で既に陣地帯を空襲で破壊されているモールメンの突破が決定されていた。


クェゼリンには既に第7師団が到着していたが、日本本土や大陸からの高射砲、対空機関砲の搬入も進み、200門の高射砲と66門の対空機関砲を主力とした高射第1師団が現地で編成されて、第7師団とで第17軍が編成されていた。搬入は更に予定されていたが、第1機動艦隊への燃料、弾薬の補給と増援の戦艦大和、金剛、榛名、最上型甲巡4隻、陽炎型駆逐艦が揃った所でジョンストン島、ミッドウェー島の攻略作戦が開始される事が決定していた。


連合軍の反撃は海中からも仕掛けられ、海上交通の要衝カムラン湾やリンガ泊地沖の艦隊が連合軍潜水艦隊の襲撃を受けたが何も日本軍の特設水上機母艦から発進した水上偵察機に発見されて撃退されていた。


こうしてルソン島、馬来での戦いは終幕を迎えたが、比島の戦いは継続され、緬甸、蘭印、西太平洋では新たな戦いの幕が切って落とされようとしていた。開戦の月に、以降の戦いの趨勢を予測出来る者はこの世界の何処にも居なかった。


1941年12月18日、馬来では分散した部隊の集結が継続されており目立った戦闘は発生しなかったが、大陸では重大な戦闘が開始されていた。大陸打通作戦である。現下の前線進出点を挟撃により連接して連絡線を打通、然も局地的攻勢では無く北京から上海、香港、更には遠く仏印の諒山(ランソン)迄を一気に打通して南方との陸路での連絡を可能にしようとする日本陸軍建軍以来の一大作戦である。動員師団も歩兵師団15個以上、戦車師団3個、軍直轄砲兵1600門、これを航空機300機が支援する態勢が整えられていた。支那派遣軍隷下の各方面軍は一斉に行動を開始していた。


まずはその第一段階たる北京〜漢口間約1.500km、京漢線打通『コ号作戦』が発令されたのである。北支方面軍は鄭州に対して9個歩兵師団と2個戦車師団による強襲突破を実施した。日本軍が砲兵1381、装甲車両267両を投入したのに対して砲兵は250を数えるのみで装甲車両に至っては皆無の国民党軍第85軍は先の開封誘引撃滅戦で戦力をすり減らしてしまっていた上に、更に軍を3つに分散させてしまっていた為にこの圧力に耐え切れず重砲と陣地を放棄して戦わずに撤退していった。追い討ちを掛ける様に日本軍が転進する際に塹壕まで埋められて平地にされていた信陽に漢口からの99式襲撃機が地上部隊に空襲を仕掛けた為、国民党軍は大隊規模の人的被害を被っていた。


一方、中支方面軍(米英戦開始と同時に中支派遣軍から改組、支那派遣軍配下の戦闘序列発効)も南昌に集結した6個歩兵師団と1個戦車師団による長沙攻略か実施された。大陸打通『ト号作戦』の開闢である。国民党軍第9戦区薛岳将軍は日本軍の誘引撃滅戦に於いて前回の結果から戦訓を学ばず強引な突撃を繰り返していた。結果、この反撃の際には既に自軍戦力が枯渇してしまっており、戦わずに追撃の損害を上積みしつつ衡陽に撤退していった。これにより国民党軍は、霊州、信陽、岳陽に実に14個師団もの兵力が孤立する事態に陥ってしまったのである。


1941年12月21日、北支方面軍は鄭州に2個師団の守備隊を残して霊州を後背から突いた。守備隊を残したとは言え7個歩兵師団と2個戦車師団、砲兵1165、装甲車両262両にも及ぶ大兵団である。砲兵272、装甲車両皆無の国民党第85軍の第1軍団は日本軍の1回の総攻撃で士気を喪失、6万名もの捕虜を出して崩壊してしまった。


中支方面軍は第1次長沙会戦の直後にこれを放棄し、全力で岳陽ではなく衡陽を攻撃した。防衛を担当していた国民党軍第10軍方先覚将軍は長くこの地に赴任していた事もあり地形を活かした防御陣地を営々と構築してきた経緯もあって巧みな防衛戦を展開した。だが先の南昌誘引殲滅戦の損害補填に兵力を引き抜かれ、また撤退して来た薛岳将軍とも連携が上手く出来なかった為、住民も引き連れて零陵に撤退した。一方で長沙がガラ空きになったと考えた岳陽の国民党軍第131師団長闞維雍将軍は全戦力を挙げて長沙を奪回した。岳陽も長沙失陥により孤立化していたのでこれは間違った判断ではなかった。が、これも日本軍の罠であった。彼等は思惑通りに隙の出来た堅陣の岳陽は漢口の第11軍に占領させ、国民党軍は陣地の無い長沙で包囲される事となったのである。信陽に取り残された第85軍第3軍団の1個師団はまたも漢口からの空襲を受け、1個大隊の損耗を強いられていた。


