1941年12月8日、東京で日本時間の早朝0330時に米英との戦争状態への移行を発表する記者会見が短波放送ラヂオ日本の同時英訳生中継付きで行われた同時刻、第1機動艦隊は日本とは4時間の時差が有る布哇の北北西800kmの海上にあった。宣戦布告の放送より1時間前、現地時間12月7日0630時、布哇真珠湾に向けて6隻もの空母から一斉に攻撃隊が発艦を開始していた。世界初の本格的空母打撃群による航空攻撃が開始されたのである。既に湾内の艦船の在泊概要は阿武隈から先発していた零式水偵の偵察により把握出来ている。事前の間諜からの報告で想定されていた主力艦たる戦艦は8隻共在泊していた。添え物の空母2隻は居なかったが奇襲攻撃を加える目標である主力艦に不足は無かった。
0740時、真珠湾近傍に到達した指揮官機から『突撃準備隊形作レ(トツレ)』が発信され、艦攻隊の攻撃を先行させる意味を持つ信号弾1発が発射された。0749時、『全軍突撃(ト連送)』が発信され、続いて0752時、指揮官機から機動艦隊旗艦赤城に対して『我奇襲ニ成功セリ(トラ連送)』が打電された。この電波は東京の大本営でも受信出来た。また長く旗艦長門に置かれていた聯合艦隊司令部は長門が南方作戦に投入される事となった為に横浜の日吉台に上がっていたが、ここでも受信されていた。
信号弾による攻撃手順指示に従い、先ず雷撃隊が2派に分かれて戦艦への攻撃を開始した。第1派は一番外側に停泊していた2隻の戦艦ウェストバージニアとオクラホマに集中、これを撃沈した。単に大破着底したのでは無い。船殻が全損する迄に破壊されたのである。第2派は残る6隻の戦艦を狙ったがメリーランド以外の5隻を中大破させるに留まった。然しこれは作戦通りの行動とその結果であった。
次に艦爆隊と18機の零式水偵が駆逐艦に対する攻撃を開始した。結果、22隻もの目標が沈没、残余も大破してしまい、真珠湾には無傷の駆逐艦は皆無となってしまった。これも事前の作戦通りの行動だった。戦闘機隊による飛行場攻撃が終了して攻撃隊が帰投すると、機動艦隊は一旦生き延びた米艦隊や生き残った爆撃機による反撃を回避する為、ジョンストン島西方迄転進したが、その場所と布哇を結ぶ線上には28隻もの第6艦隊の潜水艦が米艦隊を待ち伏せていたのである。日本海軍が長年構想してきた漸減作戦の実践である。航空隊は潜水艦攻撃を成功させる為に戦艦を攻撃するには威力不足の爆撃機隊にわざと駆逐艦を狙わせたのだ。案の定出撃して来た米艦隊はこれらの攻撃により臨時旗艦となっていた戦艦メリーランドを失い、第1機動艦隊に追い縋った巡洋艦部隊も軽巡ローリーが雷撃で速力低下を起こしていた為、更には日本軍側もこの段階での艦隊決戦は潜水艦攻撃が継続されており時期尚早と考えており消極的だった為、水上打撃戦は発生しなかった。だが、この時点で米追撃艦隊が次の日本軍の攻撃で全滅してしまう事は確定的となってしまったのである。
一方、地球の裏側でも日本軍の攻勢は同時に開始されていた。布哇と5時間の時差が有るシンガポールに仏印の柴棍(サイゴン)近郊サンジャック飛行場から発進した美幌、元山、鹿屋、各海軍航空隊が到達したのは、布哇奇襲が開始されてから3時間半経った現地時間0630時であった。その頃、合衆国では国内と海外の自軍にハワイ奇襲を通知するのに精一杯でイギリスに状況を通知するのは遅延していた。シンガポールには警報は発せられなかった。黎明攻撃となったが湾内の艦影は日本軍指揮官機からも明瞭に識別できた。その中でも段違いに巨大な2隻の戦艦に向けて合計95機の96式陸攻22型と1式陸攻11型各機が殺到した。宣戦布告の放送から4時間、迎撃機こそ上がって来なかったものの限定された射線を取らざるを得ない雷撃隊に対して対空砲は有効だった。然し18機を失いながらも各航空隊は戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス、及び、駆逐艦1を撃沈する事に成功したのである。
