本日のお題はストームトルーパー。
生え抜きの天才女流彫刻家/画家のリズ・ムーア。
ロンドンのキングストン美術学校(Kingston Art School) で絵画と彫刻を学び、
1960年に国立芸術/デザイン科(the National Diploma of Design)に進学。
同級生にエリック・クラプトンがいた。
16才だった当時の彼女の絵は、
『スージー・ウォンの世界』(1960)に使われている。
今回、何点ぐらい、どんな絵が使われているのか調べるために、
ネットでこの映画を観てみたら、字幕なしでもけっこう面白かった。
主人公の画家、ロバート・ローマクス(ウィリアム・ホールデン)が描いたものとして、
劇中に登場する絵が全てリズ・ムーアのものなら、
かなりの点数を手がけていることが判明。
当初はスケッチ。
最初の油絵は、香港人のモデル、スージー・ウォン(ナンシー・クワン)から「似ていない」と評される。
クワン自身は中国人で建築家の父と、スコットランド人でモデルの母の間に生まれたハーフ。
それでもスージーはまんざらでなく、
同僚を描いたものまで仲間に自慢する。
画家役なのにウィリアム・ホールデンに絵心が全くないのは、
絶対に黒を置くべきでない額に塗りつけていることでも明らか。
演じた役者の画力とは裏腹に、
劇中のロバートは赤児や母子像をたくさん描くうちに、
東洋人を描き分けられるようになり、
スージー本人に生き写しの絵を、ものにできるようになる。
——という腕前がめきめき上達するプロセスを、
きちんと描き分けられるプロの画家に、
これだけの点数を依頼すれば、かなりの額が必要になる。
そこでまだ16才の学生、
リズ・ムーアに白羽の矢が立ったわけだが、
難なくこなしただけでなく、
当時42才のウィリアム・ホールデンが、
40才の役で描いた絵として、
観客に違和感を抱かれるどころか、
反対に説得力を持たせたのだから恐れ入る。
22才頃のリズ・ムーアが、ビートルズの胸像を製作する様子が収められている。
造形の腕前もさることながら、
リズ本人の若さと美貌にも注目が集まり、
先述のニュース映像や新聞記事にも取り上げられた。
美術畑の人ならわかるが、
アーティストは平面派の画家か、
立体派の彫刻家に大別され、
どちらかが得意だと、どちらかが不得手な傾向がある。
双方に秀でた例はミケランジェロが有名だが、
とにかくレアケースで、
その意味でもリズ・ムーアは逸材だった。
リズはビートルズ胸像で脚光を浴びた1966年に、
『2001年宇宙の旅』(1968年公開)に参加。
クラヴィウス月面基地の地表なども手がけたが、
↓ヒトザルの造形作業で頭角を現し、
現場主任の特殊メイクアップアーティスト、
スチュアート・フリボーンや、
監督のキューブリックにまで一目置かれるようになり、
ラストに登場するスターチャイルドの造形を一任される。
進化した人類の赤児/胎児として、
頭部を大きめに造形。
顔つきは進化前のボウマン船長役、キア・デュリア(=ケア・ダレー/ケア・デュリアとも表記されるが、正確な発音はキア・デューレイ)に似せた。
可動部はガラス製の眼球のみで、その仕掛けはブライアン・ジョンソンが担当した。
廃棄されたと思われていたスターチャイルドの約76センチモデルは、
キューブリックの死後に、
同氏の膨大なプロップ(映画の小道具)コレクションから発見され、
現在は各国の巡回展でお披露目されている。
スターチャイルドの写真は、
ポスターや関連書の表紙、大型広告看板、CDやDVDに多用されたが、
リズ・ムーアは末端スタッフ扱い、
22才で従事しながら未成年と誤認されたか、
『2001年』にはノークレジット。
しかしキューブリックの覚えは良く、
次回作『時計じかけのオレンジ』(1971)でも起用され、
それがわざわざ新聞記事になるほどに。
↓女性の裸身を模したテーブルが、リズ・ムーアの作品。
『時計じかけ』のプロダクションデザイナーはジョン・バリーで、
リズの才能を高く評価し、
自分が『スター・ウォーズ』を手がける際に声がけして、
リズ・ムーアは、
1975年10月6日から働き始めた。
まさに、“目が点”の、終始驚いたような表情が秀逸で、
ジョン・バリー以下のスタッフの功績」
と認めているが、
これまでずっとリアリズム一辺倒で、
具象絵画や具象彫刻しか手がけてこなかったムーアにとって、
キャラクターマスク造形は未知の領域。
当時のイギリス/アメリカの映画製作の現場では、
日本のテレビの子供向け番組じゃあるまいし、
「ウルトラマン」(1966)や「仮面ライダー」(1971)のような、
硬質キャラクターマスク専門の造形師などいなかったから、
とにかく暗中模索の連続で、
頭部デザインの最終決定までに、かなり手こずった。
↓笹野高史かっ!
↓キュラソ星人かっ!