同日、比島ではサンフェルナンドの米比軍が日本第14軍の侵攻に対しての防御戦を諦め、マニラに撤退していた。そのマニラには第2艦隊が沖合に現れ、要塞線を艦砲射撃で叩いていた。台湾からの空襲も飛行場から陣地帯への攻撃に切り替えられていった。


遠く東に離れたウェーク島では天候の回復に伴い海軍木更津航空隊がクェゼリンに進出して80機の96式陸攻21型で空襲を実施、1回の空襲で飛行場を無力化していた。そのタイミングで第5艦隊が沖合に到着、砲撃で海防艦1隻を、上陸後の地上戦で150名の人的被害を出しながらも同島を攻略した。


1941年12月24日、大陸では第2次長沙会戦が勃発した。衡陽に有った中支方面軍主力歩兵6個師団と戦車1個師団が長沙で包囲されていた国民党軍に全力で攻撃を開始したのである。歩兵戦力で同等、砲兵戦力で726対324、装甲車両120対ゼロの戦力比での包囲戦は国民党軍の士気の低さから日本軍側が当初から有利で日本軍側にも1個師団相当の被害が生じたものの1日で国民党軍は降伏してしまった。一方の日本軍は岳陽の部隊と合流して戦力を8個歩兵師団と1個戦車師団に増強させていた。


比島では首都マニラでの攻防戦が遂に開始されていた。日本軍主力の第14軍の攻撃は3個機動歩兵師団から後方の占領地治安維持部隊を除いた戦力が投入され、約1個歩兵師団の米比軍を呆気無く降伏に追い込んでいた。直後にバターン要塞の米軍が空になっていたサンフェルナンドを占領したが、これは日本軍の罠だった。カムラン湾に向かっていた部隊の一部が翌日にバターン沖に到着、逆上陸作戦を実施したのである。結果、ルソン島最後の米比軍地上戦力は強固なバターン要塞ではなく無防備なサンフェルナンドにて包囲される事となった。


馬来でも遂に第25軍の南下が開始され、ペナンが早々に陥落していた。クアラルンプールを抜けばシンガポールは指呼の距離である。サンジャックには既にシンガポール飛行場を無傷で接収して次のパレンバン精油施設を無傷で接収する為の空挺作戦を実施する陸海合同空挺大隊が集結を終えていた。


緬甸(ビルマ)方面でも日本軍が動き出した。イエの防衛に専念していた日本軍だったが、サイヨクへの第3飛行集団、第5飛行集団の集結完了に伴い、モールメンへの空襲が開始されたのである。初戦の空戦では飛行第64戦隊の新鋭機『隼』が英軍のハリケーンを圧倒、制空権を得て99式襲撃機、99式軽爆、97式重爆により実施された空爆で同地の飛行場と陣地は完全破壊されてしまっていた。


陸軍の増援部隊はカムラン湾に続々と到着し始めていた。その中から第19、第20の2個歩兵師団は蘭印リンガ上陸作戦に向けて高速輸送船に乗り変え、第16軍の戦闘序列が発令されていた。本来なら比島作戦を終えた第14軍隷下の師団が担う筈だった蘭印作戦を前倒しで実施する為の施策である。その間に海軍では護衛艦隊編成の為、第3、第4航空戦隊はサンジャックで台南空の零戦と本土で生産され訓練飛行を終えたばかりの対地攻撃用の99式艦爆を搭載、カムラン湾では扶桑、山城、伊勢、日向の第2戦隊に本土から運ばれて来た燃料と弾薬が補給され、特型駆逐艦からなる第3水雷戦隊にも燃料が満載されていった。


年末に向け、幾つかの戦いの終幕と新たな戦いの開幕が近付いていた。


第1機動艦隊旗艦赤城艦橋では激烈な議論が展開されていた。艦隊参謀長の草鹿龍之介少将が艦隊の本土帰還を司令官の小澤治三郎中将に進言したのである。戦艦3隻を撃沈し、5隻を撃破し、更に巡洋艦8隻と20隻以上の駆逐艦を撃沈したのである。史上類を見ない大戦果であった。これを以って当初の計画は完遂されたと草鹿少将は発言した。横須賀を離れる際に山本聯合艦隊司令長官から、日本は工業力では米国に太刀打ち出来ないので、なるべく船を無傷で持ち帰って欲しい、と小澤艦隊司令官に話していた場に同席していたからでもあった。現状なら艦載機が布哇で29機、ジョンストン島で2機失われただけだった。