日本軍の航空攻撃は比島方面でも展開されていた。時差はシンガポールと同じであるルソン島には、先ず航空機の航続距離の関係で戦闘機隊を伴えない陸軍爆撃隊の99式軽爆1型26機と97式重爆17機が台中から快晴の天候の下で出撃、0630時にはアパリの米飛行場に到達して飛行場を叩き、この一撃で飛行場能力を奪い去った。また高雄からは海軍第11航空艦隊の主力である台南海軍航空隊の96式陸攻22型35機と1式陸攻77機が零式艦上戦闘機隊86機の直掩を受けて出撃、0700時にはマニラ近郊のイバ、クラーク両飛行場に到達して空襲を実施した。ハワイ奇襲の報告を現地時間0320には受信していた合衆国陸軍航空隊は95機のP40Bで迎撃した。然し20機の損害を受けて零戦8機と陸攻14機を撃墜したものの飛行場能力は壊滅、迎撃戦で生き残った75機の迎撃機も不時着して失われる事となったのである。
航空撃滅戦が展開される中、海軍第2機動艦隊から分派された第1艦隊はカムラン湾からシンガポールに到達、パニックに陥った英軍飛行場に対する激烈な艦砲射撃を実施した。長門型2、伊勢型2の4隻の戦艦と妙高型3隻による攻撃は一撃で同飛行場を沈黙させた。また柴棍からは事前に99式軽爆1型52機がメルギー飛行場を叩いてその機能を奪ってもいた。この際、シンガポール港に残存していた3隻のD型軽巡ドラゴン、ダナエ、ダーバンと駆逐艦6が脱出を図ったが第1艦隊に捕捉され全滅していた。これで馬来沖に展開していた海大型潜水艦3隊9隻は戦艦の監視と漸減任務から解放された事からクェゼリンに布哇方面から帰投して来る潜水艦艦隊と合流する為、サンジャック港に集結して行った。また日本本土からも同方面に向けて3隻の海大型潜水艦と2隻の海中型潜水艦が相次いで浮上航行のまま出港して行った。
更に分派第2艦隊は扶桑型戦艦2、高雄型甲巡洋艦4、最上型甲巡洋艦4の戦力で航空反撃が少ないと想定されていた香港に到達、14インチ砲20門、8インチ砲80門で香港島と九龍半島の要塞地帯を叩き、その施設を壊滅していた。残余の陣地は台北から通過爆撃で広東に移動した陸軍の97式軽爆と広東から出撃した98式軽爆により壊滅していた。
この空海軍による攻撃後、遂に陸軍も動き出した。先ずコタバルに、第2機動艦隊残余の巡洋戦艦2、96式艦上戦闘機と97式艦上攻撃機を搭載した軽空母4(大鷹の艦載機は未搭載、瑞鳳も定数割れの21機搭載のままだった為、艦載機は合計66機に留まった)、水雷戦隊1に海防艦、掃海艇、敷設艦、陸軍特殊揚陸艦神州丸、高速輸送船、防空基幹船、防空任務にも投入可能な零式水上観測機を24機搭載している水上機母艦千歳からなる第4艦隊が到着、第25軍隷下の第5、第18師団の上陸を開始したのである。既述の通り周辺の航空基地を既に叩かれていた英軍はここでもパニックを起こして反撃の暇も無く要塞砲と航空機を無傷のまま放棄して撤退して行った。この奇襲上陸作戦での日本軍の損害は掃海艇1隻に留まった。最後にコタバルには長鯨がカムランから移動して来て上陸を果たした機械化部隊や工兵隊用の軽油を陸揚げする事となっていた。
この直前、泰王国は大日本帝国との軍事同盟の締結に合意し、1個師団規模の脱走兵は有ったものの、緬甸国境の小都市イエの防衛に軍を集結させたり、英軍のバンコク空襲を迎撃したりして日本軍への支援を開始していた。イエは偵察隊の情報から対面するモールメンに英印軍2個師団弱が既に駐留している事が判明していた為、侵攻が懸念されていた。これを防止する為にプノンペンの日本軍近衞師団から機動戦力を除く主力が増派されていた。
