1942年2月、日本軍の攻勢は衰えを見せていなかった。本土の燃料と弾薬の前線への輸送が順調だったからだ。鹿児島には足の長い特設巡洋艦が集められ、セメント、弾薬、鉄を占領地に搬出していた。また中速タンカーがメジュロとシンガポールに重油軽油を運び出してもいた。


蘭印では第14軍と第16軍の攻勢が継続されていた。1日、第14軍はメナドを、第16軍はバリに上陸していた。また第14軍の別働隊はメダンにも1個連隊を上陸させ、同地を制圧してもいた。7日にはマカッサル、メナドを、10日にはアンボン、ケンダリーを攻略した。この際、アンボン沖で海戦が発生していた。遠く孤立した比島のレイテに増援を送り込もうとした連合軍艦隊と日本軍第2機動艦隊の間での戦いである。連合軍はこの艦隊に米重巡洋艦アストリア、ミネアポリス、豪重巡洋艦オーストラリア、キャンベラ、駆逐艦7を護衛に付けていた。通常なら豪勢な護衛隊と称されてもおかしくない陣容だっだが相対する日本軍第2機動艦隊は戦艦6軽空母5、重巡洋艦8、軽巡洋艦4、駆逐艦20もの大艦隊であった。連合軍艦隊は鎧袖一触で全滅していた。16日にはハルマヘラが攻略された。


ここで日本軍は蘭印の内海化を企図して一気に豪州西海岸の制圧に動き出した。19日、レイテ増援艦隊を覆滅して士気が高まった第2機動艦隊はポートダーウィンに熾烈な艦砲射撃を加え、ブロックスクリークの飛行場を空襲したのだ。22日、すかさず第8艦隊が前者への上陸作戦を開始した。対艦砲撃で駆逐艦3、輸送船に擬装した特設砲艦2を失いながらも日本軍は陸軍3個師団の揚陸に成功、ポートダーウィンの豪軍は抵抗を諦め、上陸時に日本軍を苦しめた要塞砲をあっさり捨ててブロックスクリーク方面に撤退して行った。そのブロックスクリークも28日、日本軍の総攻撃を受けて陥落していた。


緬甸では1日、第15軍により遂にチッタゴンが空挺降下を含む5個師団により攻略され、印度国境は突破された。3日には交通ので要衝ダッカが続いて攻略され、第15軍の任務は達成されたのである。後は中支方面軍が印度方面軍に改称して北緬に侵攻するまでダッカで持久態勢に入るのである。3方向を敵に晒されたダッカでは1方向に集中して軍を進めるのは至難であったからだ。


中部太平洋では1日、ジョンストン島が第1機動艦隊に援護された第17軍により攻略された。第1機動艦隊は布哇、ミッドウェーを攻撃し、16日には第7師団により後者が攻略されていた。


大陸では1日、英徳包囲戦の間に再び衡陽を奪還していた国民党軍2個師団を中支方面軍が蹴散らし、3日には霊陵が攻略された。日本軍の攻勢は衰えず、6日には桂林が攻略された。このタイミングで予想通り国民党軍は戦力の少ない仏印の諒山(ランソン)に向けた脱出作戦を開始した。然し日本軍がこの地に陸揚げしていたのは256門に及ぶ要塞砲だった。国民党軍1個軍はこれらにアウトレンジで叩かれ日本軍に打撃らしい打撃を与える事も出来ずに撤退して行ったのである。日本軍柳州に無血進駐したがこれを見た国民党軍は諒山攻略を諦め柳州を全力で奪還した。然し南寧は日本軍第21師団に攻略され、この方面の国民党軍は柳州で包囲殲滅されてしまったのである。桂林を奪還した日本軍は独山、貴陽を攻略してこの地に5個師団を止め、残る4個歩兵師団、2個戦車師団、及び、軍直轄砲兵約600門で安順、六盤水、昆明、大理と侵攻を継続した。大理で5個師団の国民党軍国境警備軍に遭遇したがこれを背後から攻撃、国民党軍は国境を越えて緬甸に逃走して行った。


蘭印は2拠点の微弱な蘭印軍以外、全て日本軍の手に落ちていた。占領地の宣撫諜報を任務とする藤原機関は馬来の時同様に動き出していた。親日派と呼応して共和国政府として蘭印をインドネシアとして独立させ、民度を上げて原油増産を戦略的に図るのだ。緬甸からの印度侵攻は達成され第2ので矢である中支方面軍による緬甸侵攻も現実のものとなった。それ以前に大陸打通作戦は達成され、一部の中国共産軍と国民党軍が辺境て日本軍と対峙していた。更には中部太平洋に於いても布哇の前哨たるジョンストン、ミッドウェーが陥落、太平洋艦隊根拠地としての布哇が危機に晒され始めていた。


然し連合軍も手を子招いているばかりでは無かった。米英海軍が呼応した反撃作戦が着実に準備されつつあったからだ。太平洋、印度洋では大激戦の幕か切って落とされようとしていた。