1942年3月4日、中部太平洋で合衆国艦隊を中心に編成された任務部隊の空母群が壊滅しつつあった時、印度洋での大英帝国艦隊による攻勢が開始された。ラングーンに対する艦砲射撃により日本軍を誘き出して叩く誘引撃滅戦を企図していたのである。当時ラングーンに駐留していたのはメイクテーラへの鉄道敷設の為の工兵師団だった。師団は工事区画を守備する治安維持を目的とした歩兵部隊と膨大な員数の工兵と人足が原油搬出の為の鉄道敷設工事を行っていた。大規模な上陸作戦が実施された場合、ひとたまりもないのは明らかだった。ラングーンからの悲鳴に近い救援を求める至急電が発信されていた。
『発、在ラングーン工兵第2師団 宛、大日本帝国緬甸方面軍司令部 写)第2機動艦隊司令部、本4日未明、敵はラングーンに対して海上よりの攻撃を実施せり。しかもその規模、戦艦5、空母3を主力とする大艦隊を以ってなり。敵上陸企図不明、至急来援を乞う』
最前線では2月早々に第15軍がダッカを攻略したものの3方向を5個師団に包囲され膠着状態が続いていた。だがラングーンが英軍の上陸により失陥した場合、逆に第15軍主力が緬印国境て孤立してしまう。然し主力だけでも6個師団を有する部隊である。占領地を放棄してラングーンを奪回してしまえば自力での孤立解消は可能である。だがそれこそが英軍の目的なのは明白だった。そんな事に時間を割いている間に雨期が到来するのだ。貧弱な道路は泥濘に沈み大軍の機動力は大幅に低下し、攻撃にも補給にも多大な支障が発生する。こうして英軍は印度防衛の戦略的優位を確保しようとしている…その事は日本側でも充分認識されていた。
だが、英東洋艦隊が健在である事は日本側も把握していた。事前にマダガスカルの諜報員から英駆逐艦の入港が報告されていたからである。この時期に駆逐艦数隻をマダガスカルに入港させても何ら大勢に影響は与えない。結果、この情報は英艦隊の護衛艦艇を捕捉したものと判定された。英軍も蘭軍から戦艦6隻軽空母5隻重巡8隻の大艦隊が東南アジアに展開している事は既に掴んでいる筈だ。それに見合った戦力の艦隊を差し向けて来る事は容易に想像できた。よって日本海軍も印度洋での対応を疎かにしていた訳ではなかったのである。一方で本来の任務である蘭印攻略の支援を実施する必要も有ったが、3月第1週、3個師団に1個独混旅を合わせた戦力による豪州ポートダーウィンへの上陸作戦が実施された際には第2機動艦隊はシンガポールから出動せず、敢えて戦闘序列上は第1機動艦隊に所属していた第8艦隊の支援のみで任務を達成していた。
シンガポール在泊艦艇には緊急出動命令が発せられていた。
『第2機動艦隊は、5日黎明ラングーン湾突入を目途とし急速出撃を準備すべし』
この命令に従い、艦隊参謀連は第3水雷戦隊に対潜部隊の駆逐艦や水雷艇まで臨時に編入し、燃料が不足気味な戦艦や重巡も補給の時間を惜しんで出撃準備を進めさせていた。ラングーンに到達し、敵艦艇を排除して港に入港した後に補給を受ければ良いという割り切った判断である。一方、在シンガポールの台南空を始めとする陸攻部隊にも出撃命令が下達されていた。更に第3、第4航空戦隊にも出撃命令が下達された。既に周辺拠点の偵察を行っていた第2機動艦隊では英領ニコバル諸島に大規模な戦爆連合が集結しており同戦隊がラングーン沖の英艦隊を攻撃するにはこの敵航空隊の行動半径に入ってしまう事が判明していた。よって軽空母群はバンコク沖合に進出して敵空母を叩く作戦を取る事となった。この様な情勢判断から第2機動艦隊司令部が選択した作戦は、昼間の陸上攻撃機と空母艦載機による雷撃戦、夜間の水雷戦隊と主力部隊のラングーン湾への奇襲突入であった。これは戦前から研究され尽くされて来た漸減作戦そのものであった。
