「『みんな違ってみんないい』のか?」山口裕之著 | 内垣新平のブログ

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 金子みすゞの詩でとても有名になった「みんな違ってみんないい」という言葉だけど、この本はけっして金子批判の本ではない。

 ではどうしてこんな疑問符の付いたタイトルなのか。実は本書の副題は「相対主義と普遍主義の問題」とされている。なんだか難しそうだ。一応ひと通り読んだけれど、理解できたとはとても言えない。途中から、言語学や哲学、科学の話になったりするのでついて行くのもやっとという感じだ。

 

 ただ、著者がなぜこうした本を書こうとしたのかという点は、私なりに納得できるものがあった。そのことだけ書いておきたい。

 

 そもそも「みんな違ってみんないい」という言葉はなぜ好意的に評価されるのか。それはこの言葉が少数派を励ます応援歌みたいなものだからだろう。人とは違う感じ方、考え方あるいは生き方をけっして否定したりせず受け入れてくれるやさしさがある。

 

 金子みすゞの詩が小学校の国語教科書に採用されたのは1990年代だそうだが、その後テレビなどで彼女の特集があったりドラマ化されたりして有名になった。そのあたりはなんとなく私も記憶にある。「知ってるつもり」(日テレ系)にも登場したはずだ。

 

 やがて歌謡曲の世界でも、「みんな違ってみんないい」と同じような心情やメッセージを歌うものが多く登場するようになる。他者と比較なんかしなくてもみんなそれぞれがonly oneなのだと歌う「世界に一つだけの花」はその代表格と言っていいだろう。他にも「君は君のままでいい」といったような詞を含む歌はたくさんあった気がする。

 それらをあえて思想的に意味づければ、個性と多様性の尊重ということだろう。私はべつだんそこに問題は感じていなかった。「個性尊重」いいじゃないか、「多様性」結構なことじゃないか、と思っていた。

 

 けれどもこの「みんな違ってみんないい」という言葉が広く流布したことで変に拡大解釈されて、ひとり歩きしてしまっている、というのがこの本を書いた著者の危機感である。

 

 どういうことかというと、「みんな違ってみんないい」のだから「正しさは人それぞれ」「絶対正しいものなんてどこにもない」というように、どんどんニュアンスが変わっていくのである。

 性格とか感じ方レベルなら個々人で違っていていいが、何かについて意見をまとめねばならないときは「みんな違ってみんないい」では済まされない。「人それぞれだよね」と言っていては何もまとまらない。みんながバラバラなままで話が終わってしまう。

 

 そのことは、実は支配する側にとっては都合がよい。みんなが連帯したりせずバラバラなままでいて、それでいてそれぞれが「みんな違ってみんないい」と自己肯定しているのなら、もはや権力者にとってはやりたい放題である。「そのままそのまま、君はそのままでいいよ」と甘い言葉で励まして個性を尊重しているかのように見せかけながら、反対するやつだけピックアップして排除すればいいのだ。

 

 まさかこの国の教育行政のトップたちは、そこまで見据えて金子みすゞを教科書に載せたんじゃないだろうな。つい、そんなことまで勘繰ってしまいたくなる。

 

 

 この本、難しいところもあったけれど、なかなか刺激を受ける点も多いものだった。