今回はややブラックなことを書いています。
現代日本には、生きづらさを抱える人達がかなりの割合います。
こうした人向けのサービスがいくつかあります。
例を挙げましょう。
・自己啓発もの
自己啓発のための勉強会、講演会、セミナーはよくあります。
リアルな場を使用しての会だけではありません。本屋に行けば、それこそその手の書籍は山ほどあります。インターネット上にも、その手のブログやサイトはあふれています。
生きづらさを抱えた人は、そこで人生において大切な何かをインプットします。
その時には、何かが変わった気持ちになります。
でも次の日から、本当にその人のなかで何かが変わったのかというと…何も変わっていないんです。
こうした場所では、誰もが人生において大切な何かをインプットすることができます。
しかし、それをアウトプットする場にはなりません。
だけど、「それを聞けば何かが変わる」と思って、よさげなものを見付けては通う。こういうことを何度も繰り返す人がいます。
講演会やセミナーのなかには、危険なもの、かなり高額なものもあります。
そこでは講師が神格化されています。
信者化した顧客が講師にお布施を贈る、という光景が浮かびます。
あまり近づきたくない場所です。
インターネット上の情報商材もそうです。
・カウンセリング、セラピー
ストレス社会に疲弊した人のためのカウンセリング、セラピーも盛んです。
カウンセリングでは、話を聞いてもらえます。
セラピーでは、癒してもらえます。
その時はすっきりします。
でも次の日から、本当にその人のなかで何かが変わったのかと言うと…やはり何も変わっていないんです。
こうした場所では、誰もが受け入れられ、慰められます。
しかし、その人が何かを試す場にはなりません。ましてその人の問題が解決する場にはなりえません。
「一度通ってすっきりした」という人は、時間の問題で再び落ち込み、再びカウンセリングやセラピーのお世話になります。
・精神医療
昔に比べて精神科の敷居が低くなりました。
精神科に通い、「○○障害」「○○症候群」などの診断が下りる。
そこで生きづらさの理由がわかった、とホッとする。
そして薬を飲んで、ラクになる。
しかし精神医療の薬は、副作用の危険があるものも少なくありません。
また診療費や薬代が高額に及ぶケースもあります。
薬は症状を和らげるだけで、その人の抱える根本原因を取り除くことはしません。
根本原因が取り除かれなければ、一生薬を飲み続けなければならないのです。
・居場所
ボランティア精神にあふれた人によって、社会的につまはじきにされている人を受け入れる場所が作られることがあります。
俗に言う「居場所」と呼ばれているところです。
そこに行けば、誰もが自分の不幸な境遇を語り合ったりすることができます。
こういう場所に、家庭、学校、職場などで孤立してきた人が来ると、最初は大歓迎を受けます。そこで、孤立してきた人は、自分が初めて誰かに受け入れられたような気持ちになって、感激します。やがてそこに頻繁に通うようになります。
そこは確かに居心地のいい場所です。
しかし、その人がそこに通って何か成長したのかというと…微妙です。
人間が成長するには、コミュニケーションを試す回数を繰り返すことが必要。
生きづらさを抱えた人はこの回数(場数)が圧倒的に不足しているのです。
居場所は居心地がいいですが、居心地がいいだけで終わり、「試す場」「挑戦する場」にはなりえません。
自己啓発もの、カウンセリング、セラピー、精神医療、居場所…
もちろん、これらを効果的に役立てている人は多数います。だけど、そうすることができず、利用はするものの何も解決できない、利用し続けるだけの無限ループにはまってしまっている人もかなりいるのです。
この現象を「生きづらさビジネス」とでも呼びましょうか。現代日本にはこうした「生きづらさビジネス」があふれ、生きづらさを抱えた人は最高のお得意さんになっていると言えるでしょう。
一部の発達障害支援にも、「生きづらさビジネス」の構造があると感じます。
一部の発達障害の「理解者」に、「ありのままを受け入れてもらうのが幸せ、そうでないと不幸」と言う人がいます。
発達障害の問題とは、「本人が社会にどこまで近づけるか」と「社会がどこまで本人を受け入れられるか」のせめぎあいです。
しかし、「ありのままを~」の人の手にかかれば、本人が社会に近づくのはタブー、本人を改善させるのはタブー、周囲は本人のマイナス面を大目に見て受け入れよ、ということです。
本人がこういう「理解者」の言うことを律義に受け取れば、周囲に「ありのままを受け入れて下さい」と求めるようになります。
けれども、すぐに「周りに文句言うなら自分でなんとかしろ」という周囲からの無言のメッセージにぶつかります。
本人は再び打ちひしがれ、いじめられたと「理解者」に泣き付く。
そして「理解してくれない」「親が悪い、会社が悪い、社会が悪い」と言い続けます。
「生きづらさビジネス」は、生きづらい人が生きづらいままで、繰り返し通い続けてくれるほど維持されます。
それが悪いといっているのではありません。彼ら彼女らにも生活があるのですから、それをやめろとは言いません。
まして、彼ら彼女らは「生きづらい人が生きづらいままでいてくれる」ように仕向けている、などとうがったことは言いません。
問題は、そのサイクルを知らずに、生きづらさの無限ループにはまっている人のメンタリティにあります。
人は無意識のうちに「自分や社会を変えてくれる何か」を求めるのです。
それは「ラクして稼ぎたい」と思うことと原理は近いでしょう。
それを怠け者だと笑うことはしません。人として自然な感覚だと思います。
「絶対に儲かる」という煽り文句で書かれた怪しいビジネスがわんさかあるように、障害や病気が「劇的に改善する」「絶対に治る」という煽り文句で書かれた怪しい治療法はわんさかあります。
それらは一度ひっかかって痛い目を見れば、もう二度と手を出さなくなります。
「生きづらさビジネス」は、そうした「劇的に改善する」「絶対に治る」よりか悪質性は低い。けれど依存性はむしろ高いかもしれません。
自己啓発もの、カウンセリング、セラピー、精神医療、居場所…このようなサービスを利用して、生きづらさを抱えた人が生きづらさから脱出できるかは大きな疑問があります。
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