第1機動艦隊が遊弋する海域に第6艦隊の3個潜水艦隊が急行していた。米追撃艦隊を再び襲撃するのである。一方の米追撃艦隊は最初の襲撃で戦艦メリーランドを失ったとは言うものの重巡サンフランシスコ、ニューオリンズ以下8隻の巡洋艦からなる有力な艦隊だった。復仇の戦意は豊富だったが、日本軍艦隊は彼等の常識からは外れたもので、巡洋戦艦2隻を含んでいた。軽巡2隻にも潜水艦からの雷撃を受けて損傷、艦隊速力が低下していた米艦隊は一気に戦意を喪失して戦闘を回避していた。然しそこに日本軍潜水艦隊の再攻撃が開始された。米艦隊は2隻の重巡と大型軽巡ヘレナを失い、更に第1機動艦隊の攻撃が加えられた結果、軽巡ローリーが爆沈、残余の4隻も中大破し、士気は完全に崩壊していた。むしろ巡洋戦艦2隻の攻撃を受けたものの、日本軍が給油用のタンカーを伴っていた為に全速を発揮出来ずにその虎口から全滅せずに脱っせられた事を幸運に思うべきであった。満身創痍の米艦隊は太平洋上に孤立したのである。


第1機動艦隊はそのままジョンストン島に向かい飛行場を艦砲射撃で叩いた。布哇からのB17による空襲は零戦と対空砲火で2機に迄撃ち減らされ効果は無かった。その上で日本軍は艦載機によるジョンストン島への全力攻撃を加えたのである。一方の米追撃艦隊は布哇への退避行動に移ったが、ここでも待ち受けていたのは潜水艦隊であった。残存艦艇を雷撃で次々に失い、最後に残った軽巡セントルイスは布哇近郊迄達したもののそこで未だ待機して布哇の動静を監視していた第1潜水艦隊に捕捉され撃沈、遂に米追撃艦隊は壊滅してしまったのである。


比島では航空撃滅戦が継続していた。アパリには満洲からの97式重爆の増援を受けた陸軍航空隊第5飛行集団が再度の空襲を実施した。この空襲でアパリの陣地は大きな被害を被っていた。また海軍台南空は戦前に入手していた情報から比島上陸作戦を阻害するマニラ以外の飛行場としてレイテ島の飛行場をリストアップしていた。この目標には距離の関係上戦闘機の直掩が付けられなかったが1式陸攻76機による強襲が敢行された。米軍もP39D20機で迎撃、対空砲火と合わせて10機の陸攻を撃墜したが飛行場は完全に破壊されてしまった。これで遂に比島上陸の御膳立てが整ったのである。台湾の高雄から勇躍第3艦隊が出撃した。旗艦乙巡球磨に率いられた護衛隊は途中で損傷した1隻の敵潜水艦を探知して撃沈、約30時間後には目標であるバギオ沖に到達していた。最短距離のアパリに向かわなかったのはバギオに上陸する事でマニラ、アパリ間を分断して各個撃破を狙った作戦によるものであった。最大級15隻もの機雷掃海艇を伴った日本軍護衛隊だったが敷設機雷は発見されず、対艦砲撃も無く、日本第14軍は易々と上陸に成功していた。然もバギオの米比軍は戦闘を避けて即座に撤退する道を選んだのである。同時刻、前日香港を襲った第2艦隊はアパリ沖に現れて同地の陣地に熾烈な艦砲射撃を開始していた。当初日本軍の上陸地点と考えられていた同地の陣地網はそれ程堅陣だったのである。


馬来半島でも本格的な地上戦が開始されていた。先ずサイヨクに集結した近衞師団と第55師団、泰王国第2師団の一部はメルギーに侵攻した。同地の英印軍はまたしても戦闘を回避してシンゴラ方面に撤退していったが、第25軍は雨天の中、戦車隊用の軽油の陸揚げを待たずに渡渉馬匹のみでシンゴラに侵攻したのである。この行動には英印軍も対処出来ず、包囲された英印軍1個師団は程無く降伏した。彼等は退路を阻まれシンガポール迄の遅滞戦闘に失敗したのである。


日本本土では南方、ウェーク、及び、クェゼリンへの侵攻、増援部隊の乗船が完了していた。神戸で積み残された要塞砲24門は台湾から帰国する輸送船待ちである。またサイパン島には第2海軍陸戦師団として改組された部隊の集結が3日後を目途として実施中だった。クェゼリンの海軍第1陸戦隊も先ずマキンへの進駐を果たしていた。台湾の高雄には陸海合同空挺大隊の進出も完了していた。艦載機の増援はマーカス島に到着していた。


関東軍の砲兵、戦車部隊も開封に到着したので日本軍は南昌同様の誘引撃滅戦を企図していた。歩兵を2個師団程度迄後方に下げ、代わりに砲800門、戦車100両が伏撃態勢に入った。対する国民党第85軍は5個師団の兵力で開封に総攻撃を仕掛けたが砲270門、装甲車両ゼロの人海戦術では日本軍を打ち破れず1個師団半の戦力を失い後退していった。日本軍の損害は兵力650、砲47、戦車3に留まった。南昌でも再び攻勢に出た国民党軍だったが、1個師団の損害を受けて退却していた。


開戦から5日程度で日本軍は帝国国策遂行要領第1段作戦の半分を達成しようとしていた。快進撃は未だ衰えを見せてはいなかった。


この記事は掲題3週目の第1ターンの解説です。初見の方は是非こちらhttps://ameblo.jp/admine2019/entry-12525327061.html


から御覧頂ければ幸いです。


さて、第1ターンですが、兎に角やる事が多いです。先ず奇襲効果が効いている間には布哇奇襲、シンガポール奇襲、護衛機を付けられないアパリ、メルギー空襲は最低限行わねばなりません。メルギーは諦めてマニラを空襲する選択肢も有りますが、少数機でもコタバル上陸作戦に支障をきたし兼ねません。布哇には偵察機も出さなければ雷爆撃命中率10%増加のメリットが受けられないので、奇襲効果中はこの程度しか行えません。グズグズしているとイエに英印軍が侵攻して来ますし、機動部隊も放置していると布哇からの米追撃艦隊に捕捉されて水上打撃戦となり、負けはしませんが貴重な巡洋戦艦に被害が出てしまいます。その為に布哇奇襲では99艦爆に零式水偵18機迄動員して小型艦を攻撃し、第1潜水艦隊を布哇近郊に、第2〜第4潜水艦隊をジョンストン島近郊に移動させ、その線上に機動部隊を一時退避させ、漸減作戦態勢を布いたのです。後者は次ターンの第2撃を狙った配置です。


その後、イエにはプノンペンの近衞師団の歩兵隊と工兵隊、及び旧式野砲を送り込んで防衛し、機動部隊は本編で記述した様な漸減作戦を実施する為にジョンストン島の西に移動しました。イエにはブレニム軽爆に陣地を爆撃されただけで済みましたし、布哇からの米追撃艦隊には戦艦メリーランド撃沈、軽巡2隻中破の損害を与える事が出来ました。米艦隊は機動艦隊に到達しましたが、2ターン目の潜水艦隊の攻撃後の水上打撃戦を狙っていたので此方が消極戦を選択した所、戦闘は発生しませんでした。この時米艦隊では

『ヘーイ、ハズ、見ろ!ジャップの野郎共め、気が狂ったのか?空母に低速の戦艦を付けてやがるぞ!』

『馬鹿野郎!あれはコンゴウクラスの高速巡洋戦艦だ!こっちの巡洋艦部隊じゃあ危ないぞ!』

と言った会話がなされて戦闘回避に走ってくれたのかも知れませんが、此方が戦闘回避を選択してしまうと機動艦隊の士気がゼロに下がってしまうので次ターンの水上打撃戦が行えなくなってしまいます。次ターンの態勢を維持したまま1ターン目を終えられたのはラッキーでした。


次はシンガポール奇襲です。サンジャックの雷撃隊全力で、先ず機数の少ない1式陸攻で戦艦を狙い、プリンス・オブ・ウェールズに2発の魚雷が命中、その後の96式陸攻で戦艦を狙い、レパルスを含む2隻と駆逐艦1の撃沈に成功しました。その後、メルギーの飛行場をサイゴンの99式軽爆で無力化して戦場は比島に移りました。アパリ空襲は成功し、迎撃機の反撃を受けずに同地の飛行場を無力化出来ました。然し、マニラ空襲では95機ものP40Bの迎撃を受けてしまいました。飛行場壊滅には成功、迎撃機も失われましたが日本軍も練度1低下の損害を受けてしまったのでした。航空撃滅戦は以上です。サイゴンの97式重爆は適当な目標を見つけられずにバンコクに移動させるに留めました。


次は海軍と陸軍です。機動部隊を本リプレイ内では第1機動艦隊と呼称しています。それは主力艦隊、南遣艦隊、角田部隊等を糾合して編成された第2機動艦隊が本リプレイでは存在するからです。但し、初動では第2機動艦隊は3つの隊に分かれています。先ず、シンガポールの生き残りを逃がさない為と同飛行場のコタバル上陸作戦への脅威度を下げる為に長門型2隻、伊勢型2隻、妙高型3隻を主力とする第1艦隊が編成されました。カムラン湾から出撃して守備良く英印軍のパニックにより飛行場は壊滅、出港してきたD型軽巡3、駆逐艦6を全滅させる事に成功しました。扶桑型2高雄型4最上型4を主力とする第2艦隊の目標は香港の陣地への艦砲射撃です。38だけ残った陣地は台北から広東への97式軽爆の通過爆撃と広東からの通常爆撃により完全破壊され士気の低下した英軍は広東からの第38師団のみによる1回の総攻撃で降伏しました。金剛型2軽空母4を主力とする第4艦隊は輸送船団を引き連れコタバル上陸作戦を実施しました。既にシンガポール、メルギー両飛行場を叩かれていた英印軍はここでもパニックを起こして航空反撃は叶わず、要塞砲と航空機を放棄してペナン方面に撤退していきました。サンジャックの96戦と零戦は大鷹と瑞鳳に収容されました。唯、この部隊は次ターンに軽油を陸揚げしている間に近衞師団がメルギーを制圧した後にシンゴラで包囲殲滅戦を展開する予定です。南昌では本編に記した通りの誘引撃滅戦が実施され、650門の歩兵砲から15留迄が火を吹いて国民党軍を撃退しました。ここでもリプレイ1から多用している通常防御に見せかけてからの伏撃が功を奏しました。