ここに至り第2機動艦隊司令官、南雲忠一中将は訓示を全艦隊に発した。
『第2機動艦隊は帝国陸軍と協力、全力を挙げてラングーン周辺の敵艦艇に対する総攻撃を決行せんとす。皇国の興廃は正にこの一挙にあり。我が艦隊は所属航空隊、水上艦艇の全てを投入して突入作戦を行う。これは一か八かの大博打だが、ここで決戦しなければ、印度侵攻打開の機会は二度と来ない』
更に参謀達を驚かせたのは、南雲司令長官自らも第9戦隊に座乗して全軍の先頭に立つと表明した事であった。第9戦隊は重雷装乙巡の北上と大井からなっている。水上部隊で最初に夜戦に突入する戦隊である。戦前から『剽悍』と部下からも評されて来た南雲中将らしい意志表明であった。こうして第9戦隊の旗艦大井には中将旗が掲げられる異例の事態が現出したのである。
英艦隊は午後になってラングーンの大日本帝国陸軍第5飛行師団の97式重爆約160機の攻撃を受け、駆逐艦2隻を喪失、軽空母イーグル中破の損害を受け、喪失艦乗務員の救助とイーグルの復旧に時間を取られ、午後に予定していた飛行場攻撃を一旦延期していた。艦隊防空を担うフルマー、シーファイア各戦闘機は日本の97式戦闘機180機の直掩によりレーダーによる早期警戒警報を受けていたにも関わらず任務に失敗していた。その軽快な機動性と数に圧倒されたからである。だが攻撃が陸上用爆弾による水平爆撃だけだった事から被害は最小限に抑えられていた。然し次に来襲した日本軍96式陸攻と1式陸攻合計211機の攻撃には先の陸軍航空隊との戦闘後に補給の為に着艦していた英戦闘機は対応出来ず、一挙に戦艦ロイヤルソベリン、ラミリーズ、レゾリューションが撃沈されてしまった。これは開戦当初、高雄とサンジャックに分散配備されていた各航空戦隊をシンガポールに集結させて蘭印攻略の支援に当たらせていた部隊が陸軍航空隊基地の有るチッタゴンに向けて通過爆撃を実施したものだった。更に軽空母部隊から戦爆連合131機が来襲し、駆逐艦7隻を撃沈した。水雷戦隊の夜襲のお膳立てはこうして整ったのである。
英艦隊からは特にシンガポール方面への哨戒がニコバル諸島の機体も動員されて行われていたが、日本艦隊は夕暮れになっても現れず、夜間索敵能力の無い索敵機は全て撤収していた。代わりに見張りを務める駆逐艦が5隻、艦隊から分派された。この時期、対空用とは異なり未だ有力な対水上見張りレーダーを装備していない英艦隊が日本水雷戦隊と遭遇したのはその時だった。
その10分程前、第3水雷戦隊旗艦由良の夜間見張員からの第1報が戦隊司令部に入っていた。
『敵艦らしきもの!右舷1時の方向、距離約8千』
南雲中将は旗艦大井から発光信号で
『全艦、右舷砲雷撃戦用意』
を発令した。報告は次々と入り始める。各戦闘配置でも砲雷撃戦の準備は即座に行われている。後は発射諸元だけだ。
『敵は先頭に戦艦らしきものを含む』
『敵は先頭から戦艦2』
『敵一番艦、距離6千』
橋本第3水雷戦隊司令官からの命令も発せられる。
『取舵10度』
丁字戦法を採るなら面舵を取って北東への進路変更が必要だが水雷戦隊の戦術行動は違う。まず反航戦態勢を整えて魚雷の第一波を送り込もうとしているのだ。全艦準備完了の報告と共に南雲司令長官から命令が発せられた。
『右舷隠密魚雷戦開始』
『爾後全艦突撃せよ!』