このペースだと、
残りの主要マスクキャラ、
ストームトルーパーもダース・ベイダーも
納期に間に合いそうもなく、
ベイダーよりも先に撮影が迫るトルーパーは、
別の人に担当させることも検討されて、
造形コンペが実施された。
↓画面左がリズ・ムーア作。
右のヤッターマン等のタツノコギャグメカみたいに珍妙な造形は、
ニック・ペンバートン(Nick Pemberton)作。
↓ペンバートンは、マクォーリーの原案だけを与えられて立体化したのに対し、
ジョン・バリー秘蔵っ子のムーアには、
C-3PO頭部造形の際に、
キュラソ星人の資料が提供されたのと同様、
*当時流通していた怪獣図鑑には、キュラソ星人の実物写真は未掲載で、
たいてい成田亨のデザイン画で代用されていた。
↓それを参考にしたのは間違いないが、
具体的な書名までは特定できていない。
マシンガンデスパーの画像にも助けられて、このコンペも勝ち抜き、
少々手が遅かろうと、仮面キャラは全部、
仕上がりが他の追随を許さない、
リズ・ムーアに任せるしかないという結論にいたった。
一方、選に漏れたペンバートンは、
自宅の近所に住む、
真空成型の専門業者アンドルー・エインズワースを、
マスク量産職人として衣装担当のジョン・モロに紹介した。
1975年10月6日から働き始めたリズ・ムーアだが、
1975年末までに作業を放棄してしまう。
シェパートンスタジオの敷地内で撮影されたリズ・ムーア。
当時の彼女の恋人、
1946年生まれでリズより2才ほど若いジョン・リチャードソンは、
『007 カジノロワイヤル』(1967)で業界入りした、
映画の特殊効果(特撮ではなく、現場の特機や装置)職人だった。
その彼が『遠すぎた橋』(1977)の特殊効果スーパーバイザーとして、
オランダに長期遠征することになり、
一緒に来ないかと誘われると、あっさりとSWの造形作業を投げ出し、
ホイホイとついて行ってしまった。
これにあわてたSW製作陣は、
わざわざ彼女のためにオランダ国内に造形作業所まで用意したが、
リズは全く手をつけず。
察するに、これまでの造形作業とはあまりにもかけ離れていたため、
自分のやり方が正解か確信がさっぱり持てず、
くわえて、
ファインアート(純粋美術)の教育をみっちり受けて、
実在の人物モデルに忠実な絵や彫刻に変換するのはお手の物でも、
なにしろ仮面造形の経験値がゼロだったため、
他者の既存造形物(の写真)に頼らざるを得ない「模刻」という行為が、
アーティスト気質にそぐわず、
SWの造形作業から解放されるなら、
何であろうと飛びついたのかも知れない。
これでは、
1976年3月22日のチュニジアが皮切りの本編撮影までに間に合わないのは確実。
↑最初に撮影されたサンドトルーパーは、設定上はストームトルーパーのバリエーションだが、実際のマスクとスーツは、ストームトルーパーの未完成形=プロトタイプだった。
そこでやむなく、
別の代役造形師が探され、
1976年の1月に、エルストリー・スタジオ専属のベテラン造形職人、
アーサー・ヒーリー(Arthur Healey)から依頼を受けた門下の若手ブライアン・ミュアーが、
当初は6週間契約で雇われ、
最終的に5ヶ月=20週をほぼ休みなしで取り組むハメに。
ミュアーといえばダース・ベイダーの生みの親(造形師)だが、
ミュアーは何よりも先に、
撮影が迫って急務で、
リズが未着手だったトルーパーのアーマー(装甲服)を完成させた。
量産は先述の流れから、アンドルー・エインズワースの工房、
シェパートン・デザインスタジオに一任される。
一方、リズ・ムーアは夏になっても、
一人息子をイギリスの親類に預けたまま、オランダに依然滞在。
これがバチあたりだったのか、
1976年8月13日に、乱暴な運転で知られるリチャードソンのクルマの助手席に同乗していて、
対向車に激突。
32才を目前に、
生誕の地を離れた異国オランダで息を引き取った。
リチャードソンもしばらく入院したが、
現在も健在で、「ハリポタ」シリーズ全8作にクレジットされている。
リズ・ムーアの粘土原型のまま、
左右非対称で微妙に歪んでいるストームトルーパーのヘルメットには、
主役級、クローズアップ用に用意されたヒーロー(左)と、
その他大勢の背景用のスタント(右)の2タイプかあり、
↓左がスタント、右がヒーロー。
●スタントの方が大きく、原形のディテールも引き継がれている。
●ゴーグルのレンズは、スタントは平板状で、ヒーローはふくらみのある凸型。
●への字口の塗装、歯の数が異なる。
ヘルメット脇のストライプは青色のステッカー。
↓手前のトルーパーはステッカーを貼り忘れ。
続編ESB『帝国の逆襲』(1980)でも、
1作目のメットを補修や再塗装でしのいだが、
↑手甲のみ、スノートルーパーのものに変更。
↓グレイのへの字口やストライプは黒く塗り直された。
ROTJ『ジェダイの復讐』(当時邦題・1983)でさらに数が必要になり、
追加製作される際、
↓従来のイギリス製メットは大きめで、体格の良い役者がかぶらないと頭でっかちに見えるうえ、演者の動きにワンテンポ遅れ気味だったため、
↑幅詰めをして面長になり、この修正はアメリカのILMで行われた。
ROTJの頃には、『SW』『インディ・ジョーンズ』両シリーズの連続ヒットで、
ルーカスフィルム/ILMは潤い、
米国自社内に衣装部門をかまえるようになって、
イギリスの委託業者を顧みなかった。
1997年の夏、『特別篇』三部作公開の年に、
北九州スペースワールドのSW展オープニングで会った、
『ジェダイ』〈特別篇〉で複数のマスクキャラを演じたR2オペレーターの一人
エインズワースに捏造された修正歴史を鵜呑みにして、ビデオにまとめる人さえいるし、