後方では陸軍や航空機の移動は本編で記載した通りです。本土の96艦爆は釜山、上海、佐世保、横須賀、釧路に分散させて、また飛行場の無い鹿児島には94式水偵を配備して対潜哨戒です。特に鹿児島は南方から最も近い国家備蓄可能港湾都市なので重油節約の為にも重要です。早めに飛行場を増築して東海に対潜哨戒を引き継ぎたいと考えています。木更津には97式大艇を移動させ、本土への米艦隊の早期警戒を行う通常哨戒に当てます。輸送船の移動も青森と舞鶴の春日丸型輸送船を横須賀に移動させ、呉の輸送船は2隻の仮装巡洋艦を神戸に移動させた以外は横須賀に移動させたのも本編記載通りです。これで本土、釜山の陸軍部隊はほぼ全て根室に移動した第7師団はウェーク、釜山、佐世保、神戸、横須賀の各師団はバンコク、バターン(バターンの米比軍がバターンを空にしてサンフェルナンドに侵攻した場合に限り南下中の一部部隊でバターンに上陸して主力はマニラから包囲殲滅)、リンガに、更に高雄の部隊はバギオに向かう事が可能となります。クェゼリンの輸送船は若竹型2隻には将来の諒山(ランソン)防衛戦に向けて要塞砲を搭載、1隻の中型輸送船も要塞砲搭載の為に父島経由沖縄経由ユエへ向かわせ、残る高速の仮装巡洋艦と潜水母艦はパラオのボーキサイト輸送に向かわせました。また、トラックの中型タンカーは第1機動艦隊帰投後の燃料補給の為、クェゼリンに移動させました。


最後に対潜戦闘ですが第1ターンでは早くも2回発生しました。1度目は広東から高雄に向かう空の輸送船団が4隻の潜水艦に狙われましたが、第1次攻撃が行えた為、此方に被害は有りませんでした。一方、此方からの攻撃でも撃沈艦は護衛艦の少なさから有りませんでした。2度目はシンガポール沖の第1艦隊に敵潜水艦8隻が接近して来ましたが、此方は出港時に対潜哨戒機を上げていた為に発見が早く、第1次攻撃で7隻に損傷を与え、此方の損傷艦無しで第二次攻撃により全滅させる事に成功しました。


本編の最後の記述は東宝8.15シリーズの『日本の一番長い日』の丸パクリですが、本当に長いターンでした。


1941年12月8日、東京で日本時間の早朝0330時に米英との戦争状態への移行を発表する記者会見が短波放送ラヂオ日本の同時英訳生中継付きで行われた同時刻、第1機動艦隊は日本とは4時間の時差が有る布哇の北北西800kmの海上にあった。宣戦布告の放送より1時間前、現地時間12月7日0630時、布哇真珠湾に向けて6隻もの空母から一斉に攻撃隊が発艦を開始していた。世界初の本格的空母打撃群による航空攻撃が開始されたのである。既に湾内の艦船の在泊概要は阿武隈から先発していた零式水偵の偵察により把握出来ている。事前の間諜からの報告で想定されていた主力艦たる戦艦は8隻共在泊していた。添え物の空母2隻は居なかったが奇襲攻撃を加える目標である主力艦に不足は無かった。


0740時、真珠湾近傍に到達した指揮官機から『突撃準備隊形作レ(トツレ)』が発信され、艦攻隊の攻撃を先行させる意味を持つ信号弾1発が発射された。0749時、『全軍突撃(ト連送)』が発信され、続いて0752時、指揮官機から機動艦隊旗艦赤城に対して『我奇襲ニ成功セリ(トラ連送)』が打電された。この電波は東京の大本営でも受信出来た。また長く旗艦長門に置かれていた聯合艦隊司令部は長門が南方作戦に投入される事となった為に横浜の日吉台に上がっていたが、ここでも受信されていた。


信号弾による攻撃手順指示に従い、先ず雷撃隊が2派に分かれて戦艦への攻撃を開始した。第1派は一番外側に停泊していた2隻の戦艦ウェストバージニアとオクラホマに集中、これを撃沈した。単に大破着底したのでは無い。船殻が全損する迄に破壊されたのである。第2派は残る6隻の戦艦を狙ったがメリーランド以外の5隻を中大破させるに留まった。然しこれは作戦通りの行動とその結果であった。


次に艦爆隊と18機の零式水偵が駆逐艦に対する攻撃を開始した。結果、22隻もの目標が沈没、残余も大破してしまい、真珠湾には無傷の駆逐艦は皆無となってしまった。これも事前の作戦通りの行動だった。戦闘機隊による飛行場攻撃が終了して攻撃隊が帰投すると、機動艦隊は一旦生き延びた米艦隊や生き残った爆撃機による反撃を回避する為、ジョンストン島西方迄転進したが、その場所と布哇を結ぶ線上には28隻もの第6艦隊の潜水艦が米艦隊を待ち伏せていたのである。日本海軍が長年構想してきた漸減作戦の実践である。航空隊は潜水艦攻撃を成功させる為に戦艦を攻撃するには威力不足の爆撃機隊にわざと駆逐艦を狙わせたのだ。案の定出撃して来た米艦隊はこれらの攻撃により臨時旗艦となっていた戦艦メリーランドを失い、第1機動艦隊に追い縋った巡洋艦部隊も軽巡ローリーが雷撃で速力低下を起こしていた為、更には日本軍側もこの段階での艦隊決戦は潜水艦攻撃が継続されており時期尚早と考えており消極的だった為、水上打撃戦は発生しなかった。だが、この時点で米追撃艦隊が次の日本軍の攻撃で全滅してしまう事は確定的となってしまったのである。


一方、地球の裏側でも日本軍の攻勢は同時に開始されていた。布哇と5時間の時差が有るシンガポールに仏印の柴棍(サイゴン)近郊サンジャック飛行場から発進した美幌、元山、鹿屋、各海軍航空隊が到達したのは、布哇奇襲が開始されてから3時間半経った現地時間0630時であった。その頃、合衆国では国内と海外の自軍にハワイ奇襲を通知するのに精一杯でイギリスに状況を通知するのは遅延していた。シンガポールには警報は発せられなかった。黎明攻撃となったが湾内の艦影は日本軍指揮官機からも明瞭に識別できた。その中でも段違いに巨大な2隻の戦艦に向けて合計95機の96式陸攻22型と1式陸攻11型各機が殺到した。宣戦布告の放送から4時間、迎撃機こそ上がって来なかったものの限定された射線を取らざるを得ない雷撃隊に対して対空砲は有効だった。然し18機を失いながらも各航空隊は戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス、及び、駆逐艦1を撃沈する事に成功したのである。


日本軍の航空攻撃は比島方面でも展開されていた。時差はシンガポールと同じであるルソン島には、先ず航空機の航続距離の関係で戦闘機隊を伴えない陸軍爆撃隊の99式軽爆1型26機と97式重爆17機が台中から快晴の天候の下で出撃、0630時にはアパリの米飛行場に到達して飛行場を叩き、この一撃で飛行場能力を奪い去った。また高雄からは海軍第11航空艦隊の主力である台南海軍航空隊の96式陸攻22型35機と1式陸攻77機が零式艦上戦闘機隊86機の直掩を受けて出撃、0700時にはマニラ近郊のイバ、クラーク両飛行場に到達して空襲を実施した。ハワイ奇襲の報告を現地時間0320には受信していた合衆国陸軍航空隊は95機のP40Bで迎撃した。然し20機の損害を受けて零戦8機と陸攻14機を撃墜したものの飛行場能力は壊滅、迎撃戦で生き残った75機の迎撃機も不時着して失われる事となったのである。


航空撃滅戦が展開される中、海軍第2機動艦隊から分派された第1艦隊はカムラン湾からシンガポールに到達、パニックに陥った英軍飛行場に対する激烈な艦砲射撃を実施した。長門型2、伊勢型2の4隻の戦艦と妙高型3隻による攻撃は一撃で同飛行場を沈黙させた。また柴棍からは事前に99式軽爆1型52機がメルギー飛行場を叩いてその機能を奪ってもいた。この際、シンガポール港に残存していた3隻のD型軽巡ドラゴン、ダナエ、ダーバンと駆逐艦6が脱出を図ったが第1艦隊に捕捉され全滅していた。これで馬来沖に展開していた海大型潜水艦3隊9隻は戦艦の監視と漸減任務から解放された事からクェゼリンに布哇方面から帰投して来る潜水艦艦隊と合流する為、サンジャック港に集結して行った。また日本本土からも同方面に向けて3隻の海大型潜水艦と2隻の海中型潜水艦が相次いで浮上航行のまま出港して行った。


更に分派第2艦隊は扶桑型戦艦2、高雄型甲巡洋艦4、最上型甲巡洋艦4の戦力で航空反撃が少ないと想定されていた香港に到達、14インチ砲20門、8インチ砲80門で香港島と九龍半島の要塞地帯を叩き、その施設を壊滅していた。残余の陣地は台北から通過爆撃で広東に移動した陸軍の97式軽爆と広東から出撃した98式軽爆により壊滅していた。


この空海軍による攻撃後、遂に陸軍も動き出した。先ずコタバルに、第2機動艦隊残余の巡洋戦艦2、96式艦上戦闘機と97式艦上攻撃機を搭載した軽空母4(大鷹の艦載機は未搭載、瑞鳳も定数割れの21機搭載のままだった為、艦載機は合計66機に留まった)、水雷戦隊1に海防艦、掃海艇、敷設艦、陸軍特殊揚陸艦神州丸、高速輸送船、防空基幹船、防空任務にも投入可能な零式水上観測機を24機搭載している水上機母艦千歳からなる第4艦隊が到着、第25軍隷下の第5、第18師団の上陸を開始したのである。既述の通り周辺の航空基地を既に叩かれていた英軍はここでもパニックを起こして反撃の暇も無く要塞砲と航空機を無傷のまま放棄して撤退して行った。この奇襲上陸作戦での日本軍の損害は掃海艇1隻に留まった。最後にコタバルには長鯨がカムランから移動して来て上陸を果たした機械化部隊や工兵隊用の軽油を陸揚げする事となっていた。


この直前、泰王国は大日本帝国との軍事同盟の締結に合意し、1個師団規模の脱走兵は有ったものの、緬甸国境の小都市イエの防衛に軍を集結させたり、英軍のバンコク空襲を迎撃したりして日本軍への支援を開始していた。イエは偵察隊の情報から対面するモールメンに英印軍2個師団弱が既に駐留している事が判明していた為、侵攻が懸念されていた。これを防止する為にプノンペンの日本軍近衞師団から機動戦力を除く主力が増派されていた。


更に陣地壊滅で士気が低下した香港には上海に駐留していた第23軍の参謀長だった栗林忠道少将の提言により隷下の第38師団のみによる攻略を開始、兵力劣勢にもう関わらず総攻撃で敵の士気を崩壊させ3日でこれを制圧した上に、英徳に有った中華民国国民党軍第4戦区張発奎将軍率いる粤軍の上海侵攻を留守2個師団で思い留めさせる事にも成功していた。


