サンフランシスコ日本文化事情・ただし40年前 | アディクトリポート

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真実をリポート Addictoe Report

新年特別企画の第5弾のテーマは、
当ブログ開始時からのライフワークである
「スター・ウォーズ」(以下SW)
とはいえ「宇宙戦艦ヤマト」「ウルトラマン」とも、密接な関わりがある。

↓C-3PO
↓赤枠内は、リズ・ムーアが造形したC-3PO頭部の一案。どう見てもキュラソ星人を参考にしたとしか思えない。
いし
↑R2-D2
↓ダース・ベイダー
きゅらそ
↑ストームトルーパー
↓宇宙海賊ハン・ソロ
zaza
↑チューバッカ
↓レイア姫
hane
↑1975年に零時社が製作した「ハーロック」企画書内の、①有紀螢のデザイン画を参考に、②のレイアの素案の一つが描かれ、③「ヤマト」初期設定の森雪と同じポーズで、1976年以降にアニメーターの小松原一男氏ではなく、松本零士氏自身が1975年頃に描いた④の元画(現物発見には至らず)から、⑤が描かれた。

----と主要キャラのデザインにはことごとく元ネタがあって、
没デザインまで含めると、大半が日本のアニメ、特撮キャラ。


状況証拠から、一般に販売された書籍では、
宇宙戦艦ヤマト大図鑑」(1974/12/20発行)
287
チューバッカの原案、R2-D2はこの本から。

全怪獣怪人大百科」(1974年版)
hiyaku
ダース・ベイダー、ストームトルーパーは、この本から。
の2冊が、制作・デザインの現場にあったのは間違いない。

では、アメリカ人でアメリカ住まいのジョージ・ルーカスは、この日本の子供向け本2冊を、どうやって入手したのか。

ずっと、わざわざ来日して、買い求めたんだろうと思ってた。
上の2冊の、販売、流通時期はたしかに重なっている。

だが、そんなに都合よく、目当てのものに行き着くものか。

だいいち、SW(1977)の制作準備段階で、時間的にも資金的にも、そんな余裕があったのか。

これが長年の疑問だったが、答えは意外なところからもたらされた。

オーガスト・ラゴーニー(August Ragone)の名前は、



ヤマトつながりで知ってはいたが、
あるフォーラムでヤマトの大きさが話題になっていたので、
この記事の内容を伝え、
そこから初めてやり取りした。

私の疑問は、
「なんで日本のことに、そんなに詳しいの?」

で、もらった返答を要約すると、

現在は、生まれ育ったサンフランシスコに在住。
ここには、むかしながらの充実した日本人街があり、
子供時代には、日本のマンガ、雑誌、レコード、オモチャと、
日本の子供の欲しがるものなら、なんでもこっちで買えた。

幼い頃からゴジラやウルトラマンに夢中だった自分にとって、
1970年代初頭の日本人街を見つけた時は、
まさに宝の山に出会った気分だった。

「ヤマト」との出逢いは、1975年のこと。
日本人街の一店に、バンダイのプラモデルが入荷。
それも、4種類全部

きts

小松崎茂のボックスアートが鮮烈だった。

バンダイボックスアートコレクション 小松崎茂
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同じ頃、学校で日本オタクの友だちから、
「えっ、ヤマト知らないの?」
と見下され、その時以来、ヤマトファンになった。


それ以降は、本記事とは無関係なので、原文の転載のみにとどめます。

I started with the Akira Hio manga and began to obtain whatever I
could — both in San Francisco and Los Angeles (and Japanese pen
friends) — and saw the 1977 theatrical feature at a US convention in
July '79. It was the same convention that I met Saki Hijiri, Jun
Amemiya, and Yuji Kaida. Of course, that September, STAR BLAZERS began
broadcasting on our local station. But, I knew the original version,
first — which makes me different from most foreign fans.

In 1980, I met Osamu Tezuka, Go Nagai, Monkey Punch, Ryoichi Ikegami,
Ippei Kuri, and Sadao Miyamoto, and some animators from Toei Doga, at
the San Diego Comic-Con. The convention screened a 35mm print of
HINOTORI 2772 and CAGLIOSTRO-NO SHIRO, and there was an Anime Video
Room, and a 24-Hour Anime Channel on the hotel's television service.
Once I got a VHS deck, I began trading with friends in Japan — and I
hosted some small Anime/Tokusatsu events in the San Francisco area.

In 1985, I moved to Tokyo. I became friends with a number of other
fans and filmmakers, including the late Hideaki Ito and Kensho Ikeda
(I even sang "Yamato" karaoke for Shotaro Ishimori at his private
Birthday Party in 1986 (I was introduced to him through Shocker Ohno).
I returned to San Francisco in 1989.

One last thing, When STAR BLAZERS premiered, I was an Anime/Tokusatsu
"expert" for our local teleivsion station (which broadcast a number of
series), here's the clip from that show:




というわけで、サンフランシスコの日本人街に行けば、かなりコアでディープなアイテムでも、1974年頃には入手可能だった。

ルーカスの拠点は、今も昔もサンフランシスコ周辺。

「ヤマト大図鑑」「全怪人怪獣大百科」の2冊を入手したのは、日本人街だったと思われる。

教訓:謎は意外なところから解けるもの

以上、この地球上で、ジョージ・ルーカスと私の2人しか今日まで知らなかった事実を、本ブログの2000人以上の読者にもお裾分けします。