各艦から敵艦隊前方数kmに扇状に酸素魚雷が発砲炎や雷跡が見えないまま発射された。夜間とはいえ月齢15.7のほぼ満月に近い夜だった為、この魚雷一斉発射は荘厳にさえ見えた。敵が陣容をバラバラに崩さない限り、約4分後には敵艦隊の真ん中に数百本の魚雷が殺到するのだ。しかも隠密魚雷戦とは本来4万mの93式酸素魚雷の最大射程で実施される射法である。それをこの射距離で実施したのだ。魚雷の敵到達予定時間は1/5に短縮され命中率の大幅な向上が期待出来る。後は敵に発見される前に魚雷を再装填しつつ突撃あるのみである。それが水雷戦隊というものであり、日本海海戦以来の伝統であった。水雷戦隊旗艦たる由良が遂に探照灯を照らし英艦隊の一部を浮かび上がらせていた。その艦影に配下の駆逐艦が魚雷を放ち、5インチ砲を撃ちまくる。が、逆に探照灯を灯火した由良にも英艦隊の射撃が集中する。艦砲としては小口径の5インチ砲ではあったが、更に距離を詰めるとほぼ接射である。戦艦と言えどもバイタルパート以外の上部構造物に命中すれば無傷では済まない。日本側が単縦陣で隠密魚雷射撃を終えた後は、各艦共右舷に90度回頭し、横隊で近接して魚雷を放ち撤退していくのに対し、英国側は縦隊で見事に隊列を整え、近接を試みる日本水雷戦隊に損害を与えていた。最初に突入した3水戦と第9戦隊の軽巡、由良、北上は撃沈されてしまっていた。他にも駆逐艦1が沈没した。然し由良が沈む前に最後の砲撃が当たったかの様に英艦隊の単縦陣中央部付近で大音量と共に巨大な水柱が立て続けに発生した。隠密魚雷がその確率論を満たし命中したのだ。戦艦戦隊後尾に居たリベンジには致命的とも思える魚雷6本が、ウォースパイトにも3本が片舷に命中、艦隊運動は一気に乱れた。4隻の英駆逐艦も沈んでいった。第3水雷戦隊の襲撃も十数分後に唐突に終了した。だが、橋本少将は戦闘突入直前に司令部通信参謀に命令していた。
『現刻を以って一部無電封止解除、旗艦由良発信自由。後続主力戦隊に通信、我戦闘開始、時間、場所だ』
主力戦隊が暗がりの中、戦場に急行しつつあった。
結局、最後に発生した主力艦艇による艦隊決戦では、日本軍が乙巡鬼怒が撃沈されたのに対して英艦隊は、戦艦ウォースパイト、空母フォーミダブル、インドミタブル、イーグル、及び、駆逐艦多数を喪失、全滅してしまったのである。これで地球の2/3から連合軍艦艇はほぼ消滅した。日本側被害は大規模な海戦の割には少なく、中破以上の判定となった乙巡、駆逐艦は6隻に止まった。日本海海戦以来の完勝であった。
1942年3月に実施された連合軍統合作戦本部が企図した中部太平洋と印度洋での連携した海軍反撃作戦も、結果は日本軍は投入された航空機ので約半数を失って、以降の中部太平洋やニューギニアでの作戦に支障を来したが大型艦艇の喪失は無かったのに対して、連合軍は空母8隻とその全ての艦載機、及び、戦艦5隻を喪失という損害を出しながらも作戦目標を何一つとして達成出来なかった事から、連合軍の大敗との判定が下り終結した。この一連の海戦は構想の雄大さ、海域の広さ、参加艦艇の多さ、そして喪失艦艇の多さからギネス認定の史上最大の海戦となったが、何よりも行動中の戦艦が航空機に撃沈されるという史上初の戦果が挙がった事に注目が集まった。航空隊2個戦隊で3隻もの戦艦が失われるのなら、戦艦は最早無用の長物となってしまう。戦後も含めて未だに多くの議論を呼んでいるのはこの点も含めて多々有る。
ひとつは米艦隊は大西洋艦隊からの増援を待たずにもっと早い段階で攻勢に出るべきでは無かったか?というものである。戦艦大和、金剛、榛名、陽炎型駆逐艦の増援前で100機近い艦載機の補充完了前のタイミングなら米軍にも勝機は有ったとする意見は後々まで主張されていた。また英艦隊も、もしも悪天候だった場合には、航空攻撃は発生せずにその巨砲を活かした勝機が有ったのではないか?と言われてもいた。何れも歴史にifは無いと言いながらもそれを考えてしまう歴史マニアの言だが、それなりの説得力も有った。然し現実は変わりはしない。深傷を負った両陣営共、早急な態勢の立て直しと可能な範囲での作戦の継続が求められていた。この段階では誰にもこの戦争の出口は見えていなかったのである。
了