【告知】
今週末の土日(9/22・23)は、
『響 -HIBIKI-』(ひびき)
2018/9/14 TOHOシネマズ西新井 スクリーン10 F-14
公開初日に、恥ずかしながら初回上映を勇んでみましたよ。
手堅い作りで、
上映中はじっくり見入って、
気がついたらエンドクレジットだった。
そこで初めて安堵のアクビが大量に出たが、
本編鑑賞は集中しまくり。
充実作を観たなあと言う満足感と充足感に浸った。
東宝は映画会社のくせに、もっぱら配給に撤し、
製作委員会とか別会社が作った映画を上映しまくるが、
自社製作=東宝映画の作品がほとんどない。
そんなドケチでシブチンな東宝映画が自社製作する場合は、
- よほど手堅く、確実に興収が見込め、
- それほど多額の製作費がかからない
——場合に尽きる。
『響』は、そんな東宝映画の作品だけに、
主演の平手友梨奈(ひらて・ゆりな)の人気や魅力、存在感に頼り切り、
たいして大きなシカケや予算もかけずに、
確実に稼ぐ方向で徹底している。
そのやり方が成功してるから、
とりたてて文句や不満もないので、
今回のレビューは短いけど、ここまで。
っていうのもどうかと思うので、
もう少しエラソーに分析すると、
- 原作の骨太さ
- 共演陣の演技力
珍しく?好演が際立つ小栗旬。
柳楽優弥(やぎら・ゆうや)も出てまっせ。
高嶋政伸は、安定の怪演。
- 映画としての基礎体力
平手が黒髪バリバリなのに驚く。
欅坂46メンバーは基本的に黒髪で、
↓動物好きの令嬢キャプテン菅井友香
茶髪/赤髪一番乗りだった志田愛佳は、すでに表舞台を去ってしまった。
復帰は未定。
とはいえ、
『あずみ』(2003)の上戸彩なんか、
ガッツリ茶髪でしたからね。
1985年生まれの上戸は当時17〜18歳頃だから、
黒髪なんてダサくてカンベンだったんだろうが、
『あずみ』はなにしろ時代劇なんで、
「何考えとんねん?」
でしたよ。
上戸彩は2017年の『昼顔』でも、髪の色はかすかに茶色い。
今回の『響』では落ちついた黒髪で出演している北川景子も、
『真夏のオリオン』(2009)では戦時中と
現代の女性の二役を演じ分け、
違いを出すためにも髪の色を変えているんだが、
当時の私の同僚は、
「なんだこの映画」と(戦時中の話なのに茶髪の女性が出て来ることに)失望したという。
いや、戦時中の北川景子は、がっつり黒髪だから、
それは見間違いなんじゃ…。
どうもこの人、
あまり映画鑑賞に向いてないらしく、
私と同い年なのに、
昔観た映画の資料を見せてもらう限り、
私が観たこともないタイトルばかりで、
しかも現代/後世に残らないものに限って観ているあたり、
そもそも映画選別のセンスがないらしい。
それでも資料は大事にとってあるんだから、
本人は映画通と自認してたんだろう。
一般女性や女子高生の茶髪化に話を戻すと、
工藤静香や
それまでは不良やヤンキー(反社会的存在)の目印だった髪の脱色が、
一般家庭の婦女子にもあたりまえになった時代には、
まさしくその渦中に身を置いていた(高校の教員だった)ので、
「日本人が総ヤンキー化してるのか」と戦慄した。
そんなこんなで、
映画『響 -HIBIKI-』劇中の、
平手と北川の黒髪には「時代は変わったな」と驚き、
高校文芸部のチャラそうな先輩がギャル風に髪の色が薄いのは、
演者が『パコと魔法の絵本』(2008)以来おひさしぶりの
アヤカ・ウィルソン(父親がカナダ人で母親が日本人のハーフ)だからで、
彼女は単に地毛のままなだけだった。
映画『響 -HIBIKI-』の原作は漫画『響 〜小説家になる方法〜』だそうだが、
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ドラマの骨格はしっかりしており、
「そんなバカな」とご都合主義にガッカリするところもほとんどなかった。
それでも気づいた点を挙げれば、
(若干のネタバレを含み、内容に触れています)
- 身元不明の鮎喰 響(あくい・ひびき/平手友梨奈)の手がかりが、探している編集者(北川景子)の“たまたま”知りあいの祖父江 凛夏(そふえ・りか)つながりで明らかになるのは都合がよすぎる。
- これと同様に、行き詰まった作家(小栗旬)が列車への飛び込み自殺を図るとき、響がそこに居合わせているのも、“たまたま”偶然。
——“たまたま”で切り抜けるのは、1本の映画でせめて一度限りにしないと、際限がなくなるよ。
- 響の攻撃性や凶暴性の根幹/動機が謎。創作の壁にぶつからずトントン拍子、親に買い物をいいつけられても素直に従う15歳が、心のどこにこんな暗い情念をたぎらせているのか。ドラマの起伏としては面白いけど、「自分の価値観を曲げない」「信念を変えない」の反動だけでこの凶暴性は説得力には欠ける。そもそも「ペンは剣より強し」(暴力反対)じゃないのか?
