angoの世の中フラリフラリと -235ページ目

月に笑った夜のこと

昼間はぐっすりと寝ているようなので夜にならないと動きがないあいつだ

今夜は起きたと思うとぐったりと悩みぬいている様子
話は聞いたが私としいてはその結論が可笑しくてならない

それで猶の事すっかりと落ち込んでしまった

どうせ行き着いていた結論なのだろうが滑稽なほどに可笑しイ

勘違いしているのだ
自分を知らな過ぎるでしょ

よしよしわかったよ
それならちゃんと見届けてあげるよ
さあこれから決行しようじゃないの
君がやってしまうかどうか私が見届けよう

そうして二人でこのビルの屋上の隅に立ったものです
確かに悲観的に眺めるのならそうしてしまった方がいいような景色ではある

止める道理もないのだ

手摺の向こう側の角に立って
下を覗けば何事もなく街が動いている
そうだ
自分の存在など気にしなくてもよい

やるかね?

あいつは頷いたな

そうかね
地面まで見届けるぜ!

安心した様に景色に振り返って
焦点が届くのかどうか判らない様な眼で遠くをチラリと見た時に意図も簡単にヒョイと飛んだのですな

咄嗟に落ちてゆく様を確認ですよ
見る見る小さくなるのです

さあてそろそろだろうと思った頃やっぱりそうだ
あいつは当たり前のように手足を広げてしまった
可笑しくてたまらない

どんなかなと思うまでもなく街路樹の枝が小さく揺れて
街もあいつも私もなにも変わりがないのだ

ったく面倒なやつだ!

枝に絡まって
葉っぱを揺らしながら
まん丸の小さな光がこっちを見上げた

私は屋上に転げまわりながら月に向かってげらげらと笑い転げた

馬鹿げた話に笑う為に屋上まで来た自分がバカバカしくなった


NHKスペシャル とってもスペシャルなの

人のテレビを勝手に乗っ取って見たのです

大したものですが
日本付近の海流は
例えばドイツ人
例えばフランス人
少なくとも日本の人では無い方がよく知っているようです

あれで通用するかどうかは知りませんが

改めて東北産の海産物の危険性がある事だけは確認できた様な気がしましたが

テレビを乗っ取られた方は
その意味が全く分かって居ないらしい

なるほどテレビの効用というのは確かなのだとも思ったものです


百鬼園日記帖

子供に神秘的な恐怖を教えたい

その為に子供が臆病になっても構わない


憶病と云う事は不徳ではない

のみならず場合によれば野人の勇敢よりも遥かに尊い道徳である

暗い森を見てその中に居る毛物を退治しようと思う子供よりも


この暗い森の中にどんな怖いものが住んでいるのだろうと感ずる子供の方が偉い人間になる


狐の話

狸の話

四辻のお化け

雷様の太鼓は凡て子供の心を深く広くする大事な養いである


子供に科学は彼らをアルトクルークな文明人に

又は

野蛮な勇士にする点に於いてどちらから云っても最も禁物である


(大正6年 九月二十四日の八)




今日午後

昼寝をした後玄関でぼんやりしていたら多美野が帰ってきてこんなことを云った

お父さんおとついの晩女子大のところで御神楽を見たなあ

おとついの向こうは昔で

そうじゃないおとついの向こうは去年で

去年の向こうは昔で昔の向こうは大昔で大昔には人間がおらずにけだものやプロントザウルスが居て

人間を生むものは箱の中に居て大風が吹いた時ふたが飛んだから人間が出てきたんじゃなあ

お父さん


(大正7年 九月十五日夜)




