私は日頃テレビ視聴の習慣がない。
テレビのある部屋では、
86歳の父が起きていればとにかくテレビをつけていて、
深夜の買い物ショッピング(=観ても観なくてもどうでもいい番組)まで、大音量で視聴していた。
本当に必要な情報はテレビからは得られず、
逆にろくでもない洗脳情報に踊らされてしまう。
直近の具体例を挙げると、
先日、
これ以上は何も申すまい。
話をテレビ漬けだった父に戻すと、
私のコロナ感染の8/21の入院に続いて、
9/5に同じコロナ感染で同じ病院の同じ階に入院。
9/12に天に召されてしまいました。
この前、私が生還報告をした、
かねてよりの知りあいが、
わが妹のnoteで顛末の詳細はつかめたが、
コロナ闘病の当事者ならではの体験談は、
私自身にしかできないのだから、
それをつぶさに報告するのが急務ではと。
なるほど、それは思いつきませんでした。
ボチボチ、思い出し思い出し、ブログに綴る…かも知れません。
とにかく退院後の自宅は私の独居となり、
一応、テレビ視聴が可能になりはしたのです。
「日本沈没—希望のひと—」
を知ったのは、TBSの何かの番組で、
↑乃木坂46の与田祐希(右)が出演告知をしていたからで、
「へえ、日本沈没をやるとはねえ」と興味を惹いた。
私は最初の映画、藤岡弘(※当時表記)といしだあゆみの『日本沈没』(1973)を、
田所博士役は小林桂樹。
12歳の小六で福岡博多の映画館で鑑賞。
これにはいたく心を奪われ、
続いて村野武範と由美かおるのTBSテレビ版(1974)も全話視聴。
映画に続き、田所博士役は小林桂樹。
ところがテレビ版の印象は希薄。
次に草彅剛と柴咲コウの2006年版再映画化ももちろん観たけど、
田所博士役は豊川悦司。
感心、心酔したのは最初の映画に尽きた。
2021年に、あえて日本沈没をテレビドラマ化する意義や価値は?
——と、いくぶん斜にかまえて視聴したけど、
どっこいなかなかの意欲作で感心しきり。
じっくりドップリ見入ってしまいました。
与田祐希の出演場面はほんのわずかだった。
「希望のひと」は、「日本沈没」を現代に再ドラマ化するにあたり、
『シン・ゴジラ』(2016)を参考にしながら、
同作で、てんでなっちゃいなかった部分をていねいに再構築。
まともな脚本を、まともな俳優陣が、
まともなセリフ回しで、
聴き取りやすい口調とスピードで繰り出すので、
しっかりと芝居が成立していた。
原作を現代にアップデートし、
引き伸ばし感やスカスカ感を回避するため、
ギッシリ詰め込んだのが、同局ドラマ史上近年最大の成功作、
同じ「日曜劇場」枠の「半沢直樹」
ここから拝借、踏襲した部分がかなり多く、
田所博士役が、“あの”香川照之なのが、
それを象徴している。
第1話を見て感心した最大ポイントは、
現代ドラマをリアルに展開するには、
現実社会で現在進行中の問題を無視はできないはず、
という社会通念が、
「希望のひと」にはしっかりあること。
これも『シン・ゴジラ』には皆無で、
私が同作に呆れ、一度観たきりで二度と見返す気のない理由。
具体的に述べると、
- 真実を国民に知らせると大変な混乱が予想される事例が発生
- すると正義=真実の告発者が社会不安をあおる不届き者とされ、隠蔽と知らんぷりを決め込んだ支配層が善玉を装うという、皮肉な逆転現象が起きてしまう
- これは問題解決ではなく、問題に直面せず、先延ばししているだけなので、後から大きなツケ払いが待っている
——という、まさにアベ/スガの自民党政権のコロナ対策と同じ構図ではないか。
「希望のひと」の脚本とドラマは、現政権の問題点をこうしてたった1話でガッツリとえぐりつつ、
総理役に仲村トオルをあてがう等、
見映えは現実世界とガラリと変えて、
あくまでもフィクションですからとシラを切り通す。
この「事実を鋭くえぐる」という視点も、
しつこいが『シン・ゴジラ』には欠けていた視点で、
あの映画では、政府や国家はちゃんと真面目に問題に直面して、
本来の職務に邁進しています、という体(てい)だったので、
「んなわけねえだろ!」と、2016年当時の私の神経を逆なでした。
ひるがえって「希望のひと」第1話に的を絞れば、
島が崩壊して沈む等のVFXも、ちゃちさが全く無く、
TBSのデジタル映像制作部の面目躍如。
「日本沈没—希望のひと—」は、
全話完全制覇を誓うに値する力作、意欲作である!
ご覧あれ。