愛される障害者像 | 艶(あで)やかに派手やかに

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「愛される障害者」像という言葉があります。

これは、発達障害だろうが、身体障害だろうが、昔から障害者には愛されない(マイナスイメージを持たれる)厳しい現実がありました。意識の高い健常者が目標とする「リーダー」や「自己実現」どころか、「普通」「平均」を目指すことすら難しいことでした。そしてこれは、本人の特性や性格がそうさせてしまう面もありました。特に重度や精神の障害であるほどそうでした。
そこで周囲の健常者は、当事者への要求水準をかなり下げて、「夢」や「自分らしさ」よりもまず、周囲に不安を与えないこと、言われたことに対して素直にはいと言うこと、当たり前のことをきちんとすることを当事者に求めました。
そして当事者も、それを目指してリハビリやソーシャルスキルトレーニングに励みました。それが「愛される障害者」像と考えられてきました。

これは何も、健常者が障害者を支配してやろうとして生まれた不純な考えではなかったんです。障害があっても礼節や公の意識を持とうということでした。
ただ「愛される障害者」像は、出発点は一見道徳的であっても、現実には支配の道具化しているという批判が当事者の一部から上がった。そのアンチテーゼとして、70年代ごろから障害者自立運動が起きた。有名なのは、青い芝の会。そのスローガンは「愛と正義を否定」「強烈な自己主張」でした。彼らの主張や行動はあまり真似しない方がいい部分も多いですが、公共交通機関の車椅子での利用の問題に一石を投じたのも事実です。

確かに企業や社会の意識は、「愛される障害者」の時代からほとんど変わっていません。
そして「愛される障害者」にすらなれない当事者(特に重度や精神や発達)もまだまだ多いというのも、変わっていません。

「愛される障害者」像を目指すのは、現実にはしがらみも多いんですよ。
特に、昭和的メンタリティのコミュニティに、世間体を気にしないハイパーアクティブな障害者があらわれ、「愛される障害者」の枠に納まらない言動をすると、しばしばあつれきになります。
例えば会社で、上司や先輩や人事は「君は法定雇用率を達成するためにいるんだから、目立たずそこそこやってくれたらいい」と考えているが、当事者が「とんでもない。私はもっと給料もほしいし、自立したいんだ」という考えを口にすれば、どうなるでしょうか。
あるいは家庭で、親は「どんなにつまらなくてもいいから安定した人生を送ってほしい」と地元のおかたい企業の障害者枠や特例子会社を勧めているが、子供が、より夢があるがリスクもある進路を選択しようとしたら、どうなるでしょうか。

ただ、社会は健常者のルールで動いており、障害者は多かれ少なかれ健常者に協力してもらわないと生きていくのが難しく、協力を得るには愛されないよりは愛される方が有利だし必要でもあるのは事実です。人としての礼節や公の意識は、障害の有無関係なく持つものです。愛される障害者の枠を超えて生きる場合でも。
それに、枠を超えた生き方は、えてして相当のエネルギーがいります。それこそ過労や二次障害すれすれのリスクもあるかもしれません。そういう生き方を「本人が楽しいと思えるかどうか」が課題です。そう思えないなら、挑戦させるのはリスクが高すぎます。

そういうせめぎ合いが、障害者に限らず、生きづらさを抱えた人の生き方をめぐる永遠のテーマです。

※この記事は、「プラスハンディキャップ」の

生きづらさを抱えたひとほど「いい部下」を目指したほうが楽になれる?! 江口克彦『部下の哲学 成功するビジネスマン20の要諦』を読んでみた。

に対する疑問として浮かびました。
上の記事は「愛される障害者」像の焼き直しに見える、という感想が浮かび、そこから発展させた内容にしました。