1941年12月27日、比島では平地で塹壕もろくに用意出来ていないサンフェルナンドで孤立していた米比軍がマニラからの日本軍主力の包囲攻撃を受け、あっさりと降伏してしまっていた。これでルソン島の米比軍は壊滅する事となり、この島での戦いは終幕を迎えたのである。然し日本軍では偵察の結果、未だミンダナオ島には相当数の中型爆撃機を保有する米軍飛行場が確認されて、第8艦隊の急襲によりこれを占領する等の戦闘が継続されていた。


大陸では北支方面軍主力が太原を守備していた3個歩兵師団と合流して鄭州に復帰していた。軍は次なる目標を信陽と定めていた。然し信陽の国民党軍は当初から1個師団程度の戦力であり、漢口からの連日の空襲にも晒されていた事から全力での攻撃は返って敵が窮鼠となる事を懸念して歩兵部隊は5個師団程度に抑えた攻撃を決定していた。これは鄭州前面の洛陽の国民党軍歩兵部隊が増強されていた事にも影響されていた。日本軍の攻撃の結果、信陽での包囲戦は日本軍に数十名の損害を与えただけで国民党軍第85軍第3軍団は降伏するに至った。


一方、中支方面軍主力による衡陽奪還は停止されていた。衡陽には国民党西部軍約10個師団もの戦力が第2次長沙包囲戦の間に進駐していた。対する日本軍はこれを9個歩兵師団と2個戦車師団で押し返そうとしたが、戦力が拮抗していた為、支那派遣軍はこの攻勢を裁可しなかった。日本軍は北支方面軍の増援を待って敵を撃滅する安全策をとったのである。これは開戦前の大陸での決戦回避の方針に即した判断であり中支方面軍からも反対意見は少数派に留まった。こうして上海への打通は先送りとなったが、それは戦理に適った判断でもあった。


馬来では日本軍の攻勢は継続していた。クアラルンプールへの日本軍第25軍3個師団の侵攻に対して約1個師団の英軍はまたも撤退を選択した。日本軍にとって政治的戦略的目標であるシンガポールへの道は開かれたのである。


この日、開戦以来初めての米軍による反攻作戦が実施された。海軍第1陸戦隊が進駐したばかりのタラワに対する海兵連隊による奇襲上陸である。然しこれは無謀な作戦だった。タラワには既に97式大艇が進出して哨戒網を張っていたからである。米軍の小艦隊はこの網に掛かり、直ちにクェゼリンから発進した海軍第24航空戦隊の千歳空の96式陸攻36機の迎撃を受けた結果、海上で全滅してしまっていた。数百名が艦と運命を共にし、数十名がゴムボートで海上に逃れた。半数は米海軍のカタリナ飛行艇に救出されたが半数はタラワに進出していた特設砲艦に拾い上げられ日本軍の捕虜となった。捕虜となった米軍海兵隊士官はジュネーヴ協定に基づく将校待遇と食事にワインを付ける事を日本軍に要求して、英語の分かる元英語教師だった日本軍舞鶴陸戦隊伍長の通訳を聴いた軍曹に斬り殺されかけたが、内田中隊長に制止され、中隊長からケンタッキー製のバーボンを進呈されていた。


連合軍の反撃は海中からも仕掛けられ、海上交通の要衝カムラン湾やリンガ泊地沖の艦隊が連合軍潜水艦隊の襲撃を受けたが何も日本軍の特設水上機母艦から発進した水上偵察機に発見されて撃退されていた。


1941年12月30日、遂に日本軍第25軍によるシンガポール攻略作戦が開始された。先ず最初に動いたのは海軍第2艦隊だった。カムラン湾で燃料と弾薬を最大限補給した艦隊は2日掛かりでシンガポール沖に到達、16インチ砲16門と8インチ砲80門で内陸部の陣地帯に対する艦砲射撃を見舞った。次に行動を開始したのはサンジャック飛行場で待機していた空挺部隊だった。零戦43機の護衛の下、35機の陸軍100式輸送機と海軍零式輸送機は4時間程でシンガポール上空に到達、降下を開始した。その直前、クアラルンプールから第25軍の3個師団がジョホール・バル水道の渡河を開始していた。敢えて難しい西側からの渡河を実施した日本軍は馬来半島の方向に急増された陣地を各所で突破して一気に攻勢を強めた。英軍も善戦したが一般の民間人の被害を恐れた英本国の意向も有り、3日後に英軍は未だ戦力を残したまま降伏した。こうして遂にシンガポールは日本軍の手に陥ち、馬来半島での電撃戦は幕を閉じたのである。


一方、蘭印では新たな日本軍の行動が開始されていた。スマトラ島の要衝たるリンガ泊地への奇襲上陸が敢行されたのである。蘭印軍はCW21デモン戦闘機43機とマーチン166軽爆44機による空からの反撃を試みた。然し日本軍は4隻の軽空母に搭載されていた零戦41機、96式艦戦29機による迎撃を行い対空砲火と合わせて30機を撃墜、爆撃に成功した軽爆は13機に過ぎず、戦果は輸送船1隻を大破させるに留まりリンガ泊地への上陸作戦は予定通りに実施された。日本軍は対艦砲撃て駆逐艦1隻を失いながらも第16軍2個歩兵師団全力の揚陸に成功、蘭印軍は踏み止まらずにパレンバン方面に撤退していった。


更に緬甸では第15軍の戦闘序列が発令され、国境のイエには第52、54、55、56各師団が到着していた。先ず泰王国第1師団と合流したこれらの戦力で既に陣地帯を空襲で破壊されているモールメンの突破が決定されていた。


クェゼリンには既に第7師団が到着していたが、日本本土や大陸からの高射砲、対空機関砲の搬入も進み、200門の高射砲と66門の対空機関砲を主力とした高射第1師団が現地で編成され、第17軍の戦闘序列が発令されていた。搬入は更に予定されていたが、第1機動艦隊への燃料、弾薬の補給と増援の戦艦大和、金剛、榛名、最上型甲巡4隻、陽炎型駆逐艦が揃った所でジョンストン島、ミッドウェー島の攻略作戦が開始される事が決定していた。


こうしてルソン島、馬来での戦いは終幕を迎えたが、比島の戦いは継続され、緬甸、蘭印、西太平洋では新たな戦いの幕が切って落とされようとしていた。開戦の1941年の年末の月、一気に数多くの日本軍の作戦が実施され、連合軍は戦艦10、巡洋艦19、駆逐艦48、その他6を失って壊滅した。戦史史上に残る大戦果だった。対する日本軍の損害は上陸作戦時の対艦砲撃で失った駆逐艦2、掃海艇1のみであった。然し1942年以降の戦いの趨勢を予測出来る者はこの世界の何処にも居はしなかった。