大陸ではその北方700kmの南昌でも戦闘が発生していた。だがこの戦いだけは日本軍が守勢に回って、中華民国国民党軍第9戦区司令官薛岳将軍が南昌の日本軍兵力が枯渇しているとの偵察報告を受けて攻勢を仕掛けたものであった。然しこれも日本軍の罠だったのである。支那派遣軍総司令官畑俊六大将直々の命令により中支各師団から最前線である漢口の第11軍に至る迄の全ての砲兵と数少ない装甲車両を南昌に集結させて隠蔽し、代わりに歩兵に隊列を作らせて派手に玉山に後退させる事により如何にも南方方面で始まった大規模戦闘の影響で戦力を引き抜かれた様に見せ掛けたのだ。これに薛岳将軍は引っ掛かり隷下の約4個師団で南昌に攻撃を仕掛けたのである。然し国民党軍が歩兵中心で装甲車両皆無、且つ、砲兵戦力216門に対して日本軍650門で相対した結果、国民党軍の総攻撃を伏撃で交わした日本軍が逆撃に出て1日で勝敗は決した。国民党軍は1個師団以上の損害を出して敗退してしまったのである。日本軍の損害は600名程度に抑えられていた。


陸海空での攻勢の中、後方でも日本軍の活動は一気に活発化していた。


先ず関東軍の大部隊が南下を開始していた。法正の第29師団、新京の第10師団は勿論の事、蘇満国境からも数百門の砲兵部隊と100両もの97式中戦車が鉄道輸送により既に満州国の南の国境に到達していた。入れ替わりに奉天の軽戦車連隊が国境警備に着任していた。これらの部隊の目的地は開封である。この砲兵戦力で国民党軍を圧倒、先ず鄭州を突破して大陸打通作戦を開始するのである。斉斉哈爾(チチハル)、佳木斯(チャムス)、新京の97式重爆1型各部隊も台中、上海、沖縄に移動していた。これらの部隊の目的は大陸戦線では無く南方作戦の支援であり、目的地は台中であり、マニラ空挺作戦が成功した後はマニラに移動して比島攻略支援を行う予定だった。次に朝鮮軍の第19、20師団も釜山への集結を開始した。カムランに陸揚げされて馬来、シンガポール攻略を終えた第25軍と合流、緬甸、印度侵攻に従事するのがこれらの部隊の任務であった。


日本本土でも状況は同様であった。旭川第7師団はウェーク上陸に向けて根室に移動、室蘭から回航されて来た第5艦隊が護衛する輸送船団に乗船するのである。仙台第2師団と東京の第52師団は横須賀に移動、現地の海軍陸戦隊と合流して蘭印リンガ泊地上陸を目指していた。名古屋第54師団と大阪第53師団、及び、、舞鶴と呉の海軍陸戦隊は神戸に移動、バンコクに向かう予定だった。更に福岡第56師団は佐世保海軍陸戦隊と合流してバンコクを目指していた。また各地の高射砲や高射機関砲は最寄りの上記港湾に移動してクェゼリンを目指していた。これは大陸各部隊からも抽出される事とされていた。現地で高射第1師団を編成、ウェーク攻略後の第7師団と合流してジョンストン島攻略を目指すのである。またクェゼリンにはウェーク島空襲の為に木更津と横須賀の96式陸攻21型が集結中だった。加えて日本本土各地の97式艦攻1型も第1機動艦隊艦載機の補充用にマーカス島経由でのクェゼリン集結が開始されていた。


台湾の高雄には比島バギオ上陸を目指して第3艦隊が停泊していたが、現地の南方軍直轄の戦力や工兵部隊を増援として現地の輸送船に乗船させている最中だった。またマニラ攻略準備として横須賀と福岡の陸海空挺大隊もこの地に集結中であった。


仏印ではイエに増援して国境警備に回した部隊以外の戦力がサイヨクに集結していた。コタバルに上陸した第25軍にシンゴラで合流する為である。この中には泰王国第2師団と日本軍近衞師団の機動戦力たる戦車連隊、サンジャックの第55歩兵師団に加え、カムラン湾に駐留していた川口支隊も含まれていた。但し各地の高射砲はカムラン湾に移動してジョンストン島攻略に向けられる事となっていた。ジョンストン島は布哇からの米B17重爆の攻撃圏内に位置している為、既述の高射第1師団への増援とするのである。


中部太平洋でも動きが有った。父島にはグァム島攻略を目指して陸軍南海支隊が輸送船に乗船を始めていたが、当初から戦力不足が懸念されていた。これを補う為に、パラオ諸島、トラック環礁に駐留していた海軍陸戦隊が増援される事となり、各島で乗船が開始されていた。また横須賀、呉、上海から旧式ながら8インチ砲4門を搭載している装甲巡洋艦5隻が艦砲射撃部隊の第6戦隊(旗艦甲巡青葉)の増援として出港した。これらの艦隊や船団はサイパンで合流する手筈となっていた。


この日の最後の作業として横須賀、神戸、佐世保、釜山に集結した陸軍部隊を輸送する輸送船の手当てが行われた。上海の3隻の中型輸送船は2隻が釜山に、1隻が佐世保に回航された。現地の輸送船だけでは集結した軍の一括輸送には足りない為である。同様の理由から呉から2隻の中型輸送船が神戸に残りが横須賀に回航されて行った。舞鶴と青森の春日丸型大型輸送船も横須賀に回航された。また、それでも足りない輸送船を補充する為、広東の輸送船が護衛艦艇と共に高雄に移動した。コタバルで第25軍を下ろし終わった空の高速輸送船は本土の積み残された工兵隊、整備隊、高射砲部隊輸送の為に直ちに本土へ回航される予定だった。クェゼリンの潜水母艦はパラオに回航されてボーキサイトの鹿児島搬入の任務に就く。トラック環礁の中型タンカーはクェゼリンに入港して重油軽油を陸揚げして第1機動艦隊寄港後に直ちに補給が行える準備に着手していた。日本本土にあった重油軽油を満載した中型タンカーは未だ占領されていないシンガポールに向けて出港して行った。第2機動艦隊に対する補給がその主任務である。最後に、呉から対潜能力向上と水上艦、潜水艦の応急修理の為、工作艦明石と特設水上機母艦国川丸、及び高速タンカーが、クェゼリンで第1機動艦隊と合流する為に高雄から陽炎型駆逐艦が出港して行った。


連合軍の反撃も潜水艦による攻撃の形で開始されていたが、高雄沖でもシンガポール沖でも日本艦船の撃沈は果たせず、逆にシンガポール沖では連合軍潜水艦7隻が壊滅していた。


この日、日本のあらゆる組織であらゆる人々が全力で立ち回った。それに携わった人々の頭の中で、鈍い色々な想いが去来して交錯する。ある者は歴史上初めて経験する大戦争突入の意味を噛み締めんとし、ある者は開戦を回避出来た日本をぼんやり想像した。だがこれらの曖昧模糊とした想いも肉体的疲労感には勝てず、ともすれば薄らぎ、そして最後に残る感慨は誰しも皆一様に同じであった。疲れた。長い日だった。本当に長い一日だった。だがその長い日もやっと終わった。


然し、その一同の考えは間違っていた。長い日は終わる所では無い。未だ1945年迄長期化する今次大戦の初日を終えたに過ぎなかったからである。この日、世界中の誰一人としてその様な長期戦が戦われる事となると想像していた者は居なかった。


掲題2周目のリプレイ終了から四半期が経過したばかりにも関わらず新たな補給戦が開始された。初回、2周目の戦歴を検証し、課題を抽出し、根本原因の分析によりスローガンではない具体的に実行可能な根本対策を講じて、これを戦訓として今回リプレイに活かすそんなプレイスタイルを更に追求して行ければ幸甚と考えている。


ここで改めて2周目の課題を再掲したい。


課題4 :対米国和平交渉不振

根本原因:対米国打撃規模寡少

根本対策:米本土爆撃強化


上記が失敗に終わったのは、概算で150機のキ91を米本土爆撃に一往復させるのに4200トンもの軽油を要する為だった。16万トンの軽油を1945年に確保するには如何なる手順を要する事となるのだろうか?


先ずは国内外の精油所の増設は必須だろう。かと言って開戦4ターン目の工場増設可能ターンには国家備蓄の原油が18万トン程度残されているので、全ての精油所を増設する訳にはいかない。また早期に蘭印を制圧してもインドネシア共和国成立迄は原油の増産も民度が低くて行えない。蘭印の拠点を1箇所敢えて残して共和国樹立を行わず民度を上げて産出量を稼ぐ、という方法はゲームのルールの裏をかく事となるので行わない。第一、帝国国策遂行要領の大東亜共栄圏樹立の方針にも反するのである。


作戦計画として事前に何時頃に鉄やセメントを産油地に持ち込むかを計算するのは困難であると考えた。よって今回は1ターンでも早く産油地を確保する為に、これ迄はマニラ攻略後に他のフィリピンの根拠地に志向して比共和国成立を急いでいた第14軍をブルネイ、タラカンの攻略に向かわせる事を決断した。パレンバンやメイクテーラは先ず鉄道開通が前提なのは従来と変わらないが鉄やセメントは何れは不足して来る筈なので、第25軍を第1ターンでコタバルに上陸させた空の輸送船を早々に鹿児島に戻して国家備蓄に余裕が有る内にこれらを南方に輸送する事ともした。


軽油増産の手筈はこの程度である。他の作戦計画は従来のものを踏襲する。さて今回はどの様な展開を迎えるのか?手前味噌ではあるが本ブログ冒頭で開示した『帝国国策遂行要領』はABCD包囲網を各個撃破するに当たっては妥当な施策であると考えている。


だが、3回目の序文には似つかわしく無いかもしれないが敢えて言おう。戦いはやって見なければ分からない、と。


開口一番ですが『竜頭蛇尾である』と認めざるを得ません。


対蘇戦、布哇攻略迄は、天候も味方してくれたお陰で我ながら上手く行ったと思っていました。1943年中に全マップの連合国拠点を押さえたのです。然しよもや軽油が足りなくて米国西海岸を叩き切れずに幕切れとなろうとは


リプレイ2の序文に記載したリプレイ1の課題とリプレイ2で施した対策をここに再掲してみます。更にその結果も併記します。さてさて


課題1 :対蘇戦戦力集中不足

根本原因:対英中戦の損害過多

根本対策:対英中戦で決戦回避

対策結果:成功


課題2 :対蘇戦開始時期遅延

根本原因:太平洋への兵力抽出

根本対策:太平洋での独力進出

対策結果:成功


課題3 :米本土爆撃兵力不足

根本原因:陸軍機生産能力不足

根本対策:陸軍機工場早期増築

対策結果:成功


課題4 :対米国和平交渉不振

根本原因:対米国打撃規模寡少

根本対策:米本土爆撃強化/パナマ作戦実施

対策結果:失敗/成功


課題1と2の対蘇戦はリプレイ1の1944年12月第8ターン開始から1年半も早く、マンシュタインのバックハンドブロー直後、クルクス戦の前の1943年4月第9ターンに開始する事が出来ました。本当なら春の雪解けの季節になって攻勢は難しかったのかもしれませんがシベリアは烏克蘭(ウクライナ)より雪解けが遅い、とか自分に言い聞かせて開始したのです。