然し航空参謀の源田実中佐はこれに猛反発したのである。指呼の先に戦艦が5隻も残っている。米国の工業力なら数ヶ月以内に修復して西太平洋に現れ、日本側の優位性を覆す事となるであろう。それを事前に回避する千載一遇のチャンスが正に今である事は誰の目にも明らかではないか、と彼は確信していた。両雄の机上決戦を聴いていた小澤治三郎中将が議論が出尽くしたタイミングで決断を下した。布哇再攻撃である。敵航空戦力の残余を駆逐した後、在泊艦艇を徹底的に叩く方針が下命された。何事も徹底しなければ気が済まない小澤中将らしい決断だった。議論する迄が参謀の仕事である事を理解している草鹿参謀長も直ちに再攻撃の手順を源田参謀らと練り始めていた。


作戦は至って簡潔なものとして小澤司令官に上奏された。一気に布哇沖迄突入して飛行場に艦砲射撃と空襲を仕掛けて敵航空戦力を覆滅した後、真珠湾内に残る敵艦を撃滅するのだ。米航空戦力による反撃がリスクとして認識されていたが艦隊全力で未だ116機を数える零戦を突入前に全て艦隊直掩として上げておくという大胆な対策を以って対応する事が提案されていた。行方不明の米空母が万一にも奇襲を掛けて来ない様に艦隊南方には9線18機の零式水偵による2段索敵が行われる事も作戦には付帯されていた。1時間程度で策定された作戦としては異常に綿密なものである。実は布哇作戦が起案された当初から聯合艦隊では第2次攻撃の事前シナリオが小澤司令官直々の命令で状況別に準備されていたのである。草鹿参謀長以下はこれに現状を加味した作戦を早々に立案出来たのだった。作戦を直ちに裁可した小澤司令官は布哇再攻撃を正式に命令すると共に全艦隊に対する訓示を発した。

『第1機動艦隊は全力を挙げて布哇に対する総攻撃を決行せんとす。皇国の興廃は正にこの一挙にあり。我が艦隊は所属艦艇、艦載機の全てを投入して突入作戦を行う。これは一か八かの大博打だが、ここで決戦しなければ、米太平洋艦隊覆滅の機会は二度と来ない』


第1機動艦隊が布哇沖に現れ、14インチ砲と8インチ砲による飛行場への艦砲射撃を開始する直前、ハワイの合衆国太平洋艦隊司令部と在ハワイ駐留陸軍司令部は共に混乱の極に達していた。艦隊の接近を上陸作戦の開始と誤認したからである。大口径砲の射撃とほぼ同時に開始された米軍の航空反撃は零戦隊に殆どが撃墜されてしまい残る航空機も対空砲火で壊滅してしまっていた。日本艦隊の突入は成功したのである。真珠湾には日本軍の攻撃隊が殺到して生き延びていた戦艦ペンシルバニア、テネシー、カリフォルニア、ネバダ、アリゾナは駆逐艦1と共に完全破壊されて横転、または爆発炎上してしまった。


その頃、日本本土から一斉にクェゼリン、ユエ、カムランに向けて陸軍の増援を満載した輸送船団が抜錨していた。一方、馬来での陸上戦闘は集結と補給の為に一旦停止していたが比島では第14軍は軽油の補給を待たずにアパリ攻略を決行していた。大陸でも大規模な打通作戦の為、信陽の第6方面軍が南昌に転進、第1軍は霊州から太原に転進して両都市を敢えて国民党軍に明け渡し、鄭州の戦力を半分以下に減退させると共に開封の第12軍に関東軍からの増援を加え8個歩兵師団と大量の軍直轄砲兵を集結させていた。中部太平洋ではグァム島が海軍陸戦師団と陸軍南海支隊により攻略され、タラワにも海軍第1陸戦隊が進駐を果たしていた。


ハワイ、シンガポール奇襲の報告を受けていた東インドでは、カレル・ウィレム・フレデリック・マリー・ドールマン少将の驚愕と苦悩はその極に達していた。

彼にとっての最初の驚愕は、開戦劈頭に英東洋艦隊の二大戦艦がジャッブの奇襲を受け、シンガポール港内で呆気無く爆沈してしまった事だった。彼はそれらと合流する事によってABDA艦隊戦力の大幅な増強を図るべく、バタビアやスラバヤに分散していた艦隊を纏め、このリンガ泊地にまでやって来たのだ。だが思惑は外れた。結果彼の指揮下には以下の艦隊が残った。