とにかく映画『響』の魅力は、主演の平手友梨奈の逸材ぶりに尽きる。
表現者としての素質が抜群で、
要求された役目を期待以上にこなせる
なりきり具合(没入加減)や表現の振り切れぶりが重宝され、
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欅坂46の主力パフォーマーとして優遇され、
センターに固定されるかたわら、
バラエティ番組では意図的に出番を減らされ、
そこはイロモノ向きの別メンバーにお任せして、
とにかく平手は素の姿を隠すことで、
これまでうまくやっていた。
テレビバラエティ「欅って、書けない?」の映画『響』公開週は平手の出演すらなく、
土田晃之バースデー企画を2週連続(9/9・9/16)で放送。
あくまでもグループ最優先、単独メンバーの活動は(写真集発売なども)取りあげない。
とまあ、そんな見込みは、
平手のステージパフォーマンスを一度も見ずに、
「欅って、書けない?」だけを視聴しての推測だったが、
後述する「行列のできる法律相談所」の
2018/9/16出演分を見て、
平手友梨奈個人では、バラエティ番組への対応力はゼロに等しいことが判明した。
センター固定と言えば、
欅坂46の原形は乃木坂46で、
その原形の方ではセンターが流動的だったため、
(生駒里奈→白石麻衣→齋藤飛鳥・他)
常に平手センター固定の欅体制に失望、
↓今泉佑唯(左)のように、グループ脱退という選択を強いられたメンバーさえいる。
平手友梨奈も、齋藤飛鳥と並ぶとさすがに超小顔というわけではない。
とにかく平手は容姿ではイマイチ突き抜けてはおらず、
おまけに「ゆりな」(Yurina)という名前は、
英語では「尿・小便」urine=ユーリンとほぼ同音なので、
国際的に通用しない名前でハンデあり。
「ゆりん」とかいう声優はもっとヤバイ。
つまりそうした幾多のハンデを補う何かが平手にはある(=他の欅坂メンバーにはない)と、
売り出し、仕組む側がデビュー以来ずっと見込み続けたわけ。
だがそんな図式は、いわゆる商売を操る運営の魂胆なため、
平手以外の欅坂ファンにも面白くなく、
彼女には何かと世間の風当たりがキビシイ。
たとえば本作『響 -HIBIKI-』は、
別のページでは、同日の成績が6位となっている。
ネット世評はたちまち、
- 平手に興行力がない
- 乃木坂の『あさひなぐ』に比べて「ざまあ」
- 齋藤飛鳥の『あの頃、君を追いかけた』(10/5公開)で、また差がつく
——等々、アンチ平手のバッシングが止まらない。
だけど始めから叩くと決めている奴らの、
映画も観ずにクサしてる意見がほんとひどくて、
「無表情でセリフが棒読み」とか、
「いやいや、だって、そういう役でしょ」と、
その安直な即物ぶりのクソ意見に、ひたすら呆れてしまう。
ふと、かつての同僚の、映画に対するセンスの無さを思い出してしまった。
興収が奮わないのを、
主演女優のせい“だけ”にするのは、
映画の場合、さすがに酷だと思うが、
くしくも『響』劇中に、
「自分(自作小説)と世間との折り合いがついてしまった」
ために、
「同じ話ばかり惰性で紡(つむ)いでいる」作家(鬼島仁:演・北村有起哉)が出て来る姿と重なる。
出版界は小説を出し過ぎ、
読者は「当たり」作品を見つけるのに苦労するため、
売れっ子作家の名前に頼る。
かくして山本春平 (小栗旬)のような、
売れない無名作家の小説はいつまでもハズレ認定され続けて人目に触れず、
祖父江秋人(吉田栄作)のような有名作家の作品は、
中身が伴わなくてもアタリ認定されて売れ続ける。
と言う矛盾を描いた映画が、