また、戦力も対英/中戦での決戦回避、1ターン2ターン遅くなっても敵をやり過ごして後方を遮断した後に包囲攻撃を掛ける事で、敵の士気がゼロになれば残余の敵戦力と交戦を継続して自軍の戦力を減らす愚を犯さずに済む、を実践出来ましたし、波号演習用の重油が集積出来る前の間隙を縫って陸軍戦力を集中して攻勢を開始出来ましたし、FS作戦も陸軍はほぼ第18軍のみで実施出来ましたし、デリーや中国奥地から陸軍を転進させている間に2式戦車(史実の3式戦車)も500両量産して海拉爾(ハイラル)に布陣させる事が出来ましたし、何より浦塩は攻略しないと踏ん切りを付けたお陰でバイカル湖以西への侵攻が行えた事からも大成功でした。太平洋戦記2同様、蘇聯の最初の講和を蹴ると独逸との屈辱的な講和を結んで日本を阻止しに来る事は想像していましたので今回はこれに成功、独逸の命脈を保ってやる事が出来ました。尚、屈辱的な講和の具体的内容はゲームには出てこないので、少なくとも第1次大戦の時よりは酷い条件だろうと自分で勝手に妄想して、ポーランド東半分、白ロシア、ウクライナ、バルト3国に一部蘇聯領土迄、気前良く枢軸側に割譲してあげました。


課題3も成功したと思います。絶対国防圏と第2線の幌筵島、ミッドウェー島、トラック諸島、エリス諸島に3式重爆(史実の4式重爆)航続距離延伸型や銀河、及び誘導弾が行き渡る迄は陸軍航空機工廠と発動機工場を半分ずつ、行き渡った以降は航空機や誘導弾の生産を諦めて全力で増築を行った結果、リプレイ1では1ターン5機しか製造出来なかったキ91を19機製造出来る迄に拡大出来たのです。然し、こうなる前に思い出すべきでした、このゲームが太平洋戦記だったという事を。補給事情を考慮していなかったなど言い訳のしようが有りません。


課題4は、という事で失敗でした。パナマ運河奇襲は成功したんです。後は太平洋戦記2の時の様に米国西海岸の工場を夜間爆撃で片っ端から、と考えて臨んだリプレイ1は物凄い夜間爆撃に対するブラックウィドウの迎撃と行方不明の被害の甚大さで挫折しましたが、150機編隊でP47の迎撃編隊80機を蹴散らしたリプレイ2の戦略爆撃序盤は『オボヤンまでいけるぞ!』(by黒騎士物語、クルクス戦)と思っていたのにシアトルでドック毎戦艦モンタナを破壊してハァハァ言っていたこの口を今直ぐ撃ち抜きたい!(byアニメ版幼女戦記)


それにしてもパナマ運河奇襲を成功させた見返りが、排日移民法の撤廃だけって厳し過ぎませんか?青嵐だって開発するにはジェットエンジンの開発を遅らせて迄、熱田エンジンを開発せねばならないのです。ネタバレし放題なのでチクっちまいますが、太平洋全域の占領後、実は対米講和を1回試しにやってみた所、リプレイ1の条件で講和出来てしまいました。リプレイ1の対蘇戦と米国西海岸空襲は全く無駄だった事が判りました(泣)


さて、全ての課題解決が出来なかった事に対する愚痴はこの程度にして、ではどうすれば良いのでしょうか?本編でも記した通り作戦レベルでは対応出来ません。となるとそもそものこのブログの目的が太平洋戦争開戦時の戦略的不利を作戦レベルで覆す事が出来るかを検証する、とした答えは『不可』で結論が出てしまいます。然しもう少し範囲を広げて資源開発も作戦レベルだ、と強弁すれば、原油採掘と国内外の石油精製施設の拡充という対策が見えて来ます。但しこの作業は日本に戦前の備蓄が未だ有る段階、南方から未だ資源が届いていない段階、或いは占領直後の採掘量が少ない原油採掘施設に対して行わないと、増築中の資源確保が停止してしまい返って減産、となりかねません。


と書いてて、あれ、増築には治安度や民度が関係してたかしら?との疑問が湧き上がります。またスマホにダウンロードしてあるマニュアルを検索しないと。更には上記は何れもゲーム初期の段階に行わねばなりません。今セーブポイントとしてデータを残している布哇攻略前とかから再開しても間に合いません。更にはそんな鉄とセメントが確保できるのか?製鉄所から拡充が必要なのか?いよいよ初期に遡らねばなりません。3周目なのか?この長い戦いの3周目に挑まねばならないのか?確かに『3度目の正直』という言葉が有ります。丙型潜水艦も5隻追加建造してサンディエゴで撃沈戦果を挙げたくも有ります。実はリプレイ2最終ターンには丙型潜水艦10隻が揃っていたのですが、甲標的の補給が受けられず停泊したまま停戦となってしまっていました。ここでも補給か!何とも奥の深いシミュレーターです。最早ゲームとは呼べません。


私は自分が立ち直れる事を知っています。でも今は無理です(グリーンヒル大尉風)。暫く御時間を賜り、何れリプレイ3に挑んでみたいと思います。最早ライフワークになりつつありますが、何時になったら1939年シナリオを開始出来るのかは現状では全く不明です。唯、テレワークとこれで殆どの時間をPCの前で過ごす毎日はコロナ渦に巻き込まれない現状にマッチしたライフスタイルかもしれません。


いや、嘘を言いました。PCにかじりついているのは35年前にPC98版太平洋の嵐をやりながら、会社でプログラミングに明け暮れていた時代とさして変わりは有りません。学生時代にやってたアバロンヒルとかSPIとかアドテクノスとかのボードウォーシミュレーションゲームと違い、場所を取らない、駒を動かすのにピンセットが要らない、サイコロと戦闘結果のチャートも要らない、対戦相手を探さなくても良い、という革命的なシステムにハマってました。でもバブル期の当時は合コンにもちゃんと行ってましたからね!汚いオタクと一緒にしないでください。お風呂にも入ってますし、ヒゲも剃ってます。まぁオタクという言葉が出来る前からオタクだった事には違いないのですが


刮目して待て!次回!


1945年4月18日、連合軍艦隊が久々に反撃に出た。幌筵島南東1200kmの海上で大規模な揚陸艦隊が日本軍哨戒機に補足されたのだ。別途発進した偵察機の詳細報告からこの艦隊は護衛空母4、小型艦20、LST13、輸送船16、タンカー1の大規模なものである事が判明した。この時点で幌筵島は燃料切れで3式重爆が発進出来ない状況にあった。布哇からの戦略爆撃への燃料供給優先のツケが後方に回って来た格好だ。日本軍は横須賀から第3機動艦隊の雲龍型空母6に駆逐艦の護衛を付けてこの艦隊を補足しようとした。然し翌日の機動艦隊周辺の天候は雨で哨戒機による敵艦隊の発見は叶わなかった。已む無く第3機動艦隊は幌筵島防空の為に同島近海に移動した。そこに予想通り米艦載機の攻撃隊がやって来たが、日本軍には2種類の新兵器が準備されていた。米攻撃隊のF4F8戦闘機103機とアベンジャー雷撃機15機の迎撃を行ったのは日本海軍最新鋭のジェット艦載戦闘機旋風11型112機だったのである。世界初のジェット艦載戦闘機による迎撃は、日本側が発動機の故障を起こした所を狙われて撃墜された1機の被害に対して米軍編隊の約半数に上る57機を撃墜、圧倒的な性能差を見せ付けた。生き延びた米軍編隊は幌筵島上空に到達したが、其れ等を待ち受けていたのは、これも世界初の対空誘導弾奮龍4型であった。これに46機を撃墜された米攻撃隊には最早10機程度の残存機が残るばかりとなり、燃料切れで地上に居た1機の3式重爆を破壊して戦場を離脱していった。然し日本軍も米艦隊の位置を把握出来ていなかった。決戦は翌日に持ち越される事となった。


翌日は晴天だった。第3機動艦隊は黎明から索敵を開始、直ぐに南東360kmの至近に米艦隊を発見した。航続距離の短いジェット戦闘機でも到達出来る距離である。第3機動艦隊は直ちに攻撃隊として旋風ジェット戦闘機112機、流星攻撃機217機を繰り出し米艦隊に殺到した。米艦隊の迎撃機64機は瞬く間に26機を失い他機も蹴散らされ、日本側には1機の被害もなかった。日本側も対空砲火により24機の流星を失ったが、米艦隊は輸送艦20隻の内14隻を喪失、南東に退避を開始した。日本側は追撃を試みたが、天候が再び悪化した事により中止され残存米艦隊は離脱に成功した。


1945年4月24日、サンフランシスコに142機の5式重爆が来襲、巡洋艦1、潜水艦1がドック毎破壊された。


1945年4月30日、サンフランシスコに再度134機の5式重爆が来襲、巡洋艦1がドック毎破壊され全ドックを喪失、機能を完全に喪失した。これにより天二号作戦は完結、続く天三号作戦はタコマの海軍工廠を狙う事となった。然しここで布哇の軽油が底をついてしまった。爆撃再開は1週間後の1万2千トンの軽油を待たねばならなかった。またこの時期は北米の天候が不順で攻撃をタコマに集中する事も出来なかった。


5月12日、サクラメント

5月15日、フレスノ

5月30日、タコマ

6月03日、タコマ

6月15日、サンディエゴ

6月18日、タコマ

6月21日、ロサンゼルス


1945年7月12日、燃料不足で日本軍による空襲が停滞している最中、米国ポーツマスで連合軍首脳会談が開催された。議題はソ連の脱落によって長期化した対独戦への対処であり、当面は戦略爆撃を中心とする行動方針が採択された。またドイツを孤立化させる為に対日講和条件がこれ迄の無条件降伏から条件付き講和を容認する方針に改められる事ともなった。


1945年7月15日、日本外務省が単独で豪州政府を仲介とした日米講和の可能性を打診してみたが、グァム島、ウェーク島の割譲で折り合いが付かず講和会議自体が流れてしまった。


