障害者の平成30年間 「こころのバリアフリー」も道半ば(1) | 艶(あで)やかに派手やかに

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「こころのバリアフリー」という言葉が聞かれ始めたのは、平成の初め頃からと私は記憶しています。

平成10(1998)年、当時大学生だった乙武洋匡さんが『五体不満足』を出版しました。本書は累計600万部を超えるベストセラーになりました。

本書の書き出しは、「母親が生まれたばかりの障害児を見て、『かわいい』とつぶやいた」ということ。これは当時としては画期的なことでした。

乙武さんは、良くも悪くもこれまでに知られていなかったタイプの車椅子当事者でした。先天性四肢切断という重度障害でありながら小中高とすべて普通学校で学び、早稲田大学政経学部に進学。当時、重度肢体不自由児は特殊教育(現在の特別支援教育)で学び、卒業後は施設に入るのが当たり前でしたから。

本書には「こころのバリアフリー」という言葉が出てきます。乙武さんは、「障害者が直面する社会の壁には物理的バリアだけでなく、心理面でのバリアもある。これについても取り除いていこう」と述べていました。

「こころのバリアフリー」という言葉を初めて使ったのが乙武さんかどうかはわかりませんが、以後、障害当事者をはじめ多くの人々ががこの言葉を言い始めました。その頃放映されたドラマ『ビューティフルライフ』には「俺(木村拓哉)がお前(常盤貴子)のバリアフリーになってやるよ」というセリフが出てきました。

平成のうちに乙武さんが果たした功績と与えた影響は小さくないでしょう。作家として、教育者として、多彩な活躍をし、一時は政界進出も噂されるも、泥沼の不倫の末の離婚に至り、その後の活動は静かになりましたが。

 

 

その頃高校生だった私も『五体不満足』を読み、「こころのバリアフリー」という言葉を素直に「いい言葉だなあ」と思いました。

さて、当時は障害といえば身体障害や知的障害がイメージされ、私は「ちょっと変わった子」と言われてはいましたが、自分の特徴を「障害」と捉えることはなく、特殊教育で学ぶことは考えることもありませんでした。しかし、年齢が上がるにつれて人間関係で困ることを自覚するようになったことも事実です。

その後、私は大学生になり、平成14(2002)年、「知的に遅れの無い発達障害」と診断されました。

これも当時としては画期的な概念でした。それまでは「本人の努力不足」や「親のしつけが悪い」と信じられて疑われなかったことが「脳機能の違いからくる精神発達の障害」と認識されるようになったのです。厚生労働省により発達障害は精神障害のカテゴリーに位置づけられました。

 

大学も卒業が近づき、働くことを考える時期になりました。健常者の女子学生の雇用も進んでいなかった時代、障害者の法定雇用率があっても、「納付金を払った方が得」という思い込みからか大手でも雇用率0パーセント台で未達成企業が多く、障害者はやむなく福祉作業所に入ることが多々ありました。また身体障害や知的障害に比べ、精神障害への理解は遅れていました。精神障害者が障害者手帳を取得して企業に連絡しても「精神障害者は雇えない」と門前払いされました。そのため私も含め、精神・発達障害者は障害をクローズで働かざるを得ないことがありました。

しかしそのようななかでも、ダイバーシティ&インクルージョンを掲げ、障害者も戦力と考えるグローバル企業で、翻訳の仕事に携わることもできました。

私は「障害者? 健常者(働くプロフェッショナル)?」と、自分はどちらなのか、双方を行き来することが今でも続いています。発達障害は、環境次第では「障害」ではなくなります。また発達障害は治る可能性があるとも言われています。実際、私の30年間の発達を見てきても「治っている」と実感しています。この先、自分を「障害者だ」と思わなくてよくなる日が来るといいな、と思います。そのためにも翻訳や文章力などのスキルアップを現在でも続けています。

 

平成終盤になり、私は「こころのバリアフリーに向けて、障害者が活躍できる社会に向けて、メッセージを発したい」という思いを心から持つようになりました。

平成23(2011)年に、株式会社D&I主催の、障害者と健常者が共同での「ダイバーシティ富士登山」「ダイバーシティ駅伝マラソン」「朝勝勉強会」に参加しました。その後D&Iからそれらの事業を引き継いだNPO法人チーム挑戦に平成28(2016)年に参加し、挑戦し続けるという修行をしました。フルマラソンや柴又60キロマラソンも完走しました。

 

平成29(2017)年、「女性障害者が外に出る」ということをコンセプトにしたフリーペーパー「ココライフ女子部」編集部にライターとして参加し、「障害者による障害者のためのメディアを何かやりたい」という思いが実現しました。

「ココライフ女子部」編集部では、東京2020パラリンピックを控え、思いを積極的に広めて行きたく、編集部一丸となって、今後も活動を続けていきます。そのなかで私は、「障害者×働く」をテーマに、企業とともに、障害者の職域開拓や、障害者雇用と成果を出すことをいかにして両立させていくかを考える場を作っていきたいです。