主役/出演者が誰かだけで観る観ないを観客に決められてしまい、
不入りという結果から逆算して、
「どうせ駄作」と決めつけられるのは、あまりに皮肉、不当ではないか。
映画『響 -HIBIKI-』と、原作マンガ『響 〜小説家になる方法〜』(未読)は、
小学館 (2018-08-30)
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小説は文学や芸術である以前に、
出版社や社員の収入源、
つまり飯のタネであることはしっかりと把握しており、
編集者の花井ふみ(北川景子)が、
凛夏(アヤカ・ウィルソン)の小説を「売れるように」(あるいは小説としての体裁=ていさいが整うように)手直ししてしまったり、
響が花井のことを、「作品作りに参加しているつもりなのか」と、
編集者の勘違いを諫(いさ)めているところにも感心した。
そういや東野圭吾の小説の冒頭で、
編集者と、次はどういう話にしようか打ち合わせする過程が描かれており、ガクゼンとした。
本当のクリエイターなら、
創作動機を他人と探るなんてありえない。
小説ではなくマンガの例だと、
少年ジャンプの成功やヒットは、
マンガ家個人の手柄ではなく、
編集との共同作業だと認識されて久しいが、
そもそも編集者にそんな才能があったら、
自分で作品を書いてるはずなんだから、
あたりまえに受け止めてはいけない。
(以下、超極秘情報。カーソルをあてがって閲覧して下さい)
編集至上主義は、
ジャンプ以前、集英社以前にどうやら小学館にあったらしく、
内山まもるのウルトラ漫画は、
当時の担当編集者に言わせると、
「絵は抜群にうまいけど、ストーリーは全部こっちで考えた。
しこたま儲けさせてやったんだから、ウルトラに嫌気がさしたなんて、
身の程知らずにもほどがある」
との主旨を、内山氏の亡くなる直前に聞いた覚えあり。
(極秘情報終わり)
もっとも、映画『響』劇中の、そうした出版界の真相暴露も、
あくまでも「らしさ」演出のためで、
本質を完全にえぐり出してはいないが。
映画『響 -HIBIKI-』の改善点を強いて挙げると、
脚本の西田征史は、
単にマンガ原作を映画脚本に引き写すお手軽作業で終わらせず、
二つの“たまたま偶然”を、もう少しマシな形に手直しするとか、
響の小説「お伽の庭」の中身を、
具体的な内容を一切見せずに終わらせたりせずに、
少しでも映像化して披露すればよかったのに。
それぐらい改変してこそ、
原作に完全依存ではなく、
脚本家ならではの創作の資質の加えどころではないか。
その際には、日本の文学界にありがちな、
「どう書くか」なんてどうでもいいから、
(つまりセリフやナレーションを廃し)
「何を書くか」で独創的な物語を紡いで、
映像だけで観客を納得させて欲しかった。
いくら独創的な文学表現に長(た)けたところで、
「雪が降る」というありきたりな現象は、それ以上に価値が上がらない。
そうではなくて、
たとえば地面に降り積もった雪のかけらが、
そこから引きちぎられるように地面から空へと舞い上がって行くといった感じで。
くしくも『響』がマンガから実写映画に昇格したように、
いかに文字や活字の世界だって、映像化に向いてる中身でなくちゃ、
現代のビジュアル世代には訴求しないよ。
それだけやれば、
始めから言われなかった…かも知れない。
とまあ、
「ここまで」と言っておきながら、
付け足し部分がやたら増えたが、
最後に締めのひと言を。
同じ響(ひびき)でも、見映えがぜんぜん違って、
どーもすいませんっ!
響・長友光弘
(最後の目撃記憶は、2017/9/6と9/13の「さまスポ」)
画像はこちらより。