1945年7月16日、独逸大使館から重大な情報がもたらされた。米国はウランの核分裂反応を用いた原子爆弾の開発に成功したと独逸政府からの警告を得たという内容である。大本営では以前から原子爆弾の基礎研究を行わせている理化学研究所の仁科芳雄博士とそのスタッフを招聘、情報の信憑性を確認させたが、理論的に可能でウランの濃縮さえ実現出来れば原理自体はそれ程複雑ではない原子爆弾は米国の国力と科学力が有れば現実のものとする事は充分可能であるとの結論を得た。何よりも独逸の対連合軍諜報網は信頼するに値した。日本は戦争継続に重大な懸念事項を抱える事となったのである。同日、布哇に軽油6千トンが陸揚げされ281機の5式重爆でサクラメント空襲を実施、工廠の40%の機能を奪っていた。


1945年8月6日、第1航空軍の元に1万2千トンの軽油が届けられた。然し442機に迄増勢されていた爆撃機群にとっては1回の爆撃行をギリギリで満たす量でしかない。大本営は本音では既に攻勢限界を感じていた。燃料補給は大本営が担う作戦レベルの施策では改善出来ない。空母から燃料を全て抜いても1回分の空襲を満たす量には遠く及ばない。また絶対国防圏への軽油搬入を停止する訳にも行かない。最早大東亜共栄圏の何処にも大量の余剰燃料など残されてはいないのだ。故障機を除いた402機はタコマを目標として飛び立って行った。この1撃でタコマは残っていた5つのドックを全て失い壊滅した。またドック毎エセックス型空母1、超アイオワ型超弩級戦艦1、巡洋艦1、LST1、小型艦1が破壊された。


1945年8月9日、大本営の陸軍参謀総長と海軍軍令部総長から最高戦争指導会議メンバーに上記の戦略爆撃の状況が報告された。これにより政府内の講和派は勢い付き、翌日、御前会議を以て戦争指導の今後を決する事が議決された。

1945年8月10日、御前会議に於いて先ず何よりも体面を重んずる陸軍を代表する阿南惟幾陸軍大臣から戦略爆撃の今後の見通しが報告された。シアトル、サンフランシスコ、及び、タコマの海軍工廠壊滅に約6万トンの燃料を要した事から対米戦略爆撃を継続して目標一覧の残る5箇所全ての軍事拠点を全滅させるには単純計算でも後10万トンの軽油が必要である旨が報告された際、参加者一同は諦めの表情を見せた。時間を掛けて軽油を確保して行けば1年以内には米国西海岸の軍事拠点を壊滅させる事は不可能ではないだろう。然し米国は核兵器を準備しているのだ。そんな時間の余裕など無い事は明白だった。

次に体面を重んずる事に於いては陸軍以上の海軍を代表する米内光政海軍大臣は、太平洋全域での米侵攻作戦の絶対国防圏での阻止と南方資源地帯との航路確保が順調に行われている成功事例を先に、米国西海岸への上陸作戦『決号作戦』は補給面から非現実的である事を後に、淡々と報告した。一同から重苦しい溜息が漏れた。

そんな中で外相に返り咲いていた東郷茂徳大臣は休戦後改めて東京に開設された英国外務省連絡室経由での対米和平交渉の可能性を報告した。仲裁国が英国の場合、米国が交渉に応じる可能性は100%てある事、英国側は米国にそれなりの要求をしても講和は充分成立すると言って来ている事を述べた。陸海軍大臣以外の参加者一同は何れも一抹の光明を見たかの様な表情をあからさまに顔に出して見せた。太平洋の占領地の維持は最早誰の頭の中にも無かった。御前会議の大勢は決したのである。




1945年8月15日、日米和平条約が英国グラスゴーで調印された。米国は大日本帝国の開戦前の領土を保証し、南洋諸島も国連信託統治から正式に併合される事を容認した。また太平洋全域の占領地返還を条件に満洲国と旧欧米植民地の独立容認も誓約した。帝国には蘭印油田の共同開発権が与えられる事となり、逆にインドネシア共和国の意向から欧米系石油企業の独占は排除される事となった為、資源問題も解消されるに至った。加えて米国の排日移民法も撤廃される事となった。かくして長きに渡った戦いは大日本帝国勝利の内にその幕を閉じたのである。


然し、欧州では苛烈なる航空決戦が未だ継続中であった。独逸第3帝国は対蘇戦の時とは打って変わって大日本帝国の単独講和を最大限の言葉て非難し、同盟破棄を一方的に通告して来た。連合軍の思惑通り独逸の孤立化は成功したのである。然もこれは最終的に蘇聯を独逸と再度挟撃して崩壊に導くという日本の思惑にとってもマイナスだった。欧州戦線がどの様な決着を迎えるのか?戦後の西側連合国との関係改善は可能なのか?多数の政情不安定な新興独立国家から成る大東亜共栄圏の維持発展は政治的財政的に継続できるのか?世界は未だ先の見えない混沌の中にあった。


絶対国防圏からの海軍戦力と駐留陸軍の引き揚げに関する打合せの為、ダッチハーバーに居た小澤治三郎海軍大将は2式大艇で布哇に向かっていた。操縦員から間も無く到着の報告を受けて彼は窓から眼下の光景を見下ろしていた。視界には真珠湾に停泊する膨大な艦艇が捉えられていた。これでも聯合艦隊の半分の勢力でしかない。日本本土とダッチハーバーにも艦隊は展開しているのだ。その全ての艦艇が日章旗を掲げている。開戦時、布哇沖で戦った彼はたった4年も掛からない間の艦隊の増勢に改めて感慨深いものを確かに感じていた。少なくともこの瞬間、太平洋の覇者は大日本帝国であった。


1944年11月27日、待望のキ91遠距離4発爆撃機用エンジンであるハ42ー2型が完成、同機の試作1号機に装着され評価試験が始まった。大本営は現下の戦況から海軍の烈風を諦めてその発動機開発を試作段階で終了させる旨を三菱に通達、ハ42ー2型発動機の開発に社運を賭けて邁進せよとの異例の命令を発していた。そう迄して皇国2号戦略兵器との仮称を与えられた本機の開発を急がせたのは、攻め手を失いつつある『現下の戦況』を一気に解消する対米戦の切り札として『秘密戦略兵器』の本機が期待されていたからであった。日本軍は本機の航続距離1万kmの性能を以て布哇からの米西海岸軍事拠点に対する戦略爆撃を企てていたのである。大本営ではこの状況を想定して米国西海岸一帯への戦略爆撃計画の策定に着手していた。布哇には既に第1航空軍が新設され、作戦準備に入っていた。『天号作戦』との秘匿呼称を与えられたこの決戦計画策定に伴い戦略爆撃目標の選定が急速に進められたが、過去の重慶爆撃の戦訓から目標は一般住民居留区域を避け、工廠、飛行場、軍港等の軍事関連施設に限定し、一般住民の戦意高揚を助長し、敵のプロパガンダの格好の餌となる愚を避ける配慮が為されていた。


6、第6段作戦


2)米国上空

①キ91の早期戦力化による米西海岸空襲実施

②目標は飛行場、軍需工場、軍港に限って選定

③各地に配した間諜から目標最新天候情報入手

④航空迎撃が熾烈な場合は夜間爆撃に攻法変更


また、並行して戦略爆撃でも米国が停戦に応じない場合を考慮して最終作戦である米国西海岸一帯への上陸作戦『決号作戦』の策定も開始されていた。


3)米国本土

①北米派遣軍新規創設、関東軍残余部隊を充当

②第1波として第21、22軍でシアトル占領

③第2波として第14、16軍で桑港一帯占領

④海軍は前衛艦隊と3個機動艦隊で制海権獲得


天号作戦の第2段階の準備として同日、松9号輸送の秘匿名で1個の輸送船団が横須賀を出港していた。松輸送なら行き先は南西太平洋だが、この船団は外洋に出ると進路を布哇に変更した。またこの船団には最大限の対潜護衛艦艇が付けられてもいた。積荷は一大航空作戦を実施する為にこれ迄営々と備蓄されてきた軽油4万5千トンと航空爆弾2万トン、及び、護衛艦への給油の為の重油3千トンであった。波号演習とその後の補給戦は全てこの作戦の準備の為と言っても過言では無かった。更には既に何時でもキ91の量産に耐えられる様に鉄やアルミの備蓄が船舶の建造を控えて開始されていた。例外的に量産が進められた戦時標準船は、11月だけでも各々20万トンを超える鉄鉱石とボーキサイトを日本本土に搬入していた。また陸軍航空機工場と発動機生産工場の拡充が既存の航空機製造を控えてまで実施され続けてもいた。最新の工廠拡張でキ91サイズの巨人機を月産200機弱迄生産出来る体制が整いつつあった。大日本帝国、否、大東亜共栄圏の全ての技術と資源が本作戦に投入されていたのである。


1945年1月30日、キ91の評価試験が終了、要求仕様通りの性能が確認出来た。この間、細かな不具合や設計変更が相次いだが川崎と三菱の技術者はそれを次々と解決していった。増加試作機8機はそのまま陸軍に納入され、5式重爆剛龍として正式化された。


1945年2月28日、布哇には既に5式重爆剛龍158機が駐機していた。大本営は戦果が期待出来る戦力集中が成ったと判断、遂に天号作戦の発動を第1航空軍に下命した。現地の天候を米本土の間諜からの情報で把握していた第1航空軍司令部では目標一覧の中から快晴のシアトル海軍工廠を選定した。第1段階『天一号作戦』の幕開けである。作戦名通り、米国は天空からの打撃に晒される事となった。


現地時間午前4時、発進が開始された。発進時に14機が不具合を起こして発進不能となったものの、144機が無事に離陸、勇躍、米本土初空襲の栄誉と敵地に乗り込む恐怖を胸に秘めた1152名の搭乗員は布哇の各飛行場から飛び立っていった。約4300kmを巡航速度450kmhで飛行した結果、攻撃は布哇と2時間時差の有るシアトル時間の正午となった。本当は夜間に発進して黎明の空襲を行いたかった第1航空軍だったが、新規機材による初航路を使った初空襲だった事もあり、明るくなってからの発進として慎重を期した。次善の策として多少は警戒が緩むであろう昼時を狙ったのである。


目標上空で迎撃に上がって来たのはP39D戦闘機3機のみだった。編隊は奇襲に成功したのだ。それでも迎撃で1機が、高射砲で16機が撃墜され、弾幕で34機が爆撃コースからの離脱を余儀無くされた。結果、最終的に爆撃を行ったのは93機だったがアイオワ型より大型の戦艦と小型艦がドック毎破壊された。昼間低高度での空襲は目標をかなり正確に捉えていた。前者が米海軍の最新鋭超弩級戦艦モンタナであった事が判明するのは戦後になってからの事である。