トドを殺すな

波打つ曲線でいいでしょ

人が減るのです


この先ずっと減るのです

ただしそれは予想です


90年後には4000万人だそうです


現在の人口を維持するための出生率の半分程度が日本の今の出生率だからです

他の先進国ことにアメリカなどでは増えているのにと言います


アメリカは日本の25倍の国土面積です


日本の人口が4000万人

個人的には理想的だと思います


足りないといいます


そうですか


オーストラリアと東京都の人口ではどちらが多いでしょう

彼の地はもう駄目です

広くて人が居ません


狭くて人が多いので大丈夫なんですか


数は常に変動します

意図的に増やした結果が今何を作り出しましたか

人海戦術の時代を継続しますか


人口は減ります

東京近郊では嘗てのニュータウンが過疎化しています

人が居なくなれば元のように自然を復活できそうだと希望も持てるでしょう

跡形もなく破壊するならばですが


人が多いといいんですか


少子化対策が人口を増やすという目的なら徒労に終わる筈です

人口は減るのです

住んでいられないし遣ってられない様な所では減るのです


普通です


効率を考えれば貧しい国にはならないでしょう


効率を考えない貧しい頭脳が貧しさを創るのです


ひとつの国の人口というのは減ったり増えたり

居なくなったりして来たものです


人口4000万の理想的環境を整えようとした時意に反して人口が増えてしまうでしょう


人の数だって自然です


いいじゃないの自然で


共鸣

いいのでしょう

ものの善悪は

元々は慣習の中で規定されているものであるから


成文化してそれを法にした場合

慣習の範囲を超えていても

法に触れなければ悪ではないと言い張るは可能だし

事実そう判断されるでしょう


そして現代では

日本は法治国家であるので

それで良いと言う事にもなるのでしょう


ところが実際の生活というのは法律を意識するよりも観衆を意識することで成り立っているので

それで良かったり面倒だったりする訳です


たぶん

日本の様な小さな国でしかも携帯電話の質も普及している台数も

何処の国も敵わないかも知れないと思って自尊心をくすぐってやる事も簡単なのだけれど

こんなにその普及した道具の使い方が不便な国も滅多にあるものではなく

公共交通手段を使うということは

それだけでその器具を所持している意味を否定しなくてはならず

実に不便であるにもかかわらずそれは慣習的に常識となるのですね


妙に反発を覚えて公衆電話でことを済まそうとすると今度はそれを見つけ出すことに時間をかけなくてはならず

むしろ携帯電話を持っていない事が妙に不信感を抱かせるようで


まあこんな事はどうでも良くて


慣習的に非難される事でも法に触れなくて済んでしまうのであればそれで良しになるというのは

常日頃法と行動を照らし合わせ綿密に分析しながら慣習を無視しようという試みであってそれで合法性を楯に何かあらぬ事が進行している様な気がしないでもなくて


それで

別の話だけれど

絆だ

最近の語訳ではどうもよきイメージだけになっているのでこれが連発です

この言葉には

ある生活圏の中に居る限りある一定の縛りがありますよという

言ってみればある種の束縛を前提に結束するというようなニュアンスが含まれる


家族の絆の元結には頑固親父が居て

一家の法律であるかもしれないが

その家の中での生活には欠かせないということがある

家族であればいいのだけれど

国民の絆というとそれはなんだ

地域の絆というとそれは何だ

最近では天才と人災にこの絆を結び付けておかしな事を継続しているけれど

何か変な利用がなされていないか


この言葉


こんな黴臭い湿った言葉を無神経に使うよりももっと乾燥したカラッとした気持ちのいい言葉があるだろう


そう思い出すと

今日この頃など首を絞められているようで息苦しいのである


この言葉と操る大元が気に喰わんのでそうなるのだろう


法律も慣習も時に台頭するひとつの言葉の使いも

夫々の国の文化の中で受け入れられるものでなくてはとは思うので

訳が分かってそれを含めての使いであるのなら真に結構だけれど


今の真面目さは軽薄だとしか思えないのですな


そうしましたけど無罪です

さてどうなりますかな


どうでもいいのでしょうな



いいのでしょうな






自由の事

自由である事のリスクというのがある

自由である人の傍らに居る事の不幸というのもある

傍らに居る自由人と自認するものが実は自由人ではない場合であろう


本来の自由人は

或る時

不自由でいる事に不都合を感じないで不自由に身を任せ

不自由の気楽さに身を任せられない自らに悩んで見たりするのである


不自由に慣れて身を負かす事の出来る者の時間は極めて気楽である


生き方と言うのは死の後にも

その評価に影響を与えるだろう


自由というものに化せられるリスクというのは気楽な中には存在しないが

気楽な不自由からの景色は

本来の意味での自由の過酷さを見透かす事が出来ないので

その評価は真逆のものになる事が多い


自由人 自由思想で生きる事で

安泰に気楽に生きた人の例を私は知らない


自由らしき不自由で満足すればそれで済む事ではあるが


残酷を知る優しさに付いて

新聞を捲る

もう既に興味は失せたので政治は大見出しだけで結構

読む前からどうせ書かれている事の裏を考えるだけだろうし

そうしてみたところで

別になんでもないのである


スポーツはソモソモ興味がない

最もどうでもいい事柄に属す


生活関連は

実感が伴わない上に

本来政治に向くはずの興味を逸らしている様で好きになれない


文化面はある程度読んで見たり


愈々社会面である

どこかの誰かが刺されてみたり

殺されてみたり

交通事故にあったりする奴だ


この三面記事は

嘗て最も興味がなく

その存在理由が理解できなかったのだけれど

つい最近ラジオである話を聞いた

三面記事とはなんぞやという話で社会学か何かの教授の言葉に納得した


実は三面記事に書かれた何処の意誰かも知らない人の身に起きた不幸や事故は

それは自分の身に起きた事柄ではないという事の確認という事であるというのだ

それを無意識に自分の幸福と感ずるのだと

人の不幸が記事になってそれを知る事で自らの状況に安心する


三面記事の悲惨に涙する事は滅多に無いだろう

これは正しそうだぞと思った


確かに人はそういう事で自分の境遇や状況を納得する事があるかも知れない



311依頼今でもずっと続いている被災地の状況の悪さと

その中で苦労しながら頑張る人の姿を流し続けているメディア

こんな状況でほって置かれているのだとはケシテ言わないメディアの流す映像の前で何を感じているのだろう

なぜ今政府は悲惨を長続きさせているのだろう


雨露を凌げるだけの最低限の家

これが仮設住宅建設のコンセプトだそうだが

その中で起きる事柄は予め予想が出来るし

事実それが進行している


他人の不幸は自分の幸せと言い切るかどうかは兎も角

比較論で自らの様子を認知する生き物であったり

自らが酷い状況になればどうにかしてそれ以下を探し

自分以下を踏みつける事で自分に言い訳するという人を見かける事は然程難しい事ではない


ではここで

こう言ってしまったらどうだろう

津波で人が死んだ

町は流れた

原発事故が追い討ちをかけ

仮設小屋で生きている

そういう人がいる中で自分はそうではなく

四六時中それを気に病んでも居ない


故に幸せである


さあこれが残酷か??


もしこの心理的効果というのが

三面記事に秘められた心理的効果の延長に今回の事を重ねるだけの演出が出来るのだとしたら・・・・??


その場合の残酷はどちらにあるのだ??


そう思ってしまうことか?

そう思うのであるからそれを利用しようとする側か?



一般的に言って

物の志向は一方的に過ぎるから

残酷なこの様な意見を思う私が分が良くないとは思うけれど


私はとっても良き者ですと主張するものが

まったく良き者ではないという事はごく普通にあることで


残酷を意識する事無しに居る者の残酷は

果てしない残酷なのだと言っては置きたい


Astrud Gilberto