重巡

ヒューストン(米)
エクゼター(英)
軽巡

ボイス(米)
マーブルヘッド(米)
パース(豪)
ジャワ(蘭)
トロンプ(蘭)
デ・ロイテル(蘭)
駆逐艦

25隻


彼を更に驚愕させたのは、ハワイの真珠湾もジャップの奇襲を受け、米太平洋艦隊水上打撃部隊が壊滅したとの情報が届いた事だった。
『ジャップの航空攻撃は停泊中なら戦艦さえ撃破出来る程の威力を持っているのか?奴等に英海軍に匹敵する技量や技術が有るとでも言うのか?……冗談では無い!』
世界の半分から彼が率いるABDA艦隊以外の西洋の艦隊が消滅した現実は、報告を受けて間も無い彼にとっては当然ながら受け入れ難い事態だった。

そこに今朝の凶報が彼をまたしても驚愕させた。ジャップがこのリンガ泊地の目と鼻の先にあるシンガポールに大艦隊による艦砲射撃を実施したのだ。昨日の事だと言う。
『しかし大艦隊とは何だ?敵戦力の規模も、ましてや編成といった作戦立案や出撃判断に不可欠な情報がこの報告には全く含まれていない』
それだけ味方が混乱しているからだという事は彼にも察しが付いたが、そんな味方に同情は出来ない。逆にジャップに向けるべき殺意に近い怒りが味方に対して迄込上げて来る。
『我々には未だ強力な艦隊が有る。陸上を艦砲射撃する程度の敵艦隊なら充分に対応可能な筈だ。そもそも卑怯な奇襲でロシアやドイツの権益を奪って来た黄色人種が真っ向から我々西洋の艦隊に敵う筈が無いではないか』

彼は全艦隊に出撃命令を発した。ジャップはアメリカとの艦隊決戦の為に主力艦隊を中部太平洋に展開している筈だ。第2戦線の敵巡洋艦隊や水雷戦隊なら我々が優位だ。彼にはそう言った目算があった。だが、日本軍の主目標は、彼の居る東インドだと言う事を彼は知らなかった。ABDA艦隊は日本艦隊がシンガポール沖に居る事は分かっていたので奇襲を仕掛けるべくリンガ泊地を出撃した後、一旦東北東に移動して日本艦隊の後方から単縦陣で突入する作戦を立てていた。然し会敵は彼等の予想を2つの意味で裏切った形となった。先ず日本艦隊はシンガポールには居なかった。ABDA艦隊がリンガの北方500キロに達した時に艦隊遭遇戦が開始されたのである。日本軍は敵艦隊の出撃を蘭印に潜ませていた藤原機関の要員に監視させてその情報を事前に入手していた。然もABDA艦隊は先手を取られていた。距離2万メートル以上から大口径砲の斉射を一方的に受けたのである。ドールマン提督は優秀な指揮官である事を示し事態を一瞬で把握して叫んだ。

『馬鹿な!戦艦だと?!』

南雲忠一中将直率の第2機動艦隊第1艦隊の戦艦部隊は本土か中部太平洋にいると読んでいたドールマン提督の考えを完全否定する様に第2撃を加えて来る。参謀長が双眼鏡を目に当てたまま答えた。

『間違い有りません。パゴダマストの大型艦艇が4隻は居ます』

優速を活かして突入すべきか?退避すべきか?……

『全艦退避!』

ドールマン提督から合理的な指示が出されたが、一瞬の迷いがABDA艦隊に重大な影響を及ぼした。退避する間にも戦艦の数斉射を浴びた事により軽巡ボイス、ジャバ、マーブルヘッド、及び、重巡エクセターが戦艦の圧倒的な火力の前に撃沈されてしまったのである。然しドールマン提督率いるデ・ロイテルは健在、他の艦艇は損傷を受けつつも一旦は退避に成功していた。こうしてABDA艦隊は大型艦艇の半数を撃沈されてしまい大きくその戦闘力を削がれてしまったのである。そこに日本艦隊が追いすがって来た為に数時間の合間を開けた第2会戦が開始された。ABDA艦隊はまたしても戦艦長門、陸奥の16インチ砲によるアウトレンジでの砲撃により重巡ヒューストン以下の大型艦艇の全てを撃沈され、また戦艦伊勢、日向の14インチ砲、妙高以下の甲巡洋艦3隻の8インチ砲、戦艦副砲の6インチ砲や一回り小口径の14センチ砲の全力射撃により随伴駆逐艦20隻を全て喪失、ABDA艦隊は壊滅してしまい、ドールマン提督も艦隊と運命を共にしてしまったのである。この海戦も戦艦戦力に大きな差が有ったとは言え、一方の艦隊が1弾も浴びず、もう一方の艦隊が28隻もの艦艇を失い壊滅すると言う日本海海戦以上のワンサイドゲームに終わった事に世界の耳目は集まった。やはり日本海軍は神秘的な無敵の力を有しているのか?連合軍内部に畏敬の念が広まっていった。


海上では日本軍の勝利が続いていた。然し今度は陸上で日本軍の大規模な作戦が開始されようとしていた。