初空襲は大成功と判定された。爆撃機の損耗率こそ10%に達したが、敵海軍ドック2を完全破壊し、入廠中の超弩級戦艦を屠ったのである。大本営は直ちに米本土初空襲とこの戦果を華々しく発表した。然も大本営は昼間低高度の爆撃により軍事目標だけを攻撃し、民間人の被災を可能な限り防いだ事をわざわざ強調して連合軍が独逸に対して行っている無差別爆撃との違いを説き、それを暗に非難して見せた。捷号作戦を知らされていなかった日本国民は久々の攻勢による戦果に沸き返り、各地で提灯行列が開催された。大本営でもこれ迄の膨大な手配が報われたものとして、正にその士気は天を突く感が有った。然し課題も残った。5式重爆は今回の往復で1機当たり27トンもの軽油を消費する事が判った。これは作戦実施前の想定から大きく上振れする数値であり、今回の爆撃行で消費された軽油の総量は4266トンにも達していたのである。これは布哇に事前集積された軽油4万5千トンを10回程度の攻撃で枯渇させてしまう程の膨大な量であった。俄には信じ難い数値の物量作戦を始めてしまった事に今更気付いた大本営は慌てて世界中から軽油を掻き集め始め、精製所にもオクタン価を下げて精製量の増加を図る措置が発令されていた。


その翌日、合衆国共和党のトマス・E・デューイ大統領は納税者に対して合衆国本土西海岸に対する日本軍による初空襲を公表し、同時に物資配給法の拡大方針を明らかにした。巨大な合衆国経済は更に戦争経済に移行する事となったのである。合衆国の国民はステイツへの直接攻撃に激昂し、戦意は高揚した。配給制になる物資が多少増えようとも、汚いジャップの卑劣な攻撃から偉大な祖国と自由主義を防衛せねばならなかったからだ。一方で西海岸からの疎開は拡大の一途を辿っていた。特に主目標とされたシアトル一帯では明日にもジャップが上陸して来るかの様な流言が飛び交い、実際にジャップの艦隊を見たと言い張る者迄現れてパニック状態に陥っていた。この状況に対応する為、本来なら本当の日本軍上陸に備えて訓練に励まねばならなかった州兵部隊が治安出動させられる羽目に陥っていた。欧州英本土に展開する筈だった陸軍戦術戦闘航空団は軒並み西海岸防空に逐次投入される事となり、昨年のドイツ軍によるフリードリヒ作戦で壊滅した連合軍欧州戦術空軍の立て直しに重大な支障を来たしつつあった。またドイツへの戦略爆撃に付ける護衛戦闘機の奪い合いも現地で始まっていた。航続距離の長いP51D戦闘機はドイツ戦略爆撃の護衛に、それ以外は西海岸の防空に当たる事となったが、実際には対ソ戦から解放されたルフトバッフェに対抗するにはリトルフレンズは現有のP51DやP51Hだけでは充分な数を確保出来なかった。航空機増産が合衆国内で指示されていたが、それを担う航空機工場も日本軍の戦略爆撃の目標となって被害が積み重なっていく事が懸念されていた。


1945年3月3日、再びシアトルは145機の5式重爆による空襲に晒された。迎撃して来たのは勇敢にも1機のP39Dだけだったが爆撃機の編隊に簡単に撃墜されてしまった。米軍は対空砲火で16機の爆撃機を撃墜したが、ドック2と建造中のエセックス型空母1、駆逐艦1が失われた。


1945年3月6日、今回のシアトル空襲でも超アイオワ型超弩級戦艦と小型艦をドック毎破壊した。


1945年3月9日、シアトルは天候不良との情報を得た第1航空軍司令部は目標をサンフランシスコの海軍工廠に変更した。151機が目標に到達したが、ここでは114機ものP47Dの迎撃を受ける事となった。米国は早くも防空体制を強化していたのである。結果、20機の爆撃機が失われたが、迎撃側も82機にも上る戦闘機が撃墜され剛龍の強力な防御火力が示された。編隊長は急遽爆撃目標を飛行場群に変更、対空砲火で更に11機を失いながらも米軍戦闘機約80機、中型機約20機を地上撃破し、飛行場機能を完全に奪い去った。この為、上空で生き残った迎撃機約30機も近郊都市迄の飛行場に退避する燃料を持たず、不時着か搭乗員の落下傘降下を余儀無くされ失われたのである。


1945年3月12日、今度こそサンフランシスコ海軍工廠を叩く為に140機の5式重爆が発進した。然し驚くべき事に米軍は3日でサンフランシスコ飛行場を修復し、80機もの戦闘機で迎撃して来たのである。だが夜間戦闘機迄繰り出した米軍は過半の戦闘機を失い、爆撃隊は27機を迎撃と対空砲火で失った代わりに例の超弩級戦艦1を更にドック毎破壊する事に成功していた。


その後も補給と整備に追われながら爆撃行は天候が快晴の目標を選んで繰り返されていった。

3月15日、サンディエゴ

3月18日、サンフランシスコ

3月21日、サンフランシスコ

3月30日、サンフランシスコ

4月03日、フェニックス

4月06日、シアトル


この間、海軍工廠を目標とした際にエセックス型空母1、中型戦艦1、護衛空母1、巡洋艦2、小型艦3、潜水艦1をドック内で撃破してもいた。また4月6日には軽油1万2千トンの補給が布哇に対して行われた。蘇聯からの原油輸入と南方からの原油搬入は順調だった。


1945年4月9日、シアトル海軍工廠への最後の戦略爆撃により同工廠は全ドックを喪失、機能を完全に停止した。これにより天一号作戦は完結、引き続き既に数回の空襲を繰り返して防空能力が低下しているサンフランシスコ海軍工廠を中心に攻撃を行う天二号作戦が開始される事となった。


今次大戦は今、最終局面を迎えようとしていた。


1944年5月24日、第3潜水艦隊が燃料と甲標的の補給を終えて再度サンディエゴに向けて出撃した。


1944年6月18日、第3潜水艦隊は再びサンディエゴ軍港近海に到達、早速空母の入港を確認して甲標的による攻撃が実施され、軽空母に魚雷1発命中、中破の戦果を確認したが、またしても帰還出来たものは無かった。この際、湾内で望見された艦艇が、空母11、巡洋艦1、小型艦84、輸送船等126隻に増強されていた事が第3潜水艦隊から報告されると大本営は衝撃を受けた。米揚陸艦隊を何度も撃滅していたにも関わらず空母や小型艦の勢力は増えていたのだ。大本営は改めて米国工業力の凄まじさに驚き、日本はとんでもない怪物に戦いを挑んだ事を改めて実感して戦慄を覚えていた。然しこれは開戦前に既に総力戦研究所が提出した報告に含まれていた内容だった。


1944年7月30日、第3潜水艦隊が燃料と甲標的の補給を終えて3度目のサンディエゴ襲撃に向けて布哇から出撃した。


1944年8月15日、久々に米機動部隊がサモア東方742kmの海上で捕捉された。戦艦1、大型正規空母4、軽空母2、巡洋艦6、駆逐艦15の強力な空母機動部隊である。然し、日本軍はあ号作戦に則りサモアとエリス諸島から3式重爆総計321機を繰り出して先制攻撃を加えた。米海軍の新型戦闘機F6F150機の迎撃で57機の損害を出しながらも誘導弾と急降下爆撃によりこの米機動部隊を壊滅させる事に成功した。日本の絶対国防圏は最大級の米機動部隊に打ち勝ったのである。サモアからの救助船と2式大艇により約300名の漂流者を捕虜とした日本軍は苛烈な尋問により艦隊の構成を彼等から聞き出した。戦艦はニューメキシコ、エセックス型空母はフランクリン、ヨークタウン2世、コンステレーション、及びフランクリン・D・ルーズベルトだった事を掴んだ日本軍は現職大統領の名前を空母に付ける米国人の感性に呆れた。日本人の感覚では空母東条英機は、当該人物の人望の問題を差し引いても絶対に無い。だがこの報告を受けた底意地の悪い大本営報道官はそれを正確に発表し、布哇から発信されている対米謀略放送、通称ハワイアン・ローズからもこれを流させた。忽ち世界中のマスコミは『FDR沈没!』のタイトルでニュースを流し、更に米民主党政権の支持率を押し下げるのに貢献していた。罷免したニミッツに代わって太平洋艦隊司令長官を兼任する事になったキング提督から、これ迄の戦力の逐次投入を改め、戦力を集中し、且つ、新型戦闘機F6Fの投入により日本の防衛網を突破する、との案を承認して自信を持って繰り出した任務部隊をあっさり沈められて不機嫌だったフランクリン・D・ルーズベルト合衆国大統領はこの報道と支持率の報告を聞いて、この上無く不機嫌になっていた。


1944年8月30日、第3潜水艦隊がサンディエゴ軍港に停泊していた護衛空母を攻撃、大破させたが、またしても帰還出来た甲標的は無かった。


1944年9月15日、第2潜水艦隊の修理が完了、布哇を進発して行った。またこの日、伊号100潜水艦が神戸川崎造船所から海軍に引き渡され就役した。山本聯合艦隊司令長官が艦政本部に直談判の上で建造された海軍待望の『潜水空母』である。皇国1号戦略兵器との仮称を付けられた本艦は、並列二重船殻の上に航空機収納筒を配置して潜水艦の横の安定性を保つ、という世界初の構造を持ち、水上攻撃機青嵐3機を搭載して7万km以上離れた場所、即ち地球上の何処であろうとも凍り付いていない海辺であれは奇襲を仕掛ける事が可能な『秘密戦略兵器』であった。これら潜特型潜水艦が捷一号作戦を担う事になるのである。


1944年10月12日、第2潜水艦隊が目標海域で米輸送船団を捕捉、これの奇襲に成功した。然し米国側も前回の戦訓と世論の圧力から護衛艦を倍化させており、輸送船2隻を撃沈したものの、爆雷攻撃にはより全艦中破以上の損害を被ってしまった。このまま引き揚げるしか無くなった第2潜水艦隊の戦果は再び不充分と判定せざるを得なかった。


1944年10月15日、千代田から甲標的の補給を受けた第3潜水艦隊がサンディエゴ軍港に向けて進発した。4度目の出撃である。翌月15日、目標に到達した艦隊は早速戦艦と空母の入港を視認、護衛空母1を大破させ、帰途に着いた。戦果こそ前回同様不充分だったが、貴重な情報収集には成功していた。湾内の艦船が戦艦2、空母13、巡洋艦1、小型艦112、輸送船112に増大している事が確認出来たからである。米軍は明らかに戦力の逐次投入を改め、再び空母6隻前後を有する大規模な機動部隊の編成を行っているのだ。絶対国防圏各部隊に『米軍の機動部隊による攻勢近し、警戒を厳と為せ』の指示が大本営から発令されていた。


1944年11月18日、第2潜水艦隊が布哇に帰投した。1隻を除き中大破の判定を受け4隻は直ちに工作艦による修復が開始された。現場からも危険や手間に見合わない作戦では、との声が挙がり始めていたが大本営には作戦を中断するつもりは更々無かった。米軍の目を北米沿岸に引き付けておく為である事は言う迄も無い。端的に言うと捷号作戦は全ては戦略攻撃となる捷一号作戦の為の囮でもあったからである。