更に陣地壊滅で士気が低下した香港には上海に駐留していた第23軍の参謀長だった栗林忠道少将の提言により隷下の第38師団のみによる攻略を開始、兵力劣勢にもう関わらず総攻撃で敵の士気を崩壊させ3日でこれを制圧した上に、英徳に有った中華民国国民党軍第4戦区張発奎将軍率いる粤軍の上海侵攻を留守2個師団で思い留めさせる事にも成功していた。
大陸ではその北方700kmの南昌でも戦闘が発生していた。だがこの戦いだけは日本軍が守勢に回って、中華民国国民党軍第9戦区司令官薛岳将軍が南昌の日本軍兵力が枯渇しているとの偵察報告を受けて攻勢を仕掛けたものであった。然しこれも日本軍の罠だったのである。支那派遣軍総司令官畑俊六大将直々の命令により中支各師団から最前線である漢口の第11軍に至る迄の全ての砲兵と数少ない装甲車両を南昌に集結させて隠蔽し、代わりに歩兵に隊列を作らせて派手に玉山に後退させる事により如何にも南方方面で始まった大規模戦闘の影響で戦力を引き抜かれた様に見せ掛けたのだ。これに薛岳将軍は引っ掛かり隷下の約4個師団で南昌に攻撃を仕掛けたのである。然し国民党軍が歩兵中心で装甲車両皆無、且つ、砲兵戦力216門に対して日本軍650門で相対した結果、国民党軍の総攻撃を伏撃で交わした日本軍が逆撃に出て1日で勝敗は決した。国民党軍は1個師団以上の損害を出して敗退してしまったのである。日本軍の損害は600名程度に抑えられていた。
陸海空での攻勢の中、後方でも日本軍の活動は一気に活発化していた。
先ず関東軍の大部隊が南下を開始していた。法正の第29師団、新京の第10師団は勿論の事、蘇満国境からも数百門の砲兵部隊と100両もの97式中戦車が鉄道輸送により既に満州国の南の国境に到達していた。入れ替わりに奉天の軽戦車連隊が国境警備に着任していた。これらの部隊の目的地は開封である。この砲兵戦力で国民党軍を圧倒、先ず鄭州を突破して大陸打通作戦を開始するのである。斉斉哈爾(チチハル)、佳木斯(チャムス)、新京の97式重爆1型各部隊も台中、上海、沖縄に移動していた。これらの部隊の目的は大陸戦線では無く南方作戦の支援であり、目的地は台中であり、マニラ空挺作戦が成功した後はマニラに移動して比島攻略支援を行う予定だった。次に朝鮮軍の第19、20師団も釜山への集結を開始した。カムランに陸揚げされて馬来、シンガポール攻略を終えた第25軍と合流、緬甸、印度侵攻に従事するのがこれらの部隊の任務であった。
日本本土でも状況は同様であった。旭川第7師団はウェーク上陸に向けて根室に移動、室蘭から回航されて来た第5艦隊が護衛する輸送船団に乗船するのである。仙台第2師団と東京の第52師団は横須賀に移動、現地の海軍陸戦隊と合流して蘭印リンガ泊地上陸を目指していた。名古屋第54師団と大阪第53師団、及び、、舞鶴と呉の海軍陸戦隊は神戸に移動、バンコクに向かう予定だった。更に福岡第56師団は佐世保海軍陸戦隊と合流してバンコクを目指していた。また各地の高射砲や高射機関砲は最寄りの上記港湾に移動してクェゼリンを目指していた。これは大陸各部隊からも抽出される事とされていた。現地で高射第1師団を編成、ウェーク攻略後の第7師団と合流してジョンストン島攻略を目指すのである。またクェゼリンにはウェーク島空襲の為に木更津と横須賀の96式陸攻21型が集結中だった。加えて日本本土各地の97式艦攻1型も第1機動艦隊艦載機の補充用にマーカス島経由でのクェゼリン集結が開始されていた。
