ハヤオ・アイデンティティー(駿の素性)/『ふたり』を見て思う〈その6〉 | アディクトリポート

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前回のこれを書いたら、カエル課長さんからコメントをいただき
そこにあった、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-kuroiuty
『ゲド戦記』映画化打診の際の、より赤裸々な実状レポートを読んだ。

カエル課長様、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-けんきゅう
いつもありがとうございます。

これと、
これと、
これですが、
要点をまとめて読みやすい、こちらもあります

本ブログでは宮崎駿というアニメ作家に対して、もう少し長期的展望のある人物だと希望的観測を抱いていましたが、
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-chichi
実際はさにあらず、ひたすら目の前の事態に、これまで培ってきた職業的カンで対処しているだけに過ぎないことがわかって、ただただ呆れてしまった。

氏の語録をツイートするボット(自動投稿)があって、
そこでの語録は、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-なんだ
とりたてて首をかしげる部分はなく、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-きょういく1
正論とうなずけるものが大半ではあるが、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-きょういく2
上記の「ゲド」当時事情を読んでしまうと、とたんに説得力を失ってしまう気がする。

「何言ってやんでえ。自分の問題も解決できない人が、より外側に広がる社会について意見を述べたって……」って感じですよ。

息子が『ゲド戦記』を監督するなんて、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-goro
ただ感情的に妬ましくも許せなかった父・駿は、徹底的なネガティブキャンペーンを張るも、話は次第に実現の方向に。

いよいよ息子の吾朗が、『ゲド』の原作者、ル=グウィンに会いに行くと聞きつけると、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-さっさき
これまた許せない。

「アイツが行ったって意味がない。オレが行く!」

ル=グウィンとの面会も、映画化に承諾を得るのが目的だなんてすっかり忘れ、
まずは息子の描いたポスターを示す。
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-げろ

グウィン:「はいはい、これが何か?」
パヤオ:「何かじゃないでしょ。こんなの、どこがゲド戦記なんですか? 何もわかっちゃいない」
おもむろにカバンから、自分が描きためたスケッチを取り出すパヤオ。
パヤオ:「ほら、これが私の描いた方です。ずっと作品を理解してるでしょ?」
グウィン:「……」

結局駿は、自分がいかに『ゲド戦記』のファンであるかを、原作者の前で披露するためにやってきただけなのであった。

※この記事により、ポスターだけが吾朗の絵で、スケッチは駿のものだと判明したので、以前の記事を訂正します

(記事該当部分)
*ところが同意する前に、映画の製作はとっくに始まっていて、竜と少年のポスターと、
駿の描いたホートタウンのスケッチと、アニメのスタッフが仕上げた完成版も手渡された。
(訳注:このスケッチも、駿ではなく吾朗が描いた可能性が高い。)


駿の悲劇は、自分がアニメーター上がりの演出家、つまり周囲の同期生が次々に脱落していく中で、最後まで生き延びた、文字通りの叩き上げだったために、自分以外のやり方を正解とも思えず、別のやり方を許せないところにある。

劣悪な製作環境で、納期に間に合わせるためにギリギリまでジタバタして、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-どやねん
火事場の馬鹿力で切り抜けることの繰り返しだったから、それ以外のやり方は思いつかないし、あり得ない。
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-hutari
↑この発言はまさに、『ふたり コクリコ坂・父と子の300日戦争~宮崎駿×宮崎吾朗~』からですね。

だけど本来、アニメーターの資質と、演出家の資質は、別個のものだからね。

東京ムービーの黎明期は、アニメーターと演出家は別個に集められたし。

駿の糾弾はこれぐらいにして、駿の息子の宮崎吾朗と、ル=グウィンの息子のウマが合って、それが『ゲド戦記』映画化の実現に一役買ったというのも面白かった。

二人とも、自分という独立した存在ではなく、「偉大なる才能の息子」という点で同質で、自分が生きていることの意義や価値は、まさに天才の息子(=おまけ、付随物)でありつづけることだと心得ているからだろう。

2代目の悲哀、きわまれり。