1944年12月18日、第3潜水艦隊が5回目の攻撃に進発した。翌月18日に実施された攻撃の戦果は今回も護衛空母1隻大破のみに終わり、2月7日に布哇に帰投した。甲標的の乗組員を含む第3潜水艦隊の要員には、この犠牲が囮である事は決して悟られてはならない秘匿事項であった。


1945年2月27日、横須賀から遂に10隻の伊号100型潜水艦で構成された第5潜水艦隊が出航した。極秘任務を帯びている艦隊の通例として見送りも制限された深夜の進発である。同日、大本営は捷一号作戦を発動した。艦隊は作戦秘匿の為、布哇を経由せずにパナマ運河に直行する。青嵐30機による奇襲の結果は1万3千600kmを無事航海出来たとして40日後には明らかとなるのである。


1945年3月12日、第5潜水艦隊は布哇沖を通過、これ迄は日本軍制海権の及ぶ海域を浮上航行して訓練を兼ねた航海を行い、先を急いで来たが、これから先は敵哨戒機や沿岸警備隊に発見される危険が有り、一斉に潜行してパナマへの行手を更に急いだ。この作戦を知らない他の潜水艦隊が自分達の囮になっている事を彼等は知っていたからである。その犠牲を終息させる為には自分達の作戦を早期に完了させなければならない。またその頃には布哇からの米国西海岸に対する戦略爆撃が開始されていた。


1945年4月9日、いよいよ目標が近付いて来た際、第5潜水艦隊は米国沿岸警備隊の艦船に接触したが、補足されずにこれを上手く避ける事に成功した。


1945年4月12日、遂に第5潜水艦隊は攻撃機発進可能なパナマ運河から西380kmの海域に到達した。潜望鏡深度迄浮上した旗艦伊号第100潜水艦はシュノーケルと一体になった対空対水上電波探信儀と潜望鏡で周囲を探索、敵影無しと判断して出力を最低に絞った全艦浮上、航空攻撃準備の探信音を発信した。西太平洋航行中に何度も訓練して来た手順である。程無く全艦とも浮上して航空要員が艦内から姿を現し、格納筒前扉が開いて各艦の青嵐1号機が射出機に引き出された。主翼、尾翼、フロートの取り付けか完了した艦から旗艦に発光信号が送られる。旗艦の発艦に合わせて全艦が1号機を4式1号射出機で青嵐を射出した。浮上から発艦迄5分と掛かっていない。青嵐は航続距離が1189kmしか無い。また母艦の浮上中は常に敵に発見される危険がある。従い、攻撃方法は機動艦隊が行う様な上空待機の後に全機一丸となって進撃するのではなく、発進順に3波に分かれて進撃する事とされていた。5分後に第2波、更に15分後に第3波を射出した艦隊は直ちに潜航、合流ポイントに向かった。全長122m、水中排水量6600トンの巨体が潜航するのに1分と時間は掛からなかった。


青嵐攻撃隊の最大の目標は大西洋側のガトゥン閘門である。可能ならば太平洋側の閘門も破壊してしまいたい。第1波、第2波は南から運河を迂回してガトゥン閘門を目指した。続く第3波は太平洋側の閘門に向かっている筈だ。15分も飛行すると陸地が見えて来たが迎撃機や対空砲火は見えない。奇襲に成功した事を確信した第631航空隊飛行隊長浅村大尉はガトゥン閘門を目視で確認するや乗機の両翼を振って編隊に突撃を命令した。3機編隊毎に急降下に移った編隊は25番を投下、爆弾は次々に命中して閘門は粉砕され、濁流がどっと溢れ出した。低空で水平飛行に引き起こした各機は遂に対空砲火を受ける事無く帰途に着いたのである。


合流ポイントでは30分だけ母艦が待つ事になっていた。シュノーケルと一体になった垂直アンテナから短く帰投用ビーコンを発信して15分、編隊が周囲の海面に着水を始めた。第1波と第2波の全機が戻って来た。浮上した各艦に搭載機が近付き1機、また1機とクレーンで射出機上に戻され発艦時とは逆の手順で分解収納されていく。攻撃は成功した。ここ迄は全て順調であった。然し、第3波の帰投は遅れていた。艦隊司令官有泉龍之助大佐は後15分待つと決断、艦隊に待機を命じた。最も焦れる瞬間である。と、3機の青嵐が着水して来た。内、2機が大波の影響で横転してしまったが、搭乗員4名は救出された。第3波本隊と逸れて逆に自隊のみが母艦に帰投出来たとの搭乗員らの報告を受けた有泉大佐は9隻に潜航を、自艦の伊100には残る1機の収容を命じ、作業完了に伴い、全艦に布哇への帰投を命じた。


捷一号作戦は成功した。然し帰投時に行方不明になった機体7、水没2の合計9機14名が未帰還となった。この報告を受けた大本営は捷号作戦の終結を命令した。第2潜水艦隊は布哇で修理中、第3潜水艦隊はサンディエゴからの6回目の帰路にあった。大本営広報部はパナマ運河奇襲を発表しなかった。第631航空隊には次なる任務が控えている。米国が停戦に応じない場合、首都ワシントンDCの空襲が検討されていたからである。敵にどうやってパナマを空襲出来たのかは知られてはならない極秘事項であった。捷一号作戦は軍事機密指定解除が為される迄、長きに渡って人々に知られる事は無かった。


同日、合衆国は昨年の選挙で敗北したフランクリン・デラノ・ルーズベルト前大統領の訃報を世界に向けて発表した。大日本帝国政府はこれに対して弔電を発信して喪を表したのであった。


大日本帝国駐独逸大使館からは刻々と欧州情勢が報告されていた(


1943年2月2日、スターリングラードの独逸第6軍が降伏、蘇聯は同市を二重包囲していた部隊に予備戦力も投入して烏克蘭全域の奪還を企図した攻勢に打って出た。独逸軍は撤退を継続しており、同18日には中核都市ハリコフも奪還する等、攻勢は順調に見えたが、これは独逸国防軍マンシュタイン大将の罠であった。独逸軍は撤退に見せかけて戦力の再集中を図っていたのである。マンシュタインはスターリングラード失陥によりコーカサスから撤退して来たA軍集団、スターリングラードで降伏した第6軍以外のB軍集団、及び、増援されて来たSS装甲軍団を用いて、補給線が伸びきって侵攻を停止していた蘇聯軍を南北から挟撃したのである。これにより、蘇聯第3、第4突撃軍が壊滅、ハリコフも3月14日には再び独逸軍の手に陥ち、蘇聯軍戦線には数百kmの大穴が開いてしまったのである。このままでは独逸軍は直ぐにもクルクス方面から再びモスクワを目指せる態勢を整えてしまう。蘇聯は重大な危機に直面していた。


1943年4月27日、その苦境の中、何と日本が蘇聯に宣戦を布告、15個師団でシベリア鉄道を遮断したとの至急電がモスクワにもたらされた。4年前のノモンハンでマカーキ共の2個師団を排除するのにソビエト連邦は数百機、数百両、数万の代価を支払わされていた。マカーキ共はタコ壺に篭って戦車が頭の上を通り越した途端、後方からエンジンに火炎瓶を投げ付けて来る異常者の集団なのだ。ザバイカル軍管区の5個師団では奴等を抑えられない。然し欧州戦線からの増援など行えばモスクワが陥落してしまう。蘇聯政府首脳は社会主義建設の頓挫を恐れる前に自分達がファシストに捕らえられ、絞首刑になる事を恐れていた。


1943年5月9日、蘇聯は日本軍のシベリア侵攻を食止める為、独逸と以下の屈辱的な条件での休戦条約を締結して停戦した。実質的には蘇聯の完全敗北である。これにより東部戦線は消滅した。

・波進駐領土の独逸への引渡し

・現刻戦線での露領土割譲

・白露亜蘇聯邦離脱と独逸権益承認

・烏克蘭蘇聯邦離脱と独逸権益承認

・把3国蘇聯邦離脱と独逸権益承認

・レニングラードの開囲


5月9日は、独逸にとって対蘇戦勝記念日となった。また、他枢軸各国とも国境地帯の領土交渉が行われ、芬蘭にはカレリア地方の完全譲渡等、広範な蘇聯領土が割譲されるに至った。尚、6月5日には日蘇戦もクラスノヤルスク陥落により停戦となり蘇聯は更に沿海州と北樺太を失う事となった。


1943年5月13日、一方北アフリカ戦線では枢軸軍がチュニジアで降伏して同戦線も消滅した。然し独逸軍には、未だ数百万の蘇聯軍が新国境沿いに展開している状況で直ぐには全ての部隊を引き抜く事は出来無かったが、東部戦線の消滅により膨大な予備兵力が使用可能となっていたのである。


1943年7月10日、連合軍は伊王国のシチリア島に上陸した。『ハスキー』の秘匿呼称を付けられたこの作戦で枢軸軍は同島を奪われたが、独逸軍地上部隊の主力たる第15装甲擲弾兵師団や空軍装甲師団は連合軍の絶対制海権下にも関わらず、8月17日迄に伊本土への撤退を成功させていた。


1943年9月8日、7月にムッソリーニを解任して動向が危ぶまれていた伊王国が、遂に連合国との休戦を発布して枢軸軍から脱落してしまった。幸いにも独逸はこの情報を事前に掴んでおり、一旦は伊王国全土を掌握していたが、休戦発効の翌日、連合軍は伊王国本土のサレルノに上陸、ローマに向けた進撃を開始していた。然しシチリア島から撤退していた10万の将兵と車両1万両を加えた枢軸軍はグスタフラインと呼ばれる防衛線で頑強に抵抗、戦線は膠着するに至った。


1944年1月22日、膠着状態を打開する為に連合軍は先ずグスタフラインに攻勢を掛け、ローマから枢軸軍の予備兵力2個師団を誘引した後、後方のアンツィオに上陸、枢軸軍の挟撃を図った。然し連合軍が内陸侵攻を急がず橋頭堡を固めている間に枢軸軍予備兵力が次々に配置に付き、橋頭堡から侵攻を図る連合軍とそれを阻止して反撃を試みる枢軸軍の間で2月一杯激戦が繰り広げられたが、最終的にはここでも連合軍戦線は枢軸軍に包囲されたまま膠着してしまったのである。


1944年6月6日、遂に連合軍が先鋒の5個師団と空挺3個師団による上陸作戦を仏ノルマンディー海岸に対して敢行した。日本の独逸大使館からの報告では当日には詳細は全く不明だったが、日が経つに連れて独逸軍の善戦が伝わって来た。本来なら東部戦線に張り付いていた筈のSS装甲軍複数個が、仏北東部独特の延々と果樹園が連なるヴィレル・ボカージュで待ち伏せ、ノルマンディー南方のカーン市近郊で装備の劣る英軍に痛撃を加えつつあったのだ。連合軍も続々と後続部隊を投入している模様だ。戦況は予断を許さない状況にあった。