台湾の高雄には比島バギオ上陸を目指して第3艦隊が停泊していたが、現地の南方軍直轄の戦力や工兵部隊を増援として現地の輸送船に乗船させている最中だった。またマニラ攻略準備として横須賀と福岡の陸海空挺大隊もこの地に集結中であった。
仏印ではイエに増援して国境警備に回した部隊以外の戦力がサイヨクに集結していた。コタバルに上陸した第25軍にシンゴラで合流する為である。この中には泰王国第2師団と日本軍近衞師団の機動戦力たる戦車連隊、サンジャックの第55歩兵師団に加え、カムラン湾に駐留していた川口支隊も含まれていた。但し各地の高射砲はカムラン湾に移動してジョンストン島攻略に向けられる事となっていた。ジョンストン島は布哇からの米B17重爆の攻撃圏内に位置している為、既述の高射第1師団への増援とするのである。
中部太平洋でも動きが有った。父島にはグァム島攻略を目指して陸軍南海支隊が輸送船に乗船を始めていたが、当初から戦力不足が懸念されていた。これを補う為に、パラオ諸島、トラック環礁に駐留していた海軍陸戦隊が増援される事となり、各島で乗船が開始されていた。また横須賀、呉、上海から旧式ながら8インチ砲4門を搭載している装甲巡洋艦5隻が艦砲射撃部隊の第6戦隊(旗艦甲巡青葉)の増援として出港した。これらの艦隊や船団はサイパンで合流する手筈となっていた。
この日の最後の作業として横須賀、神戸、佐世保、釜山に集結した陸軍部隊を輸送する輸送船の手当てが行われた。上海の3隻の中型輸送船は2隻が釜山に、1隻が佐世保に回航された。現地の輸送船だけでは集結した軍の一括輸送には足りない為である。同様の理由から呉から2隻の中型輸送船が神戸に残りが横須賀に回航されて行った。舞鶴と青森の春日丸型大型輸送船も横須賀に回航された。また、それでも足りない輸送船を補充する為、広東の輸送船が護衛艦艇と共に高雄に移動した。コタバルで第25軍を下ろし終わった空の高速輸送船は本土の積み残された工兵隊、整備隊、高射砲部隊輸送の為に直ちに本土へ回航される予定だった。クェゼリンの潜水母艦はパラオに回航されてボーキサイトの鹿児島搬入の任務に就く。トラック環礁の中型タンカーはクェゼリンに入港して重油軽油を陸揚げして第1機動艦隊寄港後に直ちに補給が行える準備に着手していた。日本本土にあった重油軽油を満載した中型タンカーは未だ占領されていないシンガポールに向けて出港して行った。第2機動艦隊に対する補給がその主任務である。最後に、呉から対潜能力向上と水上艦、潜水艦の応急修理の為、工作艦明石と特設水上機母艦国川丸、及び高速タンカーが、クェゼリンで第1機動艦隊と合流する為に高雄から陽炎型駆逐艦が出港して行った。
連合軍の反撃も潜水艦による攻撃の形で開始されていたが、高雄沖でもシンガポール沖でも日本艦船の撃沈は果たせず、逆にシンガポール沖では連合軍潜水艦7隻が壊滅していた。
この日、日本のあらゆる組織であらゆる人々が全力で立ち回った。それに携わった人々の頭の中で、鈍い色々な想いが去来して交錯する。ある者は歴史上初めて経験する大戦争突入の意味を噛み締めんとし、ある者は開戦を回避出来た日本をぼんやり想像した。だがこれらの曖昧模糊とした想いも肉体的疲労感には勝てず、ともすれば薄らぎ、そして最後に残る感慨は誰しも皆一様に同じであった。疲れた。長い日だった。本当に長い一日だった。だがその長い日もやっと終わった。
然し、その一同の考えは間違っていた。長い日は終わる所では無い。未だ1945年迄長期化する今次大戦の初日を終えたに過ぎなかったからである。この日、世界中の誰一人としてその様な長期戦が戦われる事となると想像していた者は居なかった。
了