1944年7月12日、独逸大西洋防壁防衛司令官のロンメル元帥が負傷、20日にはヒトラー総統暗殺未遂事件が発生して独逸軍の指揮系統は一時混乱の極に達したが、前線では米軍のコタンタン半島侵攻は独逸軍が阻止、ノルマンディーの連合軍は全周を独逸軍の増援に包囲され戦局はここでも膠着するに至った。


1944年8月15日、連合軍は南仏カンヌ近郊に上陸し、ツーロンからマルセイユ迄の広範囲を制圧した。独逸は南北から連合軍に挟撃される事となったのである。


1944年8月25日、独逸軍が一転、ノルマンディーでの反撃作戦『フリードリヒ』を発動した。初動で下方機銃を装備した600機もの夜間戦闘機がドーバー海峡を渡って英国本土の飛行場を叩き、これらを一時機能不全に陥らせ、航空支援の途絶えた連合軍地上部隊を独逸装甲軍が蹴散らしたのである。月末にオルヌ河の連合軍防衛線を突破したSS装甲軍は、9月に入り、カーン、アロマンシュ、バイユーを次々に陥落させた。10日にはコタンタン半島のシェルブールが陥落して連合軍はノルマンディー地域から一掃されるに至った。但し制海権は連合軍が握っていた為、その地上戦力の7割を英本土に脱出させる事に成功していた。『ダンケルクの奇跡』は再び起こったが、ノルマンディーでの3ヶ月に渡る戦いの勝者は明らかに友邦独逸だった。


1944年10月1日、独逸軍は南仏の連合軍を駆逐する『シュロス』作戦を発動、連合軍は抗う術を持たずツーロンから撤退して行った。西部戦線から連合軍は一掃され、西部戦線自体が消滅したのである。


1944年11月25日、ノルウェーのベルゲン、ナムソスに連合軍英第30軍団が上陸した。欧州の制海権は完全に連合軍側の手に有り、それは彼等が自由に上陸場所を選定出来る事を意味していた。英軍は独逸の増援が行われ難い地域を選んだのである。然し対する独逸軍は暗号解析により事前に英軍の作戦名『フレイア』についてある程度の情報を掴んでいた。警報を受けたノルウェーの独逸第21軍はスキー部隊の素早い展開でこれを阻止、12月1日には連合軍はベルゲンに上陸した兵力の8割を置き去りにして撤退せざるを得なくなった。以降、連合軍側は欧州への上陸作戦を控え、戦略爆撃に攻勢の重点を置く事となる。


こうして欧州大陸、北東/東南亜細亜、太平洋、東印度洋は伊半島南部を除き、全て枢軸軍の制圧する所となったのであった。




☆ 本編はゲームの外交フェイズで伝えられた内容に脚色を加え記述されています。

1944年3月6日、松8号輸送が終了していない時点から作戦は開始されていた。その第1段となる米本土近接海域に於ける潜水艦による米輸送船団攻撃の実施が大本営で裁可され即日発令されたのである。米本土への空襲や上陸が出来ない現状では、米本土近海での実力行使が米国への政治的メッセージにもなり、戦略的にも西太平洋への侵攻艦隊の一部を米本土沿岸警備に振り向けさせる事が出来る、と大本営は目論んでいたのである。

大本営が波号演習実施研究の段階で米国との講和が成らなかった場合を想定した作戦概要は以下の様なものであった。


6、第6段作戦


1)米国沿岸

①地上戦力は絶対国防圏を設定、大陸より移動

②米国西海岸通商破壊作戦に1個潜水艦隊充当

③サンディエゴ軍港攻撃に改良型甲標的を投入

④潜水空母艦隊整備完了次第、パナマ運河奇襲


捷号作戦』と命名された今回の作戦は北米大陸西海岸の海域別に南から捷一号、二号、三号、四号に分類されていたが、アラスカ沿岸での捷四号作戦はダッチハーバーが攻略され、同海域での米船団活動が激減した事から中止されていた。米国は豪奢な事に蘇聯に貸与する筈だった車両を大量にアラスカに送り、陸路で船団輸送を代替したのである。そこで先ず実施に移されたのが米本土西海岸近辺での通商破壊作戦、捷三号作戦であった。投入される戦力は伊号甲乙型9隻と独逸から回航されて日本海軍に贈呈されたUボート呂500であったが、如何にも戦力不足の感が否めなかった。これは日本海軍が、開戦劈頭の布哇沖海戦で28隻もの潜水艦を投入したにも関わらず、戦艦1隻を沈めるのが精一杯だった戦訓に基付いた措置として潜水艦の増勢を行って来なかった為であった。それでも潜水艦を主力として構成されている第6艦隊は、足の長い巡洋潜水艦8隻からなる第1潜水艦隊を遣独戦隊専属に充てている現在、パルミュラ防衛戦で壊滅した海大型10隻と捷二号作戦に振り向けられた丙型潜水艦を除いたほぼ全力を第2潜水艦隊として本作戦に投入していたのである。大本営海軍部は大規模では無くとも米本土の庭先で暴れて見せる事が重要だと考えていた。


1944年3月27日、第2潜水艦隊は襲撃予定海域に到達、程無くして米輸送船団を捕捉した。米軍は20隻の輸送船に4隻の駆逐艦の護衛を付けていたが、この海域で日本軍潜水艦の襲撃を受けるとは思ってもいなかったので油断していた。結果、日本軍潜水艦の襲撃は奇襲となり、米輸送船2隻が撃沈された。米駆逐艦も果敢に反撃を行ったが日本軍潜水艦複数に損害を与えたものの撃沈には至らなかった。3日後、新たに輸送船1隻を沈めた日本軍潜水艦隊は反撃を擦り抜けて姿を消した。米国からすれば戦術的には小さな損失だったが、捷三号作戦の初回襲撃は一先ず成功したのであった。その後も第2潜水艦隊は米輸送船団を捕捉したが、各艦の損傷度合からこれ以上の襲撃は喪失艦を出す恐れ有りと判断して布哇への帰投を決めた。戦力不足を助長する事を抑えたかったのである。


1944年4月6日、第2潜水艦隊が帰投を決めた同日、今度は捷二号作戦を担う第3潜水艦隊の丙型潜水艦5隻が目標海域である米国サンディエゴ沖に到達した。この部隊の目的は、布哇失陥後の米太平洋艦隊の根拠地たる同港を監視し、入港する艦隊を探知した際に搭載する甲標的によりこれを港の中で撃破する事に有った。唯、この攻撃方法には問題が有った。甲標的との秘匿呼称を付けられた小型特殊潜航艇の帰還率の低さだった。根本原因は実戦配備時の乗組員訓練ので時点で突き止められていた。その余りの操縦性の劣悪さである。それが解っていながら大本営海軍部は艦隊決戦前に敵全面に投射され、水中戦闘機の様に敵の攻撃をかわして主力艦に大型魚雷を叩き込む、といった夢想を描いていたのであった。操縦性が劣悪と言うのなら訓練を手荒く行えば良い。こうして甲標的は2隻の甲標的母艦共々開戦前には実動状態に入っていた。甲標的は実戦で戦果も挙げていた。真珠湾奇襲の際には湾内に停泊していた給油艦ミシシネワを1号艇を駆る酒巻少尉が撃沈、流れ出した軽油に引火して湾内の被害はより甚太なものとなっていた。然しこの攻撃で帰投出来たのは酒巻少尉の1号艇のみで他の4隻は未帰還となった。日米機動部隊決戦がジョンストン島沖で戦われていた1942年3月にはニューカレドニア方面に居た第3潜水艦隊は5隻の甲標的を出撃させ輸送船1隻中破の戦果も挙げていたが、帰投した甲標的は無かった。その様な戦歴しか無い第3潜水艦隊を敵の本拠地に殴り込みを掛けさせるのには作戦立案時に反対意見も出たが他に有効な代替案が見出せ無かった為に実施された作戦でもあった。


1944年4月12日、これ迄サンディエゴ湾を監視する第3潜水艦隊には未だ敵艦影は捉えられていなかったが、この日、遂に空母を含む艦隊の入港が視認された。目標空母の命を受けた甲標的5隻が直ちに進発した。湾内には、空母10、巡洋艦1、小型艦60、輸送船等126隻が蝟集していた。如何にも米国らしい大艦隊だったが、西太平洋に侵攻してくる艦隊3個分でしか無い事も洞察出来た。戦果は軽空母1に魚雷2発命中で中破のみ、帰投出来た甲標的も無かったが、母艦たる潜水艦には何ら損害は無く攻撃は成功と判定された。然し何れの作戦も戦果の面から見れば不十分と判定せざるを得なかった。


1944年5月1日、第2潜水艦隊の一部が布哇に帰投した。機関部への迄損傷を免れた6隻が先行したのだ。内4隻は直ちに2隻の工作艦明石、三原による復旧作業を受ける事となった。4日後には残る4隻も帰投したが、こちらは布哇の小型艦ドックで対空兵装強化作業を受けている陽炎型駆逐艦を出梁させて復旧を急ぐかで、各戦隊の主計長が掴み合いの喧嘩沙汰を起す羽目に陥っていた。何れにせよ第二次攻撃迄には時間が必要だった。


1944年5月12日、第3潜水艦隊が帰投した。此方は潜水艦自体には損傷は無かったが補給の問題が発生して一悶着有った。予備の甲標的が布哇の甲標的母艦千代田には搭載されていなかったのである。7隻の甲標的を搭載した同型艦千歳は台風等の悪天候の為に横須賀出港が遅れ、布哇入港は10日後の目処となってしまったのである。悪天候だったとはいえ、最初から千代田に甲標的を搭載して布哇に送り届けていれば何の問題も無かった事象だけに第6艦隊補給部の責任は重かった。だが今回は第2機動艦隊の誤着艦事件の様な自決未遂騒ぎは起こらなかった。第6艦隊上層部が全てを台風のせいにしてシラを切り通したのである。誰かが自決するか、誰も責任を取らないか、極端な所もまた、日本的ではあった。


合衆国ではサンディエゴでの損害は軍事機密でもあり軽微でもあったので公表する事は無かったが、撃沈された輸送船員の遺族が連邦政府を相手取った訴訟に打って出た事から、日本軍が既に合衆国西海岸で攻撃を始めたとマスコミが大々的にこれを報じて騒然としていた。合衆国海軍は輸送船3隻の喪失をマスコミの質問に回答する形で認めたが、広報官の『戦術的には何ら痛痒を感じない』と言う民心を逆撫でする様なコメントを不用意にも付け加えてしまった為に事態は民主党政権にとって急速に悪化していったのである。